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第18話 ー 刃が呼ぶ名


最初の決壊は静かだった。


右の前衛、新米に近い若者の足運びのわずかな遅れ。

棍棒の衝撃が肩から腰へ落ちるとき、置き直しが半足遅れた。


そこへ二体目の棍棒が斜め上から肩口を叩く。板の端が砕け、鉄の留めが飛ぶ。

衝撃が骨に直撃。


膝が折れ、転倒した若者へ一体目の突進が重なった。

土と血が同時に飛ぶ。


声は出なかった。

空気が肺から一気に抜け、代わりに血が喉の半ばまでせり上がる。

二体目の棍棒が落ちる前に、三体目の剣が斜めに入った。


盾と肩の隙を狙う汚い角度。

皮鎧の継ぎ目を裂き、胸骨の右をかすめ、肺の上へ深く。



鉄の匂いが立ち、若者の手から”直剣”が滑り落ちる。


柄が黒土で弾み、俺の足元へ転がった。


時間が伸びる。

喚きも血の泡立ちも枝の羽音も遠い。なのに鮮明だ。


若者の眼がこちらを向く。

現実を掴もうとして掴み損ねる瞬間の空白が、肺の奥で拡がった。


ーー拾え。


誰かが言った気がした、声ではない、背骨の内側を指でなぞられたような古い約束の命令。

右手は体の意志より速く動く。


転がった剣の柄へ伸びる。

血と汗で濡れた金具の柄に、指が——馴染んだ。


握った瞬間、胸の霧が一気に晴れた。


「ッ……はは」


この全能感に笑みが込み上げようとする。


重さが重みに変わり、柄の起伏を数える掌の皮膚が目を覚ます。

親指と人差し指の付け根で押さえる角度、薬指で締める強さ、柄頭で勢いを止めず返す勘所。

全部がそこにあった。


視界が明るくなる。


光量ではない、輪郭がくっきり立ち、遠近が一段深くなる。

オークの肩の筋束の走向、古傷の浅深の色差、棍棒の木目、黒土に立つ細い根。


全部が同時に見え、どれが死を遠ざける線かが分かった。


左足が斜めに半歩、右足が続き、腰が剣を迎えにいく。


斬るというより撫でる初動、刃を置く。

置かれた刃は皮膚で止まらず、弾まず、滑らず、正しい角度で沈む。


下から上へ、棍棒の腹の下、肘の前、尺骨の突起の前を通す。


刃は腱を選び、震えの走りで深さを測る。骨の抵抗が来て骨は斬れない。


だが割れる。


角度を半寸変えて繊維が鳴り、上体が傾く。

そこで右足がさらに半歩、刃は鎖骨上窩の柔らかさへ滑り込む。


突きではない、引き切りだ。

胸鎖乳突筋の根元で止めず、わずかに上げる。

気管の前を浅く裂き、血の圧が刃を押し上げようとする。

それを前腕の回内で逃がす。


俺は斬っていた。


驚く自分が奥にいた、驚いていても剣は止まらない。


身体が知っている。


どこで抜き、どこで足すか、どちらへ逃がし、どちらへ集めるか。

刃が木を、肉を、腱を、骨の前で撫でるように導かれ、結果として断つ線を辿る。


「下がれ。」


ジグの声。

それより先に視界の左端で棍棒の軌道を見ていた。

首幅だけ、いやそれより薄く肩先を滑らせて退く。


風が耳殻を撫で、背後の幹が硬い音を立てる。木屑が頬に刺さる。

その手前で俺の刃は、振り切った腕の戻りを逃がさぬため、肘の内側を待った。


刺さない、叩かない、置く。

戻りの力で勝手に深くなる。


肘は力を失い、棍棒が黒土へ落ちる。

落下の重さが時間をくれる、その時間で左足がもう一歩。


今度は強く踏む。


腰が回り、刃が低く走る。

下腹の毛が薄いところ。薄い筋膜の下。


浅く通し、黄色い脂の匂いが強くなる。上体が折れる。

首の付け根が俺の目の高さに降りてきた。


「ヨルキ、退け。囲まれる。」


リシェルの声が近い、刃の届く距離のすぐ外だ。


俺は応じる代わりに、刃を肩の上に上げず、肩の前で小さく返す。

大振りは隙、ここは間。

背筋が締まり、前鋸筋が肋の上を滑る。

刃は低いまま半円を描く。


喉の前で短く跳ね、表層を浮かせ、浮いた皮へ刃先を差す。

引く。腕だけでなく肩で、腰で引く。

喉の管が切れ、音が漏れなくなる。

黒点の目が一度上へ走り、前へ落ちた。


「ひとつ、二つ。」


数えが続く。


息を吐く、吐きながら刃の腹で血を拭い、拭いながら次へ向かう。

間を生かす、間が死ねば自分が死ぬ。


足元で若者はまだ温かった。


息は泡立ち、目は焦点を失い、唇が薄く震える。

その脇を過ぎる、罪悪感が胸を掴みに来た。

それを刃の重みが押し返す。

ここで止まれば彼の死は二つになる。


俺の死が足される、止まらない。

生き残ることだけが、意味を彼へ返す。



押しと引きの均衡がこちらへ傾く。

そのとき森の奥で短く乾いた音がした、金属が擦れずにぶつかる芯のある音。


粗く鍛えた大きな刃と固いものの衝突。

根と空気の振動が、それが“いつものオークではない”と告げる。


上位の個体、群れの腕。

見るより先に、目は厚みを測り、刃はどこまで入るかを予測し、腕はどこで止まるかを想像し、足はどこに置くかを選ぶ。

握り直さない、最適はすでに手の中にある。


「ヨルキ、前へ出すな。右へ回せ。」


ジグは俺の“進みたがる道”を読む。

右へ。狭さを維持し、ひとつずつ落とす。

頷かず、薄い通りに剣先で線を引くように進む。


リシェルは半身前、俺の線と隊の線の境に立ち、刃を高くせず、高くする準備だけを整えた。

横から投げ込まれる乱れを、その刃先で梳くように払う。


黒土がほんの少し盛り上がる、縁で小石が震える。

樹の陰から肩が出る、小山の角のような肩だ。

肩甲棘の上にもう一枚の肩があるみたいに筋が重なり、首は短く太い。


顎は前に突き、牙は長く、根元は古い欠け痕で黒く、左の耳は半分ない。


手に持つのは剣というには粗い鉄塊。


だが刃は通るところだけよく研がれ、空気を低く唸らせる。


上位オーク。ここでの門番だろう。


前へ出たくなる、腕が熱い。

握った瞬間から続く高揚が胸を押し上げる。

それを足の指で黒土を掴んで下へ落とす。

出るのは一歩でいい。出す場所だけが重要だ。


上位オークの剣が滑る。


振り上がらない、肩の前で小さく返し、腹で空気を巻き、水平の斬りを低く走らせる。

首を狙う角度ではない。


肩と腕の境、鎧の継ぎ目、あるいは盾の端。

反射で受ければ負ける、避ければ次が来る、下がれば飲まれる。


しゃがまない、飛ばない、退かない。

代わりに、刃を先に置く。

相手の剣線の内側、柄と手の間、親指の付け根の薄い皮膚の、少し手前。


自分の刃の腹を滑り込ませて合わせる。

ぶつけない。

噛めば負ける、摩れば、線が一瞬浮く。

浮いた隙に刃先が手の薄皮へ引っかかる。


薬指側だけを少し締め、親指と人差し指は締めない。

掌で剣が転がる余地を残す。

相手の線を崩さず、自分の刃を浅く入れる。


浅い切りは痛みより反射を呼ぶ。

手は開く、開けば剣が落ちる、落ちれば重さが音になる。


落ちなかった、それを掴み直した。

握力が常を超えている。薄皮は裂け、血は出たはずだ。

それでも筋束は離さず、剣は重さを維持する。

捻りの押し返しが刃の背にかかり、手首が鳴った。


楽しくなりかけ、喉の奥で何かが”笑って”熱が上がる。

それを歯で噛む。

笑えば視界が狭くなる、狭くなれば死ぬ。

笑いは内側に置け、眉は動かさない。


刃を引き、右足を半歩死角へ送る。

剣風が前髪の先で跳ね、返り風で胸の皮膚が僅かに盛り上がる。

斜面ができる、刃は滑る。


低く、低いまま。

腹の皮膚の下、筋膜の上に触れ、通り過ぎる。

目を上げない、顔へ行きたくなるからだ。

牙は罠だ、罠は避ける。


「押すな。削れ。」


リシェルの”試す”ような指示が背骨に沿って滑る、押さない、削る。

削るのは、相手の戦い方だ。押させる。押し切らせて空を切らせる。

その空に刃を置く。


踏み込みが来た。黒土が鳴り、根が悲鳴を上げる。

肩が前へ出る瞬間、短く太い首の守りが甘くなる。

肩の筋の陰に頸動脈の線が浅く現れる。刃が走る。


肩の陰に沿って上がり、頸の前へ届く前に肩の前で一度止める。

止めることで圧が腹に移り、皮膚が浮く。

浮いた皮膚へ半寸だけ刃先を入れる。


そこから引く。

肩甲骨で引き、背筋で引き、足で引く。

右足が黒土を掴み、左足が追い、腰の回転が刃に伝わる。


薄い水を切るように進む。

血は遅れて出る。遅れが時間を生む。時間があれば生きる。


「ヨルキ。」


距離警告。死角の外。

左の二体目が槍を持っていた。

粗い柄に鉄片を束ねた先、突くというより突き倒す武器。

俺の肋の高さへ来る。


退けば間に合う。退けば、いまの線が死ぬ。

線が死ねば門番は生きる。


退かず、左肘を畳み、刃の背を自分の肋に寄せる。

背で槍先を払う。水平ではない。僅かに斜め下へ。

払った先を地面へ流す。槍先が黒土に刺さり、柄がしなる。


反動で二体目の体が半歩前へ。


そこに、”リシェルの刃”が先にあった。

彼女の斬りは俺より短い、しかし深い。

肋の間を選び、肺の浅いところで止め、そこから押し返す。

嫌がる肉が刃を吐き、刃は自分から穴を出る。すぐ次の穴を探す。


「右寄せろ。左抜け。」


合図に体が先に動く。

頸から遅れて出た血が、ようやく刃の背に温さを置いた。

温さはご褒美ではない。気を緩めさせる罠。

布で拭い、足で忘れる。


一息。短く浅い。肺は熱い。指は冷たい。

柄の汗は乾き、掌の皮を食う。心地よい。

心地よさが首へ上がる。噛み殺す。

リシェルが横目で俺を見る。線を確認する目の次に、ほんのわずか柔らかくなり、すぐ硬く戻った。


俺は笑っていない。けれど口の端が上がりかけたかもしれない。

甘い囁きは毒だ。毒は少しだけ飲め。動けるだけ飲め。


「ひと息で落とすな。三息で崩せ。」


剣そのものの教えに聞こえる、リシェルは俺のすぐ近くで見ている。

刃を下げ、上げず、また下げる。

上げないと相手の目は上を探す。いないと下で死ぬ。

足が半歩遅れ、小石が音に変わる。

音を刃が聞く。刃は耳だ。俺の耳よりよく聞く。


縦の一撃が落ちる。遅い。重い。深い。

受けさせるための遅さ。折るための深さ。受けない。受けさせない。

半歩右、半歩前。


脇腹の肋の上の薄いところをかすめ、骨の鳴りで角度を変える。

なでれば割れる。割れれば呼吸が崩れる。呼吸が崩れれば力は抜ける。


「三。」


数えが落ちの合図に重なった。

膝がほんの少し沈む。沈みに刃を入れる。


(首の横。胸鎖乳突筋と僧帽筋の境。)


そこから奥ではなく、斜め上へ。引き上げるように通す。

骨は斬れない。だが関節は外れる。

重さが仕事を手伝う。


良い重みが肩に乗った。

正しい道を通ったときだけ返る手応え。

背中の古傷は疼かず、熱を上げる。熱は甘い。噛む。

彼女は見たのかもしれない。俺の”口の端”。

見ても言わない。今は戦だ。


「抜けるぞ。右で合流。」


刃を引き抜き、血の線を黒土へ落とす。

温かさはもう甘くない。


掌で重みを数えながら、隊の線へ戻った。



押し返しは短く鋭かった。

門番が倒れると、群れの押しは鈍る。

残ったオークは怒りに筋肉を持て余し、棍棒は空を切る。

足の間合いは乱れ、弓が眼を削ぎ、槍が腹を取り、リシェルの刃が喉を撫でる。

数は減った。


「ひとまず、ここまで。」


ジグが輪を作って合図した。

前へ出すぎるな。生きているの確認が先だ。

刃を拭き、柄の汗を袖で拭う。

落ちた若者の脇へ膝をつく。まだ温かい。


目は閉じられていない。閉じるのは俺の役ではない。

俺の役は、生きることだ。

胸骨には触れない。触れれば折れる。折れば空の重さが増えるだけだ。


「お前の剣、借りる。」


誰に向けてか分からない声が出た。若者か。剣か。自分か。

答えはない。必要もない。

刃は手の中にある。

手の中にあるものだけが、今の真実だ。


リシェルがそばへ来る。

俺の剣先と足の位置を一瞥し、胸の上下で息の深さを測るように見て、目だけで問う。


ーーまだいけるか。


頷かない。頷けば首筋の熱が血へ落ちる気がした。

代わりに刃の角度を少し下げて見せる。

それで十分と判断したのか、彼女は短く残す。


「三息、守る。四息め、返す。」


それは約束であり、教えだった。


俺が三息の間は守りに回り、四息めで奪いにいく。

言葉は短いほど信頼は強い。


深く吸い、長く吐く。

熱はまだ舌の奥に残る。残っていていい。残りを使えばいい。使い切るな。残せ。次のために。

刃は軽い。軽さは飢えだ。飢えを満たすのは敵の血ではない。俺の呼吸だ。


「行くぞ。抜け道は右の幹の陰。倒木の下。二人ずつ。」


ジグの声が終わりと次を連れてきた。

第10層はまだ口を閉じていない。今のは入り口の牙を一本抜いただけだ。

奥にはもっと太い牙がある。そこへ行くために、今は生きる。


握り直さない。呼吸だけを変える。

呼吸が変われば世界の速度が変わる。世界の速度がこちらに合ってくる。


黒土の匂いが少し軽くなった。胸の奥の灯が強くなる。

強い灯は風に強い。ここにはいつでも風が吹く。

吹く風の中で、刃は歌う。剣の歌だ。その歌を、ようやく思い出した。


歩く。刃を低く、目を高く、息を長く、熱を噛む。

リシェルが半身前。ジグの声が少し後ろ。

矢羽根の乾いた匂いが肩越しに、黒土の冷たさが足裏に、刃の重さが掌に。

それだけで戦える。今はそれでいい。今はまだ。


森がまた息を止めた。次の牙が顔を出すために。

俺は息を吐いた。準備はできている。いや、ずっと前からできていたのかもしれない。

握った瞬間に戻ってきた身体の記憶は、ここで使うためにあったのだと思える。


刃先がわずかに震えた。寒さではない。


歓喜だ。


その震えを舌で噛み、静かに笑う。内側で。外側では笑わない。

リシェルが横目で一瞬だけ俺を見て、何も言わずに前を向いた。

その沈黙が、俺を人間の側に繋ぎ止める紐になった。


「行く。」


声にならない声で自分に告げ、黒土を蹴る。

刃は道を知っている。今はただ、その言うことを聞けばいい。




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