第18話 ー 刃が呼ぶ名
最初の決壊は静かだった。
右の前衛、新米に近い若者の足運びのわずかな遅れ。
棍棒の衝撃が肩から腰へ落ちるとき、置き直しが半足遅れた。
そこへ二体目の棍棒が斜め上から肩口を叩く。板の端が砕け、鉄の留めが飛ぶ。
衝撃が骨に直撃。
膝が折れ、転倒した若者へ一体目の突進が重なった。
土と血が同時に飛ぶ。
声は出なかった。
空気が肺から一気に抜け、代わりに血が喉の半ばまでせり上がる。
二体目の棍棒が落ちる前に、三体目の剣が斜めに入った。
盾と肩の隙を狙う汚い角度。
皮鎧の継ぎ目を裂き、胸骨の右をかすめ、肺の上へ深く。
◆
鉄の匂いが立ち、若者の手から”直剣”が滑り落ちる。
柄が黒土で弾み、俺の足元へ転がった。
時間が伸びる。
喚きも血の泡立ちも枝の羽音も遠い。なのに鮮明だ。
若者の眼がこちらを向く。
現実を掴もうとして掴み損ねる瞬間の空白が、肺の奥で拡がった。
ーー拾え。
誰かが言った気がした、声ではない、背骨の内側を指でなぞられたような古い約束の命令。
右手は体の意志より速く動く。
転がった剣の柄へ伸びる。
血と汗で濡れた金具の柄に、指が——馴染んだ。
握った瞬間、胸の霧が一気に晴れた。
「ッ……はは」
この全能感に笑みが込み上げようとする。
重さが重みに変わり、柄の起伏を数える掌の皮膚が目を覚ます。
親指と人差し指の付け根で押さえる角度、薬指で締める強さ、柄頭で勢いを止めず返す勘所。
全部がそこにあった。
視界が明るくなる。
光量ではない、輪郭がくっきり立ち、遠近が一段深くなる。
オークの肩の筋束の走向、古傷の浅深の色差、棍棒の木目、黒土に立つ細い根。
全部が同時に見え、どれが死を遠ざける線かが分かった。
左足が斜めに半歩、右足が続き、腰が剣を迎えにいく。
斬るというより撫でる初動、刃を置く。
置かれた刃は皮膚で止まらず、弾まず、滑らず、正しい角度で沈む。
下から上へ、棍棒の腹の下、肘の前、尺骨の突起の前を通す。
刃は腱を選び、震えの走りで深さを測る。骨の抵抗が来て骨は斬れない。
だが割れる。
角度を半寸変えて繊維が鳴り、上体が傾く。
そこで右足がさらに半歩、刃は鎖骨上窩の柔らかさへ滑り込む。
突きではない、引き切りだ。
胸鎖乳突筋の根元で止めず、わずかに上げる。
気管の前を浅く裂き、血の圧が刃を押し上げようとする。
それを前腕の回内で逃がす。
俺は斬っていた。
驚く自分が奥にいた、驚いていても剣は止まらない。
身体が知っている。
どこで抜き、どこで足すか、どちらへ逃がし、どちらへ集めるか。
刃が木を、肉を、腱を、骨の前で撫でるように導かれ、結果として断つ線を辿る。
「下がれ。」
ジグの声。
それより先に視界の左端で棍棒の軌道を見ていた。
首幅だけ、いやそれより薄く肩先を滑らせて退く。
風が耳殻を撫で、背後の幹が硬い音を立てる。木屑が頬に刺さる。
その手前で俺の刃は、振り切った腕の戻りを逃がさぬため、肘の内側を待った。
刺さない、叩かない、置く。
戻りの力で勝手に深くなる。
肘は力を失い、棍棒が黒土へ落ちる。
落下の重さが時間をくれる、その時間で左足がもう一歩。
今度は強く踏む。
腰が回り、刃が低く走る。
下腹の毛が薄いところ。薄い筋膜の下。
浅く通し、黄色い脂の匂いが強くなる。上体が折れる。
首の付け根が俺の目の高さに降りてきた。
「ヨルキ、退け。囲まれる。」
リシェルの声が近い、刃の届く距離のすぐ外だ。
俺は応じる代わりに、刃を肩の上に上げず、肩の前で小さく返す。
大振りは隙、ここは間。
背筋が締まり、前鋸筋が肋の上を滑る。
刃は低いまま半円を描く。
喉の前で短く跳ね、表層を浮かせ、浮いた皮へ刃先を差す。
引く。腕だけでなく肩で、腰で引く。
喉の管が切れ、音が漏れなくなる。
黒点の目が一度上へ走り、前へ落ちた。
「ひとつ、二つ。」
数えが続く。
息を吐く、吐きながら刃の腹で血を拭い、拭いながら次へ向かう。
間を生かす、間が死ねば自分が死ぬ。
足元で若者はまだ温かった。
息は泡立ち、目は焦点を失い、唇が薄く震える。
その脇を過ぎる、罪悪感が胸を掴みに来た。
それを刃の重みが押し返す。
ここで止まれば彼の死は二つになる。
俺の死が足される、止まらない。
生き残ることだけが、意味を彼へ返す。
◆
押しと引きの均衡がこちらへ傾く。
そのとき森の奥で短く乾いた音がした、金属が擦れずにぶつかる芯のある音。
粗く鍛えた大きな刃と固いものの衝突。
根と空気の振動が、それが“いつものオークではない”と告げる。
上位の個体、群れの腕。
見るより先に、目は厚みを測り、刃はどこまで入るかを予測し、腕はどこで止まるかを想像し、足はどこに置くかを選ぶ。
握り直さない、最適はすでに手の中にある。
「ヨルキ、前へ出すな。右へ回せ。」
ジグは俺の“進みたがる道”を読む。
右へ。狭さを維持し、ひとつずつ落とす。
頷かず、薄い通りに剣先で線を引くように進む。
リシェルは半身前、俺の線と隊の線の境に立ち、刃を高くせず、高くする準備だけを整えた。
横から投げ込まれる乱れを、その刃先で梳くように払う。
黒土がほんの少し盛り上がる、縁で小石が震える。
樹の陰から肩が出る、小山の角のような肩だ。
肩甲棘の上にもう一枚の肩があるみたいに筋が重なり、首は短く太い。
顎は前に突き、牙は長く、根元は古い欠け痕で黒く、左の耳は半分ない。
手に持つのは剣というには粗い鉄塊。
だが刃は通るところだけよく研がれ、空気を低く唸らせる。
上位オーク。ここでの門番だろう。
前へ出たくなる、腕が熱い。
握った瞬間から続く高揚が胸を押し上げる。
それを足の指で黒土を掴んで下へ落とす。
出るのは一歩でいい。出す場所だけが重要だ。
上位オークの剣が滑る。
振り上がらない、肩の前で小さく返し、腹で空気を巻き、水平の斬りを低く走らせる。
首を狙う角度ではない。
肩と腕の境、鎧の継ぎ目、あるいは盾の端。
反射で受ければ負ける、避ければ次が来る、下がれば飲まれる。
しゃがまない、飛ばない、退かない。
代わりに、刃を先に置く。
相手の剣線の内側、柄と手の間、親指の付け根の薄い皮膚の、少し手前。
自分の刃の腹を滑り込ませて合わせる。
ぶつけない。
噛めば負ける、摩れば、線が一瞬浮く。
浮いた隙に刃先が手の薄皮へ引っかかる。
薬指側だけを少し締め、親指と人差し指は締めない。
掌で剣が転がる余地を残す。
相手の線を崩さず、自分の刃を浅く入れる。
浅い切りは痛みより反射を呼ぶ。
手は開く、開けば剣が落ちる、落ちれば重さが音になる。
落ちなかった、それを掴み直した。
握力が常を超えている。薄皮は裂け、血は出たはずだ。
それでも筋束は離さず、剣は重さを維持する。
捻りの押し返しが刃の背にかかり、手首が鳴った。
楽しくなりかけ、喉の奥で何かが”笑って”熱が上がる。
それを歯で噛む。
笑えば視界が狭くなる、狭くなれば死ぬ。
笑いは内側に置け、眉は動かさない。
刃を引き、右足を半歩死角へ送る。
剣風が前髪の先で跳ね、返り風で胸の皮膚が僅かに盛り上がる。
斜面ができる、刃は滑る。
低く、低いまま。
腹の皮膚の下、筋膜の上に触れ、通り過ぎる。
目を上げない、顔へ行きたくなるからだ。
牙は罠だ、罠は避ける。
「押すな。削れ。」
リシェルの”試す”ような指示が背骨に沿って滑る、押さない、削る。
削るのは、相手の戦い方だ。押させる。押し切らせて空を切らせる。
その空に刃を置く。
踏み込みが来た。黒土が鳴り、根が悲鳴を上げる。
肩が前へ出る瞬間、短く太い首の守りが甘くなる。
肩の筋の陰に頸動脈の線が浅く現れる。刃が走る。
肩の陰に沿って上がり、頸の前へ届く前に肩の前で一度止める。
止めることで圧が腹に移り、皮膚が浮く。
浮いた皮膚へ半寸だけ刃先を入れる。
そこから引く。
肩甲骨で引き、背筋で引き、足で引く。
右足が黒土を掴み、左足が追い、腰の回転が刃に伝わる。
薄い水を切るように進む。
血は遅れて出る。遅れが時間を生む。時間があれば生きる。
「ヨルキ。」
距離警告。死角の外。
左の二体目が槍を持っていた。
粗い柄に鉄片を束ねた先、突くというより突き倒す武器。
俺の肋の高さへ来る。
退けば間に合う。退けば、いまの線が死ぬ。
線が死ねば門番は生きる。
退かず、左肘を畳み、刃の背を自分の肋に寄せる。
背で槍先を払う。水平ではない。僅かに斜め下へ。
払った先を地面へ流す。槍先が黒土に刺さり、柄がしなる。
反動で二体目の体が半歩前へ。
そこに、”リシェルの刃”が先にあった。
彼女の斬りは俺より短い、しかし深い。
肋の間を選び、肺の浅いところで止め、そこから押し返す。
嫌がる肉が刃を吐き、刃は自分から穴を出る。すぐ次の穴を探す。
「右寄せろ。左抜け。」
合図に体が先に動く。
頸から遅れて出た血が、ようやく刃の背に温さを置いた。
温さはご褒美ではない。気を緩めさせる罠。
布で拭い、足で忘れる。
一息。短く浅い。肺は熱い。指は冷たい。
柄の汗は乾き、掌の皮を食う。心地よい。
心地よさが首へ上がる。噛み殺す。
リシェルが横目で俺を見る。線を確認する目の次に、ほんのわずか柔らかくなり、すぐ硬く戻った。
俺は笑っていない。けれど口の端が上がりかけたかもしれない。
甘い囁きは毒だ。毒は少しだけ飲め。動けるだけ飲め。
「ひと息で落とすな。三息で崩せ。」
剣そのものの教えに聞こえる、リシェルは俺のすぐ近くで見ている。
刃を下げ、上げず、また下げる。
上げないと相手の目は上を探す。いないと下で死ぬ。
足が半歩遅れ、小石が音に変わる。
音を刃が聞く。刃は耳だ。俺の耳よりよく聞く。
縦の一撃が落ちる。遅い。重い。深い。
受けさせるための遅さ。折るための深さ。受けない。受けさせない。
半歩右、半歩前。
脇腹の肋の上の薄いところをかすめ、骨の鳴りで角度を変える。
なでれば割れる。割れれば呼吸が崩れる。呼吸が崩れれば力は抜ける。
「三。」
数えが落ちの合図に重なった。
膝がほんの少し沈む。沈みに刃を入れる。
(首の横。胸鎖乳突筋と僧帽筋の境。)
そこから奥ではなく、斜め上へ。引き上げるように通す。
骨は斬れない。だが関節は外れる。
重さが仕事を手伝う。
良い重みが肩に乗った。
正しい道を通ったときだけ返る手応え。
背中の古傷は疼かず、熱を上げる。熱は甘い。噛む。
彼女は見たのかもしれない。俺の”口の端”。
見ても言わない。今は戦だ。
「抜けるぞ。右で合流。」
刃を引き抜き、血の線を黒土へ落とす。
温かさはもう甘くない。
掌で重みを数えながら、隊の線へ戻った。
◆
押し返しは短く鋭かった。
門番が倒れると、群れの押しは鈍る。
残ったオークは怒りに筋肉を持て余し、棍棒は空を切る。
足の間合いは乱れ、弓が眼を削ぎ、槍が腹を取り、リシェルの刃が喉を撫でる。
数は減った。
「ひとまず、ここまで。」
ジグが輪を作って合図した。
前へ出すぎるな。生きているの確認が先だ。
刃を拭き、柄の汗を袖で拭う。
落ちた若者の脇へ膝をつく。まだ温かい。
目は閉じられていない。閉じるのは俺の役ではない。
俺の役は、生きることだ。
胸骨には触れない。触れれば折れる。折れば空の重さが増えるだけだ。
「お前の剣、借りる。」
誰に向けてか分からない声が出た。若者か。剣か。自分か。
答えはない。必要もない。
刃は手の中にある。
手の中にあるものだけが、今の真実だ。
リシェルがそばへ来る。
俺の剣先と足の位置を一瞥し、胸の上下で息の深さを測るように見て、目だけで問う。
ーーまだいけるか。
頷かない。頷けば首筋の熱が血へ落ちる気がした。
代わりに刃の角度を少し下げて見せる。
それで十分と判断したのか、彼女は短く残す。
「三息、守る。四息め、返す。」
それは約束であり、教えだった。
俺が三息の間は守りに回り、四息めで奪いにいく。
言葉は短いほど信頼は強い。
深く吸い、長く吐く。
熱はまだ舌の奥に残る。残っていていい。残りを使えばいい。使い切るな。残せ。次のために。
刃は軽い。軽さは飢えだ。飢えを満たすのは敵の血ではない。俺の呼吸だ。
「行くぞ。抜け道は右の幹の陰。倒木の下。二人ずつ。」
ジグの声が終わりと次を連れてきた。
第10層はまだ口を閉じていない。今のは入り口の牙を一本抜いただけだ。
奥にはもっと太い牙がある。そこへ行くために、今は生きる。
握り直さない。呼吸だけを変える。
呼吸が変われば世界の速度が変わる。世界の速度がこちらに合ってくる。
黒土の匂いが少し軽くなった。胸の奥の灯が強くなる。
強い灯は風に強い。ここにはいつでも風が吹く。
吹く風の中で、刃は歌う。剣の歌だ。その歌を、ようやく思い出した。
歩く。刃を低く、目を高く、息を長く、熱を噛む。
リシェルが半身前。ジグの声が少し後ろ。
矢羽根の乾いた匂いが肩越しに、黒土の冷たさが足裏に、刃の重さが掌に。
それだけで戦える。今はそれでいい。今はまだ。
森がまた息を止めた。次の牙が顔を出すために。
俺は息を吐いた。準備はできている。いや、ずっと前からできていたのかもしれない。
握った瞬間に戻ってきた身体の記憶は、ここで使うためにあったのだと思える。
刃先がわずかに震えた。寒さではない。
歓喜だ。
その震えを舌で噛み、静かに笑う。内側で。外側では笑わない。
リシェルが横目で一瞬だけ俺を見て、何も言わずに前を向いた。
その沈黙が、俺を人間の側に繋ぎ止める紐になった。
「行く。」
声にならない声で自分に告げ、黒土を蹴る。
刃は道を知っている。今はただ、その言うことを聞けばいい。