第7話 — 二層/犬鬼と緑小鬼
湿りの層が一段と厚くなる。
焚火の煤は夜に半分吸われ、残りの半分が朝の冷気に剥がれながら落ちていた。
目を開けると、橙の芯がまだ灰の奥で息をしている。
ヨルキは横向きのまま背板の“無い”軽さを確かめ、足首の鎖の位置と、背の鞭痕の疼きを順に点検した。
痛みは“続けられる痛み”の形を保っている。
「起きろ、二層に入る。」
バルドの声は湿気を裂かず、ただ鋭さだけを置く。
各々が無言で寝具を畳み、肩と腰で重量が割れるよう背負子の紐を調整する。
ヨルキは油袋と砂袋の位置を昨日のメモどおり入れ替え、予備の縄の端を左手の第二関節に一度回して“落ちない輪”にした。
リシェルは刃を一度だけ光にかざし、拭い、鞘へ半ば。
「隊列、昨日どおり。――今日は“吠え声”を止める。」
(吠え声を、止める。)
耳ではなく頭で復唱し、喉奥に置く。
言葉は短く、意味は重い。
◆
二層へ降りる石段は、一段ごとに靴底の溝から泥水を絞り出す。
苔は厚く、色が濃く、触れずとも湿りの重みが伝わった。
天井は低く、黒ずんだ根のような石の筋が走る。
壁に触れないよう肩でバランスを取るたび、背中の板が傷に小さな火花を散らす。
ヨルキはそれを“現在位置の印”だと受け止め、呼吸を乱さず進む。
「止まれ。」
リシェルの掌が水平。
前方に広がる空間は、片側が崩れて浅い段丘になっている。
上段の縁に、灰のような毛束が風に逆立つのが見えた。
犬の顔。
だが犬ではない。
鼻梁が不自然に長く、皮膚は乾いた革の上に灰色の短毛がごわごわと貼りつく。
目は容易に濁らず、黄色がかった飴玉のように光り、瞳孔は針のように細い。
耳は紙切れのように薄く、縁が噛み千切られ、重なり合う古傷が層になっている。
胴は痩せているが、肋骨の間から筋の束が縄のように浮き、前脚は“掻き分ける”ための力に偏って発達していた。
腰には、骨と皮を通しただけの粗末な革帯。
そこに錆びた短槍と投石紐がぶらさがり、胸には、細い骨片を通しただけの安っぽい首飾り。
寝そべる個体と立つ個体が交互に視線を巡らせ、鼻先がひくひく動く。
その奥――一体、喉仏の浮いた痩せた個体が、胸を膨らませかけていた。
「コボルト、吠え役は喉が細い、首が長い。――あれだ。」
リシェルの声は乾く前の刃。
吠え役の胸が膨らみ、喉が震える。
次の瞬間、その細い喉に光が吸い込まれた。
後衛の魔術師が短く唱えた火矢が、針のように咽頭を貫いたのだ。
コボルトの喉がぴしと裂け、呼気に混じった血が泡になって口元に弾ける。
吠え声は空気になれず、ただ赤い“湿り”として足元に落ちた。
「前へ、散開。」
吠えが潰された一瞬、群れ全体が“固まる”。
次の瞬間には異音を嗅ぎ取り、上段から石の雨。
投石紐のぶうんという回転音は短く鋭く、石は鉛の粒のような速さで弧を描いた。
「頭!」
バルドの盾にゴッと鈍い衝撃。
木の芯が鳴り、縁金が震える。
次弾がヨルキの眉間に向かって飛ぶ。
視界の真ん中、石の表面の白い斑点が”はっきりと見える”。
ヨルキはほんの首幅で顔を滑らせた。
石は頬骨の皮一枚を刮り、背後の壁にばちんと弾けて飛渣を散らす。
(今、避けた。考えず、避けた――。)
自分の身体が自分より先に動いた。
脳が“逃げろ”と言う前に、首が“そこじゃない”位置を選んだ。
「弓、上段の右端。盾、角度を下げろ。反射で目を潰される。」
リシェルの指示が“ここだ”と空気の中に目印を刻む。
前衛の一人が半歩前へ、盾の角度をわずかに寝かせ、石の軌道を滑らせる。
その陰から、リシェルが滑る。
足音は石の上で“無音”。
いや、音はあるのだが、次に置くべき場所を既に見ている音。
彼女は段を踏み、壁の出っ張りに足尖を置き、腰を畳んで跳ぶ。
上段の縁に片手をかけ、体をひねりながら一体のコボルトの足首を切り、着地の瞬間にはもう別の一体の手首を断っている。
落ちた短槍が床にちんと薄く鳴る。
吠え役を失った群れに、刃先が“順番”を教え込んでいく。
ヨルキは背板を壁に預けず、中衛の死角が空かない位置まで下がる。
バルドの「押せ」に合わせ、前衛が段差へ肉薄した瞬間、上段の陰から別の群れが出た。
低い、喉の奥で石が擦れるようなガルッという起動音。
彼らは二列。
前列は粗末な木盾と槍、後列は投石紐を握り、肩越しに手を回す。
「列を崩すな。横へ伸びるな。――ヨルキ、荷は下段で“壁から一歩”。そこから動くな。」
「はい。」
喉が返事をしたときには、石がまた飛んできた。
一発、二発、三発。
弧の最後に微妙な尻上がりがある。
天井の低さで反射した風が、最後の半歩を押し上げてくる。
夜貴は顎をほんの少し引き、頬と肩の間に“空”を作る。
石がそこを掠め、背板にこんと当たるだけで済んだ。
(見える。線の最後の癖が、見える。……俺は、なぜ。)
考える暇はない。
上段でリシェルが吠えない群れを切り刻み、バルドが槍と盾の列の角を狙って体重で押す。
ソレンは“滑り”が出た床に砂を撒いて前衛の足を支え、後衛の魔術師は火矢を点で使って投石のタイミングを狂わせる。
投石紐は回転の一定が命。
そこに“焦り”を差し込めば、角速度の乱れが軌道の乱れになる。
火の点が頬にぽっと触れれば、回転は止まる。
止まった隙に、前列が崩れ、列は列でなくなる。
コボルトの一体が上段の縁から身を投げるように降りかかり、前衛の肩に短剣を打ち込もうとした。
「下。」
リシェルの声が飛ぶ。
前衛は膝を落とし、剣が空気の道を切り拓く。
コボルトの腕が肘からすぱりと落ち、まだ握っていた短剣が床にがりと刺さって立った。
骨と腱の間を通った刃は、痛みが“音”に変わる前に神経をバラす。
コボルトは声を出せず、喉の奥でぎりと石を噛んだような音だけを残す。
「回収。矢と紐を残すな。――進む。」
息が焼けるような冷たさをまとって胸に入ってくる。
夜貴は背負子の紐を一段締め、油袋の口を確かめ、床の血を避ける足の配置を“見る”。
(さっきの石。見えた。躱せた。――偶然じゃない。けど、俺は戦わない。荷を落とさない。それでいい。)
◆
二層は一層より“言葉を持つ”。
壁の掘り傷は古い符のようで、誰かが獣道の“安全側”を記そうとした痕があった。
だが、今はもう、その“正解”が通用しない場所が幾つも生まれている。
崩れ、苔、滴り、通気の向き――ダンジョンは少しずつ生き直しており、人間の都合に合わせる義理はない。
ぬかるんだ緩い下り。
足裏が水膜を掴み、踵がわずかに先行する。
リシェルの指が二度、低く振られた。
「構えろ。」
次の角――ヨルキは荷の重心を腰へ落とし、肩の板の角を壁に当てない角度で進入した。
通路の脇、胸の高さに“穴”があった。
そこから黄緑の肌が覗く。
尖った耳。
黒ずんだ鼻梁。
歯茎むき出しの口に、黄ばんだ歯がぎちと並ぶ。
腹は出ているが、脚は意外なほど細い。
筋肉は“逃げるための筋”に偏っている。
手には裂け目だらけの短弓。
矢筒は詰め込まれた骨と木片の合いの子のような矢で満たされ、矢羽は色も形も揃っていない。
それでも撃つ。
彼らは“当たれば儲け”の感覚で矢を送る。
数で押す。
矢の雨は、質が悪くても、当たる。
「ゴブリン。穴。――射は弱いが、数が出る。」
リシェルが前へ出る一歩で、矢が三。
最初の一本を盾で受け、二本目は刃で払う。
三本目がヨルキの胸を目がけて飛び、ヨルキの身体が勝手に右へ傾いた。
矢は肩紐の革をしゅっと裂き、背負子の外側の麻布をかすめていく。
(今も、避けた。見えた。……本当に偶然じゃない。)
肺の内側が冷える。
恐怖が消えたわけではない。
むしろ、恐怖は濃い。
だが、その濃さが“輪郭”になって視界を鋭くしている。
ソレンが砂袋の口を引き、砂を撒いて目潰しをする。
そのわずかな“鈍り”の空白に、飛ぶように肉薄したリシェルの剣が差し込まれる。
穴の縁をかすめる角度で、刃が内側へ滑り、皮と筋の間――耳の根から顎へと通る最短線を選ぶ。
ゴブリンの首は、意外なほど“簡単に”切れる。
ただし、それは正しい角度で入れた場合のみ。
角度を間違えれば骨で刃が止まり、もがく叫びが通路を呼吸させる。
「右、穴二。――弓、奥。距離は四十。」
バルドが盾を前に押し、前衛の別の一人が槍で穴の中の手首を突く。
“手”を潰せば、穴は穴でしかない。
弓を持てないゴブリンは、牙を見せ、中指を立てるような不格好な挑発を残して引っ込む。
しかし穴は一つではなく、重ねて三、四と現れる。
鼻が匂いに慣れる前に、目が矢の癖を覚え、足が“通れる側”に体を落とす。
投げ槍が突如、矢の向こうから飛んできた。
矢の雨が“隠す”別の速度の突起。
ヨルキの視界で、槍の先端が四角に光った。
観察と推測。
(鉄は無い。石の穂先だ。軽い。落ち際に尻が振れるはず――左。)
身体は左へ。
槍は右肩の空間をふわりと通過して背後の壁にぐしゃと砕けた。
石片が飛び、頬にちりと刺さる。
「ヨルキ、動きが良い。だが、前に出るな。」
リシェルの声は褒めにも叱りにも偏らない。
ただ事実を置く。
ヨルキは短く「はい」と応じ、背負子の紐をもう一度締め直す。
(出ない。出ない。俺は荷を守る。今はまだ、それだけだ。)