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第6話 ー 灰の間に灯るもの


広めの小部屋。

床には古い焚火の跡が灰の薄膜になって残り、周囲には骨の破片。


「ここは誰かの“通り道”だった。だが新しくはない。」


ソレンが膝をつき、灰を指でこすった。

指腹に残る黒が乾いている。

湿り気が少ないということは、最近火が入っていない。


「水、回す。」


バルドが言って水袋を投げ、若い団員から順に口をつける。

夜貴の番が来た。

喉に冷たさがすべり落ち、胃まで届く。


「荷の再配分をする。」


ソレンの帳面に従い、油袋と砂袋の位置を入れ替える。

背の重心が少し下がり、腰の帯が楽になる。


「紐の余りは結べ。揺れると音が出る。音が出ると“来る”。」


リシェルが淡々と告げる。

誰も反論しない。

誰も“何が来るのか”を確かめようと口にしない。

言葉は、時に匂いより敵を呼ぶ。


少しの休息の後、進む。

息は整った。

痛みは“続けられる痛み”の形になった。

背中の板は重いが、重さには意味がある。



通路の床に、石が一枚だけ“浮いて”いる。

周囲よりわずかに白く、粉塵が溜まらず、踏み跡がない。

バルドが木棒でこつと叩く。

表面の砂がはらりと落ち、石が半分だけ沈む気配。


「蓋。落ちる。板、渡せ。」


中衛が短い渡し板を二本並べ、隊列は片足ずつ移る。


(落とし穴か)


ヨルキは肩の板が石縁に触れないよう、腰で重心を滑らせ、足趾で板を掴む。

落ちれば終わりだ。

終われば、誰も止まらない。

止まらないのが、この世界の“優しさ”だと、薄く理解する。


渡り切ったところで、リシェルが左手を少し上げる。

合図の意味は“静”。

前方、床の凹みに微細な波紋が走っていた。

何も落ちていないのに、内側からふるいのように震え、微かに泡が上がっては消える。

スライムだ。

見えない“浅い”の中に、透明が薄く溜まっている。


「踏むな。迂回。」


通路の壁と凹みの縁のわずかな隙間――人が横向きで通れるかどうかの幅。

前衛が先に体を差し入れ、盾を平にして擦らせる。

ヨルキの番。

背板の角を壁に当てないよう、肩と腰の高さを互い違いにして通す。

肺で息を止めるのではない。

吐く息を細く長くし、胸郭の膨らみを抑える。

抜け切った瞬間、背の汗が風に触れて冷たかった。


(狭さは敵だが、狭さは敵の“速さ”も削ぐ。)



角兎がもう一体、今度は二匹で寄せてきた。

先頭の一体が通路の中央を一直線、後続が半身分、右にずれて追う。

先頭が盾を抉り、二体目が空いた側面を狙う――群れの動きだ。


「前は受けず、逸らす。」


リシェルの声。

前衛の一人が盾の角度をわずかに変え、角の進路を半手ずらす。

角兎の首がすべり、石面に角先をこつと打つ。

その瞬間に、リシェルが踵で床を刻む。

乾いた音が通路に短く広がり、後続の兎の視線が一瞬右へ揺れた。

リシェルの細剣はそこを刹那の“空席”とみなし、喉の窪みへ最短で落ちる。


血煙。温い金気。

足裏にぬるりとした滑りが走る。

ヨルキは足を置く場所を見る――赤い反射を避け、黒ずんだ乾きへ。

背板は重い。

だが重さは軌道を安定させる。

安定は生を伸ばす。


一体目は盾で押し返された勢いのまま、短槍を腹に受けて折れた。

後脚が痙攣し、地を掻き、やがて止まる。

ソレンは角の根元に刃を入れ、すぐさま布で拭う。


「匂いを残すな。次が寄る。」


ヨルキは息を一度深く吸い、二度に分けて長く吐いた。

肺の中の冷気が、腹の奥まで道を作る。


(躱した。投げた。見た。覚えた。――まだ、いける。)



やがて、滴の音が疎らになり、風の層が揺れの向きを変えた。

広間――と呼ぶには狭いが、寝床が取れるだけの空間。

床の中央に古い焚火の痕があり、壁には誰かが置いた石積みの風除けが残っている。


「第一層はここまで。野営を張る。」


バルドの区切り。

隊列に緊張から解放のたるみが一瞬だけ生まれ、それをリシェルの視線がすぐに梳く。


「灯り、二。対角。――煙は上へ。穴の方向に流す。寝床は壁に沿わせない。這う蟲が通る。半身分、浮かせ。」


短い指示が、必要な動作だけを呼び出す呪文のように機能する。

夜貴は麻布を床に敷き、背負子を外した。

肩甲骨の裏に散っていた火が、ほどける。


ソレンが薬草袋を開け、透明の液体の入った小瓶を出す。


「消毒。背。」


粗布をずらし、背を差し出す。

液体は最初に刺し、すぐに広がって冷たくなる。

肺が勝手に縮むのを意図で押し返し、吸う。吐く。吸う。吐く。

ソレンがそばにしゃがみ、薬指の腹で軟膏を薄く延ばした。


「走れる?」


「……はい。」


「なら、それでいい。」


それだけ。

慰めも叱責も、同じ高さで省略される。

それがありがたいと、ヨルキは思った。

言葉は時に、体内の緊張を余計な方へ流す。

必要なものだけで、いまはいい。


炊き場では、乾燥肉と葱の端と穀粒を煮た薄い雑炊が温まり始めている。

木椀にすくってもらい、少し冷ましてから口へ入れる。

舌に残る塩と脂のわずかな甘さ。

胃が温かさをつかんで、全身へ送る。

昼間の黒パンより旨い。

旨い、という単語が、胸の内側へ灯をひとつ置く。


リシェルは壁際で刃を布で拭い、油を微かに含ませた革でさらに薄く磨いた。

ヨルキが視線を上げると、彼女は気づいても逸らさない。


「見張りは二巡。私とバルドが最初。次は中衛から一人と後衛。」


ローテーションが決まり、各々が寝床を整え、鎧の紐を緩める。

ヨルキは足首の鎖の長さを確かめ、横向きに身を伏せた。

背板の“無い”軽さが、少し心細い。

だが、軽さは眠りを招く。

焚火のぱちという乾いた音が、不規則に間を空けながら続く。

湿りの層は冷たい。

でも、冷たさは生を締める紐になる。

瞼が重く、呼吸が静かに深くなる。


(今日だけは――勝った。荷を落とさなかった。角は避けた。火を見た。順序を覚えた。俺はまだ“荷持ち”で、剣は握らない。スキルも、力も、ない。けれど。)


意識の底で、一瞬だけ、角兎の角先と、飛び散った粘塊の飛沫が交互に浮かぶ。

どちらも、半歩。

半歩ずれれば、死ぬ。


(半歩を、これからも奪う。)


ヨルキはそう決め、眠りへ沈んだ。

第1層の夜は、冷たいが、静かに更けていった。



夢の手前で、ふいに眼がわずかに開いた。

見張りの交代の気配。

リシェルの低い声が、焚火越しに輪郭だけ届く。


「明日は二層に入る。群れが出る。――“吠え声”を、止める。」


返事の声。

鍋の蓋が触れ合う薄い金属音。

夜貴は再び目を閉じ、胸の奥の灯が消えないことを確かめるように、ゆっくり吐いた。

眠りが、今度はすぐに来た。





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