第13話 — 鬼の穴
昼前の風は、見慣れた城壁の上を撫でていく時だけ涼しい顔をした。
城門の外では、”深き森”へ続く荷車の列の先頭で炎狼の旗が静かに揺れ、厚手の布に干し血めいた暗い赤が沈む。
根元では鎖の音と革の軋みが重なり、油差しの匂いと磨かれた鉄の鈍い光が立ち上る。
百人規模の遠征が言葉を要さぬ“戦”の支度だと、空気ごと告げていた。
「隊割り、最後確認、ジグ隊、前へ。」
名を呼ばれ、列から一歩進む。
背負子の紐をいつもより二段きつく締め、肩甲骨の下で焼印が薄く疼くのを“そこに居るだけ”の痛みとしてやり過ごす。
前へ出た男は顎を無精髭で埋め、片目に古傷。
口数は少なく視線だけがよく動く――ジグ。
今日から二週間、俺の命綱を握る部隊のリーダーだ。
「走る時は走れ、止まれと言われたら止まれ、俺の声だけ聞いてろ。」
低い、石を転がすような声が新米の胸に響く。
隊には若い顔と古傷の顔が半々ほど混ざり、新米のひとりは鎖骨に吊り革の跡めいた痣を残して視線が落ち着かない。
俺はその隣で背負子の結び目を再確認する。
「出るぞ。」
合図は短い。炎狼の旗が一度だけ揺れ、列は森へ吸い込まれていく。
◆
深き森の入り口は、いつ訪れても“口”の形をしていた。
下草は獣道のように撫でつけられ、枝々は内へ内へと身を寄せ、光は地に届く前に薄緑の膜に濾過される。
土は冷えて湿り、苔は厚い。
鳥の声は少なめで、代わりに気配だけが濃く重なる。
生き物の匂いと古い血の匂い、腐葉土の甘さが鼻の粘膜の内側に幾層もの帯を作る。
小半刻も歩かぬうち、森は沈黙の底へ落ちた。
巨木の根が絡みあって自然の門を作り、その隙間から冷気が吹き上がる。
足元の草は揺れず、吐息だけが白く見える。そこが“鬼の穴”――中ダンジョンの口であり喉であり、胃袋への階だ。
「隊列、前衛二、中衛二、荷持ち一、後衛一、盾は前、弓は肩越し――ジグ隊、侵入。」
声は森に吸い込まれる。
石段のような“人の手”はなく、苔の皮で覆われた根の階段を獣のように降りる。
踏み場は滑り、湿りは骨まで冷やす。
鞭痕に背板が触れるたび脊髄の奥で小さな火花が散る。
息は浅く回数で稼ぎ、肩を抜いて腰で荷を受ける。
第1層は地上の森をさらに圧縮したような空間だ。
幹は太く枝は低い。葉は光を拒み、地面は苔と腐葉土に覆われる。
ところどころの黒い焦げ跡が、古い争いの痕をまだ湿らせていた。
「……鼻、下げんなよ。」
ジグの前で先頭の盾持ちが呟く。
嗅ぎたくないからと顔を上げれば視界が狭まり、視界が狭まれば死ぬ――言われるまでもない規則だ。
最初の接触は音ではなかった。
視界の隅で葉の影が二つ、逆方向へ滑る。風ではない重さを帯びている。
指が勝手に背負子の縄の余りをつまみ、汗で革がぬるりと滑る。
「右、低い影、正面、肩の高さに二。」
ジグの声が棒のように空気を叩く。
前衛の盾が半身に傾き、弓が肩越しに上がる。
次の瞬間、影は“飛んだ”。
ゴブリン。背丈は子ども、胴は乾いた木、皮膚は土に塗れ、目は黒曜石、歯は小石、爪は棘。
片方は棍棒、もう片方は石の尖りを縛った短槍、顎を低く突き、鼻は広がり、耳は薄く尖る。
棍棒が盾に叩きつけられ木の芯が悲鳴を上げ、短槍が縁を滑って火花を散らす。
弓の弦が鳴り、羽根の短い矢がゴブリンの喉を穿つ。
灰がかった体が背へ倒れ、湿った土と鉄の匂いが立ちのぼる。
「数、四――六。」
声と同時に地面の草が二カ所めくれ、第三の影が顎から飛び出す。
下で身を伏せていたのだ。
短槍の腹打ちを前衛が受けて脇へ払い、弓が二度、三度と鳴る。
矢羽根の音は慣れると“救いの音”に聞こえる。
俺は荷の重心を腰へ落とし、壁のように近い幹を背に位置を取る。
足元は湿って靴の縁に泥が上がる。
視界は細いが、低い枝の隙間から落ちる薄い光の帯が見える。
そこから矢が来る。
そこへ逃げれば死ぬ。
紙一重は、逃げ道の選び方にこそ宿る。
短く濃い初接触が終わり、血が染み匂いが重くなる。
回収できる矢だけ回収する。
ジグは倒れたゴブリンの歯並びを靴先で押し、口の内側の色を確かめ、短く吐く。
「食ってる、近い。」
人肉を喰った口の粘膜には特有の赤みが残る。色は隠せない。
それがこの森の“喰う側”の証だ。
「進行、北西、足は低く――弓、高い枝。」
弓手が枝を見張り、盾は低い草むらを受け持つ。
中衛は槍の穂先で草を“掻き”、足元の輪郭を作る。
荷の俺は槍のすぐ後ろで“穴”を塞ぐ。誰かが落ちればそこへ敵が流れ込む。
だから穴は塞げ。穴に落ちるな。
やがて最初の悲鳴は、音ではなく“噛み砕く音”で届く。
前方の別隊。複数の喉が同時に硬いものを噛み潰す濁音。
骨の芯が割れる響きで、地表の空気がそれだけで冷たくなる。
「距離、近い、回り込みは禁止、直進、声に引かれるな。」
情けを切り落とす指示が腹に落ちる。
声へ寄るな。寄れば“喰われる側”が増えるだけだ。
行けば助かる時もあるが、全滅する時もある。森は賭けを好み、賭けるのは命だ。
それでも音は寄る。遅れて血の匂い、さらに遅れて人の叫びが追う。
叫びは一度高く上がり喉を掴まれたように潰れ、泡立つ呼吸が泥の中で壊れる音に変わる。
視界の先、開けた場所で”別隊”の奴隷が地に押し付けられていた。
片腕は肘から逆に折れ棍棒に挟まれ動けず、ゴブリンの口は大きく、骨と肉の境目を探すように歯を立てて引きねじる。
肩から皮を剥ぎ筋を引きちぎる。血は土と混じって赤黒の粥と化す。
男は声を出せず――喉を殴られたのだろう。口に泡、目は俺たちではなく空を見る。
空に何もないのは、この森の規則だ。
前衛が踏み込み、弓が二本、三本と唸る。
ゴブリンは小さいが数で押す。
噛みついた顎は“獲物”から離れず、喉を抜かれても歯は肩に残り続ける。
棍棒の先で頭を払えば、噛み締めた顎ごと肩の肉が剥がれる。
奴隷の胸は薄く上下してやがて止まる。
目は空のまま。名はあったはずだが、ここでは札で呼ばれ、その札も泥に沈む。
ジグは止まらない。
「死体は置け、荷になる。」
冷たい言葉は優しさでもある。
止まらなければ死はひとつで済み、止まればふたつみっつへ増える。
ここは数の場所。命も数だ。
唇の裏を噛んで血の味を呑み込む。
胃の渋さを無視して足を止めない。
昨夜背板に染みた油の匂いが鼻の奥に残り、今の血の匂いと混じると、現実の手触りがいやに強くなる。