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第19話 — 声と鼓動


焚火はほとんど灰になり、息を吹き返すたび赤い核がぎゅっと縮んで、またゆっくり開いた。

第二の見張りが柵の外を巡り、矢羽根の乾いた匂いだけが風に乗る。

黒土の冷たさは夜になると骨まで透ってきて、寝具の上の体温を底から剥がしていくようだった。


「起きてる?」


声は、焚火の向こうから。澄んでいるのに低く抑えた響き。


リシェルだ。


腰に剣、肩に薄布、昼の戦いでほどけた髪を結び直し、頬には煤の名残。火の残り火が彼女の輪郭を柔らかく縁取る。


「はい。」


上体を起こすと、癖で背板の角に手が伸びる。荷はない。ただの板ではない重みが掌に“ない”ことが少し心細い。


リシェルは俺の寝具の脇にしゃがみ、片膝を土についた。近い。焚火の熱ではなく彼女の体温の方がはっきり分かる距離。


草木の匂いと、薄い香草の油の香りが微かに鼻をくすぐる。


「さっきの“斬り”。」


彼女は言葉を探すように短く切ってから続けた。


「初めてじゃない。手が覚えてる人の動きだった。」


視線がまっすぐに来る。近さのせいで睫毛の影が火に揺れ、瞳の中の光がいくつも割れて見えた。呼吸が詰まり、心臓が一瞬だけ“間”を飛ばす。


「……自分でも驚きました。握った瞬間、分かったんです。どう重さを受けて、どこで返せばいいか。」


喉の奥で跳ねる声。胸の内側の熱は戦いの熱ではない。もっと落ち着かない、細かい脈の方だった。


「危うかった。」


リシェルの指が、空気を撫でるように肩口の高さで止まり、やがて鎖骨の辺りへふわりと近づく。触れてはいない。けれど触れられたと錯覚するほどの距離。

皮膚がそこだけ先に温度を拾い、心臓がまたひとつ余計に打った。


「熱が上がると視界が狭くなる。あなた、噛んで殺したわね。」


「見てましたか。」


「ええ。」


彼女の口元が、ほんの少し上がる。いたずらを見つけた子どものような笑み。相手の緊張をひと呼吸だけ緩める角度だった。


「でも、戻った。声に反応して線を繋ぎ直した。——そこが良かった。」


頷いた彼女の髪がさらりと肩で落ちる。光の少ない夜で、色は金でも銀でもなく灰の柔らかい輝きに見えた。

無意識に目で追ってしまい、我に返って視線を戻す。その仕草を見てか、リシェルが少しだけ身を寄せた。


「怖い?」


「……少し。」


正直に出た。怖さは戦そのものより彼女の距離に対して。近い。肌理が見える。口元に水気。喉の影が呼吸に合わせ上下し、薄い鎧の下で鎖骨の線が浮いて沈んだ。


「わたしは、怖くない。」


囁く声。


「あなたが隣にいるのは。今夜は特に。」


鼓動が跳ねる。彼女は気づいている。わざと気づかぬ顔で言葉を続ける。


「明日も“押し”が来る。十層は入り口にすぎない。だから確認したかったの。あなたがどこまで刃を置けるか、どこで戻って来られるか。」


「戻ります。」


言い切った瞬間、彼女の顔がさらに近づいた。瞳は夜の色で、その中央に焚火の点が一つ映る。頬の肌理、睫毛、唇の柔らかさ。

意識の半分は戦の線を探す癖で散らばり、残り半分が彼女の輪郭へ吸い寄せられる。


「なら、ひとつ。」


リシェルが指を一本立てる。その指は胸の前、息に合わせてゆるく揺れた。


「三息守って、四息で奪う。昼に言った約束、覚えてる?」


「はい。」


「それ、夜も。気持ちが走ったら、三つ数えて、四つ目で“戻る”。わたしもそうする。——合わせる。」


最後の言葉を言う時、彼女は指先ほど身を寄せた。薄布の端が手の甲に触れる。

柔らかい。脳がその感触しか拾わなくなるのを意識で引き戻す。三つ数えろ。心の中で彼女の声が響く。


「一、二、三。」


小さく数えると、胸の脈が少し落ち着いた。彼女は確かめるように一瞬黙り、目尻だけを和らげた。


「いい子。」


不意打ちだった。慣れていない種類の言葉。顔に熱が上がる。リシェルはわざとだ。楽しんでいる気配。だが悪意もからかいもなく、様子を見て試し、安心させる。そんな人。


「それと。」


彼女は右手で俺の手首を取った。剣を握る側。節の皮が剥け、掌に新しい豆。親指がそこをなぞる。痛くはないが神経が一点へ集まる。


「握りは、そのまま。明日は握り直さないで。」


「はい。」


「振りを“大きくしない”。肩の前で返す。それから——」


耳元に唇が寄った。声が皮膚に触れる。


「笑ってもいい、内側で。」


甘い電流が背を走り、肺が勝手に縮む。彼女は離れ、普通の距離に戻った。火がまた輪郭を取り戻し、焚火の灰がぱち、と弾ける。


「もう少し話したかったけど、見張りに悪いわね。」


立ち上がる動きは静かで音を立てない。揺れた薄布を片手で直し、顔だけ振り返る。


「ヨルキ。」


名を確かめるように呼ぶ。


「生きて。わたしの“前”で。」


「……はい。」


返事が喉から出たのか胸で鳴ったのか分からない。彼女は満足げに頷き、闇へ溶けるように去った。足音はなく、気配だけが背に残る。


静けさが戻る。風が枝を撫で、遠くで誰かが寝返りを打つ。鼓動はさっきより速いが乱れていない。

三息、四息——数えることが落ち着きを連れ戻す。彼女のやり方は戦いのやり方で、生き方のやり方だ。


手の甲に触れた薄布の感触が残る。指先に親指の温度が灯のように残る。目を閉じる。闇は濃いが怖くない。焚火の赤がまぶたの裏に小さな円を作り、さっきの瞳の光点が浮かぶ。


ヒロイン、という言葉を、この世界で思い浮かべたのは初めてだった。似合わない語だと思う。けれど今夜だけは、それでいい。彼女は前に立ち、俺はその背を刃で支える。支えるために、今は眠る。


深く吸い、ゆっくり吐く。胸の奥の灯は風に強い。彼女が言ったとおりだ。三息で守り、四息で奪う。明日のために、今は守る番。


瞼が落ち、森の気配が遠のく。最後に残ったのは、彼女の声の余韻と、薄布の柔らかさだった。



眠りの底で、体が熱を帯びた。血が逆流するように、芯から指先まで熱が広がる。痛みではない。鋭敏な研ぎ澄まし。呼吸ひとつが長く深く、皮膚の感覚が倍に伸びる。筋肉の動きがひとつひとつ明瞭で、骨の軋みすら音を持った。熱はやがて落ち着き、眠りへ還る。


何が起きたのか分からない。だが確かに、何かが変わった。




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