第一話 仮想のプロローグ -Virtual Prologue-
『僕は思う。だから俺がいるのだと――』
とある八月七日の夏。
僕は時間を持て余していた。大学内のスケジュール表には夏季休暇の文字が強調され、校内は閑散としている為か、中年警備員がよく目立つ。
特にやりたいことも無く、都心のアスファルトによって焼かれた大地から退避するため、オアシスである図書室に訪れていた。
セミが合唱する外界と比べ、ここは受付員が本をめくる静寂さだけがこの場を支配していた。
本来なら友人と海や山に赴き、季節を謳歌するのだろうが、あいにく入学1年以上過ごしてきてその兆しは一向に現れない。
孤独かもしれない。だが僕にも戦友はいる。
スマホを取り出し、協力型オンラインゲームをそそくさと起動する。 数百と登録されたユーザーの大半がログイン状態であることに安堵し、その中にいるお気に入りユーザー[アネフタ]にチャットする。
『お疲れ様です。今大丈夫ですか?』
すぐに返信がきた。
『やあ、君か。問題ない。ちょうど調達クエストを終えた。いつでも同行出来るぞ』
『助かります。参加人数が二人以上必須のクエストが攻略できなくて……』
ふと、僕の心が苦笑いをする。
『おや珍しい。フレンド枠が埋まるほど登録していた記憶があるのだが』
『いやはや、なかなか声かけるのが億劫で……』
指先が軽い。やはりタイピングが好きだ。文字を打ちながら、自分の考えをまとめる時間的猶予が、ゆとりを生み出してくれる。
『そうか、了解。しかし君も変わってるな』
『よく言われます(笑)』
文字でのやり取りが出来る環境を好むくせに、姿形を知った相手でないと誘えないのは、確かにズレているのかもしれない。
すぐにアネフタとゲーム内で合流した僕は、クエストを受注し、スタートボタンを押す。
ピコン!
ゲーム開始と同時にスマホの端を横目にすると、見慣れた人物からの通知がきた。後輩の翔からだ。
『アネフタさん、面白い話が飛んできましたよ』
プレイしながら卓越したスワイプさばきを披露し、即座にチャットする。
『どした』
『後輩からの誘いです、それも新型VRゲームのテストプレイヤーとして』
『kwsk』
『アネフタさん。実はその伝え方、古いですよ……』
クエストは順調に足を運び、予定より早くゲームを終了した。翔から来た特ダネに関する情報が、僕らの好奇心を抑えられなかったからだ。アネフタからは確認が取れ次第すぐに連絡するように、と念を押したチャット以降、ログアウトしていた。
翔からの通知を開き、早速VRゲームに関する情報の催促トークを送る。現在の時刻は正午。朝から居座り続けたため、腰が悲鳴を上げている。
木偶の体を動かすため図書室を出た直後、返信がきた。
『悠真先輩、どうせ今日も図書室にいるんでしょ?この魅力的で超やべぇ話は一階のラウンジで話しましょう!(笑)』
翔のメッセージは、まるで本人がそのまま話しているかのような錯覚に陥る。自分は絶対にしない文体だ。彼らしい。
『いや、詳細だけ送ってほしい』
『何言ってるんすか!かわいい女の子が目の前にいて、電話で話しましょうって言ってるようなもんすよw』
『先輩が好きなジンジャエール奢るんで、とりあえず来てください(笑)』
『だから、詳細だけで大丈夫だよ』
その後、トークに既読通知が表示されることは無かった。嫌いではないが、人の話を最後まで聞かない傾向が、自分とは相容れないなのだなと再確認し、大きく溜息をついた。
一階のラウンジはサークル活動の合流場所としてよく使われている場所で、出入り口やエレベーターから近く、誰もが必然的に通る箇所でもある。
つまり、僕は翔と対面する事が避けられない運命なのだ。
「おっ、悠真先輩!待ちくたびれましたよ〜、三分ほど!」
蛍光色が散りばめられたTシャツを着た青年が両腕を大きく振るい、太陽の様に笑っていた。何処へ行っても絶対に迷子になることがない男、彼が中村翔だ。
「先輩、その格好暑くないすか?今は夏っすよ!」
「日焼けをしたくないんだよ」
暑ければ腕捲くりして体温調節すれば支障がないし、シンプルで良い。無頓着な僕としては、黒いワイシャツは制服の様なものだ。
「それより翔くん、今日はサークル活動の無い日だよ。なんで学校にいるの?」
「そうなんすよね〜、なんで今日大学に来たんだろうって自分でも思ってます。実は先輩が無意識に、俺を呼び出してたりなんかして(笑)」
眩しい笑顔で自販機で買ったであろうジンジャエールを渡してきた。結露が付着した容器を握ると少し痺れ、お礼と共に喉へ流した。この飲料が人類史上最大の発明であると、教祖になってもいいくらい愛用している。
「先輩!俺、今回は茶色に染めてみたんですけど、似合ってますか?夏休みは海で彼女と遊ぶんで、気合い入れてるんすよ〜」
「いいね、似合ってるよ」
手の甲で口を拭う僕は、素っ気ない返事をしてしまった。
「まぁ俺の話はどうでも良くて〜。先輩によって導かれてここに来た自分がするビッグな話、しちゃいますか〜。乗るしかない、このビッグウェーブに!」
「そうだな、とりあえず座ろうか」
サラッと流しつつ、僕たちは壁際の二人用テーブル席に着席した。造花が仕切りの役割をしていて、近づかない限り人目につかない。僕のお気に入りの場所のひとつだ。
「それで、新型VRゲームのテストプレイヤーとして参加が出来る話、本当か?」
「もちのロンすよ。俺もゲームサークルメンバーのはしくれ、二言はないっす。しかも最新技術!雑草のように張り巡らせた俺の人脈の賜物ってやつですわ〜」
彼はスマホを取り出し、VRゲームの特設サイトを僕に見せてくれた。
「なになに、『QNDシステムにより五感をリアルに再現し、仮想空間で第二の自分を体感できるフルダイブ型VRゲームです』か……。一体なんなんだ?このQNDシステムって」
「俺もあまり詳しくはないんすけどね?体にデバイスを装着して、それをコンピューターが読み取ってバーチャル世界に反映させるらしいっす」
「デバイスを装着?まるで人体実験だな……。危険じゃないのか?」
少し不安になり見上げる。彼はチッチッチッと舌を鳴らし、指をメトロノームの様に動かした。
「安全性は問題ないっす。実はこのVRゲーム、俺の大先輩が勤めてる会社で、もうテストプレイヤーとしてプレイしたらしいんすよ。もちろん後遺症もないし、話聞いたらもうビックリ!高級リゾート地で贅沢の限りを尽くしたって自慢してたんすよ!」
「……なんだ、綺麗な景色でも眺めらるのか?」
仮想空間なら世界各地の有名スポットにいつでも行けるし、移動時間も要しない。何なら魔法が操れる世界にも旅立てるだろう。確かに魅力的だ。
「ヌルいっすよ、そんなもんじゃないっす……!サンサンと照り輝く太陽!透きとおった海!サラサラとした砂浜!大きなヤシの木が織りなす日陰の下、美女に囲まれながらルビーロマンを口に運ばせ、俺はこう言うんです……。
『delicious……』
そんな、そんな夢も叶う場所なんすよっ!!」
ガッツポーズして震える彼に、お前には彼女いるのではないかと一瞬頭をよぎった。どうやら僕が想像していた用途や目的とは懸け離れた、翔の煩悩が詰まった素晴らしい世界だったらしい。
呆れた僕はこめかみに手を当てる。
「……で、翔くんの人脈とコミュニケーション能力により、僕もその施しが受けられると」
「まさにその通りっす!」
彼はウィンクしながら、お手製のピストルをこちらに向けた。さながらアイドルの様な仕草だ。
「先輩も一人前の男なら、俺と一緒にムフフな体感を共有しようじゃあないすかっ!」
翔の話はともかく、VRゲーム自体にはかなり関心がある。ゲームはジャンル関係なくプレイするし、食わず嫌いもしない。しかもこの体感型VRならば、端末操作を強いる現状から身体的に意のまま操るという、つまり自身がアバターとなって世界を駆け巡るのだ。面白くない筈がない。
何度も言うが、翔が望む世界は別として……。
「……まぁ翔くんが一緒なら、僕は参加しても構わないよ」
「なら善は急げ、急がば急げ!俺、他の奴にも声かけるんでそれじゃ!」
翔は勢い良く立ち上がり、席を後にしようとする。
「あ、ちょっと待って。まだ参加枠あるのか?」
このまま何処かへ飛び立とうとする翔を制止するため、急いで肩に触れる。人間相手に初めて手綱が欲しいと思える日が来るとは、考えもしなかった。
「ありますよ、あと三人いけます!先輩も誰か呼びたい人がいるっすか?」
「一人いるんだけ……ど……」
僕は少し俯き、翔への視線を落とした。
「おぉ!いいっすね!そしたら、男たちの欲望を極限まで解放しようじゃないすか。ぬふふ……」
肩に乗せた手を優しく包むように握手する翔の目は鷹の様に、静かに、ギラつかせていた。
「急にマジメな顔で見つめないでくれ。あとな……」
「そういうことで、お誘いよろしくっす!詳細は後ほどトークしておきます、それじゃ!」
イスを戻す事すらせず、彼は一目散にこの場を後にした。
彼の計画とは少し脱線するであろう最後の一言は、彼が僕の話を聞くという選択をしなかったからだ。恨むなよ、僕のせいじゃない。僕は心の奥底で、そう呟くのであった。
「――それで?後輩の煩悩満載であるVRゲームを、私と一緒にやりたいそうだな?棺悠真くん」
大学の近くにある商店街。こじんまりとした喫茶店で叱責を受ける子の状況は、さながら強者に追い込まれた小動物の様な気分だ。
「いや、アネフタさん……。それは、そのですね……」
スマホ片手に長い黒髪を渦巻く仕草、季節に似つかわしくない黒いパーカー。美脚を表わすスリムジーンズによって組まれた足先が、僕に触れる。彼女は藤原遥。数少ないリアルで対面したことのある戦友である。
ぎこちない受け答えを聞いて満足したのか、彼女はちらりと上目遣いをし、微笑む。
「ふっ、冗談だよ。君は早く私に慣れてくれ。それとリアルでは名前で呼んでほしいな」
「そうですね、努力はします……」
彼女は自分とは違い大人びていて、でも年相応の立ち振る舞いが居心地よさを与えてくれる。親戚の姉という立場がしっくりくる。
「そうしてくれたまえ。……店員さんすいません、注文良いですか?アイスコーヒーをお願いします。悠真くん、君はどうする?」
「ジンジャエールが飲みたいですね。……あれ、売り切れですか?」
メニュー表を確認するまでも無く頼んだそれは、ウェイトレスが頭を下げたため察した。少々残念だが、僕はレモンスカッシュを注文した。
申し訳なさそうに離れると、それを横目にした遥の視線がほんの一瞬、哀れんでいた。
「さて、話を戻そう。結論から言えば、是非とも参加させてほしい」
「わかってますよ。そういえば藤原さん、情報工学部でしたよね」
この喫茶店から電車で二十分ほど離れた場所に、彼女が通うキャンパスがある。互いに通学路であること、レトロな空間と客層が決め手でゲームをやる時も、リアル集会所として利用している。
「学部は関係ない、私の趣味だ。聞く限りQNDシステムとやらで自己の意識を仮想空間へ移行させるのだろう?」
「みたいですね、具体的な資料とか無いので本当かどうか知り得ませんが」
そう言うと彼女は真面目な表情をする。
「――悠真くん、これは従来のVR、いや科学技術から逸脱したものだ。オーバーテクノロジーと言ってもいいし、この世がSFの世界と言われたら信じてしまうほどのね……」
失礼しますと、注文したアイスコーヒーとレモンスカッシュが最速で配膳される。
彼女はミルクとシュガーをそれに投入した。
「そういった話は疎いので想像が追いつかないですが、技術の革新って一般人からしたら前触れなく来るものじゃないですか?それだとしても、過ぎた物という事ですか?」
彼女は合成樹脂で出来た指揮棒を廻し、カオスに染まった小さな宇宙は風鈴の音色を奏でた。
「明らかだ。さらに言うと、身体に外部デバイスを接続する様だね?この時点で記憶を情報として処理、変換、転送のプロセスが奇跡に近い。なぜなら、我々が日常的にプレイするゲームより、途方もないデータ容量になるからだ。例えばそうだな……」
遥はPCを収納したカバンから小さなSDカードを取り出し、僕に向ける。
「全宇宙のすべての本を収めた図書館の蔵書を、この1枚のメモリーカードに詰め込むようなものだよ。そんな圧縮処理が実現可能なら、SF世界と言われても過言ではないだろう?」
「……たしかに、それは無理ですね」
僕がちょっとした講義を受けているかの様な、思案して口に手を当てる姿に、彼女は満足げな表情をしている。さながら僕は探偵の助手だろうか。
「まぁ、あくまでゲームのテストプレイヤー。私も過度な期待はしていない。根幹のメカニズムは機密保持の観点から、常人である我々に享受される可能性は極めて低い。だが観測と仮説は立てることは出来る」
「つまり、VRゲームさえ出来ればどんな仮想空間や内容でも問題ないって事ですよね」
「明らかだよ、悠真くん。男の願望なんて、些細な問題に過ぎない。私からすればね」
……もし翔がこの言葉を聞いたら、一体どんな反応をするだろうか。
彼へ思いを馳せながら吸い上げたレモンスカッシュは、少しばかり水気を含んでいた。
翔の誘いから二日後の八月九日。
相変わらずの晴天で集合場所まで移動する僕の体力を、徐々に蝕んでいく。流石の僕も耐え切れず、腕をまくる。
藤原さんにはトークで時間と場所は伝えていた。一緒に行くかと誘われたが、有りもしない用事を繕って断った。気恥ずかしかった。
オフィスビルが建ち並ぶサラリーマン街を彷徨い、そこにひっそりと佇む自然公園に到着した。翔と約束した待合せ場所である。
辺りを見渡すと人影はなく、木陰のベンチ周辺で鳩の群れが休んでいた。僕は鳩たちを重んじ、入口付近で待機することにした。
「――なるほどね。用事があると言った割には、私より到着が早いではないか、棺悠真くん?」
背後から落ち着きがある、澄んだ声に耳覚えしかないが振り向けない。とても振り向けない。振り向いてはいけない気がする。
「あはは……。物事は意外と早期に解決すること、ありますよね?」
嘘っぽく髪を搔き、視線を横へ向けると、眉をひそめた藤原さんが軽く睨んでいた。
「……自分で言うのも憚れるが、私は比較的優しい人間だぞ。寂しいなぁ」
棒読みチックに話しながら腕を優しくツンツンと刺す彼女に、ぎこちない作り笑いを浮かべ、謝る。
これが年相応の振る舞いである事を意味する、貴重な瞬間だと僕は思う。
「藤原さん。僕、前々から貴女にお伺いしたかった事があるのですが……」
「なんだ?」
「……その格好、暑くないんですか?」
先日の喫茶店の時と同じく、今日は灰色のパーカーを着ている。生地は薄手にはみえて冬用ではないと思うが、定かではない。
「ふっ、愚問だな。今一度、その解を自分の胸に聞いてみたらどうかな?」
腕を組み、彼女はドヤ顔をする。
類は友を呼ぶ、なのだろうか。僕も長袖を身に着けている身だが、彼女とは状況がまるで違う。日焼けより体温調節を優先する。
「そんな難しい顔をするな。大方、君の想像通りだろうが私には秘密がある」
「秘密ですか?」
「あぁ、そうとも。実はな……冷え性なんだ」
冷え性にも程度があるのではないか、と言葉にしたくなる暑さのはずだが、堪える。人の事を言えた立場ではないのは重々承知しているが、彼女もズレていると言わせて欲しい気持ちは、深海へ放り投げた。
「それより悠真くん。こちらに向かって見える三人組がそうではないのか?」
彼女の視線の先をみると、たしかにほぼ翔であろう人間が近づいてくる。派手な色合いのアロハシャツ。服装で判断が出来るのは彼のアイデンティティといえるだろう。
「そうですね。ただ、あと二人は女性に見えますね……」
白いノースリーブにショートパンツ、淡いブルーの半袖ブラウスにスカート。女性らしき人物が翔を挟み、仲よさげに近づいてくる。
今の時代、断言は出来ないが男ではないだろう。
ふむ、と藤原は探偵の様なポーズをとる。
「真ん中の男……。そうだな、一見顔立ちは良いが私服のセンスからしてまるで売れない、熟れきった淑女達にモテそうなホスト……。いや、ナンパが成功したはいいが飯だけ奢らされてホテルにも行けず、途中で捨てられ女子会で嘲笑われてそうな……」
「あなたは鬼ですか、藤原さん」
翔であろう人間の尊厳を守るため、藤原さんの大変失敬な発言を遮った。
僕は翔であるか確かめるべく、トークで『入口にいるよ』と翔へ送る。するとアロハシャツを着た男がポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。
ハッとしてこちらを見たホストは、僕らというフィニッシュテープを目指し、ラストスパートをかける。
売れないホスト、確実に翔だ。
「悠真せんぱ〜い!ふぃ〜、あじぃ〜!早かったですね!そちらの方が招待したいって言ってた人っすよね?」
勢い良くゴールし終え、少し肩で息をする翔に対し藤原さんは軽くお辞儀をする。
「今回はこの様な恵まれた機会に招待して頂き、ありがとうございます。私は藤原遥といいます。棺くんとはゲーム友だちです。今日はよろしくお願いしますね」
藤原さんは畏まりつつ、不敵な笑みを見せた。
「あっ、いえいえ、こちらこそ!自分は中村翔っす。俺ゲーム大好きなんで、一緒に楽しみましょう!」
呼吸が整った翔がキレ味のある動きで、綺麗な垂直でお辞儀をする。
あれだけ酷い物言いをしていた藤原さんの口が、何事も無かったかのようなシフトチェンジの早さに、僕は身震いした。
「あー翔くん、ちょっといいかな?」
僕は翔に内緒話が聞こえる距離まで近づき、口元を隠すように、ほそぼそと喋る。
藤原さんの悪口を告発するのではなく、想定外のメンバーであることに関して確かめるためだ。
「翔くん。残りのメンバーは男だと思っていたのだけれど、僕の勘違いかな……?」
翔が耳元で囁く。
「それを言うなら先輩もでしょ……?手当たり次第誘いましたよ……。だけど皆、帰省してたり旅行に行ってて……。薄情なやつらめ……!」
残念ながら雑草のように張り巡らせた人脈は、根が細く千切れてしまっていた様子だった。
「――ちょっと中村くん、私たちを置いてけぼりにしないでよ。私たちの挨拶だってあるんだからさぁ」
僕らがヒソヒソと話していた頃、暑さに顔を歪めたノースリーブの女性が、手うちわをしながらやってきた。栗色のショートボブを掻き上げる姿は、姉御と呼ぶにふさわしいビジュアルだった。
「す、すいません!彩花さん!何でもしますから!」
翔はしまったとしくじり顔をするが、後の祭り。
姉御はほぅ、としたり顔をして、腕を組む。
「ん?今何でもするって言ったわね?なら……」
その刹那である。
「彩花さん。あまり虐めちゃ駄目だよ?翔くんが可愛そうだよ……」
姉御の阿修羅像を連想させる佇まいの背後から、救いの後光が差し込む。翔へ美しい手を伸ばす、慈愛に満ちた、神の使いが舞い降りた。
金色に輝くブロンドのロングヘア。サファイアの瞳。麗しい桃の唇。彫刻のような微笑する彼女の存在が、全てを赦してくれるかの様に思えた。
「天使……」
そう、天使。これは運命だ、間違いない。
僕は彼女とのロードマップが即座に演算された。小学生に進学したばかりの娘と三人で、仲睦まじく水族館を見学するシーンが脳内で上映会が開催する。涙無しにはみられない。
「……おい、悠真くん。見すぎだ」
成長した愛娘が嫁入りするところで、僕は現実に引き戻された。
藤原さんの声に我を戻すと、天使が困り笑いをしている。姉御は口をへの字に曲げ、糸のような目つきで僕を睨む。
翔ですらこの状況にどうしたらいいか分からない様子で唖然としている。
「あ、あはは……。すいません、僕は棺悠真といいます。苗字は珍しい名前なんで覚えやすいですよね、あはは……」
取り返しのつかない雰囲気に僕は弱々しく、だが力を振り絞り、取り繕った。
僅かな静寂の後、それを察した天使が口を開く。
「あの、私、高橋澪です。……VRゲーム、楽しみですね!あまり詳しくないんですけど、アトラクションとかが好きで……」
「そ、そうそう!澪先輩は遊園地が大好きなんすよ!で、今回のVRテストは脱出ゲームらしいんで、興味あるかなーと思って誘ってみたんすよ〜!」
翔のフォローが血液の様に、ジワジワ身に染みる。
彼に心から感謝したのは、実は今日が初めてかもしれない。すまない翔、頼り甲斐の無い先輩で。
暗雲立ち込める空に、もう一筋の光が僕を救う。
「なるほど。私たちは中村さんの男の願いが叶わなかった、せめてもの人選というわけですね」
「え?」
翔は拍子抜けした顔で、藤原さんへ振り向く。
彼女の笑みに隠れた悪戯心に見覚えしかなく、感謝後の思わぬ伏兵に、完全に遅れを取ってしまった。
「翔、お前なぁ?」
その意図を的確かつ予知に等しい察知能力で汲んだ彩花は、再びターゲットは翔に向かう。
「ご、誤解っす!森下姉さん、一体何を想像して……」
「どうせ如何わしい下心があったんだろっ!男って生き物はこれだから……!」
矛先は完全に彼へ集中している。迷える子羊を今僕が助けなければ、人間性を疑われ、先輩としての威厳、はては天使に見放されてしまうかもしれない。それは回避しなければ……!
「あの、……森下さん?申し訳ない。元来、男は罪な存在なんです……よ……」
――これは自分でもわかる。完全に言葉選びを間違えてしまった。
もどかしい。だから会話は苦手なんだ。一度口にした発言は、バックスペースする事が不可能だから。
謀人である藤原さんは肩を小刻みに揺らし、顔を逸らしていた。
「あら、奇遇ね。あたしも同意見ですよ、棺さん?」
彼女の表情は今にも噴火しそうな活火山となり、拳を高く掲げられている。
完全に終わりを告げられた姿に、僕は諦める。
この世に天使はいるのに、なぜ救いの神は存在しないのだろうか……。
「すまなかったな君たち。面白そうだったから、つい出来心でね」
「良いんですよ、藤原さん。藤原さんは悪くありません!元を辿ればあの二人が原因なのよ!!」
「彩花さん、別に二人も悪いことをしたわけじゃないと思うけどなぁ……」
彼女らを背にし、痩せこけた僕ら二人はコンパスとなり、宝島を目指すため荒れ狂った海を航海する。
「悠真先輩……。あの人、怖いっす……」
「あの人って、どっちのほうかな……?」
「二人ともですけど、藤原さんは特に底が知れない恐怖があるっす……」
バリカンで丸裸にされた心情の翔に、情なさと申し訳なさが入り混じる。僕はそっと肩に手を乗せる。
「ごめんね翔くん。藤原さんには今回VRの件、経緯を話してたんだ。こんなに事が大きくなるとは……」
僕は藤原さんに対して、ジロリと小さな反抗を見せつける。
「仕方ないだろう。君の発言を完全に予測するなんて不可能なんだから」
その努力虚しく、化けの皮を剥いだ藤原さんの口調は元に戻っていた。
彼女の優越感に浸る顔は純粋で美しかった。
その隣には今にも般若になりそうな森下さんと、はにかむ天使、森下さんが手を振る。
「大丈夫っす……!森下姉さんの評価は激落ちっすけど、VRゲームで良いところ見せれば、プラマイゼロっす!」
プラマイゼロでいいのか。そもそも許されるのか?と思いつつ、へこたれない彼の姿は、僕が一番見習わなければならない要素であることに間違いない。
「みなさん、そろそろ着くっすよ〜」
基盤の目を抜け出し、僕らは大通りに出る。
周囲はいかにも大企業を象徴する植栽が施された建物に囲まれており、目的地であるにビルに到着した。
見上げると太陽光が青い窓ガラスを反射させ、輝く宮殿のような神々しさを演出していた。
「長かった……。予定とは違いますが、こっからが俺の逆転劇が始まるっす!」
選挙ポスターの様に拳を握る翔。
「始まってすらいない物語を終えてやろうか?」
翔へ再度闘魂注入しようとする森下さん。
「彩花さん……」
その手を止めようとする天使、高橋さん。
「いいぞ、もっとやれ」
この乱世を生み出した戦犯、藤原さん。
「……」
そしてそれを見つめる自分。
うまく言葉に出来ないが、僕はこの瞬間が愉快で、かけがえのないものだと感じた。
それはきっと死ぬまで、例え生まれ変わったとしても、この情景は忘れたくないと心が叫ぶかのような、そんな気持ちになった。
ピコン!
感傷に浸っていた僕のスマホに、トークの着信音がバイブレーションと共に響く。
ポケットから取り出し、画面を開く。
「なんだこれ……?」
トークの宛先を確認する。名前が空白だ。
新手の乗っ取りアカウントかと思い、スルーする選択肢もあったが、内容が気になったのでメッセージを確認する。
『 縺雁燕縺檎衍繧九↓縺ッ縲√∪縺�譌ゥ縺� 』
意味不明な文字化けした文章の羅列が一文のみ、記されていた。……気味が悪い。
「どうしたんすか、先輩?」
翔の言葉に気づくと皆、不思議そうな顔をして僕を待っている。
「ごめん、何でもないよ」
高揚していた僕に薄い影を残したそれを、何事も無かったように押し込んだ。
初投稿、初作品になります。
よろしくお願いしますm(_ _)m




