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第16話 ー 虚勢の重さ


柵を焼いた煙が白く遅く、風のない森の中で行き場をなくし、匂いだけが遠くへ歩いていくころ、別部隊の荷持ち奴隷がヨルキの肩を小突いた。


頬の肉が落ち、顎は尖り、歯は黄ばみ、眼は底の浅い笑いを浮かべる、指は細く爪は黒く、鎖の擦れ痕は新旧が幾層も重なっていた。


「おい、新顔。」


彼は言葉を吐く前に、勝ち誇った笑みを先に出した、笑いを先に置けば、言葉が重くなると知っている顔だった。


「俺はもう二年だ。ここで荷を持ち続けて二年、拾いもんの命だが、乗りこなしてる。」


間。


「生意気な口は叩くなよ。お前は明日、死ぬかもしれねぇんだからな。」


間は短いが、刃の背で皮膚を押すみたいに持続する。


ヨルキは仰ぎも俯きもせず、背板の角の位置を親指で確かめ、紐の余りを巻き込んだ。


挑発に反応しない無反応は、ときに反発より攻撃的に見える、だが彼は黙った、沈黙はここで最も軽い武器だ。


「二年。」


ヨルキはただ、その二音だけを返した。


男は鼻で笑い、乾いた唇をなめ、歯の間から、匂いの混じった息を吐いた。


「二年だ。隊の顔色も、獣の気配も、樹脂の流れ方も、吐くべき場所も、全部知ってる。お前みたいな新入りは、道に立ってる石と同じだ、蹴飛ばされるか、見えないまま踏まれて割れるかだ。」


間。


「生き残りてぇなら、先輩の言うことを聞けよ。俺を見て学べ、でなければ零れ落ちるだけだ」


“零れ落ちる”の言葉が湿って、石畳に血が落ちる音みたいに耳へ刺さった。


ヨルキは微かに首を傾け、男の肩越しに柵の白煙が薄く流れるのを見た。

煙は遅く、匂いは速い、匂いは生きものを呼ぶ、呼ばれたものは来る、来る前に去る、それがここでの歩法だ。


「教えてください。」


ヨルキは、言った。


男の眼の奥に、一瞬だけ、勝利の光が灯る、その火は小さいが、彼の生存に必要な温度を持っている。


「ひとつめ、荷の紐は長く垂らすな。歩くたびに音が出る、音は呼ぶ。ふたつめ、背板の角は外へ向けるな、人も獣も刺さる、刺したらお前が殺される。みっつめ、貴族を見たら目を下げろ、跪け、媚びろ、殴られても死なねぇが、目を上げて笑えば死ぬ。」


最後の一拍だけ、妙に饒舌で、妙に生々しい。


彼は二年の間に、森の規則だけでなく街の規則でも削られ続けてきたのだと、ヨルキは理解した、自分のなかの何かが冷えるのを感じた、それは同情でも軽蔑でもない、温度のない観察だ。


「ありがとう。」


ヨルキはもう一度だけ言い、背板の角を布で拭った、匂いを減らすための儀式であり、沈黙を保つための手遊びでもある。


男は満足げに鼻を鳴らし、踵を返して去った、彼の背中は細く、鎖の音は軽く、だが足は重かった、重さは虚勢の重さで、虚勢は骨より先に疲れる。



第七層の残りは、淡々とした消耗で埋まった。


矢は飛び、盾は受け、槍は刺さり、声は出ず、匂いだけが層を重ねる。


新米のうち二人は戦闘の後で急に喋り始めた、笑い声の形で、意味を持たない音を、長く、長く、吐き続けた。

ベテランは黙って彼らの肩を押し、口に水を少し、布を噛ませ、息を整えさせた。


ここでは、泣くより笑う方が危ない、笑いは壊れた歯車の音に似ていて、放っておくと破片が飛ぶ。


ヨルキは、手を止めないで見た。


背板を拭き、紐を締め、油を薄く塗り、矢を揃え、槍の柄のささくれを布で撫で落とし、荷の角が刺さらないように布を噛ませた。

動かし続ける手が、考えすぎる頭を押さえ込む。


彼はまだ“荷持ち”にいる、剣は握らない、握らせてもらえない。

それでも、手は戦いの中心に触れていると感じる、中心とは“継続”であり“補填”であり“次に備えること”だ。


夕方、木の間の光が薄片になって落ち、匂いが昼より重くなった時、ジグは短く言った。


「ここまで。」


それは休息の合図ではなく、歩幅の区切りだった。


誰も座り込まない、座ると立ち上がるのに一人ぶんの命が要るから、立ったまま、荷を少し下げ、紐を緩め、呼吸だけを深くする。


ベテランは目を閉じず、新米は目を閉じる、閉じた目の裏に、柵の棚が現れるから、目を閉じるなと誰も言わない。

言葉はここで匂いと同じ、無駄に出せば獣を呼ぶ。


ヨルキは深く吸い、長く吐いた。


胸の奥の灯は小さい、けれど小さいほど風に強い、そうやって前夜に学んだことを、今夜もまた確かめる。


明日も歩く、明日も同じ戦い、だが同じではない。

削れ方が違い、戻り方が違い、失い方が違う。

それぞれの違いを見ながら同じ歩幅で進む、それが“隊”のかたちだ。



夜が深くなる寸前、風が一度だけ、樹上の骨飾りを鳴らした。


乾いた鈴の音、遠くで笑う声に似ていて、近くで歯ぎしりに似ている音。


誰も顔を上げない、誰も合図をしない、する必要がない、すべては明日へ持ち越される。


ヨルキは背板の角に手を置いた、角は冷たく、冷たさは生の証拠だ、熱いものは腐りやすい、この森は冷たいものだけを長く残す。


第八層と第九層は、この夜の向こう側にある。


新米の足はもう限界の気配を漂わせ、ベテランはまだ“いつもの歩幅”を保っている。

その差は一見小さいが、明日の朝になると致命へ変わる、ヨルキはそれを知っている。

知ったうえで何もできない、できることはただ一つ、落とさない、走るとき走る、止まれと言われたら止まる、その規則の中で紙一重を積み、紙の束を厚くする。


煙は薄くなり、匂いはまだ重い。


森は黙ったまま、次の血の色を待っていた。





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