与えられた心は
「シアは、シア! あなたは?」
「……フィル」
「じゃあ、フィーくんね!」
それが、ふたりが交わした最初の言葉。
§
「くそ……っ! どういうことだ!!」
ダンはフィルディードを前に頭を抱えていた。フィルディードの身体が一切の魔法を受け付けない。すべての魔法がフィルディードに触れた瞬間かき消されてしまうのだ。それは、魔法での治癒が不可能であることを意味していた。
ダンはなんとか手を尽くそうと、可能な限りの診察を行う。血が固まって張り付いた服を切り、汚れを拭って傷を確かめる。口内を診て呼気を嗅ぐ。眼球の動きと結膜の色を確かめる。脈をはかる。呼吸の音を聞く。……結果、現状わかることは、フィルディードに一切の傷がなく、脱水と貧血、そして飢餓状態に陥っていることだけだった。
急いでまず点滴を、と準備すれば、今度は針が刺さらない。ダンは頭を掻きむしって低く唸った。
「どうなってるんだ……!」
患者を前に打つ手が無に等しい。こんなにも無力を感じたことはないぞ、と嘆きながら、ダンは塩と砂糖を溶かしたぬるま湯を作りガーゼに含ませ、フィルディードの口に入れて水分を与え続けた。そうしているうちに、ダンは周囲のマナ濃度が異様に低下していることに気付く。フィルディードが生きるために食っているのだ、と理解したダンは、大きく息を吐きながら天を仰ぐ。今までに一度も、聞いたことすらない現象だった。「君が生きてくれるなら、もうどうにでもしてくれ……」と諦めたように呟き、ダンは純粋な魔力を放出し始める。フィルディードの肉体はそれを貪欲に食らい、急速に回復していった——
ヨミはどう次の手を打つか思案しながら、ニタリと笑う。しばらくはフィルディードを治癒させなければならないので下手に手が出せない。ならば回復した頃に、フィルディードの眼前であの一家を惨殺しようか、とほくそ笑んだ。村の中から堕とせそうな人間を探しつつ、ヨミは新たに気付いた能力の実験を始めた。魔物を操る力だ。付近の魔物は使い尽くしたため、ヨミは離れた場所に目を向け夢中になって遊び始める。フィルディードの監視が緩んでいることに気付かぬまま。
幾度も意識を取り戻し、その都度回復食を口にして、また眠る。何日目か、フィルディードはついにはっきりと意識を取り戻した。どこにいるのか分からないままただ空を眺めていると、ドアが開けられて、そろりと人が入ってくる。
「シアは、シア! あなたは?」
かけられた言葉にゆるりと視線をおくれば、小さな子どもが期待をはらんだ瞳でフィルディードを見つめている。呼び名を聞かれたのだろう、とフィルディードは記憶を辿り、自分が何と呼ばれていたかを思い出す。震える声。悲哀をはらんだ、うかがうような声色で呼ばれたそれは、確か。
「……フィル」
「じゃあ、フィーくんね!」
シアはパッと満面の笑みを浮かべ、フィルディードをそう呼んだ。そして、そのままずかずかと無遠慮にフィルディードの元に近付いて、ベッドによじ登る。
「シアがね、フィーくんに絵本をよんであげるね! シアもうね、とちゅうまでよめるんだよ!」
シアはフィルディードの返事も待たず、フィルディードの隣にどっかと座り込んで絵本を広げる。フィルディードはただぼんやりと、その様子を眺めていた。
「そうぞうしんさまは、だいちを作ってそらでおおい、せかいをおつくりになりました」
開かれた頁に描かれた絵。たどたどしく読み上げられる創造神話。見ろと言われたから見る。聞けと言われたから聞く。フィルディードの認識はその程度だったが、それは、フィルディードが初めてまともに触れる『創造神』と——そして善意だった。
シアは毎日フィルディードの元にやってきた。フィルディードはろくに反応を返さないというのに、飽きもせずにフィルディードのベッドに上がり込み、毎日一頁ずつ絵本を読んで、絵を描き始める。
「これが父様で、これが母様で、これがフィーくんとシア!」
人と見るにも怪しい顔のついたいびつな丸。変なところから線が伸びていて、隣の丸とつながれている。
「おててつないでねー、いっしょにおさんぽするんだよ」
いっしょにお花つもうね、とシアはフィルディードに笑いかける。フィルディードにはその意味が理解できないが——心に、温かな何かが少しずつ降り積もっていく。
おやつね、と言ってシアは瓶詰めの飴を持ち込む。「ほんとはね、ベッドで食べたら母様におこられちゃうんだよ」と、シアはいたずらそうに笑う。「なにいろにする?」と聞かれてもフィルディードには分からなくて、黙っていると「シアはこれがいちばんすき!」と言って水色の飴を口に入れられる。シアは「おいしいねえ」と笑う。甘い優しさがフィルディードに染み込んでいく。
毎日毎日、飽きもせずに。シアは絵本を少しずつフィルディードに読み聞かせて、フィルディードのベッドで寝転んで、絵を描いて、自由に、勝手に、楽しそうにフィルディードに笑いかける。
「そうぞうしんさまは、すべてのひとびとをあいし、……えっと」
「みまもって」
思わず口を挟んだフィルディードに、シアは弾かれたように顔をあげた。
「フィーくん字、よめるの!?」
「シアが何度も読むから覚えた」
「なんで!? ここまだよんでないよ!?」
「前に同じ字を見た」
「フィーくん、すごいねえ!」
シアは瞳を輝かせて笑い、フィルディードを褒める。フィルディードにはまだ、笑顔が理解できない。しかし理解できることが増えていく。創造神話に書かれる言葉を、字を、シアから与えられた。
積もる、積もる。フィルディードの心に降り積もっていく。シアから与えられる何かが、フィルディードに満ちていく。
いつものようにフィルディードのベッドに上がり込んで遊んでいるうちに、ころっと寝入ってしまったシアをフィルディードは見つめていた。
(なぜ……)
シアはあまりにも無防備に眠っている。フィルディードは初めて考えた。与えられたものを理解しようと。
無邪気な笑顔。『フィーくん』と呼びかける声の温かさ。絵本を読む声色。手をつないだ絵を描かれる意味。その絵の中で、シアと同じ表情で描かれるフィルディード。
シアがぷうぷうと鼻を鳴らす。赤くふっくらとした頬に気を引かれて、フィルディードはふと手を伸ばしてそれに触れる。
(温かい)
柔らかくて、温かくて、生きている。こんなに小さくて柔らかいと、少し叩いただけで簡単に破裂してしまうとフィルディードは思い至る。
(——守りたい)
絵本に書かれていた言葉の意味が繋がっていく。失いたくない、と、強く感じた。この無垢な命を。無防備な信頼を。フィーくんと呼ぶ声を、シアの笑顔を。
(シアが笑うために必要なすべてを、守りたい——)
そう強く想った瞬間、天井からちらちらと小さな光の粒が舞い落ちた。呼ばれている。そう感じ、フィルディードは光の粒に手を伸ばす。
《 やっと、繋がった 》
光に触れた瞬間、フィルディードの頭の中に柔らかな声が響いた。








