どうか
その日、シアはひとりで両親の花を訪れた。しゃがみ込んで両ひざを抱え、ぽつり、と小さく声をこぼす。
「母様、あのね、私……」
好きな人ができたんだけど、と続く言葉は声に出せなくて、シアはわざとらしく明るい笑顔を浮かべる。
「しょうがないよね! だって、すごくさみしいところに優しくされて、しかも格好いいなんてね、そんなの——」
冗談のように誤魔化そうとしても言葉は続かず、シアはわななく唇で下手くそに笑う。——もう、自分の心が偽れない。嫉妬してしまった。ディアナに家庭があると知って安堵した。軽薄で一時的な気持ちなんだと口にしようとしても、そうじゃないことは自分が一番わかっている。
優しくて、穏やかで、変に生真面目で、たまにとんでもないことを起こす想い人。人当たりが良いように振る舞っていると言っていたけれど、一緒に暮らしていれば、それだけじゃないのだと分かってしまう。心の温かい、どこか朴訥とした人。
この想いを、手放したかった。
シアは、世界で一番、誰よりも、何よりも、フィルディードが望みのまますべてを手にしなければいけないと思っている。大勢から讃えられて、贅沢をして、見たこともないようなご馳走を毎日食べて、隣にいるのは、宝石のように麗しいお姫様。……そうじゃなきゃ嘘だろう、と。彼は世界を救ったのだ。シアが今日平和に生きているのも、村の皆に変わらぬ明日があることも、世界中すべて、彼のおかげで今が存在しているのだから。
シアでは足りない。何もかもが。ちょっと小金を持っている、小さな村の中で『かわいい』と言われる程度の村娘。土いじりをして水仕事をして指先だって荒れがちで、特別秀でたところなんてない一般人。魔物どころか野犬にだって余裕で負けると思う。——それがシアだ。世界を救った末に、そんなものに捕らわれるだなんて、きっと、きっと許されない。
「母様が生きていたら、諦め方を教えてくれたかなあ……?」
生まれつき病を患っていて、若くしてこの世を去った母。もしも今、言葉が交わせたなら。
人は、この世に産まれ出た瞬間、最初の呼吸でマナを自分のものにする。生まれた場所も血筋も関係なく、強制的に世界からマナを吸い上げる一呼吸——それで適正が決まるのだ。
ただ稀に、高濃度のマナに満たされた場所で産声を上げたとき、限界を超えて適合できないほどのマナを吸い上げてしまう事故が起こる、とシアは父から聞かされた。マナを取り込み魔力に変換する臓器に異常が起こり、過剰に作られ続ける魔力が身を蝕む。それが、母の病だった。
父は母の主治医で、母が幼い頃から治療にあたっていたらしい。その頃から母は父に恋をしていて、父はまともに取り合ってくれなくて。長い月日をかけて口説き落としたのよ、といつも母は笑っていた。だから、もしかしたら『諦め方』なんて教えてもらえないのかもしれない、とシアは淡く微笑む。
「母様はなんて言うのかなあ」
赤い鎮魂花はただ風に揺られている。何も、シアにこたえてはくれない。村で相談できる相手も思いつかなかった。なんだか、誰かに打ち明けたとたんすぐに村中に話が広がって、皆が総出でフィルディードを囲い込もうとしそうだし、とシアは困ったように笑う。
——父様だったら、とシアは母の花を包み込むように咲く薄灰色の鎮魂花を眺めた。シアを慰めてくれるだろうか。それとも、シアがこんな気持ちを抱える前に、フィルディードを彼の世界に帰すことができただろうか。『恩返し』なんてもう十分だよ、と彼を上手く説得して。
両親の花は仲良く風にそよいでいる。シアも、将来的には結婚して、想い合う誰かと寄り添い、この丘に咲きたかった。
(でも、もう)
そんな夢だってもう叶わなくなったじゃないか、とシアは唇を噛み締めた。あんなに素敵な人に出会って、恋をして。もうきっと、間違いなく、シアは一生フィルディード以外に恋なんて出来ない——
もう十分だ、とフィルディードに言わなければ。彼を光の当たる場所に帰さなければ。もうシアには叶えたい願いなんて思いつかないから。
(それでも、どうか)
この冬だけは、とシアは創造神に祈りひと粒の涙をこぼす。これから本格的な冬がやってくるのだから。冬の旅は過酷だと聞く。父と母も、旅の途中大雪で立ち往生したことがあると。冬に旅立つのは危険だから。寒さが辛いから。春が来たら、きっと彼から手を離すから、だからどうかこの冬が終わるまでは、とシアは膝に顔をうずめる。
(どうかお許しください、創造神様……)
シアは鎮魂花の前でぎゅっと膝を抱きかかえる。家に帰ったら普段通りに振る舞わないと、と思いながらうずくまるシアの上に、雪がちらちらと降り始める。
風に揺られ舞い落ちた雪片が、シアの足元でゆっくりと溶けていった。








