五
水族館のような大きなガラスの向こうに、青く輝く地球が見える。ISUのいつものカフェでコーヒーを飲みながら、俺はぼんやりと、海に浮かぶ小さな島国を眺めていた。
「これ、忘れ物よ」
かたん、とテーブルに何か置くとともに現れたのはダニエルだった。今日はカジュアルな服装をしている。
「俺の指輪とピアス?」
そういえばフィールドワークへ旅立つ前にはずして、それっきりだった。
俺はこちらでは十日間行方不明になっていた。ISUの教授陣が必死で時空乱流の軌跡をたどった結果、俺が江戸初期、正確には1657年に飛ばされていることが突き止められたのだという。
フィールドワーク中に学生が行方不明になったという話はまたたくまに広まり、地球からマスコミと、ついでに俺の親父が飛んで来た。親父は俺が見つかるまでテコでも動かないと言い張って、タイムマシンの前に陣取っていたのだという。
「日本を見てたの?」
俺は答える代りに、再び地球へ視線を戻した。
「ダニエルはどうしてインストラクターになろうと思ったんだ?」
ダニエルは目を丸くした。
「私の話?」
椅子を引いて腰を下しながら、彼女はそうねえと頬杖をつく。
「私も君と同じ歴史学科の学生だったの。四年生の時にフィールドワークでタイムワープして、そこでちょっとトラブってねえ」
ダニエルは言いにくそうに苦笑いした。
「ダニエルが?何があったの?」
「秘密。私のプライドにかけて秘密よ」
「ちぇ。それで?」
「それで、その時、一緒にいたインストラクターが全部カバーしてくれて、何とか無事に帰ってくることができたの。それだけよ」
俺は黙って瞬きした。
「それだけかよ?」
「そうよ、悪い?そのインストラクターの仕事ぶりを目の当たりにして、すごくかっこ良いと思ったからよ」
ダニエルの答えにがっかりしたその時、どこからか残月の声がした。
『成すべきことというものは、ある日突然降って来るものではおざんせんよ、神林様』
胸が痛むような、熱くなるような、不思議な感覚に襲われながら俺は再び地球へ目を向けた。小さな島国。そこに確かに彼女はいた。
「あのね、私も歴史学科の天才少年の噂は耳にしたことがあるわけだけどね、子が親の影響を受けて職業を継ぐっていうのは、とても自然なことじゃないかな。一番身近な働く人、それが親だもの」
「へっ、いまどき、時代錯誤だっての」
俺は腕時計をちらりと見て椅子から立ち上がった。
「あら、もう時間?」
「おう。今日、親父も来るんだ。だっせーだろ、授業参観みたいで」
俺が胸を張って威張って見せると、ダニエルはくすくすと笑った。
「そうだ、これ、忘れるところだったわ」
言いながらダニエルは鞄から一枚の紙を取り出した。
「東洋史の教授につてがあってね、調べてもらったの。明暦の大火の三年後に出版された吉原遊女の批評本のコピーよ。ちゃんと訳も書いてもらったから、どうぞ」
ダニエルがくれた紙には着飾った美しい遊女が凛とした姿で描かれ、その脇にミミズのような筆文字が躍っていた。筆文字の横には青いボールペンで小さく訳が記されている。
『天青太夫。十八歳の傾城。生き別れた恋人に操を立て、決して帯を解かないという』
胸がつまった。目頭が熱くなった。手が震えた。
彼女は約束通り、あの大火を生き延びて、立派な太夫になったのだ。
「ライブ、私も聴きに行くわね」
泣きながら立ちつくす俺に背を向け、ダニエルは去って行った。
「 君は言った
敷かれたレールを歩むだけの人生も
決められた道を進むだけの未来も
運命から逃れた今日や明日も
望んだとおりの生き方さえも
苦難に満ちた戦いの日々だ
ならば己に誇れるように
背中を見せずに戦い抜こう
勝っても負けても笑っていよう
逃げも隠れも泣きもしないで
自由も夢も希望も愛も
見失っては探すばかり
現実や社会と向き合っては
疲れ果てそれでも自ら鞭を打つ
俺は君の言葉を胸に
君の生きた人生を想い
この足で踏み出す
どんなに傷ついても
どんなに汚れてもいい
歩んでいこう
君に誇れる人生を 」
野外ステージに七色のライトがぎらりと踊る。
「えー、俺たちのバンドは今日で解散となりますが、俺は来年度から医学部に編入することになったので、これからもよろしく頼むぜ!」
俺はマイクを、握り直した。
おわり
最後までお読みいただきましてありがとうございます。何か感じていただけましたら幸いです。
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※参考※
Wikipedia
吉原雀:http://yosiwara.net/
※いいわけ※
一、天青太夫と残月の廓言葉は適当です。
二、その他、いろいろと適当です。
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和風小説、和風絵もりだくさんです!