第6話 ー 灰の間に灯るもの
広めの小部屋。
床には古い焚火の跡が灰の薄膜になって残り、周囲には骨の破片。
「ここは誰かの“通り道”だった。だが新しくはない。」
ソレンが膝をつき、灰を指でこすった。
指腹に残る黒が乾いている。
湿り気が少ないということは、最近火が入っていない。
「水、回す。」
バルドが言って水袋を投げ、若い団員から順に口をつける。
夜貴の番が来た。
喉に冷たさがすべり落ち、胃まで届く。
「荷の再配分をする。」
ソレンの帳面に従い、油袋と砂袋の位置を入れ替える。
背の重心が少し下がり、腰の帯が楽になる。
「紐の余りは結べ。揺れると音が出る。音が出ると“来る”。」
リシェルが淡々と告げる。
誰も反論しない。
誰も“何が来るのか”を確かめようと口にしない。
言葉は、時に匂いより敵を呼ぶ。
少しの休息の後、進む。
息は整った。
痛みは“続けられる痛み”の形になった。
背中の板は重いが、重さには意味がある。
◆
通路の床に、石が一枚だけ“浮いて”いる。
周囲よりわずかに白く、粉塵が溜まらず、踏み跡がない。
バルドが木棒でこつと叩く。
表面の砂がはらりと落ち、石が半分だけ沈む気配。
「蓋。落ちる。板、渡せ。」
中衛が短い渡し板を二本並べ、隊列は片足ずつ移る。
(落とし穴か)
ヨルキは肩の板が石縁に触れないよう、腰で重心を滑らせ、足趾で板を掴む。
落ちれば終わりだ。
終われば、誰も止まらない。
止まらないのが、この世界の“優しさ”だと、薄く理解する。
渡り切ったところで、リシェルが左手を少し上げる。
合図の意味は“静”。
前方、床の凹みに微細な波紋が走っていた。
何も落ちていないのに、内側からふるいのように震え、微かに泡が上がっては消える。
スライムだ。
見えない“浅い”の中に、透明が薄く溜まっている。
「踏むな。迂回。」
通路の壁と凹みの縁のわずかな隙間――人が横向きで通れるかどうかの幅。
前衛が先に体を差し入れ、盾を平にして擦らせる。
ヨルキの番。
背板の角を壁に当てないよう、肩と腰の高さを互い違いにして通す。
肺で息を止めるのではない。
吐く息を細く長くし、胸郭の膨らみを抑える。
抜け切った瞬間、背の汗が風に触れて冷たかった。
(狭さは敵だが、狭さは敵の“速さ”も削ぐ。)
◆
角兎がもう一体、今度は二匹で寄せてきた。
先頭の一体が通路の中央を一直線、後続が半身分、右にずれて追う。
先頭が盾を抉り、二体目が空いた側面を狙う――群れの動きだ。
「前は受けず、逸らす。」
リシェルの声。
前衛の一人が盾の角度をわずかに変え、角の進路を半手ずらす。
角兎の首がすべり、石面に角先をこつと打つ。
その瞬間に、リシェルが踵で床を刻む。
乾いた音が通路に短く広がり、後続の兎の視線が一瞬右へ揺れた。
リシェルの細剣はそこを刹那の“空席”とみなし、喉の窪みへ最短で落ちる。
血煙。温い金気。
足裏にぬるりとした滑りが走る。
ヨルキは足を置く場所を見る――赤い反射を避け、黒ずんだ乾きへ。
背板は重い。
だが重さは軌道を安定させる。
安定は生を伸ばす。
一体目は盾で押し返された勢いのまま、短槍を腹に受けて折れた。
後脚が痙攣し、地を掻き、やがて止まる。
ソレンは角の根元に刃を入れ、すぐさま布で拭う。
「匂いを残すな。次が寄る。」
ヨルキは息を一度深く吸い、二度に分けて長く吐いた。
肺の中の冷気が、腹の奥まで道を作る。
(躱した。投げた。見た。覚えた。――まだ、いける。)
◆
やがて、滴の音が疎らになり、風の層が揺れの向きを変えた。
広間――と呼ぶには狭いが、寝床が取れるだけの空間。
床の中央に古い焚火の痕があり、壁には誰かが置いた石積みの風除けが残っている。
「第一層はここまで。野営を張る。」
バルドの区切り。
隊列に緊張から解放のたるみが一瞬だけ生まれ、それをリシェルの視線がすぐに梳く。
「灯り、二。対角。――煙は上へ。穴の方向に流す。寝床は壁に沿わせない。這う蟲が通る。半身分、浮かせ。」
短い指示が、必要な動作だけを呼び出す呪文のように機能する。
夜貴は麻布を床に敷き、背負子を外した。
肩甲骨の裏に散っていた火が、ほどける。
ソレンが薬草袋を開け、透明の液体の入った小瓶を出す。
「消毒。背。」
粗布をずらし、背を差し出す。
液体は最初に刺し、すぐに広がって冷たくなる。
肺が勝手に縮むのを意図で押し返し、吸う。吐く。吸う。吐く。
ソレンがそばにしゃがみ、薬指の腹で軟膏を薄く延ばした。
「走れる?」
「……はい。」
「なら、それでいい。」
それだけ。
慰めも叱責も、同じ高さで省略される。
それがありがたいと、ヨルキは思った。
言葉は時に、体内の緊張を余計な方へ流す。
必要なものだけで、いまはいい。
炊き場では、乾燥肉と葱の端と穀粒を煮た薄い雑炊が温まり始めている。
木椀にすくってもらい、少し冷ましてから口へ入れる。
舌に残る塩と脂のわずかな甘さ。
胃が温かさをつかんで、全身へ送る。
昼間の黒パンより旨い。
旨い、という単語が、胸の内側へ灯をひとつ置く。
リシェルは壁際で刃を布で拭い、油を微かに含ませた革でさらに薄く磨いた。
ヨルキが視線を上げると、彼女は気づいても逸らさない。
「見張りは二巡。私とバルドが最初。次は中衛から一人と後衛。」
ローテーションが決まり、各々が寝床を整え、鎧の紐を緩める。
ヨルキは足首の鎖の長さを確かめ、横向きに身を伏せた。
背板の“無い”軽さが、少し心細い。
だが、軽さは眠りを招く。
焚火のぱちという乾いた音が、不規則に間を空けながら続く。
湿りの層は冷たい。
でも、冷たさは生を締める紐になる。
瞼が重く、呼吸が静かに深くなる。
(今日だけは――勝った。荷を落とさなかった。角は避けた。火を見た。順序を覚えた。俺はまだ“荷持ち”で、剣は握らない。スキルも、力も、ない。けれど。)
意識の底で、一瞬だけ、角兎の角先と、飛び散った粘塊の飛沫が交互に浮かぶ。
どちらも、半歩。
半歩ずれれば、死ぬ。
(半歩を、これからも奪う。)
ヨルキはそう決め、眠りへ沈んだ。
第1層の夜は、冷たいが、静かに更けていった。
◆
夢の手前で、ふいに眼がわずかに開いた。
見張りの交代の気配。
リシェルの低い声が、焚火越しに輪郭だけ届く。
「明日は二層に入る。群れが出る。――“吠え声”を、止める。」
返事の声。
鍋の蓋が触れ合う薄い金属音。
夜貴は再び目を閉じ、胸の奥の灯が消えないことを確かめるように、ゆっくり吐いた。
眠りが、今度はすぐに来た。