幕間一 『最適解』
悪臭は世に数あれど、その中で最も人を陰鬱な気分にさせるのはどんな臭いだろうか。
やはり何を置いても『黴臭さ』だろう。これに勝るものはない。少なくとも、今この場にいる三人の中で、『内側』にいる二人には。
それは彼らにとって、母親の髪の香りよりも嗅ぎ慣れた『実家』の臭いだ。いや、母親の髪など彼らは見たことすらないのだから、比較対象が適切であるとは言えないが。
「出て構わないよ」
ギルフォードは黴の生えた地下牢の鍵を開け、奥で仲良く蹲る二人組に声をかけた。
「あァ?」
片膝立ての男は気だるげな呻き声を出す。身長の割に座高が高くないことが、彼――ダラスのスタイルの良さを表していた。運動も食事も人並みにこなせなかった彼の幼少時代を鑑みれば、その成長は奇跡的と言えるかもしれない。
「冗談はよせ、勇者様よぉ。何の真似だ?」
敵意を剥き出しにして問いかけるもう一方の男――カイルは兄と違って背が低い。とはいっても、別に異常というほどでもない。cmで言えば160はあるだろう。身体的なトラブルが起こっていないという点では、彼の方も十分に稀有な健康さと言えた。
「勇者の真似……かな」
ギルフォードもそれなりに長身である。ただし、彼を見て身長に目が行く人間は少ない。それよりも彼の場合『整っている』という印象が先に立つからだ。顔立ちに限った話ではなく、佇まいや雰囲気、その為人の全てが端正である。それがギルフォード・レイル・フォン・ヴァレルシュタインという男だ。
しかし、その整頓された在り方を、全ての人間が受け入れるかは別の問題で。
「のらりくらりと……殺されてぇのか」
カイルはさらに怒気を強めた。まるで……いや事実、親の仇を見るような目だ。
「殺されたくはないよ」
馬鹿正直に答えるギルフォード。それが、隣りにいたダラスの逆鱗にも触れた。
「ならとっとと消えろ!」
叫び声が地下中に反響する。ぐわんぐわんと、耳鳴りがするほどの音量で。牢を形作る鉄格子が揺れた。
ギルフォードは耳をふさぐことをしなかった。それどころか、一人だけお気に入りの音楽を部屋で聞いているかのように平然とした顔で立っている。一体コイツは何なんだ?とカイルは密かに眉をひそめた。怒りよりも不審がる気持ちが勝ってしまい、意図せずして冷静になってしまったのだ。
だからだろうか。
「……君たちは負け癖がついている」
カイルはギルフォードの呟きを聞き逃さなかった。
「何だと?」
聞き返すと、今度はダラスにも聞こえるようにハッキリとした声でギルフォードは語りだした。
「ニノマエ・ユージンに負けてはアレには勝てないと諦める。僕に負けてもマトモに戦っては無理だと諦める。挙句の果てには、こうして牢の鍵が開いているにもかかわらず、強引に脱獄してやろうという気概すら見せない……」
そこで一度、少しだけ間を置いて。
「君たちは負け癖がついている」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「……良い度胸だ。なら望み通りぶっ殺してやる」
ここまで挑発されて黙っているほどダラスは躾がなっている方ではなかった。そもそも、躾がなっている人間は牢屋に放り込まれたりしない。
「殺されたくはないと言っているだろう?けれど、ここから出ることは認めるよ」
あくまでも飄々とした態度でギルフォードは告げる。
「……何を企んでる?」
ダラスはにわかに気色ばむ。いつも以上に全く勇者の考えが読めなかったからだ。
実際、ダラスとカイルは自分から余程上手く脱獄でもしないかぎり、この牢から出してもらえるとは考えていなかった。それだけのことをしたと理解していたし、微塵も更生していないのは誰の目にも明らかだったからだ。もう一度自分たちを狙って戻ってくる相手を野に放つバカなどおるまい。鮎の放流じゃないんだから。
そう、だから……ダラスはまたも諦めていた。チャンスが来るまでは耐えるという振りをしながら、今のようにチャンスが来ても端から諦めていた。そのことには気付いてしまったが、気づかない振りをするしかなかった。
「僕の企みが君たちの自由と何か関係があるのかい?僕が何を考えていようと、逃げてしまえばいいだけだろう?」
が、ギルフォードはそんな甘えを許さない。徹底的に、執拗に。ダラスとカイルの『諦め癖』を攻め立てる。
「あぁ、本当に良くないよ。僕に立ち向かってきた時はまだ明確な目的と信念があったから良かったのだけど、ここに一年閉じ込められている内に牙が抜けてしまったのかな。確かにここが苦手というのもあるかもしれないが、それでもやっぱりそれは悪癖だ。きっと、魔王も君たちのそういうところを直そうとしていたんじゃないか?」
「テメェがっ!魔王様の何を知ってる!?」
カイルは激昂した。余りにも。余りにもだ。その言葉が余りにも癇に障ったが故に。
それもそうだろう。彼らにとって魔王は恩人であり、育ての親だ。それを仇の男が自分たちよりも知っているような顔をして語りだしたら、誰だってキレるというものだ。
「……魔王様だけじゃねぇ。俺たちも、だ。俺たちの何を知ってる?」
ダラスは少し考えてから言う。彼ら二人は交代で冷静になるということを心がけていた。どちらかが熱くなれば、どちらかは冷める。そうすることがツーマンセルを組む上で最も大切だということを理解する頭が彼らにはあった。今、冷静さを保っているのはダラスだ。故に彼はもう一つギルフォードの言葉におかしい部分があることにも気が付いた。
『ここが苦手』。そう、この黴臭い牢はダラスとカイルが最も嫌う場所。しかし、そんなこと他人は知る由もないはずだ。調べた?いや不可能だ。彼らの故郷は他ならぬ魔王が灰にした。証人など誰もいやしない。
二人の視線を受けたギルフォードは指を二本立てて、それから一本を折って話し出した。
「一つずつ答えようか。まず魔王について。魔王のことなら僕は君たちよりもよく知っている。この世界で一番知っていると言っていい。理由は秘密だけどね」
そしてもう一本を折る。
「二つ目。君たちについて。こっちは何も知らない。昔言った通りだ。僕は何も知らないよ。ただ、これ以上君たちを『閉じ込めておく』のは良くない気がしてね。なんとなく、だけど」
「……勘だとでもいいたいのか?それを信じろと?」
ダラスも流石に苛立ちを顕にする。しかし非はギルフォードにあると言っていい。その発言は朧げで煙に巻くようなものだったのだから。
「まぁ似たようなものだよ。君たちの体質、あるいは何がしかの過去かな?そういったものは何も知らない。ただ……嫌な予感がしただけさ」
「そのクソみたいな言い分を俺らが信じるとでも思うのかよ!」
声を荒げるカイル。仕方ないだろう、5歳児だって信じない眉唾ものの話だ。
当然、ダラスもいい加減に堪忍袋の緒が切れる寸前であることは誰の目にも明らかだった。
その様子を半眼で見て、ギルフォードは肩をすくめる。やれやれ、と小さく呟いてから。
「……分かった。少し補足するよ。正確には勘じゃない。どちらかと言うと第六感というやつに近いかな。これは僕の……スキルのようなものだ」
と続けた。
「スキルだと?」
ようやくマトモな話になったものの、ダラスの不信感は拭えない。むしろ増したとさえ言っていい。
「『最適の選択者』。いや、この言い方は正確ではないが……まぁいいか。名前はどうでもいいんだ。大事なのは効果だろう。そう、僕は……その瞬間における最適の選択肢を選び取る事が出来る」
それは運命の女神からの祝福。
ある意味では、ご都合主義を体現した主人公補正。
それは正しく異能であり、正しく異常である。
ギルフォードが口にしたのは、そんな能力だった。
故に、その言葉を聞いた瞬間、募らせていた彼らの不信感は頂点に達した。
「ハッ、何だそりゃ!何でも自分の思い通りか!羨ましいこったな、ギルフォード!」
カイルの発言は当然言葉通りの意味ではない。皮肉だ。
だが、ギルフォードは少し瞑目した後、そのまま受け取って答えを返した。
「そんなに良いものでもないさ……」
「あぁ?」
「いや、泣き言だ。忘れてくれ」
「何を……調子に……」
なおも問い詰めようと息巻くカイルだったが。
「チッ。待て、カイル」
ダラスがそれを制した。
「あぁ、クソだな。本当にクソだ。その滅茶苦茶な能力でよぉ……俺の疑問が解けちまったんだからな」
「疑問?なんのことだい?」
「ギルフォード、テメェ一年前のあの日……なぜあの場所にいた?」
あの日あの場所、あの瞬間。
それはニノマエ・ユージンから命からがら逃げ延びた彼らが辿り着いた裏路地。
そこには、まるで当たり前のように……ギルフォードという男が立っていた。
「あっ!まさか……」
カイルも遅ればせながら気付く。そう、あの場所にギルフォードがいたことには……何の伏線もないことに。
「そうだ。そのふざけたご都合主義の力でもなきゃ、あんな最高のタイミングで現れる訳がねぇ……クソが!本当に不愉快な能力だなぁ、オイ!!」
……何の伏線もないことが、今この瞬間の伏線になっていたということに。
「まぁ、君たちが怒るのも無理はないか。確かに、八割がたその推測は正しいんだからね。少なくともただのラッキーでないということは確かだ」
「……今ここで俺たちを逃がすのも、その『能力』で選んだことか?」
「そうだね。だけど、正直に言えば……僕は君たちが、僕の最適にならないことを心のどこかで祈っているんだ」
「っ!!」
その言葉が、引鉄となった。
「……行くぞ、カイル」
「あぁ、こんなところにはいられねぇ」
「その通りだ。これ以上、そこの胡散臭い男の顔なんざ見てられねぇよな」
同時に二人は立ち上がり、とても一年ぶりとは思えない堂々とした歩幅で。
無言で勇者の横を通り過ぎようとする。
「……いいか。これだけは言っておくぞ……魔王様には、必ず復活して頂く」
いや、無言ではない。
ただ一言の宣戦布告を残して。
「……あぁ」
答える勇者も一言。
ただ小さく首肯しただけだった。
――彼らが牢を出て行くまでは。
「あぁ、僕も期待しているよ…………魔王の復活をね」




