旅立ちを見送って
朝、シアは爽快な気分で目を覚ました。ベッドの寝心地が最高だった。最高だったのだ。柔らかすぎず、程よい弾力で優しく身体を包み込み……シアは身体を起こすのがもったいないと言うように、横たわったまま真剣な顔つきで天井を見つめた。
(このマットレス……買えないかな……)
もういつものベッドに戻れないかもしれない。この寝心地を知ってしまったからには。……ここにあるということは、きっと誰かがどこで買えるかを知っている、と思う。あとはお値段だ。どうしよう……と目を閉じて、シアは両親が遺してくれた財産に思いを巡らせる。買えないことはないと思う。たぶん、きっと。めちゃくちゃな思い切りが必要だろうけれど。
(ここにいる間に、真剣に考えよう)
たった一晩で心が『買う』に傾いていることを自覚しながら、シアは起き上がり、マットレスのことを考えながら身支度を整え部屋を出た。
「フィーくん、いる?」
隣の部屋をノックして、声をかける。すぐに返事が返ってきて、待つ間もないほどの早さで扉が開かれた。
「おはようございます、シア」
「おはようフィーくん」
笑顔で挨拶を交わし、並んで階下へと足を向ける。歩きながら、シアはいかにベッドの寝心地がよく感動したかをフィルディードに熱く語って聞かせた。
「——それで、フィーくんは今日出発するの?」
「シアに少しでも不安があるのなら、行きません。僕にとって何より大切なのは、シアです」
うんうんとシアの話を聞いていたフィルディードが、微笑みを浮かべてそう言い切る。はっきりと伝えられる言葉にシアは頬を赤らめて、口をぱくぱくと開閉した。
「ええと、うん。あのね……」
シアはもじもじしながら言葉を探し、フィルディードを見上げて照れ笑いを浮かべる。
「フィーくんが一緒じゃないのは寂しいけど、不安じゃないよ。皆とても親切にしてくださるから……大丈夫、ちゃんと待っていられるよ」
「はい」
ふたりはにこにこと微笑みあって、食堂に向かった。
皆同じタイミングで食堂に姿を現し、揃って朝食を摂った。朝食の席でフィルディードが今日出発することを告げて、食後に皆で見送りに出る。
「いいか、何があってもなくても毎日連絡しろ。毎日だぞ、わかったな?」
「わかった」
レンカが口を酸っぱくしてフィルディードに言い聞かせる。ディアナが笑いながら、「ハンカチは持ったか? 財布は?」なんて茶々を入れていた。
レンカの注意がひとしきり終わって、フィルディードはシアの前に立つ。寂しさとフィルディードを心配する気持ちでうまく言葉が出ないシアの手を取って、フィルディードが微笑んだ。
「昨日一日考えて分かったのですが、シアに可愛らしい顔をさせるのは、すべて僕であれたらと感じているようなのです」
「か、可愛い顔……?」
突然、思いも寄らない話が始まって、シアは面食らって目をまたたく。フィルディードは「そういう顔もです」と嬉しそうに笑った。
「だから一番に、僕に色々な表情を見せてください」
「もう、フィーくんたら」
シアは肩の力が抜けて、眉を下げて笑った。
「私を一番びっくりさせるのも、ドキドキさせるのも、いつもフィーくんなんだから。……気をつけて行ってきてね」
「はい」
「フィーくんがいないのはそりゃあ寂しいんだけど、無茶な急ぎ方はしないでね。ちゃんと休憩をとって、ごはんもちゃんと食べてね」
「はい、シア。必ずそうします」
惜しむようにシアの手を親指で優しくなぞり、手を離して、フィルディードは出立した。フィルディードの後姿はどんどんと小さくなっていき、やがて見えなくなる。
大きく手を振りフィルディードを見送ったシアは、しかし気付いていなかった。『睡眠を取るように』とは言っていないことに。寝るとか当たり前すぎて。——言われたことだけはきちんとこなすフィルディードは、首都を出た瞬間からぐんぐんと速度を上げ、目的地を目指して駆けていく。魔道車なんて目じゃない速さで。
「さて、昼食までの間、私に付き合ってくれるかな、シア?」
そんなことはつゆ知らず、しょんぼりとフィルディードが消えていった庭を見つめるシアに、ディアナが声をかけた。シアは目を丸くして、ディアナを見上げる。
「はい。もちろんですけど、何をすればいいでしょうか?」
「何、難しいことじゃないから気負うことはないよ」
ディアナはハハッと軽快に笑って、シアを真っ直ぐ見つめた。
「薄々気付いているだろうけれど、私たちは君の身の安全を確保したいんだ」
そうじゃないかな、と察していたシアは、おずおずと頷いた。ディアナはもう一度高く笑って、話を続ける。
「そうだな、まずは軽くその説明から始めよう。ついておいで」
「はい」
踵を返し颯爽と歩き始めるディアナに、シアはためらわず付いていく。
——ディアナと、何よりも『シアを彼女たちに預けた』フィルディードへの信頼で、その足取りに一切の不安はなかった。








