さようなら。家族思いの婚約者様
――夏の昼下がり。
王都の一角に佇む会員制のサロンで、サーシャは婚約者のロバートとティータイムを楽しんでいた。ロバートは一昨日、所領の視察から戻ったばかりだ。
「サーシャ。これを――」
ロバートが、テーブルの上にビロード張りの小箱を置く。対面に座るサーシャに向かって、そっと小箱を差し出した。
サーシャが彼を見つめると、ロバートはすっと目を細めた。
「視察の土産だよ」
「ありがとうございます」
口元をほころばせ、サーシャはそっと小箱を開いた。翡翠のブローチが、しとやかに輝いている。翡翠は彼の領地の特産品だ。
「君の瞳の色そっくりだろう。つけてごらん」
サーシャがそれを胸元に着けると、ロバートは満足げに笑った。
「気に入ってくれた?」
「ええ、とても」
「それはよかった」
ロバートとサーシャは、互いを見つめて笑い合った。
来年に結婚を控えたこの二人は、周囲からよくお似合いだと褒められる。実際、サーシャはロバートを『良き婚約者』だと思っている。
……けれど。
「――それと、こっちはマルグレーテに」
ロバートは先ほどと同じ色の小箱をテーブルの上に置いた。親しみのこもった眼差しを、ロバートは自分のすぐ隣へと向けた。
「わあ。ありがとう、お兄様!」
声を弾ませたのは、彼の妹のマルグレーテ。亜麻色の髪をふんわりとまとめた、表情豊かな美少女だ。
マルグレーテが小箱を開くと、サファイアのネックレスが燦然と輝いていた。
「まあ! なんてきれいなの!?」
彼女は小箱を握りしめ、大輪の薔薇のような笑顔でサーシャに見せびらかしてきた。
「見て、サーシャお姉様!! お兄様の瞳の色よ!」
――ぴくり。
ティーカップを持つ手が、微かに震えそうになる。
「……すてきですね」
ロバートが、苦笑交じりにマルグレーテを見やる。
「僕じゃないぞ、マルグレーテ。お前の瞳に合わせたんだ」
「どっちでも同じでしょう?」
「それはそうだが……」
マルグレーテは席を立ち、ロバートに擦り寄って甘える。
「ねえ。……つけて?」
「お前な。それくらい自分で」
「だって、お兄様にしてほしいのぉ」
やれやれと、ロバートは肩をすくめるとネックレスを手に取った。
「まったく。お前はいつまでたっても甘えん坊だな」
マルグレーテの首もとに手を回し、さらりと鎖を留めてやっていた。
「もう15歳なんだから、少しはレディらしくしないと」
「あら、学院や王城ではきちんとしているわ。でもいいでしょ、家族なんだから」
「……しかたないな」
「えへへ」
兄妹は、仲睦まじく笑い合っている。
淡い微笑を貼り付けたまま、サーシャは寄り添う兄妹の姿を見つめていた――。
*
ロバート・ヒューズ侯爵令息との婚約は、5年前に決まったことだ。
事業上の縁が深いヒューズ侯爵家との縁談は、サーシャの実家フォルベル伯爵家にとってまったく不足のないものだった。
サーシャは、ロバート自身のことも好意的に思っていた。貴族学院時代から卒業後の今に至り、贈り物や手紙のやりとりを欠かさないし、夜会でも丁寧にエスコートしてくれる。きっと結婚後も良き夫、良き父親になってくれる――そんな未来が想像できた。
婚約が決まった折に、朗らかに迎えてくれたヒューズ侯爵夫妻の言葉もしっかり覚えている。
――『サーシャ君。君もいずれは当家の一員だ。末永くよろしく頼む』
――『あなたはもう家族のようなものですわ』
上位貴族でありながら、ヒューズ侯爵家はとても家族仲が良い。侯爵夫妻と長男長女、理想的な家族の姿がそこにあった。
そして、とうとう来年は輿入れ。ついに自分も彼の家族になる。
……嬉しいに決まっているのに、胸の奥が重いのはなぜだろう?
*
デートから帰ったあと、サーシャは父の部屋を訪れた。静かに扉を開けると、病床の父が穏やかな寝息を立てていた。
「おかえりなさいませ、サーシャお嬢様」
付き添っていたメイドが恭しく礼をする。
「ありがとう。ここは私が替わるわ」
一礼してからメイドが去ると、サーシャは父の傍らの椅子に腰を下ろした。籠から刺繍枠を取り出し、白い布にひと針ずつ糸を刺していく。
――ロバートに贈ろうと、ずっと前からしていた刺繍だ。
父の寝顔を見守りながら針を動かすと、ふしぎと心が休まる。……けれど今日は、いつまでたっても胸の奥が騒がしかった。
「……」
ヒューズ侯爵家は、本当に家族仲が良い。
だからこそ、あの家の一員としてふさわしい花嫁を目指している。
(……でも)
今日もまた、ロバートはマルグレーテをデートに連れてきた。
婚約者と同じでテーブルで、婚約者に向けるよりも眩しい笑顔で、妹の首筋に当然のように触れてネックレスをつけてやっていた。
「家族なんだから」と言われて笑っていたロバートの姿が頭から離れない。……それにマルグレーテ様の誇らしげで、どこか意地悪にも見えた態度も。
(私ったら……考えすぎよ。なにを卑屈になっているの)
自分へ言い聞かせる。
あのマルグレーテは、もうすぐ第5王子と婚約することになっている。なんでも、貴族学院の生徒会長と副会長という関係から親密になったとか。
だから妹は学生生活と婚約準備で忙しいのだと、ロバートが嬉しそうに教えてくれた。
だからこそ、休日くらいは兄に甘えたいのかもしれない。
そう。
きっとそれだけのこと……。
「痛っ――」
ちくり。と指に痛みが走る。
考え事をしていたせいか、誤って針を指に刺してしまった。赤いしずくが布に落ちそうになり、サーシャは慌てて布を遠ざけた。
――そのとき。
「…………サーシャ」
ベッドから、掠れた声がした。
父が重たげな瞼を開けて、心配そうにサーシャを見つめている。
「大丈夫かい」
「ごめんなさい。これくらい平気よ、お父様」
心配させまいと、サーシャは笑顔を浮かべた。
3年前に流行り病にかかってから、父はすっかり衰えてしまった。
「調子はどう?」
「今日はずいぶんいいよ」
父はベッドで身を起こし、少し冗談めいた口調で言った。
「お前の花嫁姿を見るまでは死ねないからな」
「また、お父様ったら」
父にはずっと元気でいてほしい。
かわいい孫も見せてあげたい。だから――心配なんか、させちゃいけない。
「いよいよ、来年か」
花嫁姿を思い浮かべたのか、父が感慨深げに呟いた。
「……お父様は、私がいなくなったら寂しくない?」
「なんの。むしろ一安心さ」
これで肩の荷が下りる、と言わんばかりに父は右肩を回した。
「それに、うちには優秀な息子がいるからな。アベルがいてくれれば安心だ――」
と、父が安堵の息をつく。そしてふと、サーシャの刺繍枠を覗き込んだ。
「おや、サーシャ。その刺繍もいよいよ完成かい?」
木枠の中のハンカチには、ヒューズ侯爵家の家紋が大きく刺されている。
この国では花嫁修行の一環として、婚家の紋章を刺したハンカチを夫となる男性に贈るのが習わしだ。
「――ええ」
「お前は本当に器用だね」
「ありがとう、お父様。明日、花嫁修業でタウンハウスに伺うことになっているの。そのときに渡せたらいいと思って」
「そうかそうか。ロバート君もきっと喜ぶよ」
顔をくしゃくしゃにして笑う父を見て、サーシャは胸が温かくなった。嫁いでも、この温もりは絶対に忘れない。
「……できたわ!」
やがて出来上がった刺繍を、サーシャは誇らしげに父に見せた。
「おぉ、これは見事だ!」
サーシャと父は、顔を見合わせてにっこりとした。
――この刺繍には、父と過ごした大切な時間もしっかり縫い込まれているのだ。
*
次の日。
サーシャはヒューズ侯爵家のタウンハウスを訪れた。
「いらっしゃい、サーシャさん。今日はお客様をお迎えするときの作法をお教えしますわね」
「よろしくお願いいたします。お義母様」
こうして月に何度か足を運んでは、この家のしきたりを学んでいる。
「当家では、応接室に飾るお花にも決まりごとがございます。季節感を踏まえつつ、お客様の家紋に合わせたお花を生けるのが基本ですわ。――では、実践のつもりでやってみましょう。お客様は、モンレイ伯爵夫人と想定なさってね」
テーブルの上には、あらかじめ花瓶が用意されていた。名指しされた客人に相応しい花を、温室から選んで用意する。なだたる貴族の家紋はしっかり頭に入っているから、サーシャの手は迷わなかった。
「できました、お義母様」
侯爵夫人は、用心深くそれを検分した。
「……ふむ。悪くはありません。生け方もとても丁寧ですこと。ですが……」
ひどくがっかりした面持ちで、夫人はサーシャを見つめた。
「花瓶の色が、合っていませんわ」
花瓶――?
「季節を踏まえるよう、最初にお伝えしましたのに。夏は清涼感のある青を選ぶのがこの国の常識でしてよ。サーシャさんが使った花瓶は白……冬の色ですわ」
「あ……」
最初から、テーブルの上に置いてあったのに……。
疑いもせずに使ってしまった。よくよく見れば、部屋の隅の飾り棚には他の色の花瓶も置いてあった。きちんと選んでから生けなければならなかったらしい。
「……おっしゃるとおりです。お義母様」
「気にすることはありませんわ」
優美な笑みを口元に溜めつつ、侯爵夫人は同情するような声音で続けた。
「だってサーシャさんは、幼い頃にお母様を失くしておいですもの」
その言い方に、サーシャの息が止まる。
「教養を育む機会を得られなかったのも、致し方のないことです」
どこかねっとりと感じるのは、サーシャの考え過ぎだろうか。
憐れむようでいて、無知な子どもを眺めるような態度に見えるのはサーシャが卑屈だからなのだろうか。
(……お義母様は、私に大切なことを教えてくださっているのよ)
「でも心配はいりませんわ。あなたがこの家の一員になれるよう、わたくしが精一杯教えてさしあげますから」
「……ありがとうございます、お義母様」
サーシャは、精いっぱいの微笑を浮かべた。
花を生け直したころ、扉にノックの音が響いた。
「やあ、サーシャ。来ていたんだね」
入ってきたのはロバートだ。途端、侯爵夫人の態度が目に見えてまろやかになる。
「まぁ、お帰りなさいロバート」
まるで別人のような態度だ。
「サーシャさん。お勉強はひとまずこれくらいにして、少し休憩なさったらいいわ」
優しい声音に促され、生け花の教育はいったんお開きになった。
侯爵邸の庭園を、サーシャはロバートと並んで歩いた。
「ねえ、サーシャ。花嫁修業は順調かい?」
「ええ。お義母様には本当に良くしていただいています」
「そうか。 母は、いつも君のことを考えているよ。早くうちのしきたりが馴染むといいね」
サーシャは微笑し、頷いた。
そして会話がふと切れた折に、足を止めて呼びかけた。
「……あの、ロバート様。今日はお渡ししたい物があって」
手に持っていた巾着袋の中から、サーシャは丁寧に包んだハンカチを取り出した。
「僕に?」
「はい」
包みを解いたロバートが、ハッとして顔を輝かせた。
「これは――!」
広げた白いハンカチは夏の日差しを受けて輝き、その一角にはヒューズ侯爵家の紋章――金獅子と青い盾、それを縁取る無数の白百合が緻密に縫い上げられていた。
「すごいな……うちの家紋は複雑なのに。こんなに見事な刺繍は初めて見るよ」
感嘆の息を漏らしながら、ロバートが呟く。
「ありがとう、サーシャ」
胸がじんわり温かくなった。
この国では婚前に女性から男性へと、婚家の紋章を刺したハンカチを贈るしきたりがある。ヒューズ家の紋章はことのほか複雑で、侯爵夫人から幾度も幾度も指導を受けた。
つらいと感じるような場面もたびたびあったが……それもようやく報われた気がする。
「大変だったろう」
「いいえ。気に入っていただけて、とても嬉しいです」
――しかし。
「あら、サーシャお姉さま! いらっしゃい」
明るい声と共に、マルグレーテが満面の笑みで駆けてきた。侯爵夫妻も一緒だ。
「マルグレーテ様。……今日は、学院の日では?」
「お休みしてしまったの。朝から体調が優れなくって」
でも、マルグレーテはとても元気そうだ。侯爵夫妻も彼女を窘める様子はない。
「具合が落ち着いて何よりだわ」
「まだ無理はするなよ」
「はぁい」
サーシャの目の前で、いつもの家族団らんが始まってしまった。
「あら、お兄様ったら。サーシャお姉様にでれでれしちゃって」
拗ねたような声で言いながら、マルグレーテがロバートの腕に絡みつく。
「お、おい、やめろよ人前で……」
人前。
婚約者はまだ他人なのか。
胸の奥が、ずきりと痛む。
(どうして誰もマルグレーテ様を咎めないの? デビュタントを済ませた侯爵令嬢よ……しかも第五王子妃になるかもしれない方でしょう?)
家庭内なら、何をしても許されるのか。
いつもサーシャには礼法をきつく説く侯爵夫人も、マルグレーテには甘い。
「うふふ。あなたたち兄妹は本当に昔から仲良しね」
言葉を失うサーシャに、マルグレーテが目を輝かせて話しかけてきた。
「まぁ! それ、サーシャお姉様の刺繍? とってもお上手」
「ありがとうございます」
それからマルグレーテは、くるりとロバートをふり返った。
「ねえ、お兄様。この刺繍、私にちょうだい?」
――え?
思わず、サーシャの顔がこわばる。マルグレーテは屈託なく笑いながら、ロバートにねだり続けていた。
「だめだぞ、マルグレーテ。これは彼女が僕にくれたものなんだから」
「だって! わたしもお姉様みたいに刺繍が上手になりたいんだもの。お手本にしたいのよ。お願い!」
「だが……」
ロバートが言い淀んでいると、今度は夫人がハンカチを覗き込んできた。
「……まあ、これは本当にすばらしいわ! ほら、あなたもご覧になって?」
「おぉ、見事だ。君の指導の賜物だな」
「あら。いやだわ、あなたったら」
ヒューズ侯爵に褒められて、夫人は若妻のように両頬に手を当てて恥じらっている。
「ねえ、サーシャさん? あなたさえ良かったら、この刺繍はうちの娘にくださらないかしら?」
「…………え」
サーシャの瞳が、大きく揺らぐ。
侯爵夫人は、大輪の薔薇のように笑った。
「こんなにお上手なんですもの。わたくしが教えるより、よほどこの子の力になるわ!」
――どう答えたらいいのか、分からない。
父と毎晩会話を重ね、ひと針ひと針仕上げたのに。
ロバートに贈るために。この家の家族となるために。大切な思いを込めたのに――。
すると困り切った様子で、ロバートが口を挟んできた。
「おい、やめてくれよ母さん。サーシャが困っている」
……『サーシャが困っている』?
そんな言い方、まるでロバートには他人事みたいだ。
どれほどの沈黙が流れただろう?
「――ロバート様」
サーシャは、笑った。
「私への気づかいでしたら大丈夫です。このハンカチは、マルグレーテ様に差し上げてください」
「……君は本当にそれでいいのかい?」
「ええ」
ロバートは、露骨にホッとした表情を見せた。その笑顔もまた、ずきりと刺さる。
「本当に仕方ないな、マルグレーテは。ほら、大切にするんだぞ」
「ありがとう、お兄様、お姉さま!」
「しっかりと学び取るのよ、マルグレーテ」
「そうだぞ。お前もゆくゆくは、王家の紋章を刺繍することになるのだからな」
「はぁい!」
彼ら家族の片隅で、サーシャも笑った。
……笑うたび、どこかでなにかが軋んでいく。
*
(――私が間違っているの?)
その夜。自室に籠ってひとりきり、サーシャはずっと考え続けていた。
丹精込めて仕上げた刺繍のハンカチを、ロバートはいとも容易くマルグレーテにあげてしまった。ヒューズ家の全員が、「それが一番」と言わんばかりだった。
(……ロバートさまは、良い方よ)
少し優柔不断なところはあるけれど、婚約者として尊重してくれる。
これまでも、家族の都合を優先してサーシャとの約束を破ることは度々あった。家族思いのロバートにとって、それは自然なことなのだろう。
自分は、しょせん婚約者。
まだ、あの家の家族ではない。でも嫁げば、家族になれば……。
だから、今は我慢しないといけない。
自分に言い聞かせていた、そのとき。
こん。こん。こん。と静かなノックの音が響いた。
「どうぞ」
――入室してきた美丈夫をふり返り、サーシャは顔を綻ばせた。
「あら。おかえりなさい、アベル兄さん」
彼もまた、理知的な面差しに温かな笑みを浮かべている。
「ただいま、サーシャ」
アベル・フォルベル。サーシャの『兄』だ。
近々、フォルベル伯爵家の家督を継ぐことが決まっている。クセのない黒髪の下の澄んだ瞳で、彼はまっすぐにサーシャを見つめた。
「少し話さないか?」
「……ええ」
どうしたのだろう。と思いつつ、サーシャは椅子から立ち上がった。
*
「浮かない顔だね」
二階のバルコニーから夜の庭園を見下ろしながら、アベルは囁くように言った。
「……え?」
「父さんから聞いた。――サーシャが思い悩んでいるようだと」
顔に出ていただろうか? サーシャは静かに首を振る。
「……気のせいよ」
夜風に髪を靡かせながら、アベルは穏やかな声で続けた。
「今日はヒューズ侯爵家に行ったそうだね。……何かあった?」
「何も。いつも通りよ」
さらりと答えたその瞬間、兄の大きな掌がサーシャの頭にぽん、と乗った。
「あれ? まさかサーシャは知らなかった?」
「……何を?」
「フォルベル伯爵家の家訓。家族は、嘘をついちゃいけないんだ」
「それは……」
「それとも、僕はまだこの家の家族ではない?」
――!
サーシャは、目を見開いて声を荒らげた。
「兄さん! なんてことを言うの」
アベルは養子だ。サーシャにとっては、血縁の上では従兄である。
2年前にサーシャの実の兄が不慮の事故で亡くなり、フォルベル伯爵家は断絶を防ぐために親戚の子爵家からアベルを迎えた。この国では、女性の家督相続は認められていない。
「アベル兄さんは家族よ。私もお父様も、心からそう思っている」
「だったら、話してくれ」
……この兄は、話を運ぶのがとても上手い。幼い頃から親しくしてきたが、言い合いで勝てたためしがなかった。
「僕を家族と思うなら、全部聞かせて」
「……ずるいわ。兄さん」
「多少の狡さは必要だ。でなきゃ王宮勤めなんて務まらない」
アベルは、くすくすと肩を揺らしている。
下級貴族の出身でありながら、彼は王宮官吏として宮廷で活躍している。詳しくは聞かされていないが、内廷府で王族の補佐をする仕事だとか――頭が切れなければ務まらないのは間違いない。
「兄さんには勝てないわね」
サーシャは観念して溜息をついた。
ほんの少しだけ教えるつもりが、言葉があふれて止まらなくなってしまった。
心を込めて贈った刺繍が、マルグレーテのものになってしまったこと。
ヒューズ侯爵家の誰もマルグレーテを止めず、むしろサーシャに譲るようにと促したこと。
ロバートが、すんなり渡してしまったこと。
それだけではない。花瓶のこと。カフェのこと。これまでロバートとヒューズ家が当然のようにしてきたことが、とめどなく唇から零れていった。
聞くほどに、アベルまでもが苦しげな表情になっていく。全部吐き出しきったサーシャに、アベルは言った。
「お前、ずっと耐えていたんだな」
「……アベル兄さん。お願いだから、お父様には言わないで」
眉をひそめながらも、兄は頷いてくれた。
「父さんを心配させたくなかったんだな……?」
こくりとうなずいた。
本当は、兄のことも心配させたくなかったのに。この程度のことで弱音を吐くなんて、やはり自分がいけないのだ。だからサーシャは、安心させようと笑みを浮かべた。
……けれど。
「笑うな、サーシャ」
アベルは真剣な目をしていた。
「え?」
「そんな仕打ちを受けて、笑っていられる方がおかしい。――素直になっていい」
まっすぐな瞳でアベルが覗き込んでくる。
「お前は……本当は、どうしたいんだ」
どうしたい――そんなこと、考えたことさえなかった。
冷たく強張っていた心が、じんわりと溶けていくのを感じる。
「私……きちんと、伝えるべきだったわ」
情けなくなるくらい、声が震えてしまう。
「ただの刺繍じゃなかった。……想いを込めた、とても大切なものだったの」
「うん」
「……ロバート様に大切にしてもらいたかった。たとえマルグレーテ様にでも、譲ってほしくなかった。……すごく……いやだった」
「――うん」
よく言えたね。と、兄はもう一度頭を撫でてくれた。
「私、次にお屋敷に伺うとき、ロバート様に伝えてみるわ。やっぱりあの刺繍は、あなたに持っていてほしい――って」
「それがいい。女性が婚約者に家紋の刺繍を贈るのは、この国では特別な意味を持つことだ。当然、ヒューズ家が知らないはずがない。承知の上でそういう扱いをしたのであれば……」
兄は、怖いくらいに真剣な顔をしていた。
「僕が彼らに確認しよう。この家の次期当主として」
「――いえ」
サーシャは、静かに首を振った。
「大丈夫よ、アベル兄さん。私が自分で伝えます」
*
――それから1週間後。
サーシャは、ヒューズ侯爵家のタウンハウスに招かれていた。来月には両家で久々に会食の席を設け、婚礼の日取りを正式に決定することになっている。
サーシャは、ロバートに控えめに声を掛けた。
「あの。この前のハンカチのことなのですが」
マルグレーテの手本にした後で、やはりロバートに持っていて貰いたいとお願いした。しきたり以上に、父の看病をしながら作った思い出の品だから――と。
「え? お義父さんとの思い出が……?」
ロバートが、顔をこわばらせた。視線をさまよわせ、気まずそうな表情だ。
「参ったな。刺し直せば済む話だと思っていたのに……」
――刺し直せば済む?
サーシャがその意味を知ったのは、ハンカチの残骸を見たときだった。
*
見るも無残な姿だった。
刺繡の糸が解かれて、針の穴だらけの白い布地になっている。
「……どうして」
呆然と呟くサーシャに、申し訳なさそうにロバートが言った。
「僕は止めたんだ。でも、刺繍を学ぶには糸を抜いて刺し方を見るのが一番いいって母さんも言っていたから」
そんなの、聞いたことがない。
「ごめんなさい、お姉様。少しだけ解いて刺し方を見てから、きちんと戻すつもりだったの。でも、私の腕ではどうしても無理で……」
マルグレーテも侯爵夫人も、眉尻を下げて謝罪してきた。
「ごめんなさいね、まさかマルグレーテがここまで熱心に学ぼうとするなんて。……わたくしが縫い直しても良かったけれど、それでは意味がないでしょう? どうか、許してあげて」
……許してあげて?
ふざけないで。
青ざめて拳を握りしめていると、なぜかマルグレーテが泣き出してしまった。
「ごめんなさい、お姉さま……」
なのにサーシャは泣いてはいけない。だってこれから、この人たちの……家族に………………
…………家族になんて、永遠になれない。
*
サーシャがフォルベル伯爵家のタウンハウスに戻ると、その日はアベルが待っていた。宮廷勤めのアベルは、泊まり込みの日も多いのに。
「サーシャ。今日は――」
「アベル兄さん……私もう、あの人たちの家族になれない……」
緊張の糸がぷつりと切れて、玄関にへたり込んでしまう。
「お前は頑張った」
子どものように泣きじゃくるサーシャの肩を抱きながら、アベルは表情を険しくしていた。
「――だからもう、十分だ」
***
翌月。
婚礼の日取りを決めるための会食が、王都のサロンの一室で催された。
ヒューズ侯爵家からは侯爵夫妻とロバート、マルグレーテの4人。対するフォルベル伯爵家は、アベルとサーシャのみだ。
病床に伏すフォルベル伯爵に代わり、義兄のアベルが名代を務めている。
季節の挨拶が一通り交わされたのち、アベルは静かに口を開いた。
「本日は、貴家との婚約を解消していただきたく参りました」
――沈黙が落ちる。
「……何を申される。婚約は何の問題もなく進み、あとは挙式を待つのみではないか」
侯爵の声には、困惑よりも不快感が混じっていた。
「その良縁は、サーシャの犠牲の上に成り立っていたものです。当家としては、この子への数々の仕打ちをもはや見過ごせません」
アベルは、サーシャから聞いた出来事をひとつ一つ上げていった。
だが、侯爵は鼻で笑う。
「どれも花嫁教育だ。いびりとの区別もつかんとは」
「では、ロバート殿との逢瀬にマルグレーテ嬢が同伴なさる件については?」
「それはサーシャ殿も望まれたことだ。そうだろう、ロバート」
突然話を振られたロバートは、うろたえたまま頷いた。
「……は、はい」
婚約解消の話題が出るなんて、ロバートは想定もしなかったようだ。
侯爵が、今度はサーシャを鋭く見つめる。
「サーシャ君。君は我が家を、そのような目で見ていたのかね? それとも、これは兄君の意志か」
ヒューズ家全員の視線が集まる。
「――私自身の意志です」
テーブルの下でぎゅっと拳を握りしめ、サーシャは声を絞り出した。
「私は、ずっとあなたがたの家族になりたいと思っていました。けれど……あなたがたは、そうではなかった」
サーシャの声を引き継ぐように、アベルが続けた。
「極めつきは刺繍です。サーシャが心を込めてご令息に贈った刺繍を、あろうことかマルグレーテ嬢が解いたと」
アベルの声が、一段と冷たくなる。
「婚礼前の刺繍の贈答が、この国でどれほど神聖な意味を持つか。まさか侯爵家ほどのお立場で、ご存じないはずがありません」
この国には、女神の紡いだ糸が国を栄えさせたという神話がある。婚礼前の女性が夫となる人に刺繍を贈る風習も、建国時に王家が始めた神聖な儀礼であった。
「……そんなことは知っている。だが、子どもの悪ふざけじゃないか」
――悪ふざけ。
ヒューズ侯爵の口から出た言葉に、サーシャだけでなく侯爵夫人とマルグレーテもわずかに顔を曇らせた。
もしかすると夫人とマルグレーテは、『刺繍の刺し方を学ぶため』という言い訳を侯爵に伝えていなかったのかもしれない。
アベルは彼女たち二人をちらりと見やった。
「なるほど、子供の悪ふざけとは……。王家の神話を愚弄なさるおつもりですか」
「ふん。家中の些細な出来事に、いちいち神話を持ち出すとは大げさな」
「つまりマルグレーテ嬢は、子どもと呼ぶほど幼いということですね。第五王子殿下の婚約者になろうというお方が」
アベルは、にっこりと微笑んだ。
「おっしゃる通り、私の目にも愚かな子供にしか見えません」
「無礼だぞ!」
侯爵が、青筋を立てて立ち上がった。
「調子に乗るな、若造が! 格下の伯爵家風情が、それも貴様は子爵家の出だそうじゃないか。身の程を知れ!」
「――ええ。肝に銘じます」
アベルは深くうなずいた。
「ですので侯爵閣下方も、どうか身の程をお弁え下さい」
「なに?」
アベルはゆっくりと部屋の入口へ視線を向けた。
「どうぞお入りくださいませ、殿下」
扉が開く。
そこに立っていたのは、第五王子だった。
第五王子は、目の前の現実が受け入れられないような顔をしている。
「……殿下!?」
マルグレーテの顔から血の気が引いた。
「……な、なぜ、こちらに……」
アベルが涼やかに笑う。
「私は日頃より王族の皆様のお傍でお仕えする身です。本日のことをご報告申し上げたところ、殿下自らお立ち合いになりたいと仰せで」
第五王子は、ひどく冷え切った目でマルグレーテを見つめていた。
「マルグレーテ。君は、本当に婚礼の刺繍を穢したのか」
「……あ、あの……ちがいます、……そんな」
第五王子は、ゆっくりと侯爵に向き直った。
「さきほど、子どもの悪ふざけと言ったな。神聖な儀礼を踏みにじるのが悪ふざけか」
「そ、それは――」
「王家を軽んじる発言も含め、侯爵家の総意と受け取ろう」
「違います! 決して、そのようなつもりでは――」
「婚約については、持ち帰らせてもらう」
「殿下……!」
侯爵夫妻は青ざめ、マルグレーテは悲鳴のような声を上げた。ロバートだけが、状況をどう理解したらいいか分からず呆然としている。
そんなロバートに、アベルが氷の声音で告げる。
「ご令息。貴殿はサーシャを守る努力を怠った」
静かに席を立ったアベルは、そっとサーシャの手を取った。そして兄妹で並び立ち、毅然とした表情でロバートたちを見据える。
「王家を軽んずる家と縁づくなど、当家としても願い下げです。それでは、我々はこれで」
*
「……ありがとう、アベル兄さん」
帰りの馬車の中、サーシャはようやく肩の力を抜いた。
「なんだか、すっきりしちゃった」
「うん」
アベルも柔らかく笑う。
「その顔が見られて安心した」
婚約がなくなってしまった。
破談の噂はすぐに広がるだろうし、もう縁談など望めないかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
「……私、兄さんのそばにいたいわ」
アベルが、目を見開いている。
「何でも手伝う。だって、兄さん一人じゃ忙しすぎるもの」
養子入りしてから当主名代と宮廷勤めを兼務してきた兄は、まもなく正式な当主となる。多忙な兄を、今度は自分が支えたい。
心の底から、そう思った。
「……もちろん、兄さんの邪魔にならないようにするから」
少し慌てて言い足すと、アベルは笑った。
「それなら、一生そばにいてくれ」
「え?」
「義兄妹としてじゃない」
アベルは、慈しむようにサーシャの手を取った。
「違う形で家族になりたい」
サーシャの白い指先に、そっと口づけを落とす。
「…………!」
「幼い頃から、ずっとサーシャが好きだった」
頭の中が真っ白だ。
「ご、ごめんなさい。私、兄さんを……そんな目で見たことは……あの」
「返事は急がないよ」
とても優しい声だった。
「僕は、ずっと待つから」
陽だまりのような笑顔を見つめ、サーシャは何も言えずに頬を染めた。
***
それから5年。
――どうして、こんなことに?
ロバート・ヒューズは、何度その問いを繰り返したか分からない。
挙式の日取りを決めるはずだった席で、サーシャとの婚約は突然に終わってしまった。
かわいい妹と第五王子との婚約は白紙になり、王家を軽んじたヒューズ侯爵家の悪評は瞬く間に社交界へと広がった。
王家はフォルベル新伯爵を擁護し、ヒューズ侯爵家に非があることを明確に示した。あの日を境に、全てが変わってしまったのだ。
ヒューズ侯爵家は信用を失い、妹には家格に釣り合う縁談が来なくなってしまった。すでに成人したマルグレーテは、適齢期を逃すまいと目を血走らせていて痛々しい。
ロバート自身も、新しい縁がつながらない。事あるごとに「お前がサーシャをつなぎとめておけなかったから」となじられ、固かったはずの家族の絆も今ではひたすら息が詰まる。
――どうして。
自分はいつだって、家族を一番にしてきたのに。サーシャのことも、未来の家族だと思っていたのに。
大切にしていた――つもりだったのに。
けれど今では、サーシャの虚ろな表情ばかりが思い出される。
ハンカチを妹に譲ったときも。デートに同席させたときも。サーシャは「嫌」とは言わなかった。だからロバートは思い込んでいたのだ――妹をかわいがる気持ちは、サーシャも同じに違いないと。
そうではなかったと気づいたときには、遅かった。
母と妹がサーシャを追い詰めていたのも、サーシャが耐えていたのも気づかなかった。
――守る努力を怠った。彼女の義兄に言われた言葉が、ずっと胸に刺さっている。
あれから5年。
フォルベル伯爵家という誠実な事業提携者を失った穴は、思った以上に大きかった。
今日も父の命令で共同事業の相手先を募って歩いているが、色良い返事が得られない。
重い足取りで王都の一角を進んでいると――。
きゃっきゃと笑う、幼い子どもの声が聞こえた。何気なく顔を上げたその瞬間、息が止まった。
――サーシャだ。
よちよち歩きの子どもを抱き留め、輝くように笑っている。
隣にいるのは、彼女の義兄……。
いや、今では夫だ。
何年か前に夫婦になった。
幼子はサーシャとアベルの間で両手をつなぎ、とことこと芝生を歩いている。
「おじーしゃま!」
その先には、満ち足りた笑みを浮かべるフォルベル前伯爵。幸せいっぱいの、家族四人の姿があった。
――本来ならば。
ロバートが手にするはずの家族だったのに。
永遠に手の届かない家族を見つめて、ロバートはいつまでも立ち尽くしていた。
コミュニティや職場など、アットホームな現場で輪の内側に入れないと心が軋みますよね……そんな日々を思い出しつつ、家族をテーマに書いてみました! フォルベル伯爵家に幸あれ。
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