穏やかな日常を
公国首都の貴族街。アメリディアはそこに建つ白亜の屋敷を訪れた。
使用人の案内で通されたのは、美しい庭園を望む日当たりの良い一室。張り出し窓に腰掛けて、本の頁を捲る麗人にアメリディアは声をかける。
「こんにちは、ディアナ」
「ああ、来たかリディ」
ディアナは本から視線をあげ、アメリディアに向かって微笑んだ。多くの人々を魅了する絵画のような一瞬を崩してしまったようにすら思うが、そんな事を言っていてはディアナに声をかけることが出来なくなる。ディアナは常に高名な芸術作品がかすんでしまうほど美しいのだから、とアメリディアはどこか呆れたように肩をすくめた。
「この国の公子とはその後?」
「口説かれているわ」
「ははっ、簡単には逃がして貰えんか」
ディアナは本を閉じ、ティーテーブルの前に歩を進める。扉前に控えていた使用人に茶を用意するよう言いつけて、椅子に座りゆったりと足を組んだ。
「それで、君はどうするつもりだ?」
「条件としては結構よ。私自身、身の置き場に困っているもの。——ただし、『豊人族の真なる王』を利用するというなら話は別だわ」
アメリディアは向かいの椅子に腰掛けて、不愉快げに鼻を鳴らす。ディアナはその様子に、くつくつと喉を鳴らした。
「豊人族は難儀だな。数が多すぎて、王が続かない」
「紋章が常に浮き出ているわけじゃないのも原因のひとつよ。私なんて腰に出たのよ? そんなの分かるわけがないじゃない!」
創造神より与えられる種族の紋章は、感情を大きく高ぶらせたとき、大きな魔法を使うためなどで魔力をみなぎらせたとき、それから、神の名の下に王の裁きを下すときに現れるのだ。そこにあると知った上で浮き上がらせることは容易だが、自分に紋章が宿っていることに気付かないまま一生を終えることも十分に考えられる。
「あれはな、魔法を使う際に、無意識のうちに魔力を集中させる一点……クセのような場所に現れるようだぞ」
後頭部に現れた例もあるらしい、とディアナは笑い、アメリディアはげんなりとした顔つきで天を仰いだ。
「まあ、決定権は君にあるんだ。どうしようもなく困った時は言いなさい。私が君を拐ってあげよう」
「一緒に長人族の国に? それもいいわね」
「この国に世話になっている身で、不義理を言ったかな?」
「あいまいにごまかし続けている私もそうだもの。……仕方ないわ、今はここにいるのが一番都合いい」
片眉を上げておどけたように笑うディアナに、アメリディアは肩をすくめてみせる。フィルディードはこの国のどこかにいるのだ。——どこに向かったか聞いているはずなのに思い出せない。『聖域』があると知っている、紋章を身に宿した『真なる王』であっても記憶に霞がかかる。難儀なものだ、とアメリディアは頭を振った。
紅茶が運ばれてくる。茶器を並べて礼をとり、退室する使用人を何となく見送って、アメリディアは芳しい茶の香りを楽しんだ。
「……そういえば、何の本を読んでいたの?」
ティーカップに口を付け、アメリディアはディアナに尋ねた。
「ああ、『一角獣と乙女』だよ。一角獣が描かれていたから興味深くてね。比較的最近の本だな」
「私のお母様が子どもの頃にはあった物語よ。私にとっては昔からある本だわ」
長命種との時間感覚の差を感じ、アメリディアは愉快げに笑った。
「ねえ、一角獣は本当に『乙女』だけに霊薬を授けるの?」
長人族の国は、巨大な湖の中に建つ水上都市だ。周囲は深い森に囲まれていて、その森にこそ一角獣が生息している。その森は特別マナが濃く、魔物が発生しやすい。長人族と一角獣は、魔物を狩る共闘関係にあるのだ。一角獣はその角から、重傷をたちまち癒す霊薬を長人族に与える。その霊薬は稀に長人族から他種族へと分け与えられるのだった。
「いや、アレはな……なんというか、幼体に甘いんだ」
「幼体?」
思いがけない返事にアメリディアは首を傾げる。ディアナは鷹揚に頷いて、説明を始めた。
「一角獣は群れを形成しているのだが、どうも『大いなる意思』とでも言うべきか、知識や思念を共有しているようなのだ。個としての意識が薄く、更に『死』があるのかもあいまいだ」
「死なないの?」
「そもそも一角獣の角自体が霊薬なのだ。角にマナが蓄えられている限り、どんな傷を負っても即座に回復する。それでも強大な魔物が発生し、激戦となれば力を使い果たす個体も出てくるのだが……倒れた一角獣は、光と散って消える。しばらくすると、一角獣の幼体が姿を現すんだ。消えた個体が復活したとしか思えないような、な」
アメリディアは驚き、感嘆の息を吐く。興味深そうに身を乗り出し、質問を重ねた。
「それで、どうして『幼体に甘い』に繋がるの?」
「一角獣たちは、幼体に力を分け与えようとするんだ。寄ってたかって角を突き付け、角に蓄えたマナを譲る。幼体は見る間に成長して成体になる」
ディアナはよく分からん、と言いたげに肩をすくめて話し続ける。
「そのせいか、やつらは幼体に甘い習性があるんだよ。霊薬を分け与えていただくお役目は長人族の子どもが担っている」
特別に精製した魔法水を入れた壺を持ち、お役目を務める子どもは丸腰で森に入る。一角獣の角から滴る霊薬の雫を壺に受けるのだ。魔法水で薄めた霊薬は効果が減退するが、それでも驚くほどの癒やしを得られる。ある程度日持ちもして持ち歩けるのだ。魔物を狩る者たちにとって、生命線となる薬だ。『霊薬』として世に出るものも、すべてこの薬だった。
「護衛からも距離を空ける危険なお役目だが、大切な務めだ。最近までは私の息子が務めていてな。だから『乙女』は関係ない。一角獣は人の雌雄を見分けていないと思うぞ。それどころか、長人族を見慣れているせいか小人族は皆子どもに見えるらしい」
「そうなの!?」
「ああ。小人族の先代王がよく森に入って一角獣の癒やしを受けているようだ。あの方は身体を悪くしておいでだからな……しかし彼は壮年だというのに、一角獣も適当なものだ」
「……小さく見えたらなんでもいいのかしら」
「かもしれん」
呆れたようなディアナの物言いに、アメリディアはくすくすと笑い始める。「物語は嘘っぱちなのね」と笑うアメリディアに、ディアナは「夢を壊してしまったかな?」と笑いかけた。
「いいえ、とても面白い話を聞かせてもらったわ」
「私も、この本が楽しかったよ。豊人族は創作がうまいものだと心から感心した。話としてよく出来ている」
「壮年の小人族でも霊薬を授けられるだなんて、作者が知ったら驚くでしょうね」
「ふふ、ここだけの話にしておこうか」
ふたりは笑い合って茶器を手に取り、喉を潤す。一角獣が倒れ、幼体として姿を現すなど、滅多に起こることではない。すべてはヨミが巻き起こしたあの動乱のさなかに、大量の血を流した激しい戦闘の中で目にした出来事。
それを乗り越えた穏やかな日々に、麗しい女性たちの軽やかな笑い声が静かに響いていた。