第25話 ― 紅茶と稽古場
磨き抜かれた木の天板に、二つの湯気を立てるカップが並んでいた。
窓の外では石畳を軋ませる荷馬車の音が、遠くゆったりとした調子で響いている。
リシェルは細い指で取手を支え、紅茶をひと口含む。
赤銅色の髪が頬にかかり、淡い琥珀の瞳が水面に映る光を追った。
その仕草だけで、彼女は絵画の一幕のように映える。
対して俺は、背筋を張るでもなく、ただカップの取手に指をかけたまま視線を泳がせていた。
同じ赤と灰を基調とした正規装備を纏っていても、どうにも釣り合わない気がしてならない。
あの中ダンジョンでゴブリン王を討伐した直後のことだ。
気づけば奴隷の身分から解かれ、炎狼ギルドの正規メンバーとして名を連ねていた。
俺の意思などどこにも挟まっていない。流されるままに至った席だった。
――領主アーデナント・グラズン辺境伯の計らい。
そう説明を受けた。
「領地の安全に多大な貢献をした」――それが理由だと。
小さく陶器が鳴った。
リシェルがカップを受け皿に置き、静かに息を吐く。
そのまま俺を見据え、言葉を落とした。
「ヨルキの新しい後輩はどう?」
「はい、皆んな良い子だと思います」
「……そう」
彼女は受け皿に添えられたティースプーンを手に取り、ゆっくりと紅茶をかき混ぜる。
波紋のように広がる液面が淡く揺れ、窓辺から差し込む春の光が赤銅の髪をやわらかく照らした。
――その姿は、ただ静かに佇んでいるだけで、俺には眩しく見えた。
◆
ゴブリン王討伐から”4ヶ月”が経った。
炎狼ギルド本部の裏庭、石畳に敷かれた稽古場。
夕刻の光が斜めに差し込み、若い新米たちの額に汗を流れ落とさせていた。
木剣を振るいながら、弾む声を上げる少女がひとり。
紫色の髪を軽やかなボブに切り揃え、可憐な顔立ちを太陽に照らして輝かせている。
澄んだ瞳は純粋無垢で、年相応の幼さと無邪気さを隠そうともしない。
革製の軽装備に身を包み、腰のベルトには練習用の鞘が揺れていた。
その少女――セリナが、木剣を肩に担いでヨルキへ駆け寄った。
「ヨルキ先輩! 今日も稽古つけてください!」
”ぎゅっ”
彼女は返事を待たずにヨルキの手を掴み、そのまま引っ張ろうとする。
ヨルキは少しよろけながらも、振り払うことができず、困った顔を浮かべた。
「いや、俺は……あんまり教えられることがなくて」
「いいんです! ヨルキ先輩とやるだけで強くなれる気がするんです!」
新米たちがくすくすと笑い、稽古の手を止めて二人を見守る。
その輪の少し後ろ、腕を組んだリシェルが静かに立っていた。
赤と灰を基調とする正規装備を纏い、凛とした佇まいは誰よりも絵になる。
だが、瞳の奥でわずかな陰りに揺れた。
◆
模擬戦が始まった。
「いきます!」
セリナが勢いよく踏み込み、木剣を振り下ろす。
ヨルキは紙一重でかわす。
「えっ、今の当たってないの!?」
再び横薙ぎ――かわす。
突き――かわす。
三度続けて空を切り、セリナは驚きと悔しさに声を上げた。
「何で毎回当たらないの!?」
「……落ち着け」
木剣同士が打ち合い、乾いた音を響かせる。
その最中、ヨルキはわざとテンポを半拍ずらした。
「えっ――」
困惑したセリナの重心が揺れる。
ヨルキは隙を突いて足を引っ掛け、彼女を石畳に転ばせた。
次の瞬間、喉元に木剣の切っ先を突きつける。
「……勝負ありだな」
「うぅ~! また負けたぁ!」
石畳に仰向けのまま、セリナは頬をふくらませて唇を尖らせる。
周囲が笑い声に包まれる中、リシェルはふと眉を寄せた。
(……何? この胸のモヤモヤ……)
剣を振るう手でも、敵の刃を受け止める時の緊張でもない。
得体の知れないざわめきが胸の奥に広がり、鼓動を早める。
恋だとか、嫉妬だとか、そんな言葉は浮かばない。
ただ不思議な感覚に首を傾げるだけだった。
腕を組んだ指先がわずかに強く握られていることに、本人は気づかなかった。
◆
ーー炎狼ギルド本部、会議室。
中央の長卓には地図と記録の羊皮紙が並び、油灯の淡い光が揺れている。
ルーベンは椅子に深く腰かけ、静かな笑みを浮かべながら卓上の帳面を指で撫でていた。
青に白が混じる髪が、灯火の下で淡く揺れた。
一見すれば人の良い笑顔。だが、その瞳の奥にある静かな計算を見抜ける者は少ない。
炎狼ギルドのマスター、ルーベン――その微笑の裏には、常に策がある。
対面には両手剣を背に立てかけたガイルがいる。
大柄な体躯ながら姿勢は正しく、その瞳には戦場で鍛えられた冷静さが宿っていた。
「さて……新しく迎えたギルドメンバー達の件だが」
ルーベンの声は柔らかい。だがその奥に、戦場とは別種の鋭さが潜んでいる。
ガイルは頷き、報告を始めた。
「王立学園出の者が三割、冒険者上がりが六割。残りは移籍組だ。いずれも若いが、実戦経験はばらつきがある」
「ふむ……例年通りだな」
ルーベンは短剣の柄を指で叩きながら、さらりと返す。
一拍置いて、穏やかな表情のまま問いを投げた。
「――ヨルキについてはどうだ?」
その名を出された瞬間、ガイルの眉がわずかに動いた。
「……得体の知れない奴だ。だが、剣の冴えはリシェルと並び立つほど。4ヶ月の任務も真面目にこなし、後輩に対しても礼儀正しい。いや、礼儀正しすぎるくらいだな」
ルーベンは目を細め、静かに相槌を打つ。
「短絡的に動くこともなく、慢心もしない。信用できる、と俺は思う」
卓上に沈黙が落ちた。
油灯の火が揺れ、壁に影が伸びる。
ルーベンはしばし瞑目し、やがて目を開いた。
「……そうか。それなら良かった」
声色は変わらない。
だがその奥で、何かを計算する気配だけが、確かに揺れていた。