第8話 ー 巣の奥で
穴だらけの帯域を抜けると、そこは“巣”の匂いになった。
酸っぱい排泄臭、獣脂の酸化した甘ったるさ、そして生乾きの血。
床には布と皮の切れ端が腐った枯葉のように重なり、その上を裸足のような小さな足跡が無数に交差している。
中央の低い石台の上に、折れた剣の柄と、壊れた指輪が置かれていた。
戦利品。
彼らは“飾る”。
価値など知らない。
ただ奪った証を“目に見える場所”に置く。
「ここで吠えられると拙い。」
バルドの声に、誰もが頷く。
吠え役はコボルトだけではない。
ゴブリンも“呼ぶ”。
彼らは上に“何か”がいることをよく知っている。
低い棚の影から、痩せた個体が出た。
拳骨ほどの骨の笛を咥え、頬を膨らませ――
リシェルの短剣が先に笛の空気孔へ刺さった。
硬い骨に刃がかちとあたり、小さな火花すら見えた気がした。
空気は鳴らず、血が笛の穴からぶくぶくと逆流し、頬の内側を赤で満たした。
だが吠え役は一体だけではなかった、甲高い”呼び”が仲間を引き寄せる。
「右奥、弓。左壁、投石。中段、槍。――前衛は中央を抜く。押すな、裂け。」
前衛二人が“中央を抜く”。
押し寄せない。
圧をかけない。
代わりに、列の中に細い道を通し、群れを二つに分離する。
その熟練された連携にヨルキは息を呑む。
裂け目に砂が撒かれ、投石の足場が泥になる。
槍を持った個体が足を取られ、肩から崩れ、その肩に次の個体が乗って潰れる。
リシェルは裂け目の縁を動き続け、伸びてくる“手”だけを切り落としていく。
彼女の動きは“斬る者”というより、“動く壁”。
刃は壁の角張った部分であり、近づくものは角に当たって壊れる。
夜貴の眼前を矢が二本かすめた。
一本は耳の下ですぱと空気を切り、もう一本は首の皮を薄く撫でた。
火が頬に走る。
遅れて痛覚が指先にくる。
(当たっていない。生きている。)
脳は冷たい。
恐怖は熱い。
両方が同時にあるまま、視界は澄む。
ゴブリンの一体が死に際に石片を投げ、ヨルキの額にぱちと当てた。
血が眉を伝い、視界の端が赤くなる。
ヨルキは手の甲で乱暴に拭い、背負子がずれないよう腰の角度を直す。
(落とすな。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。――今は止まらない。)
◆
短い静寂。
床に散った黄緑は、空気の冷えで鈍色に変わり始めていた。
ソレンが「回収」と言い、指示の早さで価値のあるものと無いものを仕分ける。
矢は羽根の整ったものだけ選び、投石紐は革の伸びが少ないものだけ束ねる。
折れた剣柄と壊れた指輪は布にくるみ、“遺”の袋に入れられた。
持ち主がわからなくても、街へ戻れば“記録”に載る。
炎狼はこういう“帳面”を持っている。
誰かが見つけた“何か”が、誰かへ戻る可能性を、帳面は細いまま繋ぐ。
「ヨルキ、血。」
リシェルが近づいてきて、ヨルキの眉を親指の腹で押さえた。
痛みがびりと細く走る。
「深くない。目に入れるな。」
短く言って、彼女は離れた。
(……今、触れた。)
その事実は、ヨルキの胸の中で、焚火の芯のように小さく強い熱になった。
承認。
評価。
命令。
どれでもいい。
どれでも、今は力になる。
「動けるなら、進む。」
バルドの声で、隊列はまた“獣”になる。
重さを分け合い、視界を貸し合い、耳を貸し合い、背中に他人の命の重さを背負う。
ヨルキの背は荷だけでなく、見えない“線”も背負っている。
(落とすな。――まだ、いける。)
◆
二層の下りは、途中から斜面の質を変えた。
石の粉が厚く、靴底の溝に入り込んで消える。
すり鉢状の広間に出る。
壁面には小さな穴が蜂の巣のように空き、底には雨水のような溜まり。
悪い形だ。
上からは矢も石も来る。
底には出血の匂いが溜まっている。
「通り切る。止まらない。――吠えは潰す。」
リシェルの声が、広間の形の悪さを上書きする“正解”になる。
前衛が斜めに降り、真ん中でなく、なめらかな曲率の“片側”を使って底へ回り込む。
穴からゴブリンが顔を出し、矢を放つ。
矢は上からだが、射手の位置は横。
夜貴は身体を内側に畳み、背板の角で矢を滑らせる。
しゅっと麻布が切れる音だけが残り、荷は無事だ。
「そこ、吠え。」
上段の穴でコボルトの“喉”が震えた。
後衛の魔術師が火矢を構えるより早く、石の陰からリシェルが投げた短剣が、喉を針で縫うように塞いだ。
血泡が笛のようにぷくと膨らみ、音は空気へならず、肉の中で死ぬ。
底へ達した瞬間、左右から挟みが来る。
コボルトの槍先が水平に並び、突いては引き、突いては引く。
列を意識した動き。
バルドが先頭の槍を叩き落とすと、二列目がすぐに前へ出た。
手数で殺す型。
混ぜれば勝てると固く信じている動き。
「混ぜるな。縦で切る。」
リシェルが縦に駆け、列の真ん中に一本の線を引いた。
その線に沿って、バルドの盾が押し割る。
ソレンが砂を撒いて列の足元を滑り易くし、魔術師が火矢で目を焼く。
ヨルキは荷の後ろで一歩だけずつ退き、邪魔のない視界を前衛に貸す。
矢は来る。
石も来る。
夜貴は首幅で躱す。
肩幅ではない。
首幅。
紙一重。
コボルトの一体が突きを外し、その肩に別の一体の槍が刺さった。
群れは強いが、狭い。
強いが、狭い。
自分たちで作った密度の中で、彼らは自分たちを傷つける。
「回収、止まるな。上へ。」
息が喉を焼いた。
だが焼けたのは空気だけで、肺は動く。
ヨルキは背負子の紐を強く締め、腰の帯を一つねじる。
(まだ、いける。俺は生きている。)
◆
緩い上りに差し掛かったところで、バルドが手を上げた。
「小休止。血と水。――負傷、申告。」
出血していた前衛のすねに軟膏が塗られ、布が巻かれる。
ヨルキの眉はもう乾いており、赤い線が髪の生え際に少し残るだけだ。
水袋が回る。
口を付ける順番は、前から。
夜貴の番は遅いが、胃に落ちた水は確かに身体を繋いだ。
「ヨルキ。」
呼ばれて顔を上げると、リシェルがこちらを見ていた。
「矢。よく見ている。――だが、身体全体を動かすな。首で落とせ。荷は背にある。」
(首で落とせ。)
夜貴は心の中で三度繰り返し、言葉を喉奥に置いた。
「……はい。」
リシェルはそれ以上、何も言わなかった。
彼女の視線はすぐに隊全体へ戻り、呼吸、握り、足の置き方、盾の角度を一瞥で点検する。
教える。
だが、過ぎない。
彼女の指導は、過不足の“不”が無い。
それは武に生きる者の教え。
「行く。」
◆
二層の最後の帯域は、通気が悪く、匂いが重い。
天井の割れ目に、脂の煤が細い筋を成し、壁には古い爪痕が縦横に走る。
遠くで“水が広い場所に落ちる音”がする。
耳を頼らず、見えるものだけで地図を作り、足の裏で地面の角度を拾い、湿りの重さで“広がり”を知る。
細い通路の先で、ゴブリンとコボルトが混在していた。
互いに相手を嫌がる素振りはあるのに、“人間を削る”という一点でだけ利害が一致している。
ゴブリンが矢を放ち、コボルトが投石のタイミングで“矢の雨の間”を埋める。
悪い組み合わせだ。
矢で頭を下げさせ、石で額を割る。
「列を二つ作る。前衛は階段状。ヨルキは下から二段目の“外”。そこから動くな。」
バルドが盾を上にずらし、前衛が階段状に噛み合う。
リシェルはその段差の横で“刃の列”を作り、抜けてくる個体の首と手首だけを拾う。
魔術師は火矢をやめ、泥を選んだ。
湿った土が穴の入り口でぐじゅと音を立て、矢筒の中に水が入る。
羽根が濡れ、矢は“矢”であることをやめる。
コボルトの投石が、癖を失う。
石は回る。
だが、滑りが出る。
投石紐の革は水を吸い、回転の均一が崩壊する。
飛ぶ石は飛ばない石になる。
ヨルキは矢の“最後の尻上がり”を失った軌道をよく見る。
このままでは当たる事を直感して、”落とす”を意識する。
首で小さく落とす。
肩は動かない。
腰は動かない。
荷は揺れない。
矢は耳たぶの後ろを通り、背板にとんと刺さりかけ、麻布にひっかかって垂れた。
「できた。」
自分の声が喉の奥で小さく言った。
恐怖は消えない。
だが、恐怖を扱える。
前衛のひとりが足を取られ、膝をついた。
そこへコボルトの槍が吸い込まれる。
ヨルキは背板の角で槍の尻を押した。
狙いは逸れ、槍先は床にがりと滑り、石火花が散る。
前衛が立ち直る隙に、リシェルの刃が槍の手に落ち、指が四本飛んだ。
「助かった。」
前衛が短く言い、すぐに前へ出る。
礼は短いほど、戦場では重い。
夜貴は「はい」とだけ返し、荷の位置を戻す。
混成の群れは、やがて混成であることが自らを殺す因子になった。
矢が止まり、石が遅れ、槍が孤立する。
“噛み合っていた”はずの歯車が、砂を噛んで歪む。
最後の吠えは、喉で泡になり、空気にならないまま消えた。
「回収。ここで止まる。二層の終いだ。」
バルドの声に、隊はいったん人間に戻る。
肩を落とし、膝を伸ばし、呼吸を整える。
ソレンが傷の処置を手早く終え、魔術師が火を少しだけ起こす。
リシェルは刃を拭き、油で薄く磨いた。
ヨルキは背負子を外し、背中の傷に消毒を刺し、そして広げて冷やす。
息がようやく“普通”になったころ、リシェルがこちらを見た。
「ヨルキ。いい回避だった。首で落とせと言ったのを、その場で変えられるのは少ない。――明日も生きる。」
“褒め言葉”ではない。
“確認”だ。
生存の確認。
だが、それはヨルキの胸で灯になった。
「はい。」
ヨルキは短く答え、背の板をもう一度締めた。
まだだ。
三層が待っている。
だが今は、二層を抜けた。
吠え声は止めた。
荷は落とさなかった。
そして、矢は――避けた。
◆
二層出口前の狭い踊り場で、最後の確認が行われた。
砂袋は十分。
油は半分。
水は残り三分の一。
矢は敵から回収した予備が十数本。
投石紐は二本。
“遺”の袋は重くなり、ソレンが帳面に小さく印を付けた。
「戻る。三層は明日だ。」
バルドがそう告げると、緊張の輪が一段だけゆるんだ。
リシェルは最後尾を見てから、最前列に戻る。
彼女の背は、やはり剣士であり、教師だった。
夜貴はその背の“高さ”を見失わない距離にいながら、距離を保つ。
出ない。
出しゃばらない。
だが、目は前にある。
石段を上がる靴の音が、湿った空気で小さく丸くなる。
一歩ずつ、地上へと近づく。
夜貴の胸の中で、焚火の芯のような灯が消えずに残った。
明日も生きる。
荷を落とさず、首で落として、生きる。
それが今のすべてだ。