第14話 ー 序の陣
昼過ぎ。
第1層の出口に近い“空気の薄い場所”に出る。
木々の並びが変わって幹の間隔が広がり、前方の古い大樹は幹に空洞を抱えて根の一部が“階段”の段差を作る。
そこが”第2層”への“降り口”だ。
「降りる、その前に食え。」
ジグは袋から干し粥の砕きをひとつまみ。
水で湿して歯で砕く。
俺も背から同じ物を取り塩を指先ほど足す。
口の中は鉄と土でいっぱいだが、腹に物が落ちると頭の芯のざわめきが少し収まる。
降り口は地上の根の隙間をさらに潜る形だ。
枝が首に当たり背板が幹に擦れ、荷の角が根の節を叩く。
結びは二重、余りは掌半分、親指に掛ける。落とすな。落とせば死人が増える。
第2層は第1層より“広い”。
空間が開くのではなく、視線が遠くを通る。
樹上の枝は高く、幹の途中には骨の飾りがぶら下がる。
枝角の輪、鳥骨、髑髏の欠片――縄張りの印だ。
ゴブリンの“庭”の縁に入った。
「弓、用意。」
号令の直後、羽根の長い矢が横から飛び込む。
幹上の枝の股に膝を絡め弓を水平に引くゴブリンアーチャー。
弦は乾き、弓身は骨で補強。鏃には黒い染み。樹液に混ぜた毒だ。
かすれば高熱、深ければ心臓が止まる。
「盾、上!」
前衛の盾が天を向く。
矢は樹皮ごと肉を抉る力で押し込み、俺の頬に羽根が掠める。
紙一重で首幅だけ傾け、背後で矢が背板に当たって鈍く鳴った。
背板は俺の“盾”。板の角度が生死の角度だ。
「弓、返せ!」
返し矢が弓手の腕を貫く。
ゴブリンは枝から落ちず、枝を蹴って次の枝へ移る。
猿めいた軽さだが、猿より弱く狡い。
弓を引く腕には毒袋の紐が結ばれ、破れば自分の矢に毒が回る仕掛け。
「上、二、右、低い。」
ジグが短く切る。
視界の端で右の地面がわずかに“呼吸”し、草の根が上下。下は空洞だ。
土色の指が静かに顔を出す。
俺は一歩を“ずらす”。
踏むならその指。踏めば指は折れ体は出る。出たところを槍で刺す。
踏めなければ俺の足が引かれ、引かれれば喉が開く。
前衛が蹴り込み、地面の蓋がめくれてゴブリンが目を細めて跳ね出る。
槍が喉を貫き背へ抜け、吐息は血の泡に変わり、音はすぐ消えた。
「進む、拠点は二層の中段、柵を組め。」
長居は毒。だが長期戦には宿がいる。
二層中段――樹齢の古い三本が寄り添い壁のようになった場所へ複数隊が集まり、拠点を打つ。
斧の乾いた音が重なり、若い手が木を伐り古参の手が組む。
縄は“探り結び”で締めて荷崩れを防ぎ、引き解けを許さない。
柵は胸高、柱は太腿の太さ、杭は足の長さ。
入口は盾二枚分。内側に焚火、外側に樹脂をぬる。
樹脂は火に弱いが防虫の匂いを放つ。
匂いは出す場所を間違えるな、敵を呼ぶ。
「見張り四、交代は刻、弓は高所、槍は入口、荷は内側、夜は枝上からも来る。」
ジグが焚火の位置を足で、寝床の間隔を手で示す。
隅で女の声が低く響き、矢羽根の束が配られる。薬師から布と酒精が回る。
俺は背負子の紐を解き、塩袋と干し粥と油袋を並べ、名を呼ばれた隊へ渡す。
背板の角を布で拭って汗と土を落とす。
明日も使う、道具は仲間だ。
日が沈むこの場所では、落ちるというより周りから光が狭まる。
音が外から内へ寄ってきて、焚火の赤が顔を半分だけ照らす。
肉は薄く、塩は少ないが温かい。
湯気が鼻の奥を洗い、泥の匂いが一歩退く。
「今日の死者三、負傷八、明日は三層から、罠の層だ。」
報せは乾いている。乾きは生き延びるための温度になる。
死者の名はここでは呼ばれず、帳面に印と数字で移される。
眠りは浅い、耳は焚火の音を数え、目は閉じても光を探す。
まぶたの裏で骨の色が滲み、噛み砕く音が風に混じる。
吐く息だけをゆっくりにし、胸が膨らみすぎぬよう抑える。
膨らめば草が擦れ、草が擦れれば音になり、音は来る。
夜半、誰かが小さく泣いた。
子どもの声ではなく、喉の奥で石を握ったような乾いた音で。
誰も何も言わない。言葉は火と同じ。温めもするが匂いを呼ぶ。
俺は背板の角に手を回し位置を確かめる。
そこに角がある事実が眠りより深い安心になった。
板は重いが、重さは軌道を安定させ、安定は生を伸ばす。
◆
灰が薄く息を吹くように朝が来る。
樹上の影が形を変え、湿りが肌に貼り付く。
焚火は小さく、鍋は空に近い。
塩の袋は減り、矢の束は半分。槍の柄先はささくれる。
二日目――第3層から第5層へ抜く番だ。
「荷を締め直せ、罠の層は止まる回数が増える、手は速く、足は遅く。」
言葉は少なくていい。多ければ頭が重くなる。
頭が重ければ足が遅れ、遅れれば死ぬ。
第3層の空気は第1層に似ていながら匂いが違う。
土と血に“生の脂”の臭いが混じる。焼けた脂ではなく保存の臭い。
鼻の粘膜が鈍く痺れ、腐りかけの甘さが遠くへ広がり近くへ戻る。
「目線は足元から上へ、落とし穴、吊り石、杭、指で触るな、棒で触れ。」
槍の穂先で草を撫で、根の間へ差し込み空洞を探る。
落とし穴は土の色が一段浅く、湿りが違う。
踏めば沈み、踏まねば避けられる。
吊り石は枝の節から太縄が垂れ苔に隠れる。
縄を切れば石が落ち、落ちる石は枝を叩いて音を出す、音が出れば来る。
最初の罠は“見えている罠”だった。
落とし穴の縁が綺麗すぎ、土は新しく芽がない。
新米が柄で“良し”を出しかけた瞬間、ジグの指が“駄目”を切る。
縁の向こうに薄い枝。枝先に吊り石。迂回者の頭を狙う“迂回の罠”だ。
「石を落としてから板。」
先に吊り石を落とす。乾いた音が森に散る。
薄い鳥声が一瞬やみ、すぐ戻る。戻るなら遠い。戻らねば近い。
板を渡し、一人ずつ腰を低く通過。
背板の角が幹に当たらぬよう肩の高さをずらす。
息は“吐く”。吸えば胸郭が広がり枝に触れる。枝に触れれば音が来る。
第3層の奥に“村”。
柵は骨で編まれ、柱は皮を剥いだ幹。内側には骨組みだけの小屋。
屋根は葉と皮で覆われ、隙間で暗い影が動く。
地面の血は乾いて黒く、濡れて赤い。匂いは脂と尿と腐肉が混ざる。
「ッ……」
それに目を取られる。
柵際に積まれたのは人の手足。
手のひらは握った形で固まり、爪の根は土で黒い。
足は踵が白く、ふくらはぎは干からびひび割れて骨が露出する。
燻した煙の跡が薄く漂い、鼻腔に張り付く。
小屋のひとつから――低い声、悲鳴ではない。
悲鳴はとうに潰れている。
「ゔっ……は……ひ……」
空気を押すだけの音、”女の息”、薄い布の擦れる気配。
狭い空間で複数の足音、笑いは甲高く獣のそれ。――人の笑いは低い。ここは獣の場所だ。
視線だけで合図、弓二、槍二、盾二。
俺は油袋と火打ちを抜く。
声は小さく動きは速い。
柵を越え、入口を蹴る。弓が先に歌い、短い矢羽根が喉を裂く。
槍は低く腹と股を貫き、盾は横から棍棒を逸らす。
笑いは二度途切れ、三度目で消えた。
小屋の中に女が二人、片方は肩に噛み跡、皮膚は薄紫に沈み目は虚ろ。
もう片方は腹に爪の痕、視線は天井のひびへ、声は枯れる。
「ひどい」
日本では考えられないような光景が目前にあった。
平和に暮らしていたと思われる女達、ゴブリン達の巣に連れ去られてしまったの明白。
少し前まで彼女達はゴブリンに”ナニ”をされていたのだろうか、想像するだけで胃の内容物が込み上げようとする。
(なんて世界なんだここは)
生臭さが空気を重くする。
布と水を渡す、布は清潔でも匂いは移る、移った匂いは背で持ち帰るしかない。
「助けるのは今だけだ、連れては戻れない。」
ジグの低い告げは刃の背で撫でるような感触だ。
彼女らの足は立たず、抱けば荷が増え、荷が増えれば死人が増える。
ここは数の場所。救いにも数がある。それが規則だ。
目を逸らさない、逸らせば次はもっと逸らしたくなる。
見続ければ麻痺する、麻痺は武器であり毒でもある。
毒は少しだけ飲む、体を動かす分だけ。
柵を焼く、骨は燃えず皮が燃える。
煙は白く遅く、匂いは遠くへ行き、近くへ戻る。
戻る前に離れる。
◆
第4層は罠と遊撃の層。
草むらの杭、足首の縄、頭上の倒木、毒槍。
新米のひとりが杭に足を取られて顔から落ち、顎を打ち歯が折れる。
その口へ槍が降り、頬の内側を突いて舌を割る。
声は出ず、血の泡だけが鳴る。
ジグは彼の目を見て首を振る。
彼は頷けず、やがて動かなくなる――死体は置く、荷になる。
第5層は森が広く空気が重い。
弓の雨と棍棒の群れが押し寄せ、盾は割れ、槍の柄は折れる。
毒矢の傷口は黒く泡立つ。解毒が間に合う時と間に合わぬ時がある。
間に合わぬ時は目が白く濁り、手が痙攣し、唇は青黒く固まる。
ジグは数を数え場所を記し、燃やす物と捨てる物を決める。
匂いが残れば来る。来る前に去れ。
「拠点へ戻る、足を止めるな。」
夕闇は“上から”ではなく“周りから”寄る。
光は狭まり、音は近づき、匂いは濃くなる。
柵は低いが“ある”。あるという事実が心臓に薄い蓋をする。
夜は冷え、焚火は温い。温さは罪悪感の味を運ぶが、その味は生きている者にしか分からない。
「明日に十層だ、その前に6から9。」
ジグの声を背に、背板の角を拭い油を薄く延ばす。
結び目を再確認する。
眠りは浅い――それでも眠る。眠らなければ明日死ぬ。
焚火の向こうでリシェルの横顔が一瞬光り、すぐ影に沈む。
彼女は何も言わない。
何も言わないことが、時に言葉より重い。
胸の奥の灯は小さいまま消えず、小さいほど風に強い。
深く吸って長く吐き、十、九、八と数える。
森は黙って俺たちを飲み込み続けた。