未来からの婚約破棄
エレナ・ヴァルデン侯爵令嬢へ
突然、このようなことを手紙で伝えるのは申し訳ないと思っている。
僕は、君との婚約を破棄したいと考えている。
君には一切、非はない。
これは完全に僕の都合だ。
8月31日、僕はリディア・エーベルハルト伯爵令嬢と出会い、彼女と一緒にいたいと思った。
この気持ちを抱えたまま、君と一緒になることはできない。
本当にすまない。
アルブレヒト・ローゼンベルク
※
私は、その手紙を読んだときの気持ちを忘れることはないだろう。
アルブレヒト・ローゼンベルク公爵令息との婚約は、家同士で決められたものではあった。けれど、アルブレヒト様との交流を深めていくなかで、彼の人柄に触れていくうちに少しずつ彼に惹かれ始め、幸せな未来を思い描き始めていた。
そんな矢先にこの手紙が届いたのだ。
けれど、この手紙には婚約破棄以上に奇妙な点があった。今日は8月30日。手紙にある8月31日は明日なのだ。
それに、過去に何度かアルブレヒト様からお手紙をいただいたことがあったが、いつも丁寧な長文で、こんなにも簡素に用件だけ伝えてくるような内容も珍しかった。
「お姉様、どうかされたの?」
声をかけてきたのは、妹のミーナだ。
私が深刻な顔になってしまっていたのに気がついたのだろう。
「いえ、何でもないわ」
そう言って私はミーナに微笑んだ。
ミーナは姉思いで、繊細な娘だ。変に心配をかけたくない。
一方で私は、アルブレヒト様の真意を確かめるために、公爵家を訪ねようと決めていた。
※
「エレナ、よく来てくれたね」
公爵邸で、私を出迎えたアルブレヒト様は笑顔だった。
あのような手紙を出してきたというのに。
「アルブレヒト様、いったいどういうことなのですか?」
私は挨拶する余裕もなく、手紙のことを尋ねた。
「怖い顔をしてどうしたんだ、エレナ。何の話だ?」
その反応を私は不審に思ったが、今さらうやむやにはしたくない。
「このお手紙のことです」
私はアルブレヒト様からの手紙を差し出した。
アルブレヒト様は訝しげに手紙を手に取り、開いた。
手紙を読んでいくうち、アルブレヒト様の眉間に皺が寄っていった。
「何なのだ、この手紙は……? 僕はこのような手紙は出していないぞ」
「えっ……」
私は驚いた。けれど、冷静に考えれば、確かに婚約破棄は突然すぎた。そんな素ぶりはまったくなかったし、家同士で決めた婚姻を、自分勝手な理由でなかったことにするような方でもない。
そんなことも考えずに、動転して公爵邸まで押しかけてしまった自分が恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい……私……」
「いや……誰かが捏造したのは間違いないけれど、僕の書く字によく似せているし、こんな手紙を受け取ったら、冷静ではいられないだろう」
「それでも……アルブレヒト様を疑うようなことをしてしまって、お恥ずかしいです。本当に申し訳ございません」
私はアルブレヒト様に頭を下げながら、別の疑問も浮かんでいた。アルブレヒト様が書いたのでなければ、誰が手紙を書いたのだろう。
「もういいから。しかし、誰がいったいこんなことを……。それに奇妙な点も多いな。8月31日はまだ来ていない明日だし、もしそれが昨年のことだとしても、僕はリディア・エーベルハルト伯爵令嬢とは会ったことがない」
やはりそうなのだ。手紙に書かれた8月31日は少なくとも過去の日付ではない。それは明日の可能性だってある。
「エーベルハルト伯爵家について何かご存じのことは?」
私が尋ねると、アルブレヒト様は思案げな顔をした。
「うん、君に言うのも何だけど、エーベルハルト伯爵家は、君のヴァルデン侯爵家に対する対抗意識が強いと聞いたことはある。以前はともに伯爵家だったのが、ヴァルデン家だけ、侯爵家に昇爵したこともあってね」
「じゃあ……まさか……」
「ああ、エーベルハルト伯爵家が仕組んだ可能性もあるかもしれない」
「そんな……」
貴族の社会がきれいごとだけではないことは、私も認識はしていたつもりだ。けれど、自分自身がこんな卑劣なことに巻き込まれたことが信じられなかった。
「心配しないでいい。もちろん、婚約破棄などするつもりはない。家同士のこともあるけれど……エレナ、僕は君のことを大切にしたいと心から思っている」
突然の愛の告白のような言葉を受けて、私は気恥ずかしくなりながらも、少し気持ちが落ち着いた。そしてまた、疑ったことに対する申し訳ない気持ちも蘇った。
「僕のほうでも少し調べてみるよ」
そう言うアルブレヒト様の目には、強い意思のようなものが感じられた。
※
翌日、8月31日の午後だった。
今日という日に、私は何か落ち着かなかった。
「お姉様、お客様です」
妹のミーナが声を上げて、どきりとした。
「お客様……?」
応接間に行くと、そこにいたのはアルブレヒト様だった。私の落ち着かない気持ちを慮ってか、会いに来てくださったのだ。
「アルブレヒト様……。わざわざ来てくださるなんて」
「エレナ、君と話をしたくてね。来てしまった」
アルブレヒト様はそう言って微笑んだ。いつものアルブレヒト様だ。
「お気を遣ってくださってありがとうございます」
やはり昨日の手紙の件を気にしてくださっていたのだ。
「僕もどうも気になってね。実は、今日の朝一番に、リディア・エーベルハルト伯爵令嬢に会ってきたんだ」
「えっ……?」
私は何か胸騒ぎがした。
今日は8月31日。「僕はリディア・エーベルハルト伯爵令嬢と出会い……」
手紙に書かれていた、まさにその日付の今日、アルブレヒト様は、本当にリディアに会ってしまったのだ。
「なぜ……リディア様とお会いになったのですか?」
「なぜって……。あの手紙のことがどうにも気になってね。嫌がらせのつもりならやめさせようと思ったのだ」
「そうですか……。では、リディア様は手紙のことをお認めになったのですか?」
「いや、手紙のことなど知らないそうだ」
「それを信じたのですか?」
「まあ……そうだね。今朝も、リディア嬢は孤児を受け入れている救護院にいたのだが、慈善活動に熱心な素敵なご令嬢だったよ」
私は少し嫉妬して、怖い顔になっていたかもしれない。そんな私を見て、アルブレヒト様は慌てて言葉を続けた。
「だからと言って、僕が女性として惹かれたというわけではないよ。誤解しないでくれ。人として敬意を持てたというだけだ」
「そうですか……。それにしても、私に相談もなしに、軽率な行動はしないでいただきたいですね」
「ああ。そのことについてはすまなかった。……しかし、貴族という立場にいて、社交界や贅沢にばかり気を取られるべきではなく、困った人々に手を差し伸べることは大事だと学んだよ。僕たちも、結婚したらぜひ王国の人々のためになることをしよう」
「……そうですね」
私は何か釈然としない気持ちでもやもやしていた。
※
その数日後のことだった。
「エレナ、ちょっといいか」
自室にいた私のところに、ヴァルデン侯爵——お父様がいらした。ひどく険しい顔をされていた。
「お父様、どうかされましたか?」
「ああ、あまり良い話ではないのだが……」
お父様の表情とその言葉に、大きな胸騒ぎを覚えた。
できれば、その先を聞きたくない、と思った。
「アルブレヒト・ローゼンベルク公爵令息との婚約は破棄することにした」
「嘘……」
私は耳を疑った。
「先方からも手紙で婚約破棄の通知が来ていたが、こちらから願い下げだ」
「手紙?」
「ああ。リディア・エーベルハルト伯爵令嬢のことが好きになったとかでな。よりによってエーベルハルト伯爵家とは」
「その手紙には……8月31日にリディア様にお会いしたと書かれていましたか?」
「何だ、エレナ。おまえも知っていたのか。ならば話は早い」
お父様は明らかに冷静さを失っていた。
「救護院で、実際にリディアと一緒にいたところも目撃されている。ずいぶんと親密な様子だったようだ。密会が明らかになる前に、自分から白状してきたのだ。ともかく、もうあの男のことは忘れろ。何、心配するな。もっといい縁談を持ってきてやる。王太子殿下もおまえのことが気になっているという噂もあるのだ」
「待ってください……。お父様……」
「エレナ、未練など持つな。あいつは最低の男だ」
そう言い捨てて、お父様は足早に去っていった。
つい先日お会いしたアルブレヒト様は、リディアに惹かれてなどいないと仰っていた。それでも、私はあのときのアルブレヒト様の言葉を思い出してしまう。「素敵なご令嬢だった」「人として敬意を持った」。そう言うアルブレヒト様は、リディアという女性に惹かれていたとしても不思議ではないご様子だった。
8月31日にアルブレヒト様はリディアと出会い、彼女に惹かれ、婚約は破棄されてしまったのだ。
まるであの手紙が予言したかのように。
手紙の内容が現実に起きてしまった。
アルブレヒト様は未来からあの手紙を送ったとでもいうのだろうか。
だから手紙を出した覚えがなかったというだけなのだろうか。
※
私はいてもたってもいられず、またローゼンベルク公爵家を訪ねていた。
「ああ、エレナ。よく来たね。どうかしたか?」
アルブレヒト様は以前と変わらず、笑顔で私を迎えたので、私は苛々してしまった。
「どうもこうもないです。アルブレヒト様、今度こそ婚約破棄のお手紙をお出しになりましたよね?」
「何? 何を言っているのだ? また僕からの手紙が来たのか?」
アルブレヒト様は、明らかに驚いていた。
「まさか……また嘘の手紙……?」
私は呟いた。
「もちろん、僕は何の手紙も出していない」
アルブレヒト様が言った。
「そうですか……。でも今回はお父様が受け取ってしまって、こちらから婚約など願い下げだと、息巻いてしまっています。手紙の内容が、現実になってしまったのです」
そう言う私をアルブレヒト様が見つめた。
「違う、エレナ。一部はそうかもしれないが、少なくとも僕はリディア嬢に惹かれてはいない。僕が愛しているのは、エレナ、君だ」
「私も同じ気持ちなのですが……」
私は気恥ずかしくなったが、すぐに我に返った。
私たち本人がどう思おうと、事態は婚約破棄へと向かってしまっているのだ。
「いったい誰がこんなことを……」
アルブレヒト様はそう言うが、私にはひとつの可能性しか思い浮かばない。
「やっぱりリディア様か、エーベルハルト伯爵家の仕業としか思えません。私たちの仲を割こうなんて思う方が他にいるとは思えません」
「そうは言うが、エレナ。君は自覚していないかもしれないが、社交界でも君は人気だよ。噂では王太子殿下も君にご興味があるとか……」
私はアルブレヒト様の言葉を遮った。
「なぜリディア様をそこまで庇うのですか!?」
私の剣幕にアルブレヒト様は驚いて言葉を失ったが、やがて再び口を開いた。
「いや、リディア嬢だけではない。王太子殿下も犯人だとは思っていない」
「なぜなんです……?」
「あの手紙の文字は、僕の書く字を精巧に真似ていた。そもそもリディア嬢が僕の字をまねるなんてことができるはずがないだろう。エーベルハルト伯爵家に手紙など送ったことなどないし、君がエーベルハルト伯爵家に僕の過去の手紙を渡すなんてことはないだろう?」
「では、アルブレヒト様ご自身が書かれたのですか? 何のために?」
「それも違う。僕自身がはっきり違うと知っている。それより、君のほうこそ何か心当たりはないのか? 君の自作自演だなんてことはもちろん思っていないけれど、僕が自筆の手紙を送ったことがある相手は、君以外いない」
そう言われ、私は考えを巡らした。
そして、ひとつの可能性に思い当たった。
「アルブレヒト様、私、一度帰ります。また来ますので」
※
「あーあ、ばれちゃったか」
私のただならぬ様子を見て、悪びれもせずその人物は言った。
侯爵邸の自室に戻り、過去に受け取ったアルブレヒト様の手紙をあらためると、整えていたはずの手紙が動いていた。
いただいていた順に重ねていたのに、その順番も変わっていた。誰かが持ち出していたのだと確信した。
改めて内容を読み返すと、「一緒にいたい」「申し訳ない」など、あの手紙に書かれていた文言そのままの文面もあり、偽の手紙と比べると、不自然なくらいそっくりな文字だった。まるで、古い手紙の文字をなぞったかのように同じなのだ。
そして、普段から私の自室に自由に入れて、手紙のこともよく知っている人物といえば……
「ミーナ、アルブレヒト様の手紙を偽造したのはあなただったのね」
妹のミーナだった。
私が問い詰めると、ミーナは得意げに答えた。
「そうよ。お姉様もアルブレヒト様も思ったとおりに行動されるから、とっても興奮したわ。私なんかでも、人を動かせるんだって思って。それも、お姉様やアルブレヒト様みたいな立派な人だってね。だって、お姉様みたいに、私よりずっと賢くって、何でも持っているような立派な人が、私の書いた手紙一枚で狼狽えて、私の思ったとおりに動いてしまったのよ。面白くて仕方なかったわ」
「手紙に8月31日の日付を書いて、30日に私の手に渡るようにしたのも、当日にアルブレヒト様の目に触れさせて、翌日にはリディア様に会いに行くように仕向けたのね」
「そうよ。8月31日に、リディア様が救護院にいらっしゃることは知っていたから、お優しいアルブレヒト様が救護院のリディア様にお会いしたら、少なくとも好意的な気持ちを持つと思ったの。そうなれば、お父様を勘違いさせて、婚約を破棄させるにはじゅうぶんだったわ。そうそう、お父様まで私の思い通りになったのよ」
「お父様に、アルブレヒト様とリディア様のことを告げ口したのもあなたなの?」
「そうよ。そうしないと、手紙の『予言』は完成しないでしょう?」
ミーナは話している間、自慢げな態度を崩そうともしなかった。
「ミーナ、なぜこんなことをしたの?」
私が本当に尋ねたかった質問だ。
「お姉様を取られたくなかったのよ」
「結婚したって、あなたはずっと私の妹よ」
「それに……お姉様ばかりずるいわ。社交界でも人気を集めて、ローゼンベルク公爵家なんて立派なお家に嫁いで、お優しい旦那様と一緒になるなんて」
「ずるいだなんて……。お家同士で決めた結婚よ」
「それよ。お姉様は何にもしなくたって、素敵な未来が用意されているじゃない」
私はミーナの言うことが理解できなかった。
私は何かずるいことをしただろうか? アルブレヒト様のような素敵な方に出会えたのは運が良かったとは思うが、それをずると言われるのは納得がいかなかった。
「ともかくお父様にはご報告しますからね」
「どうぞ」
ミーナは堂々と答えた。
「でももう婚約破棄は取り消せないでしょうね。少なくとも、お父様はアルブレヒト様がリディア様と親密にされていたと思い込んでしまっていますし、そんな噂が社交界にも広まって、今さらなかったことになんてできないわ。お姉様の未来は、もう決まったとおりにはいかないわね」
「決まったとおり、って何のこと?」
「公爵家に嫁いで、優しい旦那様に愛されて、何不自由なく暮らす、そんな、お姉様に最初から約束されたような未来は、もう来ないってこと」
そう言って、ミーナは笑みを浮かべた。
※
「婚約は、破棄しよう」
アルブレヒト様は、すべての真相を知った上で、そう言った。
「えっ……。そんなの嫌です……」
私は理不尽に、アルブレヒト様と離されてしまうなんて、耐えられなかった。
拒否する私に構わず、アルブレヒト様は続けた。
「家同士で決められて、誰かに振り回されるような婚約などいらないよ。そうだろう? ミーナのやったことは許せないけれど、今回のことで、僕自身が考え直す機会にもなったのだ」
「でも……私は……アルブレヒト様と一緒になりたいのです」
「僕も同じだよ。エレナと一緒にいたい。だからこそ、家同士で決めた婚約など破棄するんだ」
「だから、私は嫌です!」
「その上で、僕は改めて、君に婚約を申し込みたい」
「えっ……?」
「ローゼンベルク公爵家の嫡男としてではなく、一人の男として、君と結婚したい。誰に何を言われようと」
私は胸が高鳴った。
決められた婚約ではなく、自分たちで決める婚約……。
「受けてくれるか、エレナ?」
※
その後、私は改めてアルブレヒト様から、直接お手紙を受け取った。
正真正銘のアルブレヒト様のお手紙だった。
そこには、アルブレヒト様の愛の言葉が散りばめられ、これからの未来について、予言ではなく、自分たちの意思で、幸せになろう、と綴られていた。
ミーナにも見せたが、不機嫌そうに読んだだけで、何も言わなかった。
私の返事は決まっていた。
たとえお父様やミーナが反対しようと、それは変わらない。
私の未来は、私自身で決める。
「喜んでお受けします」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし少しでも「面白かった」と思っていただけたら、
①ブクマ登録 ②★評価 ③一言感想
のいずれか一つでもいただけると、めちゃくちゃ励みになります。
改めて、ありがとうございました!




