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第5話 — 小ダンジョン第一層/角兎と粘塊


夜明け前。

薄墨の空の下、ギルドの中庭に荷車が二台。

頑丈な木箱と革袋が、縄で蜘蛛の巣のように結わえられている。


「ヨルキ、こっちだ。手を通せ。」


ジグが革の背負子を渡す。

肩と腰で荷重を分ける造り。

背中の板が鞭痕に触れるたび、小さな火が散る。


「重いものは下。硬いものは外向きにしない。角で自分を刺す。」


シグが手を回し、縄の締め方を教える。

右手で引き、左で返す。

一度覚えれば、手は勝手に動く。


(――やれる。覚えるだけだ。)


ヨルキは自分に言い聞かせた。

荷は水袋、乾燥食、油、麻布、薬草、予備の靴紐、紐の予備――細かなものの集合体だ。

ひとつひとつは軽い。

束ねれば、人ひとりぶんの重さになる。


「いいか、“荷持ち”は戦わない。荷を守る。戦闘が始まったら邪魔にならない位置まで下がって、次の指示を待つ。」


ジグの声はいつも通り簡素で、よく通る。


「足を止めるな。走れば生きる。足が止まれば死ぬ。わかったな。」


「はい。」


「出るぞ。」



小半刻(およそ一時間)歩いて、街は背中の向こうに沈んだ。

小丘の斜面を巻く獣道の先、蔓草に半ば飲まれた石の階段が口を開けている。


そこが“小ダンジョン”の入り口だった。


冷気は穴から吹き上がり、夏の湿気を押し返して頬を撫でる。

入口の両脇には古い石像が二体。

片方の首は落ち、もう片方は顔が風化して判別できない。

地表は明るい。

地下は暗い。

境目に立つと、一歩目の重さが普段と違うことを膝が先に知る。


「隊列を組む。先頭、前衛二。中衛、二。荷持ち、最後尾の一つ手前。後衛、ひとり。」


バルドが指で空をなぞるようにしながら配置を決める。


「おいおい、今日からの新顔か?目が死んでるじゃねーか」


前衛のひとりが笑う。


「喋るな。口でなく足を動かせ。」


リシェルの声が短く飛ぶ。

彼女は前衛の右、斜め前に位置を取った。

顔は無表情。

だが視線はよく動く。


ヨルキは、革紐をもう一度締め直す。

背板の圧、腰帯のきしみ、肩の擦過。

息を整え、喉の奥で唾を飲む。


(落とすな。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。)


バルドが一度だけ頷いた。


「――出るぞ。」


石段の闇が、冷たく開いていた。



冷気が頬の皮を薄く削る。

石段を三段降りたところで、地上の湿った夏が、背後の膜の向こうに遠のいた。


前を行くリシェルの背は、松明の橙に細く縁取られ、呼吸に合わせてわずかに上下する。

剣は鞘から半ば抜かれ、刃先だけが闇の気配を探るように前へ伸びていた。


「隊列、再確認。――先頭、前衛二。私が右。バルドが左。中衛二。荷持ちは最後尾の一つ手前。後衛は一。」


短く、淀みなく、要点だけを置く声。

ヨルキは革の背負子の紐をもう一段締め直した。

背板が鞭痕に触れるたび、じり、と細い火が散るが、痛みは既に“そこに居る”だけのものになりつつある。


(落とすな。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。――それだけだ。)


足裏に伝わる石の微かな起伏、苔の濃淡、壁を這う水筋の向き。

耳で空間を描くのではない。

灯りが作る輪と影の切れ目、湿りの厚さ、靴底に拾う滑りで、進むべき幅と危うい場所を見る。

やがて通路は人二人が並ぶのも窮屈な細さから、肩を少し広げられる程度の幅へと膨らんだ。



「止まれ。」


リシェルの掌が水平に切られ、隊が一斉に足を止める。


前方、床の低い窪みに淡い透明がうごめいた。――スライム。

膝丈ほどの粘質の塊。

表層は水の皮膜のように張り、その内側で細かな気泡が生まれては消える。


濁った内部には、噛み砕かれた小骨や石屑が漂い、動くたびに白と灰が入れ替わる。

その“腹”に相当する濃いゼラチンの核がときどき脈打つのが見えた。


「三。――右壁側にも一。」


リシェルは視線だけを滑らせ、数を告げる。


「斬りは浅い。火で縮ませる。油、準備。」


前衛の左に入ったバルドが油袋の口を捻る。

ヨルキは荷の中から予備の油皮袋を抜きやすい位置に寄せ、背の縄を一つ緩めた。

紐の端は掌半分の輪にして親指に掛ける。――落とさないための癖が、もう体へ染みる。


「撒く。」


声と同時、弧を描いて油が前方に散った。

床の苔が濡れ、粘塊の表層に薄い油の膜が乗る。

バルドが火打ち石を鳴らす。

ぱちりと火花。

二度目でぼうと炎が起こり、油の上に薄皮の火が走った。


スライムは音もなく“身を竦め”、内側から泡がちり、ちりと弾ける。

熱で外縁が縮み、内部の核が表層に押し上げられてくる。


熱い砂糖を焦がしたような甘い匂い――だがその背中を、大きな手で掴まれたような獣臭が覆う。

甘さはすぐに“腐りの甘い”に変わった。

喉が勝手に痙攣し、ヨルキは歯を噛んで飲み込む。


「間合い、取りすぎるな。跳ねる。」


リシェルの声に、前衛が半歩詰める。


燃え縮んだスライムの皮が、ぴちゅと音を立てて裂け、熱に反応した一部が弾丸のように前へ弾け飛んだ。

ヨルキは思わず背を丸め、肩で壁に当たって体重を逃がす。

熱塊は真横を掠めて壁で潰れ、焦げたゼラチンが黒い痕を貼り付けた。


(今のは――飛沫。距離を取りすぎても、覆いかぶさられる。)


「回収。」


後衛が火消しの砂を撒き、焦げ膜を削いで袋に入れる。

リシェルは二体目、三体目へと同じ手順で処理を重ねた。

油を散らし、火を通し、核の動きを確認してから近づく。

切るのは“死んでから”だ。

一連の動作が終わると、匂いだけが薄い層になって通路に残った。


「進む。」


ヨルキは背負子の縄を締め直し、油袋を所定の位置に戻す。

呼吸は浅く、しかし乱れてはいない。


(見て、覚える。順序――撒く、燃やす、縮む、核を確認、近寄る、止めを刺す。焦げた皮は袋。床の油痕は踏み外す。……次。)



通路が再び狭まり、天井の割れ目から垂れる水が細い筋を床に引いていた。

苔の色が、一部だけ濃く、ざらつきが少ない。

足を置けば滑る。

ヨルキは一歩を小さく刻み、靴底の溝にぬめりが入らない角度を選ぶ。


「壁に手はつけるな。苔で手が滑る。」


リシェルの注意は短い。

彼女自身は“肩”で壁に触れてバランスを修正し、掌は常に自由に保った。


「……風。」


補助役のソレンが後ろで呟いた。

通路の先から、温度の低い層が薄く押し寄せる。

冷たい空気が移動してくる時、狭い場所で気圧がわずかに変わる。

耳ではなく、鼻腔の内側の“冷え方”が違う。


(広間がある。あるいは、段差。……そして。)


リシェルが掌を上に向け、二度、軽く弾く。

合図は“注意”。

そのすぐ後ろ――ぴょんという軽い音が、視界の端を跳ねた。


それは兎だった。

だが、ただの兎ではない。

額の中央から、生え際を押し破って伸びる一本角。


根元は真珠色の象牙質に薄い血脈が差し、先端へ向かうほど透明度を増す。

まるで氷の欠片が、頭蓋からまっすぐ突き出たように見える。


瞳は黒曜石のように丸く輝き、耳は大きく、呼吸に合わせて内側の薄紅がふるえた。

毛並みは黄土がかった白で、背には野茨の枝のように細い棘毛が混じる。


後脚は太く、腱が硬く締まり、岩の上でも滑らず推進力を得られる形をしている。

鼻先がひくつき、地に近い低い匂いを嗅ぎ取る仕草。

その瞬間、額の角がすっと下がった。


「アルミラージ。」


リシェルの声は平坦だった。


「壁へ。幅を詰める。跳ぶ前に進路を奪う。」


前衛が右壁に密着し、盾を半身に構える。

通路中央に細い“袋小路”が人工的に作られた形になる。

角兎はその細道にまっすぐ入ってきた。

警戒ではない。好戦だ。

低く腰を落とし、後脚の腱がびんと弦のように張る。

次の瞬間、弾丸になった。


ズッ――!


空気が裂ける。

角が前へ伸び、盾の木をガンと抉る。

盾の表皮が裂け、木屑が白く飛ぶ。

前衛の腕に衝撃が走り、半歩分、足が滑った。


「縄!」


シグの短い声。


ヨルキは背で結った細縄の端を左手で抜き、右手に乗せると地面すれすれに向かって投げ滑らせた。

狙いは前脚ではなく、後脚。

跳び戻る瞬間、最も力が欲しい“蹴り出し”の腱だ。


縄が後脚のくるぶしにからりと掛かる。

角兎は二度目の突撃へ体を折りたたもうとしたが、足首が一瞬遅れた。


――その半歩を、リシェルの剣が貪欲に食う。


刃は横一文字に低く、喉の軟い毛をすっと割いた。

血は噴き出すのではない。

温い線が毛皮の内側を滑り降り、白から黄土へ、さらに黒ずむまでの時間が一呼吸。

角兎は前のめりに倒れ、角が石に当たってキンと薄く鳴る。

震えが全身を二度、三度と走り抜け、やがて止まった。


「角、根元で切断。神経が残っていると匂いが落ちる。」


ソレンが手早く処理に入る。

角の透明部分には霜のような曇りがわずかに現れ、体温から離れるにつれて氷の欠片めいて硬質になる。

リシェルは血で濡れた刃を軽く振り、布で拭った。


ヨルキは自分の呼吸が速く、しかし浅くなりすぎていないことに気づいていた。

手の汗が縄に浸み、冷える。

だが、指の震えは止まっている。


「よく投げた。」


リシェルが言い、短く顎を引く。

それだけで十分だった。


(スライムとアルミラージ、ここはゲームの世界だ)


角兎の死骸からは、草の匂いと鉄の匂いが混じった“温い”が立ち上っていた。

バルドが盾のひびを確かめ、舌打ちをひとつ置く。


「戻ったら板を替える。今日はこのまま持たせる。」



通路は時折、細い落石の名残で歪み、天井の裂け目から雫が落ちて小さな穴を穿っている。


「そこ、足。」


リシェルの注意に合わせ、ヨルキは靴裏を少し立て、踵に重心を置かず、足趾で石の縁を掴むようにして越える。


(壁の苔が濃い側は湿りが滞る。風は反対。地面の光の反射が濁るところは滑る……。)


「前方、スライム――二。」


再び粘塊。

だが今度は片方が天井から垂れていた。

下へ伸びる粘糸。

滴りの先端に透明な滴が膨らみ、石に落ちるとぷちりと小さく弾ける。

ヨルキは肩が本能的に竦むのを、意図して押し戻した。


「上は油を点で。落とすな。床との二重火は酸欠になる。」


リシェルは油袋から指先一杯ほどをすくい、上へ指で跳ね上げる。

油の粒が糸に乗り、粘糸の途中で“節”を作る。

バルドの火打ちが一閃。

ぱつという小さな火。

粘糸の“節”のところから、全体がくにゃりと折れ、上の核が表層に寄る。


「今。」


前衛の片方が短槍を上へ突く。

槍先が核をぶちりと刺し、透明が濁りへ崩れて、上から下へ雪崩落ちる。

床のスライムはそれに反応し、跳ねる。

夜貴は半歩斜めに退いて、背板が石縁に触れない角度を保つ。

飛沫は前衛のすね当てにぺちりと貼りつき、直後に砂がかけられる。


(見た。覚えた。上の“点”と、下の“線”。火は薄く、酸は出さない。)


処理が終わると、通路には甘く腐った匂いだけが残り、湿気の層がわずかに温度を変えた。

匂いに慣れ始めている自分を、ヨルキはどこかで冷ややかに眺める。

慣れは、危うい。

だが、慣れずに進むこともまた、危うい。


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