第9話 — 三層/巨鬼
三層の口は、ただの下りではなかった。
湿気は濃く、冷たさが鋭い。
空気そのものが重く、肺の中に石粉が薄く沈むようだった。
階段の壁面には、古い獣脂が煤の筋を引き、誰かの残した油煙が黒い涙になって垂れている。
音はある。
滴り、靴のきしみ、呼吸。
けれど、どれも遅い。
二層までの音に慣れた頭の芯が、ここでは半拍ずつ遅れて受け取る。
「三層は“力”が前に出る。列を狭く。――押すな、受けるな。逸らせ。」
リシェルは刃を鞘から半ば抜き、通路の壁と床の角、天井の割れ目、匂いの流れをひと目で撫でた。
前衛二。
中衛二。
荷持ちは最後尾の一つ手前。
後衛は一。
昨日と同じ隊列。
それでも昨日とは違う“身体”で歩く。
ヨルキは背負子の紐をもう一度締め、背板の角が壁に触れない角度を微調整した。
痛みは引かない。
だが、痛みは“位置の指標”に変わった。
痛むのは背中。
つまり、前は空いている。
◆
通路がふと広がった。
床は湿った粘土の上に石を敷いたように沈む。
足が僅かに取られ、膝裏の腱がびり、と短く抗議した瞬間――臭い。
脂が腐って水に浮き、さらに時間をかけて膨らんだ臭い。
生肉に汗がべっとり混ざり合い、鉄が溶けたような金気で塗り固めた臭い。
「止まれ。」
リシェルの掌が水平。
低い唸り。
通路の先の薄暗がりに、二つの黄色い光点が浮く。
光点は近づくたび楕円から縦長へ形を変え、瞳孔が明滅しているのが見える。
現れた顔は――人ではない。
額が盛り上がり、頬骨が暴力的に張り出し、下顎から牙が突き出る。
皮膚は薄い苔を貼り付けたように緑がかって、ところどころに黒い毛が束で生え、肩から腕にかけては綳が縄のように浮いている。
身の丈は優に二メートルを超え、腕は丸太。
腹は出ているが、薄い脂の裏に硬い層がある。
手に握るのは棍棒――木材ではない。
柱だったものを荒く削り、金属片を釘のように打ち付けた“戦道具”。
それが振り下ろされた跡が、壁面の穴や床の割れとして残っている。
巨大なオークの威圧感ある存在感に鳥肌が立ち、ヨルキの息が乱れる。
「オーク。――盾は真っ向には当てるな。角度。殺せないなら、滑らせろ。」
前衛が半身に構え、盾の面を“扉”から“斜面”へと変える。
オークの鼻が鳴る。
唇がむき出し、唾液が牙の根元で白い泡になり、喉の奥からぐるると石が転がる音。
一歩目で床が沈む。
二歩目は跳ぶ。
棍棒が空気を裂き、轟という低い音が通路の壁から壁へ反響して戻る。
盾に当たる――鈍い音。
面を滑った棍棒が石床に叩きつけられ、石片が爆ぜて頬を打つ。
バルドが片膝で衝撃を逃がしながら、足の位置をわずかに換える。
正面から受けない。
受ければ砕ける。
逸らす。
逸らし、空を作る。
「腕の内側!」
リシェルの声は短く、刃のように鋭い。
前衛の一人が棍棒の返しで開いたオークの脇へ踏み込み、短槍を叩き込む。
皮は厚いが、筋の走る向きは“斜め”。
その“流れ”に逆らう。
槍先がずぶりと沈む。
筋を割り、腋窩の内で血が温かい川になって走る。
「すごい」
思わず漏れたヨルキの声。
オークは吠える。
喉の穴から爆風が吹き、腐肉の匂いが鼻の奥で痺れになる。
吠え声は敵を呼ぶ。
それを知っているから、リシェルは喉へは行かない。
膝。
オークの膝前面――皿の内側を斜めに切り、踏ん張りの糸を切断。
巨体が空中で一瞬迷い、落ちた。
床が沈み、反動が背中の板まで上がってくる。
バルドの盾が押し込み、槍が二度突き、リシェルの刃が頸部の後ろから捻るように入って――落ちる音がした。
ヨルキは荷を背に、動かない位置を死守する。
逃げない。
前にも出ない。
視界だけを貸す。
棍棒の返し軌道、足の滑り、床の割れ目。
よく見て”学ぶ”。
(今、膝。流れ。――膝が落ちた瞬間、巨体は“重み”のままになる。)
そこを仲間が取る。
自分は取らない。
取らなくていい。
「二!」
ソレンの声に、通路の奥から二体目。
一体目よりわずかに背が低く、肩の幅が広い。
棍棒は先端に鉄くずが多く打ち込まれている。
振りの速さは出ないが、当たれば砕く。
前衛が左右にずれて、棍棒の“走る道”を開け、当てる場所を失わせる。
空振りが連続すると、オークは足をわずかに広げる。
その瞬間――リシェルが足に行った。
踵。
踵の腱を斜めに裂く。
踏み直しが遅れ、軸足が死ぬ。
巨体が自分の重さで傾き、壁に肩がめりこむ。
そこに槍の突き。
喉ではない。
肩甲骨の下から心へ向けての角度。
“狙えば届く”角度だけを選ぶ。
オークが倒れた。
床が鳴る。
武器が転がる。
臭いが広がる。
夜貴の喉の奥が、きゅと縮んだ。
「回収。牙、骨、腱。――油は使うな。脂が残る。」
ソレンが手早く牙を根元で外し、膝の腱を切り抜く。
オークの腱は伸びが少なく、強度が高い。
弦にも罠にもなる。
牙は装飾にも売れる。
脂は扱いを間違えれば腐る。
価値と危険の仕分けは、戦闘の余韻の中で行うのが炎狼のやり方だ。
ヨルキは背負子の紐を締め直し、肩の板の角に血がついていないか拭った。
呼吸は浅いが、乱れてはいない。
(でかい。重い。だが、足と腕の内を断てば、ただの肉だ。)
それをやるのは剣士たち。
自分は荷を守る。
それでいい。
それだけが、できることだ。