第12話 ー 値切りと荷の理
香辛料の路は色で満ちていた。
袋の口から覗く赤、黄、黒。
乾かした唐辛子が細い鞘のまま束ねられ、胡椒は小さな黒い粒で山になり、挽いたクミンが大地の匂いを吐く。
露店の女主人が目尻に皺を寄せて笑う。
「炎狼さん、今日は辛いの? それとも匂いだけ?」
「汗を流させたい。だが、匂いは野営に残るな」
「なら、乾き葱の粉と、山胡椒を少し。焚くと香りは飛ぶけど、舌に辛さが残るよ」
手のひらほどの袋がふたつ、重みは微々たるもの。
けれど士気の重さは違う。
バルドは値を言い、女主人は笑いながら二度値を吹っ掛け、三度目で落とした。
常連の駆け引き。
俺は袋を背負子の“上の上”、落としても踏まれない位置に結ぶ。
「次は肉」
肉屋の列は長い。
吊るされた塊から滴る脂が木鉢で受けられ、蝿除けの煙が細く漂う。
鉤に下がるのは猪の腿、山羊の肩、野兎の胴。
店主の腕は丸太で、包丁の刃は薄く、まな板には肉の筋目が刻まれていた。
「今日の乾きは?」
「山羊がいい。風に二日通してある」
「脂は落ちるか」
「落ちる。…ただ、最近は山の奥で妙に騒ぎがあってな。獲るのが難儀だ」
「騒ぎ?」
店主は鼻で笑い、首を振る。
「噂話さ。三大のうちの“炎竜”だの“深影”だの、物好きが奥へ欲を出して、山を荒らして帰って来やしない」
バルドの目が薄く細くなる。
その目の奥で、ギルドの帳面に薄い線がひとつ引かれた気がした。
(三大ダンジョン……炎竜の大深穴、深影の縫目、氷冠の墓所)
「乾きを四。塩揉みの生を二。骨は別にしておけ」
「へいよ!」
肉塊が包丁の下でどすと二度鳴り、筋の走向に沿って切り分けられる。
俺は乾き肉の袋を背負子の側面に固定し、生肉は塩袋の上に置く。
汁が落ちれば、塩が吸う。
臭いも吸う。
帰ったらすぐ分ける。
頭の中で“段取り”の列が自然に並ぶ。
(塩、穀、肉、油、香辛、乾き葱、山胡椒——灯油は最後。樽は馬車。戻りで薬師へ寄って消毒と軟膏。革紐の予備も)
「おい!」
怒鳴り声。
人波が不自然に割れ、屋台の車輪が石畳で跳ねる。
押し手の少年が足をもつれさせ、樽が台から転がり落ちた。
樽の腹帯がぎしと鳴り、縄が滑る。
転がる先に、香辛料の露店。
袋の口は開いたままだ。
樽が潰せば香辛料は泥になる。
女主人の顔が一瞬で蒼くなった。
「ッ」
俺はもう走り出していた。
足は二歩。
背負子の重心を腰へ落とし、肩を抜き、樽の横腹へ体を入れる。
両手ではない。
背板の角を当て、樽の“走る線”を変える。
樽はぐんと路地側へ逸れ、並んでいた空の木箱を二つ弾いて停まった。
体の芯に鈍い衝撃。
背板越しに骨が鳴る。
だが荷は揺れていない。
首幅で矢を落とすあの一瞬が、そのまま全身に広がったようだった。
「助かったよ!」
香辛料の女主人が本気の声で言い、少年は土の上に尻をついたまま、涙目で何度も頭を下げる。
「す、すみませんっ!」
「縄の結びを覚えろ。樽の腹帯は“抜ける結び”にするな」
バルドが近づき、少年の手から縄を取ると、結びを一度解いて素早くやり直した。
「ほら、探り結び。引けば締まるが、引いても抜けない。——ヨルキ」
「はい」
「荷の角で線を変えるのは、今みたいに“余計が無い”時だけにしろ。失敗したら骨が折れる」
「……はい」
背中の鞭痕が、やっと静まった火のようにじりと疼く。
だが、胸の中の灯は強くなっていた。
女主人が小さな布袋を差し出す。
「礼に山胡椒をもうひと袋。炎狼さんの顔もあるし、これはあたしの気持ち」
バルドは一度だけ首を傾げ、袋を受けた。
「借りは返す」
◆
油屋は薬師街の手前、黒い樽の列が影を作る。
灯用の清い油は澄み、調理用はわずかに色がある。
店主の指は細く、樽の栓の締め加減で音を聞き分ける耳を持っている。
「半樽、灯用。袋で調理用を四。匂いの強いのは避けろ。地下に残る」
「はいな」
油の袋は滑る。
俺は袋の口を二重に縛り、さらに外に布を巻き、背負子の内側に寄せる。
外へ出せば人と擦れて、匂いが残る。
樽は店の端で馬車に積む。
店主はバルドの顔を見て、ついでに小さな瓶を置いた。
「これは“灯芯の薬”。長く持つ。試しな」
「値は?」
「次に来た時でいい」
「そういうのは帳面に残る」
「残って困る値じゃないさ」
短いやり取り。
常連と常連の、“未来の貸し借り”。
◆
薬師街は草と酒精の匂いで満ちていた。
瓶に入った緑や琥珀の液、乾かした薬草、清めの酒、消毒液。
ソレンの顔が目に浮かぶ。
俺は昨日と同じ消毒と軟膏を二瓶ずつ、ガーゼ代わりの清布を一束、ついでに革紐の予備と針を受け取る。
「奴隷印の擦れは、これで抑えるといいよ」
薬師の老婆が、俺の肩の粗布の“形”を一目見て言った。
驚いた顔をする間もなく、老婆は小さな石鹸のようなものを布に包んで押し付ける。
「香りは飛ぶ。痒みだけ抜ける」
「……ありがとうございます」
礼を言ってから、俺は無意識に鎖骨の下を指で押さえた。
焼印の浅い痛み。
この街では珍しくない印だ。
それでも、見られたくはない。
“石鹸”は粗布の内側にしまい、背負子の“自分の袋”へ入れる。
◆
戻る途中、城がもう一度、視界の中心を占めた。
尖塔の根元に飾られた古い紋章——炎と竜。
あの南の一日の距離にあるらしい“炎竜の大深穴”は、時折魔物を溢れさせ、時折宝を吐くという。
この街の豊かさも、緊張も、そこから来る。
初代の英雄が剣で暴走を押し留めたという伝説は、石に刻まれた傷の深さと釣り合っていた。
「見上げるのはいいが、足元を疎かにするな」
シグが横で言った。
視線だけで問い返すと、彼は薄く笑う。
「今は目の前の荷だ。貴族に目を付けられるな。深穴の名を口にしすぎるな、それはアイツらの誇りに触れる。生きて、積め」
「……はい」
◆
城壁の門が影を作り、ギルドの旗がまた風で鳴った。
炊き場では鍋が据えられ、乾き葱と山胡椒の匂いが薄く立つ。
塩袋は倉の床に下ろされ、穀は棚へ、肉は吊るされ、油は樽ごと日の当たらぬ隅へ。
段取りは自然に列になる。
俺は荷を一つずつ置き、紐をほどき、結び直し、帳面の印に合わせて指示どおりに並べた。
「戻ったか」
ソレンが帳面から顔を上げ、淡い笑みを一瞬だけ浮かべる。
「山胡椒、ありがたい。——それから、その顔」
無意識に眉の古傷へ指が動く。
ソレンは薬瓶を指でとんと叩いた。
「消毒。すぐ」
「はい」
背の鞭痕にも薄く香る草の匂い。
市場の喧騒が耳から消え、ギルドの“獣の呼吸”だけが残る。
荷を置き終え、背板の角を布で拭う。
明日のための“手入れ”。
今日の終わりの“儀式”。
遠くの路地で、噂話が風に乗った。
——“炎竜”に、また誰かが挑んだらしい。
——帰ってきたのは、旗だけだった。
俺は顔を上げ、唇の奥で息を細く吐いた。
三大ダンジョン。
世界の喉。
いつか必ず向き合うもの。
だが今は、目の前の“紙一重”を積むだけだ。
今日は荷を落とさなかった。
線を変えた。
首で落とした。
そして、明日の飯がある。
それだけで十分。
今は、それでいい。