共に暮らす約束を
「あの、内扉を自由に使ってもらいたいんです」
家に帰り、お茶をいれてダイニングセットに向かい合って座り、シアはそう切り出した。フィルディードはシアの言葉に戸惑って、少し困ったように眉を下げる。
「ですが……」
「気づかってくださるのは、本当に、ほんっとうにありがたいです。でもほら、外をぐるっと回って、私も出迎えてだと、毎日大変じゃないですか」
シアはうんうんと頷いて、フィルディードを真っすぐ見つめた。
「私の部屋は二階にあるんです。見られて困るような格好で下に降りないと約束します。フィルディード様は、二階には上がらない。私も診療所の方には入らない。そういう約束事を決めたいんです」
フィルディードはぱちぱちと目を瞬かせ、シアを見つめ返す。
「それは……」
「私、フィルディード様にお願いしたいことが、今すぐに思い付かないんです。ちゃんと真剣に考えます! だから、少しの間待ってもらえませんか……?」
「もちろんです!」
フィルディードは瞳を輝かせて、前のめりになって頷く。
「いくらでも待ちます。思い付いたことがあれば、何でも言ってください!」
「ふふ、じゃあ、一緒にルールを考えてくれますか?」
シアはほっとして笑みを浮かべる。もちろんです、とまた頷くフィルディードと、お茶を飲みながら話し合った。食事や掃除について、洗濯物のこと、風呂場を使う順番……お手洗いは、シアは二階にあるお手洗いを、フィルディードは診療所にあるお手洗いを使うことに決めて、別の場所は使わないと約束した。
お互いにお互いを優先しようと遠慮し合うものだから話し合いは長引いて、でも、その譲り合う姿勢に、シアは思ったよりぜんぜん上手くやっていけそうだぞ、と笑みを浮かべる。
「……その、僕からも、お願いしたいことがあるんです」
あらかた話し合って少しの沈黙が流れたあと、フィルディードが遠慮がちに口を開いた。シアが小首を傾げて続きを促すと、フィルディードは少し恥じらうようにしながら言葉を続ける。
「『フィルディード様』と呼ぶのではなく、その、口調も、もっと気楽にしていただければと……」
「…………フィルディード様もですよね?」
「この口調は、友と話し方を矯正したんです。普通に話すとひどく無愛想に見えるらしくて……」
「なるほど……?」
英雄が会う人となると、それこそ国の君主であったり、身分の高い人だったのだろう。今でこそフィルディードは『救世の英雄』と呼ばれているが、旅の道中はきっと考えもつかない苦労があったに違いないとシアは納得した。
「僕も、無愛想にならずに普通に話せるよう、努力してみます。だからシアも、畏まらずにいて欲しいんです」
人には、祭り上げられることを喜べる人と、気まずく思う人がいるなとシアは思っている。フィルディードはきっと、気まずく思う方なのだろうとシアは頷いた。
「わかりました。私も一緒に努力します。しばらく混ざっちゃうと思うけど、その、よろしくお願いします……フィルディードさん」
「はい……!」
ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。長くかかった話し合いに、窓の外は夕暮れに色付いていた。
「さて、夕飯を作りますね」
赤く染まった空に、そろそろ夕飯の支度をしなければとシアは立ち上がった。どうせなら少しでも喜んでもらえるようにと思い、シアはフィルディードを振り返る。
「フィルディードさんは何が好きですか?」
「好き嫌いはありません。何でも食べます」
「好き嫌いが、ない」
好物を聞いた答えが予想外で、シアは面食らう。『好き嫌いがない』を、『好きがない』方向で答える人を初めて見た。戸惑うシアに、フィルディードは言葉を続ける。
「味はわかります。特別これが好ましいといったものがないだけで……ですが、今朝のスープが、本当においしかったです」
「そ、そうですか……? じゃあまたスープ作りますね……?」
おいしいと言ってもらえることは素直にうれしいが、シアは不安になった。だって、本当に適当に作っただけのスープだったのだから。
(ええ……? あれがそんなにおいしかったなんて、今まで何を食べて……?)
まさか、世界を救う旅が過酷すぎて、『好き』と思える食べ物に出会うことさえできなかったんだろうか。だから『好き嫌いがない』のだろうか。
そんなまさか、とシアはうろたえる。英雄様なんだから、お城で見たこともないようなご馳走を食べたりするんじゃあ……? と。そんな華やいだ瞬間もなく、野営で干し肉や焼いて固めた穀物をかじるフィルディードを想像し、シアは青ざめた。
(やだ……いっぱい食べてもらわないと……)
今から貯蔵庫の中身が変わるわけでもなく、シアの腕前が一流料理人になるわけでもない。でも少なくともここには、新鮮な野菜や森の恵みがある。シアはひとり決意を胸に、台所に立った。
普段より丁寧に野菜や塩漬け肉を切り、甘みと旨味が出るようにじっくりと炒め、水を入れてハーブや香辛料を加え、ことことと煮込んで丁寧に灰汁をすくう。
フィルディードはダイニングで、漂うスープの香りに目を細めていた。