第17話 — 第十層
第十層の“空気”は、降りた瞬間に骨の内側へ入り込んでくる種類の冷たさだった。
湿り気は少し退き、代わりに獣脂の重い匂いと古い煙が天蓋にまとわりつくように漂う。
葉裏に張り付いた煤が歩くたび微かに舞い、光の筋は煤粒を銀の粉に見せた。
樹冠は高く、幹は太く、地表は硬い黒土。靴底は沈まず、衝撃がそのまま膝へ返る。
遠くの低い振動が根を伝い、足裏の骨に鈍い拍を打つ。
外側から鼓動を数えられている気分になる。
「配置、再確認。」
ジグの声が幹を介して左右に分かれた。
前衛二。盾と短槍。
中衛二。槍と弓。
荷持ち一、後衛一。
リシェルは前衛の右斜め前に立ち、半身に剣を寝かせる。刃の背で若い葉を掠め、湿りを落とした。
その所作だけで、刃先がすでに臨戦の温度にあると分かる。
彼女の呼吸は浅く長い。吸うより吐くがわずかに長い。
肺の膨らみが鎧の内で波打たない分だけ肩の稼働は滑らかで、剣がいつでも胸の前に帰ってこられる余白を保っている。
「ここからは、“待ち伏せる側”が上にいる。」
弓手が頷き、視線は樹上の太い枝の股と、幹の半ばにある黒ずみの節へ。
そこはオークが下を覗く窓だ。ゴブリンほど小さくないぶん、窓は目立つ。
けれど気配は厚く重く、見上げるだけでは掴めない。
「音を作る。足は止めない。」
リシェルが細い小枝を足でわざと踏み折った。
乾いた軽音が一度、二度。
森は息を止め、遠くで烏の濁声が一鳴きする。
黒土の奥で誰かが立ち上がるのに似た微かな振動がひとつ、根の網を伝い、足裏へ戻ってきた。
オークの知らせは臭いが先だ。
汗と脂の混ざった重さ、洗われていない革の蒸れ、血の酸い、獣皮を干したときの焦げた匂い。
次に来るのは足音ではない。
空気の圧がわずかに増し、肺の奥で吸う抵抗が強くなる。風向きが変わる。
見えない塊が、前方の木々の間にゆっくり形を持ちはじめた。
「来る。」
ジグが言うより速く、右斜め前の茂みが裂けた。
地を蹴る音は破裂に近い。黒土の塊が弾け、枯葉が風の刃になって飛ぶ。
現れたのはオーク。身の丈は人の一回り半。まず“厚さ”が目に入る。
肩から腕へ、腹から腰へ、筋が束になって縄をねじったように走る。
皮膚は灰褐色の革のように硬く、ところどころ古傷の白が光る。
鼻は潰れ、牙は下顎から上向きに突き出す。口角には乾いた血のひび割れ。
黄土の瞳は黒点が小さく、個ではなく群れの動きを追う獣の目だ。
棍棒が水平に走る。
前衛の盾が受け、木が内側から軋む。腕の骨が短く鳴る。
受け流しが半手遅れ、衝撃の余りが肩へ伝わり、そこから腰へ落ちる。
靴底が黒土を削いで滑り、踏ん張りが一瞬ぶれた。
「巻くな。」
ジグの低声と同時に、左から別の影が突き上がる。
短槍の迎え突きが喉を狙うが、厚皮に弾かれて浅い。
逆に柄を掴まれ引き寄せられ、オークの膝が前衛の脇腹に入った。
鉄板越しでも肺を叩く鈍さが想像できる。吐いた息に血の匂いが混ざる。
弓が鳴る。
矢はオークの目を狙うが、厚い眉弓と骨の張り出しが盾となる。
一本は眼窩の縁で弾かれ、一本がまぶたの薄皮を裂いた。黄土の瞳に怒りの水が瞬く。
「下、切れ。」
リシェルが踏み込む。
剣の角度をほんのわずかに寝かせ、棍棒の腹へ刃の背で滑りを作る。
相手の軌道を半寸落としてそのまま内側へ潜り、膝裏の腱へ刃を触れさせる。
押し込まず、しかし十分鋭い、厚みを読んだ深さで割る。
オークの膝が落ち、上体が前へ倒れて重量が盾から抜ける。
その瞬間、槍が喉の柔肉へもう一度、今度は角度を変えて押し込んだ。
骨の前で止まらず、氷の割れる抵抗を越え、奥へ届く。
「ひとつ。」
ジグが数える。
最初の塊が潰れる音に、さらに音が重なった。
左斜め奥、太い幹の陰から二、三、四。オークが連なる。
先頭の二体は棍棒、三体目は鉄片を継ぎ足した剣、四体目は骨の飾りを肩から垂らし、乾いた肩衣に黒い印。
上位の個体か、群れの押し役だ。
「引きすぎるな。通路を狭くする。」
声が、前へ出る勇気と下がらぬ胆力の境に縄を渡す。
幹と幹の間の狭さは盾になる。
広げれば包まれる。狭めれば一対一が作れる。
リシェルは一歩前、半歩右。
剣先を地面へ落とすか落とさないかの高さで保つ。
肩幅を崩さず、踵だけわずかに内へ入れる。
押されず、かつ刃をいつでも戻せる立ち。