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竹取少年  作者: 葉梨
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「ですから、楼主様おやじさま、これは、わっちの郷里の弟でありんす。はるばる江戸までやって来たのでありんすから、すこうしここへ置いてやっておくれなんし」


 遠くで女の声がした。ちょっと変だけど、日本語だ。

 いいにおい。化粧品のにおいがする。


「おまえがそこまで言うなら仕方ない。雑用くらいできるだろうから、男衆に面倒見させる」


 今度は初老の男の声だ。


「ありがとうおざいます」


 遠ざかる足音が頭に響く。いてえ。

 日本なんて何年ぶりだろう。俺、何で日本にいるんだ?たしかフィールドワークに来たんじゃ……?


「おや、お目覚めでありんすか?」


 木製の暗い天井とわけのわからない髪形をした人間の影が見え、俺は自分が寝かされていることに気が付く。そうだ、タイムワープの途中で時空乱流とかいう竜巻に飲まれて、その後……どうなったんだっけ?俺はがばっと起き上がった。


 艶めかしい赤い提灯の光が障子の外から入って来ていて、暗闇をぼんやりと照らしていた。よく見ると小さな部屋に艶やかに着飾った和服姿の女が座っていた。


「……お、花魁さん?」


 頭に何本ものかんざしを差し、胸の下で大きな帯を結んだ姿は東洋史の資料チップで見たことがあった。


「おいらん……?わっちは天青太夫てんしょうだゆうでありんす」


 天青太夫と名乗った女は実にきりりとした表情で微笑み、俺を興味深げにじいっと見つめた。


「あ、つうか、俺、何で見えてんだ?!」


――何にも触れてはならないし、誰にも姿を見られてはならない。私たちが足跡ひとつ残しただけで、歴史は変わってしまうのよ。


 ダニエルが口を酸っぱくして言っていた言葉が脳裏に蘇る。まずい。

 姿を消すボタンを探そうと俺は右肩をまさぐったが、そこにはざらりとした布の感触があるばかりだった。着替えさせられている。和服だ。


「お召し物はそこに」


 天青太夫がすっと指し示した畳の上に銀色の特殊スーツがたたんで置いてあった。俺は慌ててそれをつかみ取り、両手で広げた。スーツは焼け焦げ、原形をとどめていない。姿を消すための右肩のボタンもなく、緊急脱出装置のついた手袋も指の部分しか残っていなかった。


「どうしよう、帰れねえ」


 頭が真っ白になった。

 辺りを見回したがやはりダニエルの姿はない。


「――竹取物語を知っておりなんすか?」


 動揺する俺とは対照的に、天青太夫は優雅に言った。

 俺は頷いた。確か、竹から生まれた女の子が鬼退治して月に帰るとか、そんな昔話だった気がする。いや、何か別のもん混じってるか?


「どこからおいでなんしたかは存じませぬが、じきに迎えが来るでありんしょう」


 そうかもしれない。行方不明になった俺やダニエルをISUが放置するとは思えない。何らかの捜査方法でいつか見つけてくれると今は信じるしかない。

 いつかきっと。

 気が遠くなった。


「……あんたが俺を助けてくれたのか?」

「助けたと言っても、着替えさせて布団に寝かせただけでありんすよ。主様はわっちのこの部屋に突然現れなんしたのでおざんすから」


 ほほほと天青太夫は口元に手を当てて笑った。それって普通の女ならすっごくびっくりするんじゃないだろうか。


「主様の身体は炎に包まれておりなんしたけんど、不思議なことに、主様は身体のどこにも火傷を負っておりんせん。ほんに不思議でありんす」


 俺は手の中の特殊スーツに視線を落とした。時空乱流に飲まれ、時空を吹き飛ばされても怪我ひとつ負わなかったのはこのスーツのおかげなんだろう。


「ここはどこだ?」

「ここは江戸の遊郭、吉原でおざいます」


 江戸は東京の昔の呼び名だ。やはりここは日本なのだ。

 俺は立ち上がって窓を開け、外の様子を窺った。赤い提灯が店の軒先にずらりと並んだ大通りを大勢の男たちが行き交い、人々の喧騒は二階からそれを見下ろす俺の耳にさえ届いた。


「江戸時代……?」


 俺は生まれてから小学校までを日本で過ごした。小学校で習った大まかな日本史を思い返す。もし今が江戸時代なら、ここは十七世紀か十八世紀、もしくは十九世紀。


「ええっと、そうだ、関ヶ原の戦い!関ヶ原の戦いって何年前の出来事だ?」


 俺が身を乗り出して訊ねると、天青太夫は意味ありげに目をすがめて答えた。


「今日は明暦三年一月四日。天下分け目の関ヶ原はもう五十年も前のことでありんすよ」


 ということは、今は十七世紀半ば。江戸時代初期だ。

 十五世紀のミラノへ行こうとして、十七世紀の江戸に飛ばされているとは、ISUも簡単には分からないだろう。俺は頭を抱えた。俺は本当に帰れるのだろうか。


「楼主様はわっちが説得しなんしたゆえ、迎えが来るまでの間、わっちの弟と名乗って店の雑用をしながら暮らせばよろしゅうおざんす」


 俺の心を読んだかのように、天青太夫は涼しげに言った。


「ありがとう。俺はカンバヤシだ。……でも、何でそんなに良くしてくれるんだ?」


 目の前に突然現れた得体の知れない人間の面倒を見てくれる女なんてこの世にそういるものではない。それどころか、彼女は俺がどこから来た何者なのか聞こうともしない。


「わっちには郷里に弟がありんす。無事に育っていれば、ちょうど神林様くらいの歳になりうんす。何だか放っておけないのでありんすよ」


 柔らかく微笑み、懐かしいものでも見るような目で天青太夫は俺を見た。


「それに……」


 天青太夫が言いかけた時だった。


「姉様、よろしゅうおざいますか」


 ふすまの向こうから、鈴を振るような声がした。


「お入りなんし」


 天青太夫が答えると、すっと、ふすまが開いた。


「失礼致しんす」


 現れたのは十五六歳の少女だった。俺はぽかんと口を開けてしまった。まるで妖精のように透明で白い肌、潤んだ漆黒の瞳、つややかな黒髪、可憐でいて聡明そうな表情、かすかに匂い立つような色気、彼女の持つ何もかもに吸い込まれそうだった。


「神林様、これはこの夕蓮楼の引き込み新造、残月でありんす」

「ヒキコミシンゾウ?」


 俺はぼんやりしたまま首を傾げた。


「半人前の遊女見習いの中でも一番優秀な者のこと。いわば未来の太夫でおざんす」


 きりりと誇らしげに答え、天青太夫は少女を促した。


「残月でおざいます。お膳のご用意ができなんした。どうぞ遠慮なくお上がりなんし」


 そう言って残月と呼ばれた少女は小さなテーブルのようなものをそっと畳に滑らせた。いくつもの小鉢に分けられた立派な食事が乗っている。俺は急に強烈な空腹感を覚えた。そういえばタイムワープのために一日絶食していたのだ。


「いただきます」


 畳の上に腰を下し、子供のころに習ったように手を合わせて俺は箸をとった。

 しばらくの間、黙々と食事をする俺を、二人の女性が見守っていた。やがて俺が箸を置くと、すっと残月がお茶の湯のみを差し出してくれた。


「神林様は未来からおいでになったのでありんしょう?」


 天青太夫の突然の言葉に、俺は口に含んだばかりのお茶を吹き出しそうになった。


「な、な、なんで分かったんだ?!」

「わっちは吉原の太夫でありんす」


 天青太夫は妖艶に目を細めた。


「突然、神林様が目の前に現われなんして、最初は天人か妖かと思いなんしたけんど、天人ならば空からお越しになるはず、しかし妖には見えんせん。その不思議な衣装といい、神林様の言動といい、未来のお人ではないかと思ったのでありんす」


 天青太夫は実にきっぱりと言った。


「神林様をお助けするのは好奇心ゆえ。それもありんす」


 気持ちがいいほど正直な人だ。俺は妙に感心してお茶をすすった。


「未来はどのようなところなのでおざんすか?」

「ええと、月に行けたり、月の隣に大きな街を浮かべて、そこで勉強したり」

「神林様は月に行かれたことがおありで?」

「まあな。でもそんないいもんじゃないぜ。埃っぽくって」


 二人の女性は顔を見合わせて驚いている。

 月は荒野だ。それよりも、宇宙から眺める地球の方がよっぽど美しい。と、言っても分からないだろうなあ。彼女たちはこの青い水の惑星の写真さえ見たことがないのだ。


「太夫、茶屋にお客様がおいでだよ!」


 ふすまの向こうからきびきびとした老婆の声がした。天青太夫はさっと立ち上がって着物の長い裾を返した。


「残月、神林様をお相手さし上げなんし」

「あい、姉様」

「では神林様、ご不明なことがあれば何なりと残月に聞いておくれなんし」


 颯爽と部屋を出て行く天青太夫の後ろ姿を目で追いながら俺は残月に訊ねた。


「君は姉さんについて行かなくていいの?」

「おいらは引き込み新造。楼主様付きの新造でありんす。姉様には姉様付きの二人禿がおりんす」

「カムロ?」

「百聞は一見にしかず。よろしければ、天下の天青太夫の滑り道中を見物しに参りんせんか?」

「スベリドウチュウ?」

「店から茶屋へ、太夫が大通りを練り歩くことでありんす。さあ」


 残月に腕を引かれ、俺は立ち上がって彼女の後を追いかけた。暗い廊下と階段を経て裏口のようなところから下駄をつっかけて外に出る。ひんやりとした宵の空気が頬を撫で、寒椿が強く香る庭を横切ってくぐり戸を抜ける。細い路地から大通りへ出ると、すでに人だかりができていた。


「神林様、これが夕蓮楼の天青太夫の滑り道中でありんすよ」


 ゆっくり、ゆっくり。一歩、また一歩。

 豪華絢爛な着物をまとい、とんでもなく底の厚い履物を履いた天青太夫が這うようにねっとりと大通りを進む。彼女の背後には傘を持つ若い男が一人、彼女の左右には十歳くらいの女の子が二人、やはり着飾ったなりで付き従っていた。


「姉様の左右に幼い子供がおりんしょ。あれが禿でありんす。姉女郎の世話やお客様のお相手をしながら一人前になるために芸事を学んでいる子供でありんすよ。禿は大きくなると新造になりんす。おいらも昔は姉様の禿でありんした。けんど、十二歳の時に引き込み禿に選ばれて、今では引き込み新造でおざんす」


「新造が大きくなると何になるんだ?」

「なれるものは一人前の遊女になりうんす。太夫、格子、局、端……遊女には様々な位がおざいます。けんど、この吉原には太夫は三人しかおりんせん。太夫になるということは、吉原遊女二千人の頂点に立つということでありんす」


 残月はそう言って口元をほころばせた。彼女が天青太夫を見つめる瞳には強い憧れや誇らしさが見えた。

 天青太夫は群衆には見向きもせず、つんとすました表情で俺たちの前を通り過ぎて行った。彼女の背中が遠ざかると男たちは称賛のため息をつきながら方々へ散り始めた。


「天青太夫がすごいってのは分かったよ。未来の太夫である君がすごいってことも」


 そんな彼女たちに助けてもらったことは果たして幸運なことだったのだろうか。


「あい、おいらも姉様のような立派な太夫になりうんす」


 残月の妖精のような顔を見ると、大きな黒い目がきらきらと輝いていた。俺は思わずそれに見とれてしまった。こんな風に将来を語る女の子を、俺は初めて見た気がする。


「神林様、おいらの顔に何かついておりんすか?」


 急に残月の顔が俺の方を向いたので、俺は慌ててあさっての方向を見た。そして背後が何やら騒がしいことに気が付いた。男の悲鳴と女の怒号が聞こえる。


「あれ、何だ?」


 見ると、夕蓮楼の隣の店の前で、小綺麗な着物を着た若い男が地面に這いつくばり、その周りを取り囲んだ五人の女たちに暴行を受けている。


「おそらく、馴染みの女郎以外に手をお出しになったのでありんしょ」


 そう言って残月は眉をひそめる。

 暴行を受けていた男はとうとう小刀でまげを切り落とされてしまった。


「見せしめの髪切りでありんす」

「過激だな……客にあそこまでするか?」


 三十一世紀なら考えられないことだ。


「吉原には、女郎にも客にも厳しい決まりがおざいます。双方がそれを守らねば、この街は成り立たぬのでおざんすよ」


 残月は険しい表情をつくって唇を引き結んだ。


「おいらたちも幼き頃より言い聞かされなんした。脱走、密通、怠慢……御法度に触れれば子供だろうと容赦なく折檻されて、どぶ板長屋の河岸店に売られるか、酷い時には命を落として投げ込み寺へやられることもありなんす」


 話しながら、俺と残月は夕蓮楼に戻った。


「吉原って怖いんだな」


 残月は苦々しげに笑った。


「華やかな苦界でおざいますよ」


 毎日お稽古ごとがたくさんあるが、今日は暇なのだと言って残月は俺を庭に連れて行ってくれた。縁側に並んで座ると、店の中から三味線の音色や女たちの笑い声が聞こえた。俺たちはしばらく黙ってそれを聞いていた。

 俺、本当に江戸時代に来ちまったんだなあ。

 しみじみと絶望してみたが、どこかで開き直っている自分もいる。


「なあ、お稽古って、何するんだ?」


 沈黙に耐えかねて訊ねると、残月は明るい表情で微笑んだ。


「それはもう、たくさん!三味線、琴、鼓、茶、書、香、華、礼法……楼主さまの碁のお相手や、和歌や古典、算術も学んでおりなんす。引き込み新造は他の禿や新造より多くのことを学ばなければならないのでありんすよ。太夫になれば、どこぞの国のお殿様のお相手をするやもしれんせんゆえ」

「大変なんだな」


 俺も天才少年とか言われて育ったものだが、残月とは次元が違うような気がして、何のひねりもない相槌しか出てこなかった。


「神林様は未来では何をしておいでだったのでありんすか?」


 俺は頭をかいた。


「ええと、歴史を勉強したり、歌を歌ったり」

「まあ。では将来は学者先生におなりでおざんすか?それとも歌人に?」

「いや、何も考えてね。親父が医者で、跡を継げって言われてるんだけど、それも嫌だし。かと言って他にやりたいこともねえし」


 俺はため息をついて夜空を見上げた。未来の空より何百倍も暗い空には細い月が浮かんでいた。三十一世紀の空にはISUの影が見えるが、もちろんここの空にそんなものはない。ここは本当に江戸なのだ。


「いざ かぐや姫 穢き所にいかでか 久しくおはせん」


 物足りない夜空をぼんやり眺めていた俺の隣で残月が何かを暗唱した。


「え?」


 月光を浴び、残月は柔らかく笑った。


「神林様はかぐや姫のようでありんすね。かぐや姫も、故郷の月を眺めては物思いにふけるのでありんすよ」

「竹取物語?」


 天青太夫も竹取物語の話をしていた。竹取物語のように、俺にもいつか未来から迎えが来るだろうと。

 俺はもう一度月を見上げた。ISUが、未来が、ひどく遠く思えた。




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