第3話 — 値踏みと転売
土と乾いた血の匂いが、風に乗って鼻腔を焼く。
粗末な木柵の内側では檻馬車が列をつくり、縄で繋がれた人間がゆっくりと流れていく。
焼き板に黒く塗られた看板には、潰れた字で“市”とだけある。
言い訳のないほど簡潔で、容赦のない字面だ。
「並べ!」
ドランの怒声とともに鎖が引かれ、夜貴は裸足のように頼りない足取りで土の上に立たされた。
背に貼り付いた粗布が鞭痕にからみつく。
剥がせば傷が引きつり、別種の痛みが生まれる。
周囲には同じように並ばされた男女。
誰もが目を合わせない。
目が合えば、同じ高さで“人間だったこと”を確認してしまうからだ。
「おう、ドラン。今日の荷は?」
屋根付きの台の下から、短く刈った灰色の髪の男が出てきた。
頬に斜めの古傷、片耳に赤い焼印。
腰には帳面、指には鈍い銀の指輪。
市の“鑑定人”だ。
値踏みと印紙税代わりの焼印を担当する。
「数は多くねぇが、使える筋が揃ってる。遠目で値の張る女は向こうの貴族席へ。男はここで見る。」
鑑定人はゆっくり歩み寄り、ひとり、またひとりと顎を掴んでは顔を左右に振り、歯をこじ開け、舌の色を見、肩の骨の並びを指先で確かめていく。
夜貴の前で手が止まった。
「こいつ?」
「拾い物だ。道のど真ん中で寝てやがった酔いどれ。だが骨はまっすぐで、背もある。粗布の下に鞭痕が新しいが――逃げはしねぇ。鎖の使い方をちゃんと覚えた顔だ。」
「ふん。」
顎をつかまれ、上を向かされる。
「口を開けろ。」
命令どおりに開ける。
上顎に砂がまだ残っていて、鑑定人は爪でそれを掻き出した。
「手をひらけ。」
掌を見られ、指の節を押される。
「ふくらはぎ。」
膝を曲げさせられ、踵の可動域を見られる。
最後に、背の粗布をまくり上げられた。
風が傷に触れ、鋭い。
鑑定人の指が鞭痕をなぞる。
夜貴は無意識に肩をすくめた。
「痛むか。」
「……はい。」
「素直でいい。反抗の仕方を知らない目だ。荷物持ち、あるいは雑役でなら、今日の市でも銀二枚はつく。」
ドランが鼻を鳴らした。
「五枚だ。」
「背丈はあるが、まだ飯を溜め込んでない胸だ。それに言葉が少し変だな。発音の癖がある。土の生まれじゃない。」
夜貴は眉を上げた。
鑑定人の目は冷たく、だが仕事には真面目だ。
「三だ。帳面にそう書く。」
「四までは行く。歩くし、目が死んでねぇ。」
やり取りは、夜貴の頭上で続いていく。
数字は硬貨の数であり、人間の値札だ。
自分がいま、金額の会話に置き換わっている。
「四。――四でどうだ。」
鑑定人は肩を竦め、板にチョークで“4”と粗く書いた。
夜貴の鎖にぶらさがる札に、数字が移される。
「次。」
列が少しずつ動く。
台の上では口上が始まっていた。
「東の丘陵からの荷! 農の手! 五十歳だが手先が器用! 銀一枚!」
「こっちは若い! 十七! 織りの手! 銀二枚!」
どこか遠い。
ヨルキの頭の芯では、まだ居酒屋の天井の板がゆっくり回っていた。
「おい、新顔。」
鑑定人の手が、ヨルキの手首の鎖を少し持ち上げる。
「これから焼印を入れる。逃げれば、街中で討たれて終いだ。泣いても、叫んでも、消せない印だ。それがここで生きるということだ。」
「……はい。」
返事が口から漏れた。
自分のものとは思えぬほど軽い声だ。
「これが夢かどうかは、焼いたあとに決めろ。」
鑑定人はそう言って、火床の方へ顎をしゃくった。
鉄の棒が赤く色づく。
炉の火は、油と炭の匂いで空気を重くする。
ドランが夜貴の肩を押さえ、別の男が膝を踏む。
鑑定人は無言で、赤い印を夜貴の左の肩甲骨の下に当てた。
ジュ、と肉の焼ける音。
皮膚が縮み、鼻腔の奥に“自分”の匂いが刺さる。
世界が白くなる。
歯を食いしばる。
唇の内側を噛む。
血が溢れる。
喉が鳴り――それでも悲鳴は飲み込んだ。
「我慢は……できるか。」
鑑定人が言う。
夜貴は小さく頷いた。
「いい。印はきれいに入った。逃げれば見つかる。働けば、飯はある。」
鑑定人は棒を炉に戻し、次の荷へ歩いていく。
◆
昼を少し過ぎた頃、市場の端に赤い狼の紋の旗が立った。
黒い革鎧を着た二人組が歩いてくる。
ひとりは大柄で、短く刈った金髪に鼻筋の通った厳つい顔。
もうひとりは痩せ型で、金属のフレームを片目にかけ、帳面を抱えている。
「炎狼だ。今日は買い付けに来るって話だったな。」
囁きが伝わる。
冒険者ギルド――それも街で大手の名だ。
炎のように攻め、狼のように群れる。
手っ取り早く成果を上げることで知られ、依頼の屋台骨を担っているという。
大柄の男が台の上の口上には目もくれず、列に沿って歩く。
視線は荒い。
だが獲物を選ぶ目つきではない。
何かを“使う”ための選別だ。
「荷持ちはいる。四。四はないか。」
痩せ型が応じる。
「四――あれと、あれ。」
帳面の指先が、夜貴の札を軽く叩いた。
「顔を上げろ。」
大柄の男が言う。
夜貴は顔を上げた。
視線がぶつかる。
男は、特に感情を見せず、顎で夜貴の背を示した。
「鞭痕。新しい。逃げ癖は?」
「ありません。」
痩せ型がフレームの奥で目を細める。
「言葉の癖があるな。近郊出身ではない。」
夜貴は答えない。
答えられる情報が、自分の中にない。
「歩け。十歩。走れ。五十歩。」
命じられるまま、ヨルキは土の上を走った。
踵が土に沈み、傷が引きつる。
息が上がる。
大柄の男は頷いた。
「使える。四でいい。」
ドランが口角を上げる。
「五にしとけよ、炎狼。お前ら、最近荷をよく潰す。」
痩せ型が肩をすくめた。
「潰すのはうちじゃない。ダンジョンだ。」
短い火花のようなやり取りのあと、銀貨が袋で音を立てた。
ヨルキは鎖の先が別の手に渡ったのを、腕の重さの変化で知った。
「名は。」
「……龍間夜貴。」
「リュウマ・ヨルキ。読みにくい。ヨルキでいい。」
痩せ型が帳面に“ヨルキ(荷持)”と書き付ける。
「俺はシグ。炎狼ギルドの隊付き。こっちは会計のソレン。今日からお前は“荷持ち”だ。荷を持つ。命がけで、落とさずに持つ。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。口答えはするな。逃げるな。死ぬな。」
「……はい。」
「まず、飯だ。腹がへってると、頭が鈍る。」
◆
市からほど近い煮込み屋の裏手で、夜貴は初めて“この街の飯”を口にした。
黒パンは固く、塩気の強い干し肉は繊維が強く、噛むほどに唾液が奪われる。
薄いスープは葱の匂いが強く、良く言えば滋養、悪く言えば獣舎の匂いだ。
「腹に入れろ。味は覚えるな。」
シグが言う。
夜貴は黙って咀嚼した。
パンが胃に落ちた瞬間から、胃が仕事を始めるのがわかる。
身体はどんな土地でも、まず“食う”ことで自分をこの世につなぎ止めようとする。
「水は?」
「汲んでくる。ヨルキは座ってろ。」
ソレンが桶を抱え、井戸へ向かった。
シグは壁に寄りかかり、じっと夜貴を見つめる。
「お前、どこの生まれだ。」
夜貴は視線を落とした。
「覚えていません。」
シグは鼻を鳴らす。
「嘘を吐くときの顔の筋肉は、皆同じだ。覚えておけ。俺もお前を信用しない。だが、仕事は投げない。」
桶の水が戻ってきた。
ソレンは夜貴の鎖を短くし、桶に手を伸ばせるだけの距離を残して止める。
「勝手に動くな。逃げると思ってるわけじゃない。逃げられないようにしてるだけだ。」
夜貴は水を飲んだ。
僅かな鉄の匂いがする。
だが冷たい。
喉から胸へ、冷たさが道を作る。
その冷たさを、頭の中にまで押し広げたかった。