第10話 ー 第3層の花魔
オークの帯域を抜けると、空気が甘い匂いに変わった。
腐った甘さではない。
花の甘い。
だが、鼻腔に入ってすぐ、甘さは喉の奥で重さに変わる。
頭の後ろに柔らかい指を添えられたような、眠りと渇きが同時に誘われる感覚。
足が半歩、長く地を踏みたがる。
「吸うな。口でなく、歯の裏で呼吸しろ。」
リシェルが言い、薄い布を口に当てる。
隊も倣う。
夜貴は口を少し開け、歯の裏で空気を削るように吸い、鼻から細く吐いた。
甘い匂いは薄膜になり、頭の後ろの手は離れる。
視界の先――色。
この階の石と苔の単調な色の中で、その一角だけが、濡れた絵の具のように鮮やかに在る。
それは“花”だった。
いや、“花”の形をした“生き物”。
大きな花弁が幾重にも重なり、その中心に人の姿のようなものが座している。
肌に見える部分は、花粉の細かさで覆われ、近づけばうっすらと金粉が舞い上がる。
顔は“よくできた仮面”。
目は真珠質の濁りで光を返し、口元は笑む形に固定されている。
髪に見える蔓は細い繊毛を持ち、風もないのに揺れる。
太い根が床石の隙間へ深く伸び、細い根がその上に網を張る。
腰から下――花弁の影から、触手。
蔦と根の中間のような滑らかな繊維が、床を撫で、石の角を探り、空気を味わう。
「アルラウネ。――香りで鈍らせ、絡め、締め、刺す。刃は根元から。火は広がる、使うなら点。歌を止めろ。」
“歌”。
それは音程を持つ“声”ではない。
耳の外でなく、耳の中に起こる“調子”。
脳の奥で、子守歌のような波が——ふわと、立ち上がり、背骨の内側を撫でる。
ヨルキは歯を噛み、喉の奥で短く息を叩いた。
(来る。眠れと、言っている。)
眠れば、絡まれる。
絡まれれば、締められる。
締められれば、刺される。
リシェルが最初の一歩を踏む。
花弁がわずかに開く。
触手が二本、人の脚の高さに合わせてすべる。
前衛の一人が盾で打つ。
触手は盾に絡み、木の繊維の間へ滑り込む。
刃の入らない柔らかい粘滑が、盾の握りへ忍ぶ。
“剥がし”に弱い。
リシェルの剣は触手の付け根――花弁の裏から斜めに入った。
触手は切断。
液が飛ぶ。
花の蜜のような甘い、だが腹の奥で気分を悪くする匂いが、通路に薄く広がる。
「根!」
バルドが地を指で叩く。
床石の目地に走る細根が、靴底の溝に絡みに来る。
足を取られれば、倒れる。
倒れれば、絡まれる。
ソレンの砂袋が撒かれる。
砂は蜜を吸い、泥になって根の動きを鈍らせる。
魔術師の火矢が点で触手の中程に灯る。
燃え広がらない程度の火は、感覚を狂わせる。
触手は熱へ過敏に反応し、身体の中心を守ろうと引く。
そこへ――リシェルの刃が根元から入る。
花弁の裏、仮面の下、薄皮のような白い組織の隙。
躊躇なく。
アルラウネの“歌”が跳ねた。
調子が乱れ、波が欠ける。
呼吸が普通の空気に戻り、夜貴は頬に残った金粉を拭う。
視界の隅で、別の蕾が開きかけるのが見えた。
「二株。奥、蔓。切り替え。」
リシェルが前衛の位置を入れ替え、自らは二株目へ走る。
花弁が開き、仮面が笑う。
触手が四。
盾に絡む。
足を刈る。
喉を狙う。
リシェルの剣は触手の根元、一気。
躊躇が無い。
花弁の内から刃が閃き、仮面の根を断つ。
仮面は落ち、下から歯のような繊維がむき出しになり、震える。
歌は消え、残ったのは甘い悪心の匂いだけ。
ヨルキの足元で、細根が絡む。
靴底の溝に入り、踝に触り、ふくらはぎへ上がろうとする。
ヨルキは踵で砂を踏み、泥を作り、指先で根を千切る。
背負子は揺れない。
首だけで矢の軌道を落とすことを覚えたように、足はその場でさばく。
「良い。」
リシェルが一言だけ残し、最後の芽を斬った。
金粉が舞い、橙の松明に光る。
甘い匂いが薄くなると、代わりに“生”の匂い――汗、血、革、油――が戻ってきた。
「回収。花粉は袋二重。触るな、口に入る。根は刃物を鈍らせる、布で包め。」
ソレンが手早く布を回し、魔術師が火を消し、前衛が盾の蜜を拭う。
ヨルキは背負子の紐をほどき、花粉袋が荷の外側に来ないよう位置を調整した。
甘さが遠のくたび、頭の“膜”が剥がれる。
(眠りかけていた。……が、眠らなかった。)
それが今日の“勝ち”のひとつだ。
◆
三層の最後は、自然の大部屋だった。
天井は高く、柱のように残った岩が三本、中ほどで絡むように立つ。
床は緩やかな起伏と溝。
雨季に水が流れる道筋が、そのまま乾いた白い線になっている。
ここで戦えば、轟きは遠くまで届く。
ここで吠えれば、呼ぶ。
だが、ここでしか抜けられない。
「駆け抜ける。止まらない。オークが来たら“逸らす”。アルラウネの香りが来たら“口を閉じる”。ゴブリンの矢は“首で落とす”。――それだけだ。」
“それだけ”は、すべてだ。
バルドが短く頷き、前衛が走る。
中衛が続く。
ヨルキは荷を背に、脚を刻む。
呼吸は歯裏。
視界は前。
耳は要だけを拾う。
石の転がる前触れ、革の擦れる小さな悲鳴、棍棒の風切り。
右からオーク。
棍棒が来る。
前衛が斜面を作り、すべらせる。
左から矢。
ヨルキは首。
矢を”紙一重”で躱し、背板にとんと触れて落ちる。
奥から甘い。
ヨルキは歯裏。
甘いは膜になり、剥がれる。
走る。
走る。
走る。
背板は重い。
だが重さは軌道を安定させる。
安定は生を伸ばす。
前衛の靴が溝にはまり、半歩遅れる。
ヨルキは砂。
砂は噛み、足は戻る。
リシェルの刃が前を掃き、バルドの盾が押し、ソレンが指示を飛ばす。
“獣”のまま隊は抜けた。
「抜けた!」
誰の声かはわからない。
その声は歓声ではない。
生存の確認だ。
息が喉で燃え、肺で痛み、心臓は胸壁を叩く。
それでも、立っている。
夜貴は背負子を握り直し、背の板を叩き、自分の輪郭をもう一度確かめた。
「戻る。帰還だ。」
バルドが言うと、胸の奥で緊張の網が一段ほどけた。
足の運びは変わらない。
油断はない。
だが、視界の角は丸くなった。
帰りの道は、来たときより短い。
来るときは“知らない”の重さが道を倍にする。
帰るときは“知っている”の軽さが道を半分にする。
◆
地上。
湿った夏が、肺に入った土と血と油の匂いを押し出す。
陽光が皮膚に刺さり、汗が塩になる。
ギルドの旗が風で鳴り、中庭の槌音が「帰還」を刻む。
「本日分、完了。損耗――軽傷三。物資――規定以上。」
ソレンが帳面に記し、バルドが受け持ちの隊へ短く頷く。
魔術師は杖の先で地面をとんと突き、緊張を抜く。
前衛は盾の板を指で調べ、ひび割れの深さを確かめる。
リシェルは刃を拭い、油で薄く磨いた。
ヨルキは背負子を外し、紐をほどき、血の付いた部分を水で流す。
手は震えない。
足も震えない。
震えているのは、胸の一番奥で灯になった何かだ。
「ヨルキ。」
呼ばれて顔を上げると、リシェルが真っ直ぐこちらを見ていた。
「荷、落とさず。首で落とせを守った。――明日も使う。」
それだけ。
だが、充分だ。
「はい。」
バルドが前衛に「盾は板を替えろ。明日までに」と言い、魔術師が「薬草の減りが早い、補充する」と呟く。
ギルドは巨大な獣で、帰還も報告も、次の呼吸のための動作に過ぎない。
夜貴はその一部だ。
荷の一部。
それでいい。
今は、それでいい。
◆
石造りの簡易房。
鎖は相変わらず足を繋ぐ。
だが、昨日より半歩だけ長い。
“逃げない”からではない。
“逃げても意味がない”ことを身体が覚え始めたからだ。
夜貴は横向きに身を伏せ、背の板の“無い”軽さを味わい、しかし心細さは薄い。
今日の重さが、まだ背中に在るから。
天井の石目を数える代わりに、昼の一瞬――矢を首で落とした感覚を反芻する。
視界の端で、最後に尻が上がる。
だから、首を一指幅だけ落とす。
身体は勝手に動いた。
(なぜ、俺は見える。)
問いは浮かぶ。
だが、答えはまだ遠い。
遠いまま、夜貴はふと、口に出した。
「称号……」
⸻
レベル:1
名前:龍間 夜貴
職業:無窮の剣士
スキル:なし
称号:
剣の探究者/紙一重/背中に目/俊歩/死に向かい合う者/剣神の信奉者/剣に愛される者/死中に活
⸻
称号には何の意味もないはず。
たが――今日、避けた。
首幅で。
考えるより先に。
(称号が、効いている?)
将来を夢見る。
今日の“紙一重”を、奪う。
オークの足を、斬る。
アルラウネの歌を、止める。
荷を落とさない。
そしていつか、剣を握る。
“無窮”は、尽きない。
尽かさない。
尽きない道の一歩目に、今、俺がいる。
外の中庭で、夜番の交代の声が低く交わる。
ギルドという獣は、夜も眠らない。
夜貴は静かに息を整え、深く吸って、長く吐いた。
心臓の鼓動がひとつ遅くなる。
灯は胸の中央で、小さく強く燃え続けていた。