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第21話 — 鋼青の一撃


森の影が裂け、”オーガ”の胸郭が樹間にせり出した。皮膚は黒曜石のように硬く、節理の割れ目が光を呑む。

肩は丸太、腕は樹根。握り締めた棍棒は切り株をそのまま引き抜いたような巨塊だった。


オークとは一線を画す筋力と耐久力、オーガ討伐には一頭当たりC級が最低3人は必要とされている。それでも上手くやれればの話であるが……。


「前列、肩を寄せろ、横へは散るな。」


リシェルの声に応じて盾が重なり、矢が一斉に放たれた。

白銀に近い淡い光を帯びた矢が皮膚の間で弾け、数本だけが浅く刺さって止まる。


低い唸りが土を震わせ、オーガが一歩踏むごとに根が悲鳴を上げるように軋んだ。


「押し出されるな、足幅は半歩短く。」


合図と同時、オーガの棍棒が横殴りに唸った。

空気が潰れ、盾の列に波紋のような衝撃が走る。

前衛の一人が弾き飛ばされ、背中から転がった。骨が嫌な音を立て、土に血がぬめった筋を描いた。


剣を握ったヨルキが、隊の前へと静かに歩み出た。


その背を見た瞬間、誰もが息を呑む。


空気が変わった。


冷たい水面のように静まり返った空気の中で、彼だけが“刃”だった。

動かずともわかる。

近づけば、斬られる。

それほどの緊張が周囲の空気を圧していた。


ヨルキの姿勢は自然体――だが、その一挙手一投足には、研ぎ澄まされた計算が宿っている。

踏み込みも、剣の角度も、呼吸の間すらも。

すべては“斬るため”に整えられていた。


視界の縁に、リシェルの頬と顎の線が一瞬映り、すぐにオーガの肩の付け根へ焦点が絞られた。

動きの“支点”を見る。振りの起点は肩甲骨の裏、呼吸の節目がわずかに遅れる箇所。そこに間がある。


敵が吠え、振り下ろした棍棒を、彼はわずかに身を傾けて躱す。

風のような動きだった。


ーーホリゾンタル


ヨルキの横一文字の斬りが淡い白銀に輝き、オーガの腹の皮膚に白い線を刻む。切れてはいない。だが、次に繋ぐための“印”は置ける。


「右、落とし穴の痕、踏むな。」


リシェルが駆け、細剣を滑らせる。彼女の剣の輝きは琥珀色にわずか濃く、下位より一段深い色合いで芯の太さが違う。”中位”の連撃を許す者の光だ。


ーーコンクルージョン


三度、星を結ぶような正確な突きが、肋骨の隙間、喉の脇、口内へと連なった。

いつもの彼女の調子に迷いはなく、線は細く、しかし決定的な深さで入る。


(通る。けれど、厚い。)


心の内でリシェルは判断を更新する。

急所へ置いた刃が“効く”までの手数が、いつもより一手二手、余計に要る。


オーガは痛みに怒声を上げ、棍棒を縦に降ろす。空気が沈み、土が盛り上がる。

盾の列が撓み、木片が弾けた。ジグは一歩前で角度を変え、衝撃を流す。


「左上、枝、抜け道だ、押し込むぞ。」


リシェルの声が再び“線”を引く。

そこへヨルキが滑り込む。

視界はもう狭く、しかし世界の密度は増している。

葉の一枚、息の一拍、敵の踵の角度。その全部が同じ高さに並ぶ。


ーーバーチカル・アーク


上段から斜め、そして縦へ。二本の軌道が白銀に切子のような光を撒き、オーガの肩甲の前をえぐった。筋束が裂け、血が黒い皮膚に滲む。


新米の一人が震える声で叫ぶ。


「す、すご……。」


震えは恐怖と陶酔の中間にある。ベテランが手を伸ばしてその肩を押し戻し、陣の穴を塞ぐ。


「まだだ、踏み込むな。」


リシェルが低く釘を刺す。視線は一瞬だけヨルキに触れ、すぐに敵へ返る。


(美しい。でも、その美しさは鋭すぎる。)

(刃は、舞の線と違って、戻しが遅れれば血の中に足を取られる。)


オーガが吠え、腕が大上段に持ち上がった。縦の重み。柱が落ちてくる。

盾の列では受け切れない。そう判断した瞬間、ヨルキの握りが変わった。


片手の直剣を、両の掌で包む。柄頭を腰に落とし、肩と骨盤の向きを少しずらす。息が、長く吐かれる。


(また披露する気か、ここで。)


リシェルの胸に、冷えと熱が同時に走る。


(制御できるのね。なら、わたしが“線”を開ける。)


「前列、退け、半歩。」


指揮の声と、ヨルキの肺の深い拍が重なった。直剣の縁に冷い光が流れ、色は白銀から、少し鋼の青へと落ちる。


下位の両手剣スキルの輝き。階位の違いを知る者たちは、一瞬の光だけで何が来るかを悟った。


ーーコラプス


踏み込みと同時に、落下の重みを刃に乗せる。上から、だが振り下ろすのではない。

重さを“渡す”。肩甲から、肘、手首、刃へ。足裏は土を押すのではなく、地の反力を背に返す。


オーガの棍棒が落ちるより一瞬早く、剣の鋼青が肩口に吸い込まれた。骨が割れ、筋が裂け、関節が千切れる。棍棒が空中で軌道を失い、巨体がわずかに沈む。


衝撃が遅れて周囲へ波紋のように伝わった。押していた重さが抜け、隊全体の呼吸が一拍遅れて解放される。


「今だ、右に回って首筋、浅くでいい、線だけ入れろ。」


リシェルが最短語で指示を飛ばし、自身は正面の“目”へ。


ーーオブリーク


斜めの高速突きが瞼の縁を射抜き、オーガの視界が赤で塗り潰される。顔が傾く。頸の腱が引かれる。

ヨルキはそこへ薄い一線を入れた。


ーースネーク・バイト


二度の小さな噛み跡。深くはないが、正確な“目印”。

背後ではベテランの槍が脚の腱を削り、オーガの膝が泥へ落ちた。


「落ちる、最後を合わせるぞ。」


リシェルが息を吸い、瞳の色が夜の底のように深くなる。


(わたしが前、あなたが脇、三息まで刃を留める、四つ目で抜く。)


自分へ言い聞かせるように、ヨルキへ誓うように。


ーーコンクルージョン


喉、舌根、頸動脈に三つの針穴を刻む。血が噴く。

同時、ヨルキの刃が“渡し”の角度で頸の筋を断つ。


ーーバーチカル


白銀の一閃が、最後の支えを砕いた。

オーガの巨体が、土と血の泥へ重く崩れ込む。振動が足裏から背骨へ駆け上がり、耳の奥がしばらく鳴り続けた。



沈黙が一拍、戦場を覆った。

それから遅れて歓声、息、咳、そして痛みの報告が還ってくる。


「止血、ここ、押さえろ。」

「矢は抜くな、切って短くしろ。」

「毒の色、舌を見せろ。」


実務的な声が飛び交い、ベテランたちは習熟した手際で被害を最小に畳む。

新米は震える手で布と水を運び、指示の意味を体で学ぶ。


ヨルキは刃を拭い、息を落とす。

胸の奥で、静かな熱が持続している。戦いの火ではない、内側に灯る“線”の熱。

リシェルが歩み寄り、ほんの少し顎を引いた。承認の角度だ。


「見事。」


短い褒め言葉。

だが、次の言葉は冷ややかに重い。


「けど、多用はしない。」


ヨルキは黙って頷いた。

剛剣は見せた。だが、使い所を間違えれば“失う”という迷信が隊の骨に染みている。

彼自身もまた、刃を粗く振るって光を濁らせるつもりはない。


(さっきの一撃は美しかった、だから剣神は祝福したのね。)


リシェルは胸の内でそう結び、しかし同時に別の線を引く。


(けれど、彼は笑ってはいなかったか。)


刹那、確かに見た。奥歯の裏から零れるような、薄い笑み。

血と音と破壊が開く“領分”に、足を踏み入れた者だけが浮かべる形。


(連れていく。見ておく。戻す言葉を、わたしが持っておく。)


リシェルはヨルキに戦士ーー殺す者としての危うさを感じていた。


「命を喰らうエツを知れば、剣は己を喰らう」


師匠の言葉を呟く。


彼女は視線を落とし、ためらいなく次の指示へ移った。


「ここは焼いていく。匂いを残すな、骨は集めて奥の窪地へ。」


灰と血と水が混ざり、湿った煙が低く漂った。



処理を終えた一行は、薄闇の差す樹間を縫って拠点へ戻った。疲労は骨に沈み、鎧の紐が汗で重い。

足裏は土の柔らかさを忘れ、石を欲した。会話は最小で、息と足音と荷の軋みだけが列を繋ぐ。


前を行くリシェルの横顔は静かで、火の近くでもないのに頬にかすかに光沢がある。

体温がまだ戦闘の域にある証拠だ。


彼女はふと目だけを横に動かし、ヨルキの握りを見た。


(柄の位置、肘の余白、肩の落とし方。やはり、自然体ね。剣は彼の“姿勢”そのもの。)


それは敬意だ。剣を捧げる者として、良い剣筋に対して払う、純粋な礼。

同時に、胸の底で小さな棘が疼く。


(でも、あの笑みは忘れない。あれは剣の悦びではなく、殺しの快楽に近い。あれは冷たい水だ。冷たさは鋭さを与えるが、体温を奪う。)


彼女は息を整え、意識の“線”を遠景から近景へ滑らせた。



二年目の荷物奴隷。


血の匂いがまだ空気に残っていた。

戦場のざわめきが落ち着き、重い鎧が軋む音や仲間の荒い息が耳に染み込む。


そんな中で、ふと振り返った先にヨルキの姿があった。


あの男の剣は、確かに光っていた。

ただの下級奴隷だったはずの男の剣が、神に祝福されたかのように軌跡を描き、オーガを断ち伏せた。


(馬鹿な……。)


思わず胸の奥で呻いた。

自分は二年、この炎狼ギルドの荷物持ちとして働き続けてきた。泥を啜り、前衛の背中に隠れ、使い潰される石ころのような日々。スキルなど夢のまた夢、せいぜい死なずに次の依頼に連れていってもらうことだけを望んでいた。


それなのに――たかが新参が、奴隷が、たった一度の戦で“あの光”を見せた。


嫉妬が腹を焼くように湧き上がる。


(なぜだ。なぜ俺ではなく、あいつが……。)


自分は二年も耐えてきたのに、報われることなど一度もなかったのに。


だが同時に、足がすくむほどの畏怖もあった。

剣を振り抜いた瞬間のヨルキの顔。あれは戦いに酔っていた。人の命を断つことに快楽を覚えた狂気の顔だった。

本能が告げる。あの男には近づくな、と。

比べることすら愚かだ、と。


視線が交わった。

ヨルキの黒い瞳がこちらを射抜いた瞬間、息が詰まる。胸が凍りつき、喉が勝手に鳴って視線を逸らした。


畏怖と嫉妬と、どうしようもない惨めさが胸を掻きむしる。


(あいつは、もう“俺たち”の側じゃない。)


二年間の劣等と忍耐を積んできたはずの自分が、たった一振りで追い抜かれた。

いや――最初から同じ地平にはいなかったのだと、痛烈に思い知らされた。



拠点の柵が見え始め、焚火の淡い橙が樹間に浮かんだ。

門の手前でリシェルが立ち止まり、手短に各班へ指示を飛ばす。負傷の移送、毒の経過観察、矢の再整備、刃の研ぎと油。

最後にヨルキへ視線を置く。


「刃を磨いて、飯を食べて、すぐに横になりなさい。」


「はい。」


「それから、今日の“それ”は、ここぞという時だけに。」


「分かっています。」


短い応答。

ヨルキの声は落ち着いていた。

彼自身、内側の線がまだ熱いのを感じていたが、その熱を外へ漏らすつもりはない。剣は見せるために振るものではなく、生き残るために置くものだ。


(言葉で抑え込むより、線を見せることね。)


リシェルは心で呟き、彼の肩に軽く視線を落とすだけに留めた。触れない。距離を誤れば、彼の線を乱す。



夜が広がり、拠点の中は最低限の話し声だけになった。飯の湯気が薄く漂い、塩と油の匂いが疲労を溶かす。

ヨルキは刃を拭い、石に軽くあてて縁を整え、布で油を薄く延ばした。手順は短く、無駄がない。


背へ視線を感じて振り向くと、先ほどの古参奴隷が少し離れた柱の陰にいた。彼は目が合った瞬間に視線を下へ外し、肩をすぼめるようにして去った。


(俺は何もしていない。)


ヨルキはそう思いながら、同時に自分が“何か”をしてしまったことも理解していた。

剣は語る。

語り過ぎれば、いらぬ敵意も呼ぶ。

だが、必要な場で語らなければ、誰も生き残れない。


彼は息を吐き、刃を鞘へ戻した。



「ヨルキ。」


低く名を呼ぶ声。振り返ると、リシェルが立っていた。

焚火の橙が彼女の頬に薄く映え、冷えた灰色の瞳が柔らかく見える。戦闘の熱は既に引き、代わりに静かな集中が戻っている。


「さっきの件、もう一度だけ。」


彼女は近づかず、遠すぎもせず、刃の届かない距離に立つ。剣士が無意識に選ぶ安心の幅だ。


「あなたの剣は美しい。だから敬意を払う。」


一拍。


「でも、美しい刃ほど人は寄る。寄ると、倒れる。」


もう一拍。


「わたしが前に立つ。明日も、明後日も。」


それは約束であり、命令であり、祈りに近い。

ヨルキは静かに頷いた。


「お願いします。」


その言葉に、リシェルはごく薄く笑みを見せ、踵を返した。


(まだ大丈夫。まだ、戻れる。)

(三息で守り、四息で奪う。わたしが彼の“息”を守る。)


彼女の内心は、剣に身を捧げる者の静かな誓いの形に落ち着いていた。



寝具に体を沈めると、体の芯に熱が溜まっているのをヨルキははっきりと感じた。筋肉が“成長痛”のように鈍く疼き、視界は暗いのに、輪郭はむしろ冴える。血の巡りが早い。耳の奥で脈が小さく鳴る。

眠りが来るまでの短い隙間に、彼はひとつだけ思う。


(もっと、遠くへ行ける。)


そして、何も知らないまま眠りに落ちた。

善神の教えも、神殿の言葉も、まだ彼の中にはない。

ただ、身体の奥で、静かに何かが“積み上がる”感覚だけがあった。


拠点の天蓋の外で風が枝を撫で、遠くの闇のどこかで、また新しい気配が生まれては消えた。

戦は続く。

明日もまた、剣は線を描く。


そして、誰かはそれを美しいと言い、誰かはそれを恐れる。

それで、いい。

いまは、ただ生きて戻るだけだ。



夜が深まるにつれ、焚火の赤は核だけになり、灰が呼吸するように小さく膨らんでは萎んだ。

ヨルキの胸は静かに上下し、その横で、リシェルはしばらく目を閉じたまま剣の柄に指を置いていた。


(守る。戻す。折らせない。)


祈りの形を取りながら、彼女は眠りに落ちた。

灰の匂いと、鉄の匂いと、草の匂いに包まれて、戦場の夜は、ようやく音を失った。





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