表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/26

第12話 ー 値切りと荷の理


香辛料のみちは色で満ちていた。

袋の口から覗く赤、黄、黒。

乾かした唐辛子が細い鞘のまま束ねられ、胡椒は小さな黒い粒で山になり、挽いたクミンが大地の匂いを吐く。

露店の女主人が目尻に皺を寄せて笑う。


「炎狼さん、今日は辛いの? それとも匂いだけ?」


「汗を流させたい。だが、匂いは野営に残るな」


「なら、乾き葱の粉と、山胡椒を少し。焚くと香りは飛ぶけど、舌に辛さが残るよ」


手のひらほどの袋がふたつ、重みは微々たるもの。

けれど士気の重さは違う。

バルドは値を言い、女主人は笑いながら二度値を吹っ掛け、三度目で落とした。

常連の駆け引き。

俺は袋を背負子の“上の上”、落としても踏まれない位置に結ぶ。


「次は肉」


肉屋の列は長い。

吊るされた塊から滴る脂が木鉢で受けられ、蝿除けの煙が細く漂う。

鉤に下がるのは猪の腿、山羊の肩、野兎の胴。

店主の腕は丸太で、包丁の刃は薄く、まな板には肉の筋目が刻まれていた。


「今日の乾きは?」


「山羊がいい。風に二日通してある」


「脂は落ちるか」


「落ちる。…ただ、最近は山の奥で妙に騒ぎがあってな。獲るのが難儀だ」


「騒ぎ?」


店主は鼻で笑い、首を振る。


「噂話さ。三大のうちの“炎竜”だの“深影”だの、物好きが奥へ欲を出して、山を荒らして帰って来やしない」


バルドの目が薄く細くなる。

その目の奥で、ギルドの帳面に薄い線がひとつ引かれた気がした。


(三大ダンジョン……炎竜の大深穴、深影の縫目、氷冠の墓所)


「乾きを四。塩揉みの生を二。骨は別にしておけ」


「へいよ!」


肉塊が包丁の下でどすと二度鳴り、筋の走向そうこうに沿って切り分けられる。

俺は乾き肉の袋を背負子の側面に固定し、生肉は塩袋の上に置く。

汁が落ちれば、塩が吸う。

臭いも吸う。

帰ったらすぐ分ける。

頭の中で“段取り”の列が自然に並ぶ。


(塩、穀、肉、油、香辛、乾き葱、山胡椒——灯油は最後。樽は馬車。戻りで薬師へ寄って消毒と軟膏。革紐の予備も)


「おい!」


怒鳴り声。

人波が不自然に割れ、屋台の車輪が石畳で跳ねる。

押し手の少年が足をもつれさせ、樽が台から転がり落ちた。

樽の腹帯がぎしと鳴り、縄が滑る。

転がる先に、香辛料の露店。

袋の口は開いたままだ。

樽が潰せば香辛料は泥になる。

女主人の顔が一瞬で蒼くなった。


「ッ」


俺はもう走り出していた。

足は二歩。

背負子の重心を腰へ落とし、肩を抜き、樽の横腹へ体を入れる。

両手ではない。

背板の角を当て、樽の“走る線”を変える。

樽はぐんと路地側へ逸れ、並んでいた空の木箱を二つ弾いて停まった。

体の芯に鈍い衝撃。

背板越しに骨が鳴る。

だが荷は揺れていない。

首幅で矢を落とすあの一瞬が、そのまま全身に広がったようだった。


「助かったよ!」


香辛料の女主人が本気の声で言い、少年は土の上に尻をついたまま、涙目で何度も頭を下げる。


「す、すみませんっ!」


「縄の結びを覚えろ。樽の腹帯は“抜ける結び”にするな」


バルドが近づき、少年の手から縄を取ると、結びを一度解いて素早くやり直した。


「ほら、探り結び。引けば締まるが、引いても抜けない。——ヨルキ」


「はい」


「荷の角で線を変えるのは、今みたいに“余計が無い”時だけにしろ。失敗したら骨が折れる」


「……はい」


背中の鞭痕が、やっと静まった火のようにじりと疼く。

だが、胸の中の灯は強くなっていた。

女主人が小さな布袋を差し出す。


「礼に山胡椒をもうひと袋。炎狼さんの顔もあるし、これはあたしの気持ち」


バルドは一度だけ首を傾げ、袋を受けた。

「借りは返す」



油屋は薬師街の手前、黒い樽の列が影を作る。

灯用の清い油は澄み、調理用はわずかに色がある。

店主の指は細く、樽の栓の締め加減で音を聞き分ける耳を持っている。


「半樽、灯用。袋で調理用を四。匂いの強いのは避けろ。地下に残る」


「はいな」


油の袋は滑る。

俺は袋の口を二重に縛り、さらに外に布を巻き、背負子の内側に寄せる。

外へ出せば人と擦れて、匂いが残る。

樽は店の端で馬車に積む。

店主はバルドの顔を見て、ついでに小さな瓶を置いた。


「これは“灯芯の薬”。長く持つ。試しな」


「値は?」


「次に来た時でいい」


「そういうのは帳面に残る」


「残って困る値じゃないさ」


短いやり取り。

常連と常連の、“未来の貸し借り”。



薬師街は草と酒精の匂いで満ちていた。

瓶に入った緑や琥珀の液、乾かした薬草、清めの酒、消毒液。

ソレンの顔が目に浮かぶ。

俺は昨日と同じ消毒と軟膏を二瓶ずつ、ガーゼ代わりの清布を一束、ついでに革紐の予備と針を受け取る。


「奴隷印の擦れは、これで抑えるといいよ」


薬師の老婆が、俺の肩の粗布の“形”を一目見て言った。

驚いた顔をする間もなく、老婆は小さな石鹸のようなものを布に包んで押し付ける。


「香りは飛ぶ。痒みだけ抜ける」


「……ありがとうございます」


礼を言ってから、俺は無意識に鎖骨の下を指で押さえた。

焼印の浅い痛み。

この街では珍しくない印だ。

それでも、見られたくはない。

“石鹸”は粗布の内側にしまい、背負子の“自分の袋”へ入れる。



戻る途中、城がもう一度、視界の中心を占めた。

尖塔の根元に飾られた古い紋章——炎と竜。

あの南の一日の距離にあるらしい“炎竜の大深穴”は、時折魔物を溢れさせ、時折宝を吐くという。

この街の豊かさも、緊張も、そこから来る。

初代の英雄が剣で暴走を押し留めたという伝説は、石に刻まれた傷の深さと釣り合っていた。


「見上げるのはいいが、足元を疎かにするな」


シグが横で言った。

視線だけで問い返すと、彼は薄く笑う。


「今は目の前の荷だ。貴族に目を付けられるな。深穴の名を口にしすぎるな、それはアイツらの誇りに触れる。生きて、積め」


「……はい」



城壁の門が影を作り、ギルドの旗がまた風で鳴った。

炊き場では鍋が据えられ、乾き葱と山胡椒の匂いが薄く立つ。

塩袋は倉の床に下ろされ、穀は棚へ、肉は吊るされ、油は樽ごと日の当たらぬ隅へ。

段取りは自然に列になる。

俺は荷を一つずつ置き、紐をほどき、結び直し、帳面の印に合わせて指示どおりに並べた。


「戻ったか」


ソレンが帳面から顔を上げ、淡い笑みを一瞬だけ浮かべる。


「山胡椒、ありがたい。——それから、その顔」


無意識に眉の古傷へ指が動く。

ソレンは薬瓶を指でとんと叩いた。


「消毒。すぐ」


「はい」


背の鞭痕にも薄く香る草の匂い。

市場の喧騒が耳から消え、ギルドの“獣の呼吸”だけが残る。

荷を置き終え、背板の角を布で拭う。

明日のための“手入れ”。

今日の終わりの“儀式”。


遠くの路地で、噂話が風に乗った。


——“炎竜”に、また誰かが挑んだらしい。

——帰ってきたのは、旗だけだった。


俺は顔を上げ、唇の奥で息を細く吐いた。

三大ダンジョン。

世界の喉。

いつか必ず向き合うもの。

だが今は、目の前の“紙一重”を積むだけだ。


今日は荷を落とさなかった。

線を変えた。

首で落とした。

そして、明日の飯がある。

それだけで十分。

今は、それでいい。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ