第12話 夕陽の境界線
〜キアン視点〜
「ルミア!待って!待てって!」
目の前の幼い少女に薬を渡し、俺は声を上げた。
聞こえている――聞こえているはずなのに止まってくれない。
背中が遠い。
雨上がりの道は、追いかける俺に容赦なく泥を撥ねさせ、靴も裾も汚していく。
――ルミア!
一人で行くなよ!
声は届かない。
路地裏で初めて見かけた時のことを、嫌でも思い出す。
誰にも見向きもされず、理不尽に追い払われていた、あの黒猫。
結局、俺は助けられなかった。
あの場面と、ルミアがあまりにも似ていて、思わず声を出したんだ。
そして、やっぱりルミアは違った。
あの理不尽の中で、逃げずに立っていた。
ただ前を見て――静かに、燃えているみたいな瞳で。
だから今、その背中が遠ざかっていくのが。
どうしようもなく怖い。
まるで俺を拒否しているようで。
また一人になりたいと、世界を拒絶しているようで。
普段なら難なく追いつけるはずの背中に届かない!
雨上がりの泥を跳ね上げなら、必死に追いかけるのに、追いつけない。
――なんで?なんで逃げるんだ?
俺に頼ってくれたらいいのに……!そんなに頼りないのか、俺は……!
どんどんと焦りが募る。
ぬかるんだ地面に足を取られた。
慌てて宙を掴むが、それは当たり前のように空を切り、この手の中には何もない。
次の瞬間、顔からそこに倒れ込んだ。
口に泥が入った。息が詰まった。
目にも染みる。
泥水に手を突き、立ち上がるために地面に手をつくがそこは泥濘みで。
泥が指の間にぬるりと入り込む。
——違う。
止まるな。
立ち上がれ。
遠ざかる背中が、やけに小さく見えた。どんどんと離れていく距離――。
声も届かない。
このまま見失ってしまう!
隣を歩いていた男性に詰め寄る。
「さっき!たった今……!ここを女の子が、走っていっただろ……!どこに!どこへ行った!」
「は?――いや、知らないけど……」
俺がいきなり声をかけたせいで少し驚いた顔で、小さく答えた。
――見失った!もう、目で見えない、追いかけられない!
「それよりお前、凄い格好……」
「くそ!」
その声を振り切って、俺は村中を走り回った。
◇◇◇
彼女の背中を見失って、夕方。
ようやく見つけたルミアの背中に、胸が緩んだ。
薬草園の近くの、森の入り口。
そこに彼女は静かに佇んでいた。
「ル……!」
しかし声は、届かなかった。
ルミアは俺を見ていなかった。
気づいてすらいなかった。
目の前の――自分と同じ、『赤い瞳』の少年と、静かに見つめ合っていた。
そこだけ、その場所だけがやけに静かで。
まるで、最初から俺なんて存在しなかったみたいだ。
断絶された、二人だけの世界に見えた。
ようやく見つけた。
声をかけようとする。
でも、なんて声をかけていいのかすらわからなくなってしまった。
声が詰まる。
今まで、どうやって彼女に声をかけていた?
どうしたら笑ってくれていたっけ?
ふと、その少年の赤い瞳が真っ直ぐに俺を捉えた。
彼女と同じ色合いなのに――。
それは敵愾心が剥き出しで。そして、ルミアと同じ傷ついた感情を乗せていた。
――俺は、勝手に。
もう、彼女は安心だと。これからはルミアは幸せになるだけだと思っていたんだ。
そして、その隣には俺が。ずっと、俺も居たいと思っていた。
まだルミアはこちらに気づかない。
静かにその少年と視線を交わす。
近づくな――。そう全身で、そして夕焼けに更に輝いた瞳で俺を拒絶する。
俺は入り込めないのか。俺では駄目なのか。
鮮やかな夕陽は彼らの美しい瞳を更に燃やして映し出し……。
木の影にいる、俺にはその赤い光が届かない。
それが明確な線引きのような気がした――。




