四
吉原で暮らし初めて十日経った一月十五日、俺と残月はその夜も講義に取り組んでいた。小さな物置小屋での密会は楽しく、いつもあっという間に時間が過ぎる。
「そろそろお開きにいたしましょうか」
終わりを切り出すのはいつも残月だった。俺はそれがとても悲しい。
「月が綺麗だ。今夜は満月かな」
まあるい月を指し、俺は残月との時間を引き延ばそうとする。この時間だけを楽しみに、俺は毎日働いているのだ。
残月は物置小屋の窓から見える金色の月と俺の顔を澄んだ目で見比べた。
「未来へ帰りたいのでおざいますね?きっと神林様の身を案じている方がたくさんおいでなのでありんしょう」
一瞬、親父の顔が浮かんだ。そして友達や教授やダニエルの顔。
「あいつら、心配なんてしてねえよ」
「でも、親御さんはおいででありんしょう?」
「おふくろは三年前に死んだ。親父は生きてるけど別々に暮らしてんだ。ひょっとしたら跡取り息子がいなくなって焦ってるかもしれないけど、あいつは俺の心配なんて」
しねえよ、と言おうとして、胸の中で何かがこつんと音を立てた。
『おまえが俺の病院を継ぐのを楽しみにしてるからな』
父の声が頭に響き、俺ははっとした。
「神林様は何故、お医者様になりたくないのでおざいますか?神林様には才能がおありなのでありんしょ?」
「何故って……」
俺はしばしうつむいて思案した。頭の中をどう探しても、家を継ぎたくない明確な理由は見つからなかった。ようやく見つかったのは何だか言い訳みたいな言葉だ。
「だって、何か嫌だろ?たまたま医者の家に生まれたからって、継げって言われるままに病院継ぐの。まるで、生まれる前から俺の人生が決まっていたみたいじゃねえか」
生まれてから死ぬまで、決められた一本道のような人生。そんなの御免だ。
「俺は運命に逆らって、思い切り足掻いて、自分で自分の道を切り拓きたい。そりゃ、まだ、やりたいこと見つかんねえけどよ」
何がやりたいのか分からない。何をすべきか分からない。残月たちからしてみれば、贅沢な悩みなのかもしれないが、親父の言いなりになることだけは癪だった。
「おいらのおっかさんも吉原の女郎でありんした。おいらはこの吉原で生まれ、吉原で死ぬさだめ。けんど、神林様のようには思いんせん」
残月は目を伏せて微笑み、それから意志の強そうな目を開けて言った。
「たとい、ここから逃れ別の人生を歩んだとしても、それもまた苦難に満ちた戦いの日々。さだめに従うも戦、逆らうも戦。人生とはあまねく戦なのでありんしょう。ならばおいらは逃げも隠れもいたしんせん。ただ己に誇れるように、勝っても負けても顔を上げて笑って見せうんす」
そう言い切ると、残月は勝気に微笑んだ。その姿があまりにかっこ良すぎて、自分の言い訳じみた考えがあまりに情けなさすぎて、俺は年下の少女に劣等感を抱いた。
「……遊女になるの、嫌じゃないのか?」
好きでもない男に金で買われ、弄ばれる人生なんて、俺だったら耐えられない。まともな男のもとへ嫁いで子供を産み育てる、それがこの時代の女性の幸せなのではないだろうか。
だが、残月は静かに首を横に振った。
「戦に好きも嫌いもおざんせん。神林様は……逃げているだけでありんす」
残月の言葉は俺の胸にぐさりと突き刺さった。そんなこと、今まで誰にも言われなかった。
「……かもな」
逃げて逃げて、こんなところにまで来てしまった。
「あ、雪」
残月の声に導かれて顔を上げて窓の外を見ると、暗い空からちらり、ちらりと白い雪が舞い降りてきていた。
「成すべきことというものは、こんな風にある日突然降って来るものではおざんせんよ、神林様。神林様はお医者様になるべきだと、おいらは思いうんす」
残月の妖精のような瞳で真っすぐ見つめられ、俺は戸惑った。絶対に医者になるもんかと言い張っていた自分の心が、こんなに簡単にぐらつくなんて思ってもみなかった。
『アルベルト君は将来、何になりたいの?』
小学校の入試の面接で質問された問いかけがふと頭をよぎった。
――お医者さん!俺もお医者さんになります!
あの時はきっぱり、はっきりとそう答えられた。父が誇らしくて、大好きだった。俺はいつから父を避け、嫌うようになったのだろう。
『ごめんなさい。ごめんなさいね、アルベルト』
俺の小学校卒業と同時に、両親が離婚することになった。よくある性格の不一致ってやつなのか、母が日本の生活に馴染めなかったせいなのか、原因ははっきりしないが、母はいつからか泣いてばかりいる人になっていた。俺が父を疎ましく思い始めたのはその頃からだろう。母を泣かせる父と同じ職業になど就くものかと、医者になりたいという俺の夢はしぼんでいった。
俺は母と一緒に日本を去り、ドイツへ渡った。そしてISUに入学して間もない大学一年の冬に母が事故で死んだ。葬儀にやって来た父は俺がISUに入学したことを何故か知っていて、嬉しそうに言った。
『おまえは手先が器用だから外科に向いている。おまえが俺の病院を継ぐのを楽しみにしてるからな』
父の笑顔と、目の前の残月の笑顔が重なる。
「きっと人生は、どの道を選ぶか、ではおざいませんよ。人生は、どう戦うか、でありんす」
その晩、俺は再び、医者になるという未来を本気で考え始めた。
明暦三年一月十八日。
それは江戸中を空っ風が吹き抜けた日だった。
「うー喉いてえ」
からからに乾燥した昼下がり、俺は庭の掃除をしていた。箒で落ち葉を集めても強い風がびゅうびゅうと吹いてちっとも片付かず、頭にきて掃除の手を止め庭石に腰かけた時だった。縁側に天青太夫がぴんと背筋を伸ばして立っていて、俺をじっと睨んでいることに気が付いた。
「神林様、お話がおざいます、こちらへ」
入浴と化粧を済ませ、すでに昼見世の準備を整えた天青太夫がそう言って俺を手招いた時、俺は心底ぎくりとした。俺は黙って彼女に従い、天青太夫は硬い表情で自室の障子をすっと閉め切ると、俺と差向いに腰を下した。
「近頃、夜な夜な残月と会っておいででおざんすね?」
単刀直入に切り出され、俺の心臓はばくばくと鳴った。
「御法度と知った上での行いでありんすか?」
きっと俺を見据える天青太夫に、俺はどうにかこうにか答えた。
「知ってる。だけど、俺は残月が好きだ」
「おやめなさい、神林様。女郎に恋をするは茨の道でありんす」
天青太夫は眉間にしわを寄せ、低く抑えた声音で言った。まるで俺に同情しているかのような、俺を憐れんでいるかのような、そんな表情だった。
「今、わっちの身受け話と吉原の移転計画が進んでおりなんす。それに合わせて、あの子の太夫襲名が決まったのでありんすよ」
タユウシュウメイ。
一瞬の後に俺は事の次第を悟った。
「一人前の女郎になるということがどういうことか、分からないわけではのうおざんしょう」
俺は愕然とした。
残月が俺の手の届かないところへ行ってしまう。そればかりか、成金の親父だの強欲な商人だのに汚されてしまう。
「そんなの、絶対、嫌だ!」
叫ぶなり、俺は天青太夫の部屋を飛び出し、草履をつっかけて店を飛び出した。どうしようもなく我慢できなかった。この世の何もかもが理不尽に思えて仕方なかった。
「アルベルト!!」
大門の近くまで走ったところで、横合いから聞き覚えのある声がした。
「ダニエル?!ダニエルか?!」
俺は立ち止まって必死に辺りを見回した。姿は見えないが、確かにインストラクターのダニエルの声がした。ついに迎えが来たのだ。心が躍った。
「ダニエル!どこだ!」
「ここよ、今、姿を消しているの。人気のない裏道まで誘導するわ」
とん、と姿の見えないダニエルに背中を押され、俺は無人の細い路地まで連れて行かれた。
「よかったー!!やっとやっとやっと見つけたー!!」
姿を現すなり、ダニエルは俺の首にしがみついてきた。
「大丈夫?怪我とかしてない?」
「してねえよ、してねえから放せ!」
残月のこと、迎えが来たこと、帰りたい気持ち、ここに残りたい気持ち。
まぜこぜになって、俺の頭は混乱していた。
思わずダニエルの手を振り払うと、彼女は目を吊り上げて憤慨した。
「何よ!人が必死で探しまわって、やっとのことで見つけてあげたのに!フィールドワーク中に行方不明者が出た、ってISUだって大騒ぎなんだから!地球からマスコミやら保護者やらが殺到して、学長も教授陣も大迷惑被ってんのよ!」
「俺のせいだってのか!」
「君のせいに決まってるじゃない!緊急脱出装置のリングは右に回せって言ったでしょうが!左に回したのはだ・あ・れ?!」
「じゃあ、『私くらい優秀なインストラクターがついていれば無用の長物だけどね』とか言ってたのは誰だ!」
「仕方ないでしょ!時空乱流に出くわしたのは私の実力と関係ないもの!」
かんかんかんかん!
言い争う俺とダニエルの怒鳴り声をかき消すように、不穏な鐘が鳴り響いた。
「何の音だ?」
「半鐘よ。……始まったわね」
わああっという人々の悲鳴が聞こえ、建物が崩れる音がした。黒い煙がもくもくと空へ昇って行くのが見え、辺りに火の粉や灰が舞い始める。
「これは明暦の大火と呼ばれる日本史上最大の大火事になるの。江戸の半分以上が焼け落ちて、何万人という人が亡くなるわ。この吉原も焼ける。早くスーツを着て。未来へ戻らなくちゃ」
タイムワープ用の特殊スーツを手渡されたものの、俺は動揺してどうしていいか分からなかった。
「ちょっと待ってくれ!俺、すぐには帰れねえよ!世話になった人がたくさんいるし、その人たちを無事に逃がしてからでもいいだろ?」
「君はもう十分歴史に干渉しているの。今までのことは不可抗力として許されても、これ以上は、あっ、こら!」
火の粉を振り払い、俺は夕蓮楼へと駆け出した。
「こら、馬鹿ベルト!もうっ世話が焼けるんだから!」
何だかんだ言いながら、ダニエルは姿を消してついて来ているようだった。
「残月――っ!!」
赤い炎に飲み込まれつつある花街を俺は必死で走った。煤や灰で全身が黒く汚れ、あちこちに火傷をつくりながら、俺は残月の姿を探した。
「残月――っ!!」
「神林様、ご無事でありんすか!」
走りながら、俺は意を決していた。だから残月を見つけた時、俺はすぐさまそれを提案した。
「残月、よく聞いてくれ。この火事で江戸中が燃える。吉原も焼け落ちる。逃げるなら今だ!」
残月は眉根を寄せて目を見開く。
「未来から迎えが来たんだ。だから残月も俺と一緒に未来へ行こう!さだめに従っても、逆らっても、どっちにしろ戦だって言うんだろ、だったら逆らってもいいじゃねえか!残月の生き方はかっこいいけど、かっこいいだけだ!」
俺は残月の両肩をつかんで揺さぶった。
「俺と行こう!未来に行けば何にも縛られず、行きたいところどこへでも行けんだ!月だって、宇宙だって、富士山の天辺だって!それに、残月が学びたいことは何でも学べる!知りたいことは何でも分かる!」
言いながら俺は困惑していた。どう考えても、未来は残月にとって吉原よりマシだ。マシなはずだ。だが、なぜか残月は怒ったように目を吊り上げ、口を引き結んでいる。
「幸せになりたいとか、思わないのか……?」
沈黙が降りた。
建物が燃え、崩れ落ちる音が響き、逃げ惑う人々の悲鳴がこだまする。
やがて、残月は静かに口を開いた。
「神林様、確かにおいらの生き方は恰好がいいだけかもしれんせん。けんど、おいらはどうしても逃げたくないのでありんすよ。それは恰好つけではおざんぜん。もしもここから逃げ出せば、おいらは誇りと夢を失いうんす。そしてそれは、大好きな姉様やおっかさんの生き方さえ否定するようなもの。こう見えて、おいらは必死なのでありんすよ。とても恰好などつけている余裕などおざんせん」
そう言って、残月は火事などものともしないような仕草で優雅に微笑んだ。
それは間違いなく、太夫たる者の貫録だった。
「神林様、逃げるばかりが道ではありんせん。何にも縛られないことが必ずしも幸福とも限りんせん。おいらはこの吉原で生まれ、吉原で死ぬ覚悟。どうか神林様も自らのさだめと戦っておくれなんし」
言いながら、残月は俺の小指に自分の小指を絡めた。
「おいらはこの火事を生き延びて、姉様のような立派な太夫になりうんす。だから約束しておくれなんし。未来へ戻り、立派なお医者様になると。神林様はお父上の生き方を否定したいわけではないのでありんしょ?」
「……うん」
俺が答えると、残月は満足げに頷いた。姿の見えないダニエルに小突かれ、俺は渋々タイムワープ用の手袋を右手にはめた。この手袋の手首のリングを右に回せば、俺は未来へ戻れるのだ。
「神林様はひとつ、誤解されておりなんす。こんなことを言える女郎は一握りでおざいます。おいらは太夫になりうんす。太夫は己の意思でのみ自らの帯を解きなんす。他の女郎はそうは参りんせん。おいらはずるいのでありんすよ」
苦々しく笑い、残月は胸に手を当てて目を伏せた。
「神林様が一緒に行こうとおっしゃってくれなんしたこと、決して忘れんせん」
何にも触れることのできない俺の手袋に残月のほっそりとした白い手が伸びる。
すり抜ける手と手。
残月の顔がはっと悲しげにゆがむ。
俺は思い切って手首のリングを右に回した。
「本当は……本当は、一緒に行きとうありんした!!」
残月が大声を上げるのを、俺は初めて見た。
彼女が涙を流すのも。
「神林様あ!!」
目の前が暗くなる。鮮やかなものが流れるように通り過ぎて行く。
人類の歩んできた膨大な歴史。
意識が遠のく。
「アルベルト!」
まるでトンネルから出て来たかのように全身が白い光に包まれ、倒れ込んだ俺を誰かの力強い腕が受け止めた。親父だった。俺はタイムマシンの前で親父に抱きしめられていた。
「アルベルト……無事でよかった……!!」
親父が泣いていた。しわくちゃの服や無精ひげで、よれよれのネクタイや左右の色の違う靴で、親父が泣いていた。
俺は親父の胸にぎゅっと顔を押し当て、大声を上げて、泣いた。