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第9話 — 三層/巨鬼


三層の口は、ただの下りではなかった。

湿気は濃く、冷たさが鋭い。

空気そのものが重く、肺の中に石粉が薄く沈むようだった。

階段の壁面には、古い獣脂が煤の筋を引き、誰かの残した油煙が黒い涙になって垂れている。

音はある。


滴り、靴のきしみ、呼吸。

けれど、どれも遅い。

二層までの音に慣れた頭の芯が、ここでは半拍ずつ遅れて受け取る。


「三層は“力”が前に出る。列を狭く。――押すな、受けるな。逸らせ。」


リシェルは刃を鞘から半ば抜き、通路の壁と床の角、天井の割れ目、匂いの流れをひと目で撫でた。

前衛二。

中衛二。

荷持ちは最後尾の一つ手前。

後衛は一。

昨日と同じ隊列。

それでも昨日とは違う“身体”で歩く。


ヨルキは背負子の紐をもう一度締め、背板の角が壁に触れない角度を微調整した。

痛みは引かない。

だが、痛みは“位置の指標”に変わった。

痛むのは背中。

つまり、前は空いている。



通路がふと広がった。

床は湿った粘土の上に石を敷いたように沈む。

足が僅かに取られ、膝裏の腱がびり、と短く抗議した瞬間――臭い。

脂が腐って水に浮き、さらに時間をかけて膨らんだ臭い。

生肉に汗がべっとり混ざり合い、鉄が溶けたような金気で塗り固めた臭い。


「止まれ。」


リシェルの掌が水平。

低い唸り。

通路の先の薄暗がりに、二つの黄色い光点が浮く。

光点は近づくたび楕円から縦長へ形を変え、瞳孔が明滅しているのが見える。


現れた顔は――人ではない。

額が盛り上がり、頬骨が暴力的に張り出し、下顎から牙が突き出る。


皮膚は薄い苔を貼り付けたように緑がかって、ところどころに黒い毛が束で生え、肩から腕にかけては綳が縄のように浮いている。


身の丈は優に二メートルを超え、腕は丸太。

腹は出ているが、薄い脂の裏に硬い層がある。

手に握るのは棍棒――木材ではない。


柱だったものを荒く削り、金属片を釘のように打ち付けた“戦道具”。

それが振り下ろされた跡が、壁面の穴や床の割れとして残っている。


巨大なオークの威圧感ある存在感に鳥肌が立ち、ヨルキの息が乱れる。


「オーク。――盾は真っ向には当てるな。角度。殺せないなら、滑らせろ。」


前衛が半身に構え、盾の面を“扉”から“斜面”へと変える。

オークの鼻が鳴る。

唇がむき出し、唾液が牙の根元で白い泡になり、喉の奥からぐるると石が転がる音。

一歩目で床が沈む。


二歩目は跳ぶ。

棍棒が空気を裂き、轟という低い音が通路の壁から壁へ反響して戻る。

盾に当たる――鈍い音。

面を滑った棍棒が石床に叩きつけられ、石片が爆ぜて頬を打つ。


バルドが片膝で衝撃を逃がしながら、足の位置をわずかに換える。

正面から受けない。

受ければ砕ける。

逸らす。

逸らし、空を作る。


「腕の内側!」


リシェルの声は短く、刃のように鋭い。

前衛の一人が棍棒の返しで開いたオークの脇へ踏み込み、短槍を叩き込む。

皮は厚いが、筋の走る向きは“斜め”。

その“流れ”に逆らう。

槍先がずぶりと沈む。

筋を割り、腋窩の内で血が温かい川になって走る。


「すごい」


思わず漏れたヨルキの声。


オークは吠える。

喉の穴から爆風が吹き、腐肉の匂いが鼻の奥で痺れになる。

吠え声は敵を呼ぶ。

それを知っているから、リシェルは喉へは行かない。


膝。

オークの膝前面――皿の内側を斜めに切り、踏ん張りの糸を切断。

巨体が空中で一瞬迷い、落ちた。

床が沈み、反動が背中の板まで上がってくる。

バルドの盾が押し込み、槍が二度突き、リシェルの刃が頸部の後ろから捻るように入って――落ちる音がした。


ヨルキは荷を背に、動かない位置を死守する。

逃げない。

前にも出ない。

視界だけを貸す。

棍棒の返し軌道、足の滑り、床の割れ目。

よく見て”学ぶ”。


(今、膝。流れ。――膝が落ちた瞬間、巨体は“重み”のままになる。)


そこを仲間が取る。

自分は取らない。

取らなくていい。


「二!」


ソレンの声に、通路の奥から二体目。

一体目よりわずかに背が低く、肩の幅が広い。

棍棒は先端に鉄くずが多く打ち込まれている。

振りの速さは出ないが、当たれば砕く。


前衛が左右にずれて、棍棒の“走る道”を開け、当てる場所を失わせる。

空振りが連続すると、オークは足をわずかに広げる。


その瞬間――リシェルが足に行った。

踵。

踵の腱を斜めに裂く。

踏み直しが遅れ、軸足が死ぬ。

巨体が自分の重さで傾き、壁に肩がめりこむ。

そこに槍の突き。

喉ではない。

肩甲骨の下から心へ向けての角度。

“狙えば届く”角度だけを選ぶ。


オークが倒れた。

床が鳴る。

武器が転がる。

臭いが広がる。

夜貴の喉の奥が、きゅと縮んだ。


「回収。牙、骨、腱。――油は使うな。脂が残る。」


ソレンが手早く牙を根元で外し、膝の腱を切り抜く。

オークの腱は伸びが少なく、強度が高い。

弦にも罠にもなる。

牙は装飾にも売れる。

脂は扱いを間違えれば腐る。

価値と危険の仕分けは、戦闘の余韻の中で行うのが炎狼のやり方だ。


ヨルキは背負子の紐を締め直し、肩の板の角に血がついていないか拭った。

呼吸は浅いが、乱れてはいない。


(でかい。重い。だが、足と腕の内を断てば、ただの肉だ。)


それをやるのは剣士たち。

自分は荷を守る。

それでいい。

それだけが、できることだ。





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