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竹取少年  作者: 葉梨
3/5

 目の前に、ずらり、ネクタイを締めた大人が三人、長机についている。


『アルベルト君のお父さんは、お仕事は何をなさっているのかな?』


 俺の父ちゃんはお医者さん!すっげーだろ!なーんでも治しちまうんだぜ!

 俺は大声で言って、左右に座る両親を誇らしい想いで見上げる。

 すみません、ちょっと口の悪い子で。

 両親は困ったように、けれど嬉しそうに微笑む。


『アルベルト君は将来、何になりたいの?』


 お医者さん!俺もお医者さんになります!




 ランドセルを背負って満開の桜のトンネルを歩いている時だった。


『アルベルト、小学校を卒業したら、ドイツのおじい様のところで暮らしましょう』


 手をつないでいた母が突然そう切り出した。

 え、と俺は言った。


『お父様は来ないわ。お母様と二人で行きましょう、ね』


 俺は聡い子供だった。俺は答える代りに黙って母の手を握りしめた。


『ごめんなさい。ごめんなさいね、アルベルト』


 すすり泣く母の涙を止める方法が何なのか、俺はひたすらそれを考えていた。




 喪服を着て冬枯れた銀杏並木を歩いている。


『アルベルト、母さんのことは……残念だった。今までおまえにも随分苦労をかけたな』


 少し離れたところを歩いていた父が黒いネクタイをゆるめながら言った。


『それよりおまえ、ISUに入学したんだってな。大丈夫だ、この先の学費の面倒は見てやる。三年生になったら、当然、医学部に進むんだろう?』


 え、と俺は言った。


『おまえは手先が器用だから外科に向いている。おまえが俺の病院を継ぐのを楽しみにしてるからな』


 ぱん、と父が俺の肩を叩いて笑った。

 目の前に、薄らと凍った白い一本道が広がっていた。





「おい、起きろ、新入り」


 誰かに頭を蹴られ、俺は眠りの世界から現実へ引き戻された。昔の夢を見ていたような気もしたが、そんな余韻に浸る間もなく布団をはがされた。冷気が全身を包む。寒い。


「いつまでも寝てると番頭さんにどやされるぞ」


 バントウ?

 俺は寒さに耐えかねて身を起こした。

 目を開けると障子の向こうから橙色の朝日が差していた。だが、まだ辺りは暗い。室内には大した家具はなく、自分がだだっ広い雑魚寝部屋で眠っていたことを俺は思い出した。

 ここは江戸時代初期の吉原。

 昨夜、眠りに就く時、目を覚ましたら未来へ戻っていればいいのにと思いつつ目を閉じたものだが……。


「そううまくはいかねえよなあ」


 俺は白いため息をついて頭を抱えた。


「ぶつぶつ言ってないで支度しろ。仕事だ」


 支度と言っても寝間着を脱いで、昨日着ていた着物に着替えるだけだ。腹が減っていてよろよろする。仕事とやらの前にコーヒーでも飲みたい気分だ。


「おまえ、太夫の弟なんだってな。おれ、おまえの面倒見るようにって楼主様から言われてんだ」


 俺を起こした男はそう言って、そばかすが浮かんだ顔ではにかんだ。俺と同じくらいか少し年上の日焼けした男だ。


「よろしく。俺はカン……」


 カンバヤシと言おうとして、俺は口をつぐんだ。天青太夫の弟なら、当然、彼女と同じ名字のはずだが、俺は彼女の本名を知らない。(だいたい名字なんてあるのか?)


「カンか、よろしくな、おれは礼。じゃ、まずは風呂掃除だ。いいか、女たちは泊りの客を見送ったらもう一度寝床に戻る。そして女たちがまた起き出して来る前に、風呂を綺麗にしておかなきゃならねえって寸法だ」


 説明しながら、礼は廊下をきびきびと歩き、俺を大浴場へ導いた。二十人が余裕で入浴できそうな大きな風呂だ。ここを掃除するのは骨が折れるだろう。


「さ、やっちまおうぜ」


 礼が促し、俺たちは着物の裾をまくって、冷水で湯船やすのこを洗い始めた。真冬の水は氷のように冷たく、手や足がかじかんで真っ赤になった。水を裏庭の井戸からくんでくるのも一苦労だ。こんな重労働は、未来にいた時にはしたことがなかった。

 掃除が終わり、湯船に水を張ると、今度は薪を割って風呂を沸かした。もちろん初体験だ。使い慣れない重い刃物で割った薪をかまどにくべ、頭をくらくらさせながら竹の筒に息を吹き込み火を大きくしていると、背後で礼が言った。


「廓の風呂は仕事を終えた女たちが身体を綺麗にするところだ。心をこめてわかせよ」


 風呂を沸かし終えたところでようやく朝食をとった。白い粥と何かの漬物だけの質素な食事で、到底腹に力の入るようなものではなかった。


「まいど、景気はどうですか」


 そんな掛け声とともに食材売りや小物売りが訪れ始めたのは日が随分高くなってからだ。その日、初めて残月と顔を合わせたのは貸本屋がやってきた時だった。


「本をお持ちしましたよ」


 大荷物を背負った若い男の声を聞きつけ、残月は小走りに玄関へ現れた。俺はちょうど店の表を掃除していたので、彼女の姿がちらりと見えた。


「はい、残月さん、源氏物語の続きです」

「ありがとうおざいます」

「他にいるものはないですか」

「新しい算術の本はありなんすか?」

「申し訳ありませんが、残月さんはうちの算術の本はみんな解いてしまわれましたよ。また新しいものを見つけたらお知らせします」

「では、月や星の本はありなんすか?」

「月や星?」

「あい。異国の学者様は月や星を遠眼鏡で見るのでありんしょ?そういう本はおざいませんか?」


 残月の要望に、貸本屋は困ったように唸り声を上げた。


「一応探してはみますけど、期待しないでくださいね」


 貸本屋が荷物をまとめて出て行くと、俺は残月の前にひょこっと顔を出した。


「よ」

「まあ、神林様、お掃除でありんすね」


 胸に本を抱えた残月は初めて会った時よりラフな着物を着ている。まだ営業時間じゃないからかな。


「そ。朝から掃除ばっかで正直かったりーぜ」


 俺は手に持った箒をくるりと回して見せた。残月はふふふとおかしそうに笑った。


「残月は月や星のことを知りたいのか?」

「あい。神林様は月に行ったことがあるのでおざんしょ。おいらも行きとうありんす。けんど、おいらは吉原から出られんせんゆえ、知識だけでも得たいのでおざいます」


 真っすぐな瞳で微笑み、それから残月は胸に抱えた本に頬を寄せた。


「おいらは、もっともっと学びとうありんす」


 いまどき、ISUにだってこんな子いないぞ。

 俺は無性にどきどきした。


「残月はさ、色んな習い事をしてるだろ。それと同じように、俺が残月に色んな事教えるってどうだ?月や星や、未来のことも過去のことも、異国のこともさ」


 思いつきで言ってから何ていい考えだと俺は思った。ダニエルが聞いたら怒るかもしれないけど、俺はこれが残月と親しくなる方法として最適な案だと思った。


「誠でありんすか?!」


 案の定、残月は大喜びで俺を見上げた。俺は胸を張る。


「おう。男に二言はねえ」

「カン!何さぼってんだ!」


 礼の咎める声が背後から聞こえ、俺は慌てて残月から離れた。


「では、時間と場所を考えておきうんす!」


 俺と残月は微笑みあって別れた。




 それから髪結いがやってきて女たちの髪を整えて行くと、お昼の営業が始まった。昼間の営業のことを昼見世、夜の営業のことを夜見世というのだと礼が教えてくれた。昼見世はあまり賑わうものではないらしく、女たちは手紙を書いたり本を読んだりして思い思いの時間を過ごしているようだった。

 夕方、女たちが食事を済ませると吉原全体に赤い提灯が灯された。夜見世の始まりだ。俺たち男衆の仕事といえば太夫の道中で傘を持つとか、店の前に立って客引きをするとか、集金係のようなことをするとか、非常に地味だ。

 それに引きかえ、女たちは堂々としていて派手で、とにかくかっこ良かった。


 夜が更け、大門が閉められると営業は終わる。客のついた遊女もつかなかった遊女も就寝時間となり、辺りはしんと静まり返った。俺たちも床につき、再び朝を迎えるまで眠りにつく――はずだったが、俺はひとり、雑魚寝部屋でむくりと起き上がった。

 そろりそろりと部屋を抜け、暗い廊下を経て目的の部屋の前までやって来る。


「残月」


 障子に顔を寄せて囁くと、すぐに残月が顔を覗かせた。


「神林様!」


 寝間着姿の残月は口元を手で覆い、目を丸くする。


「講義してやるって言ったろ」

「こんな夜更けに?」

「だって残月、ずっと忙しいんだろ。俺も昼間は仕事あるし」


 休日なんてそうそうないだろうし。

 残月は一瞬、困ったように逡巡してから頷いた。


「では、場所を変えましょう。おいらの部屋は楼主様の部屋に近うありんす」

「楼主様に見つかるのはやっぱまずいのか?」

「男衆と親しくすることは禁じられておりなんす。まして真夜中に密会しているところなど見つかればただでは済みんせん」


 そんなリスクを冒してまで俺の話を聞きたいのか。残月に導かれて廊下を歩きながら、俺は小さくショックを受けた。俺たちの時代ではもはや常識でしかないことも、彼女にとっては得難い知識なのだ。


「こちらへ」


 連れて行かれたのは庭の片隅に建てられた古い物置小屋だった。戸を閉めて二人が座ると少し窮屈なくらいの広さで、残月が小さな窓を開けると月光が明るく屋内を照らした。


「子供の頃、粗相をするとよくここに閉じ込められなんした」


 懐かしそうに辺りを見回す残月の顔が今までで一番至近距離で、俺は高鳴る心臓の音が彼女に聞こえやしないかとひやひやした。


「何から話そうか」


 俺がわざとらしく咳払いして切り出すと、残月は可愛らしく首を傾けた。


「神林様の住んでいるところはどのようなところでおざいますか?」

「俺が住んでるのはISUの……いや、まず、地球と月と宇宙の話をしよう」

「ちきゅう?うちゅう?」


 残月はきょとんとして目を瞬かせた。


「俺たちがこうして暮らしているこの世界は、地球という丸い大きな星なんだ。地球は約七割を海で覆われているから、月から見るとまるで宝石みたいに真っ青に輝いてて、すごく綺麗なんだぜ。月は地球の周りを回るでかい石ころで、太陽の光を反射して光ってるんだ。俺の住んでる街も地球の周りをぐるぐる回ってる」

「……難しゅうおざんすねえ」


 心底困り果てたような顔で残月は力なく笑った。


「……だよな」


 俺も困った。江戸時代の人に宇宙や未来のことを説明するのは想像以上に難しかった。

 その時、じゃらん、じゃらん、という重たい金属音がどこからともなく聞こえてきた。残月がはっとしたように息を潜めたので、俺もそれに倣う。ゆっくりと音が近づいてきて、やがて遠ざかっていくと、残月がほっと息をついた。


「あれは火の用心の鉄棒引きでありんす。吉原は火事が多いのでおざいます」


 夜遅くまで火を使うからだろうか。


「神林様、今夜は戻りましょう。神林様のおっしゃることを理解するには、すこうし時間が必要でありんす」


 にこりと笑い、残月は腰を上げた。


「次はいつ会える?」


 俺も立ち上がりながら、彼女の表情をうかがう。俺の話が意味不明過ぎて、嫌気がさしたりしていないかな。


「今日は五日でありんす。次の奇数の日の夜にお会いするのはいかがでおざいましょう」

「おう、奇数の日な」


 二日に一度、残月に会える。俺は喜びを噛みしめながら微笑んだ。


「では、どうぞ先にお戻りなんし。一緒にいるところを誰かに見られては面倒でありんす」


 物置小屋から出ると月光に照らされた庭が明るく感じられた。俺はうきうきしながら寝床に戻り、残月との次の逢瀬を楽しみに眠りについた。



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