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第15話 — 鬼の棲家


第五層を押し切った直後の空気は、鉄と苔と消毒の匂いが絡み合い、喉の奥で鈍く滞った。


棍棒の痕が盾の表皮に縞を刻み、折れた槍の柄が地面でまだ呼吸しているように見える。

新米の肩は上がり、呼吸は浅く小刻み、足が地面から完全に離れないまま前へ運ばれる。

対してベテランは紐を締め直し、矢を抜き、刃を拭い、次の一歩のための身体の余白だけを淡々と整える。


差は技能ではなく、歩幅と沈黙の質にあるとヨルキは悟る。同じ重さの荷でも、心の位置が違えば揺れ方が違う。


「前詰め、散るな、距離は人ひとり。」


ジグの声は乾いていて、命令というより“歩き方の合図”に近い。


新米のひとりが返事の代わりに肩を揺らし、うなずいたつもりでよろける、靴底がぬめりを拾い、踏み直すたびに体力をこぼしていく。


ベテランはその横をすり抜け、言葉ではなく手首の角度で並びの幅を示した、怒鳴らず、教えず、ただ“正しい幅”の影を歩いて見せる。



第六層は森の天井が少し高く、枝の影が粗くなったぶん矢の軌道が見えるようで見えず。

風はわずかに冷え、音は遠くでこだまし、匂いだけが確かに近い。


弓の細い唸りが右上から、次は左上、続けて正面、盾が仰角を変える速度は一定で、弓の返しは一拍遅らせ、槍の穂先は草を掻きながら“穴”の縁だけを撫でる。


戦いは大きくない、矢が飛び、盾が受け、槍が喉を貫く、それだけの反復が、疲労の容器をひたひたに満たしていく。


新米の頬に細い傷が走り、彼は自分の血の色に足を止めかけた。


ベテランの女兵がその肩を指で叩く、止まるな、の二拍。


布を投げ、塩を少し、結びを二重で、余りを親指に掛けろ、口は使わず、手だけで与える合図。


新米はこくりとうなずき、布を押し当てる手が震え、押し付けたせいで血は強くにじんだ。

それでも彼はもう歩いた。


歩くことが最低限の礼儀だと、ここでは皆が知っている。


別の新米は、矢が背板の角に当たった音で背筋を固くし、次の瞬間に呼吸を忘れ、膝が笑った。


ベテランは笑わない、笑いは誰も助けない。


代わりに矢羽根を拾い、背板の角の角度を二指分だけ直し、紐の余りが遊ばないように結び直してやる、そこまでしても彼らは名を訊ねない、名前は重い、重さは明日捨てるかもしれないから。


ヨルキは、紙一重が“避ける技”ではなく“歩幅の配分”であることを、何度も確かめる。


矢の羽根が頬を擦るたび、首幅だけ傾け、視界の隅で枝の揺れが細く切れるのを捉え、そこに逃げないように体の軌道を抑える。


戦いは大雑把だが、死はいつも細部から来る、その細部を潰すのが、ここにいる者たちの“仕事”なのだと理解する。



第七層は、匂いで先に来た。


乾いた脂、生の脂、尿、酸っぱくなった乳、燻しの残り香、血の鉄、腐葉土、古い煙――鼻腔に膜をいくつも貼り、言葉の端を鈍らせる匂い。


骨で編んだ柵、皮を剥いだ幹の柱、葉と皮でふさがれた屋根の下で、暗い影が行き交う。


戦いそのものは、遠目に矢を散らし、近くは槍で低く払って終わる、音は短く、叫びは乾き、作業のように静かだ。


柵際の棚に、人の手足がいくつも並んでいた。


干されて、握りの形のまま固まり、爪の根元は土で黒く、踵は白く、筋はひび割れ、骨が覗く。


新米のひとりが胃の中身を地面へ吐き、もうひとりが胸を押さえて後ろを見た、帰る場所を探したのではない、目を置く場所を探したのだ。


ベテランは彼らを引かない、押さない、ただ前を空けておく、戻る場所は用意されないが、進む空間は用意される。


声に温度はない、温度はここでは匂いを強めるから。


ヨルキは布と水を出し、目を合わせないでも受け渡せる距離で手を差し出す。

手の震えは新米のものか、ヨルキのものか、それはどちらでもよかった、震えは生きている証拠で、ここで許される数少ない感情だから。




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