第五話 『夜の音色と君の顔色』
女の風呂は長い。
流石の俺も、それを割り切る程度の度量はあるつもりだ。
というよりも、理論上そうなるのが分かる。
下着は男より一枚多いわけだし、服の構造も面倒そうなものが多い。
髪は大体の男……少なくとも俺よりは長い女性がほとんどだし。
体も丁寧に洗って欲しい。洗うべきだ、女は。
女性の体からはいい匂いがしなければならない。
よって、女の風呂が男より時間がかかるのは仕方ない。
女性を擁護するというよりはむしろ理想を押し付ける形になってしまったが、まぁとにかくこの命題自体には寛容な俺だ。
いつもは先に上がった俺が涼みながら銭湯前の鉄柵に腰掛けて待つというのがデフォであり、お決まりのパターンだった。
しかし、今日はそこに先客がいたのだ。
「早いな、フィーコ」
両腕でもたれかかるようにして鉄柵を抱き、空を見上げていたのは猫耳の女。
俺と同時に銭湯に入ったはずのフィーコだ。
「ん、ユージンですか」
フィーコはこっちに振り返らずに言った。
む、なんか自分に酔ってて腹立つな。
「人と話すときは目を見て喋りましょうね」
「……え?」
一瞬だけ、素で驚いたようにこっちを見る。しかし、まぁいいか……と呟きながら、再び視線を夜空に戻した。
何だったんだ?まぁいいか。
「何してんだよ、天体観測か?似合わねぇな」
「失礼ですね。いいじゃないですか」
「別に悪いとは言ってねぇよ。似合わないと言ったんだ。逆に、自分に似合うことしかしない女なんてのは、己の価値を知り尽くした上で自分を演出してるみたいで気持ち悪い。俺は嫌いだね」
「あっさりシーズに騙されてたくせに」
「……その時の話は忘れろ」
くっ、あのクソメイドのせいでコイツにまで俺のウィークポイントを握られてしまった。
絶対に許さん、帰ったらとりあえず殺そう。
「分かりました。いくらで忘れましょうか」
「人の記憶ってのはいつから金で操作できるようになったんだ?」
「勿論人の記憶はお金ではどうにも出来ません。でも、人の発言はお金でどうにか出来ますよ?」
「チッ、クズめ……」
これからこのネタで弄られない権利を金で買えというのか。
「まぁ、借金をチャラにしてくれればそれでいいです」
「ふざけんなよ。今いくらお前に貸してると思ってんだ。少なくとも、金貨にして、俺がお前に死んで欲しいと思った回数と同じだけの枚数分くらいはあるんだぞ」
「0枚ですか?」
「1枚増えた」
俺は指を一本立てて数えた。当然、中指でだ。
「酷いですね、私はこう見えてユージンに凄く感謝しているんですよ?」
「あぁ?金を借りといて感謝すら抱かないような奴がいたら、そいつは狂ってるだろ」
「そういうことじゃなくて……私は、お金以外のものもいっぱい貰ったと思ってるんです」
「金以外?」
はて、金でないものなんて世の中に存在したか?
少なくとも、俺が人に何かをあげるなどという行為に及んだ覚えはない。
「分かんないですか?」
くすっとフィーコは笑う。やたら上品ぶっていて、鼻につく笑い方だった。
生暖かい風で髪が靡く。くしゃっとしたくせっ毛が広がって、ピンと立ったケモミミに纏わりついた。普段なら多分こういう時、フィーコはさも鬱陶しそうに頭を振って髪を無造作に掻き回すはずだ。しかし、今日に限ってはただ軽く、お嬢様が麦わら帽子を抑える時のように髪を撫で付けただけだった。
「分からないが、何か俺に貰ったと思うのなら、返してもらいたいもんだな」
「返せてないですか、私?」
「はぁ?だから何のことかすら分かんねぇって言ってるだろ」
嫌な流れを感じた。それはもう、相当に嫌な流れを。
意味深なことを言って誤魔化す女にロクな奴はいない。意味深なことを言う男はミステリアスでクールでカッコイイのだが。女はダメだ。本気で言っているからだ。自分に酔って格好付けてるのではなく、本気で。
『理解してくれ』と、押し付けている。
「分からないなら、きっと私は返せていないんですよ」
ほら、こういうことを言いやがる。最悪だ。
目を伏せて薄く笑うフィーコの顔を見る。やはり何だか分からない。
俺は人の心の機微を読むのが得意ではない。それは認めよう。『何をするつもりか』は分かっても、『何を思ってするか』はわからないことが多々ある。元ニートの俺には対人関係の経験が圧倒的に足りてない。こっちに来てからも、常に本音でしか喋ってないような欲望に忠実な阿呆か、まるで人に心の裡を見せない化物みたいな奴とばかり知り合うもんだから、結局相手の心を慮る術は身につかなかった。
そもそも、俺は結果至上主義なのだ。他人の利害は考えるが、他人の心など知ったことではない。
大概のことを損得で考える人間。あぁ、こう言や聞こえは悪いが、でも仕方ないだろ?心は目に見えないのだから、客観で判断するしかない。客観的に見えるのは、損をするか得をするかだけだ。
そうやって考えれば、『何をするつもりか』は分かる。相手がこの発言でどう得をするのか。それだけは分かるのだ。
……今回に限っては、分からなかったが。
「……楽しいなぁ」
「……は?」
呆気にとられるとはこのことだった。
楽しい?楽しいからなんだと言うのだろう。それは良いことでしたねと言う他にない。そんな宣言せずとも、自由に楽しんでくれればいい。それをこんな風にわざわざ……。
「ユージンと知り合ってから、毎日が面白いです」
……何だというのだ。
「……さぞやそれまでの人生がつまらなかったんだな」
俺は皮肉を返す。それしか思いつかなかった。
「はい。そりゃもう。クソつまんなかったですよ」
「……あっそ」
『俺と同じだな』と言いそうになったが、何とか踏み止まる。
ここで俺まで同レベルの自分語りを始めてしまったら、この空間は泥沼だ。そんな青春小説はやりたくない。
「あっ、私が便秘だからってクソと詰まらないを掛けてるわけではないですよ?」
「誰もそんなことは思ってないし、お前が便秘だという情報も初耳だし、心底要らない補足だ」
ここまで不要な情報が脳のシワに刻まれてしまったことを謝ってほしいレベルでどうでも良かった。
「えっ、困りますよ。パーティーメンバーのお腹事情くらい把握しておいてもらわないと。全く、それでもリーダーですか?」
「下の状態まで把握しておくって、それはもう仲間とかじゃない。介護だ」
「し、下って……」
「そこで照れるんじゃねぇ!お前の下ネタの定義がよく分からないんだよ!」
清純キャラ作ってるだけなんじゃなかろうか。いや、だとしたら余りにもお粗末なキャラ作りだが。
「こほん、話が逸れましたね」
「逸れたんじゃなくて、逸らしたんだ。自分で」
「ま、実は逸れてないんですけど」
「はぁ?」
なぞかけか?またそういうことを言う。これだから女は。
「こういう他愛もない会話が、楽しいってことですよ」
「……は」
そういう恥ずかしい台詞は楽しくない。
「私、友達が出来たのは初めてなんです。ユージンと同じで」
「いや、俺は友達いたけどな」
「嘘はいいです」
「俺は嘘なんてついたことがねぇ」
「じゃあ、友達の名前を挙げてみてください」
……ほほう。俺をあまり舐めるなよ。
「佐藤嘉洋、唐島聡美、樋道匡、志筑連也、片山愛和、木野淳一、水原祐悟……」
適当に嘘をペラペラ思い付くことにかけて、俺の右に出る者はいない。
ランダムに名前を作ることくらい朝飯前だ。嘘なら任せろ。
……3秒前の発言からは考えられないほど開き直ってしまった。
「ダウト」
「あ?」
「女性っぽい名前がありました。百歩譲ってユージンに友人がいるとしても、女性はありえません。全女性はユージンを嫌っています」
「なんで顔も名前も知らねぇ女からすら嫌われなきゃならねぇんだよ!」
「全人類はみんな、ユージンのいる方角に『何か不快なモノ』がある雰囲気を感じ取る能力を持っていますからね」
「持ってるわけねぇだろ!しかも女性だけじゃなくて全人類にしれっと俺の被嫌悪範囲を拡大してんじゃねぇ。俺の心が広くて良かったな。本来ならもうお前五回は死んでるぞ」
俺の心が広すぎて惚れる女が五人は出てきたと思う。
「まぁまぁ、ぼっち同士仲良くやりましょうよ」
「はっ、そういうのを馴れ合いと言うんだ。友達がいない同士で傷を舐め合って、友達が出来たような気分になるほど虚しいことはない。第一、俺とお前は友達か?いつ友達になった?友達の定義は?何を以て友達とする?気が合うことか?週に何回か遊ぶことか?一緒に昼飯を食うことか?飲み会で無駄話が出来ることか?」
「どうしたんですか、急に早口になって(笑)」
「かけた梯子を外すんじゃねぇ!殺すぞマジで!」
断じてこの女とは友達じゃないし、一生友達にならないと今誓った。
「……どうにもならないこと」
「は?」
「どうにもならないことがあったら、どうしますか?」
また脈絡もなく話が変わった。
何となく、俺はこういう展開をアニメや小説で見たことがあるような気がした。けれど、俺はそれを深く考えないことにして、とりあえず質問にだけ答える。
「決まってるだろ。諦める」
「そんなにあっさり」
「あっさりもこってりもない。どうにもならないなら、諦めるのが効率的だ。俺は合理主義だからな」
「……ユージンは『できるからやってる』タイプの人間ですよね」
「できるからやってる?」
俺は鸚鵡返しにした。本当は、何となくその言葉の意味は分かっていたにも関わらず。
「例えば、ローラはそれが無理だと分かってても、きっと自分がしようと決めたなら特攻するタイプ。シーズだって、何度ユージンに振られてもアタックし続けてるじゃないですか。でもユージンは違う。目の前のことが可能だから、勝算があるからやってるのであって……」
「無駄な努力をしないってことか?」
フィーコの言葉を遮って口を挟む。自分の中のどういう感情がそうさせたのかはよく分からなかった。
「そうとも言えますね」
「なら正しいな。俺は無駄じゃない努力すら嫌いなんだ。そもそも頑張るのが好きな奴なんてのは、頑張る自分が好きなだけの奴だろ?」
「頑張らない自分が好きなだけの奴よりはだいぶマシに思えますけどね」
「……」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。実際、一瞬反論を思いつかなくて言葉を失った。
「でもきっとそれは、しょうがないことなんですよ」
「あぁ?」
「上手く出来ることをわざわざ下手にやる必要なんてないんですから」
その言葉もさっきと同じように正論だったのに、どうしてか俺は虚を突かれたような気持ちになった。何かを口に出そうとして唇を開いたが、それはどうも上手く出来ることをわざわざ下手にやるような言葉にしかならないと思ってやめた。
「……寒い。帰るぞ」
代わりに俺は、ずっと言おうと思っていたことを口にした。
そして俺たちは歩き出す。
月は出ていなかったが、人工の明かりが少ないダスキリアじゃ、星も十分な光量となり得る。
顔は見えるけど、表情の機微までは分からない……つまりは、最高の明るさが俺たちを包んでいた。
夜の音がした。
しん、として何の音もしない中で、確かに聞こえるしん、という音。
俺はこの音がたまらなく好きだ。世界からの隔絶を感じるから。
いらないものが消えていって、最後に残った……そんな引き算の音なのだ。
隣の猫耳も、足音に紛れたこの音を聞いているのだろうか。
聞いているのなら……それだけでいいような気がした。
もしかしたら、フィーコは俺達の前からいなくなるのかもしれない。さっきの会話にはそういう何かがあった。それを感じ取れないほど俺は鈍感じゃない。
でも、今は口を開きたくない。
ただこの音を聞いていたいと思った。
そう思ってしまったから、俺は口を開かない。それだけじゃない理由が胸の中にはあるような気がしたが、深く考えるのはやめた。
『どうにもならないこと』だった。




