懐かしい記憶
「……懐かしいな」
シアは夜、自室で一冊の絵本を手に取った。創造神話——聖典を子どもでもわかるよう改編した絵本だ。
表紙には不完全な聖印が描かれている。聖印とは、『空に風』『右翼に水』『左翼に火』『土に実り』『天に光』……それぞれ小人族、長人族、巨人族、豊人族、そして創造神ラーティアを示す紋章で成り立っているのだ。
豊人族のシアが持つものは、聖印から『土に実り』を削ったものになる。我らひとりひとりこそが聖印の一部そのものなのであるとして、各種族は聖印から自分たちの紋章を削った印を描いて使う。各種族の紋章自体は単独で聖典に描かれているので、完全な聖印を見たことがなくても、誰もが聖印の正しい形を知っているのだ。
シアは本を開き、ぱらりとページをめくる。小さな頃から繰り返し読んでくたびれた絵本は、シアが文字を覚える教本にしたものでもあり、そして——
「……フィーくんと、読んだんだっけ」
当時を思い出し、シアはそっと本を撫でた。
幼い頃の記憶はおぼろげで、それでも確かに覚えていることはある。——あの日、丁度今両親が眠る丘から森を眺めて。シアは最初、森の端に襤褸布が落ちていると思ったのだ。茶黒く染まった、何年も野ざらしになったボロボロの布袋か何かが落ちているのだと。その布から人の足が生えていると気付くまでは。
シアは悲鳴を上げて父を呼んだ。慌てて駆けつけた父に「あそこ」と震える指で示せば、父は見たことがないほど厳しい顔つきでその襤褸布に近寄った。
父が抱え上げたものがシアより少し年上の少年だと知って、シアは怖くて怖くて泣きじゃくった。あんなにボロボロになるなんて、どんな酷い目に合ったのかと考えても想像さえつかず、恐ろしくて仕方なかったのだ。母にすがり付き、泣きつかれて眠って、翌朝父に「助かったよ」と聞かされた時、シアは今度は安堵のあまり号泣した。——本当にずっと泣いているばかりだったな、と振り返り、シアは淡い微笑みを浮かべる。だって、まだたったの四歳の頃だったのだから。
少年はしばらくの間こんこんと眠り続けた。
シアはずっと少年が眠る部屋の前をうろついていた。心配で心配で、気になってたまらなかったのだ。ついに目覚めたと聞かされて、父の許可を得てそっと部屋に入れば、少年は寝台の上で身を起こし、静かにじっと虚空を見つめていた。
話しかけてもあまり反応が返ってこなかったように記憶している。まるできれいなお人形のようだと思ったのを覚えているから。
泣くことも、苦痛を訴えることもしないで、ガラス玉のような目でただ空を見つめている——その空虚な瞳を見たときに、シアは思ったのだ。『シアが拾ったのだから、シアが面倒をみてあげないと』と。
——犬猫じゃあるまいし、とシアは絵本をなぞりながら苦笑する。それでもその時は大真面目だった。あまりに真剣な決意だったから今でも覚えているくらいに。
その後は、ひたすら彼の元に押しかけて、寝台に上がり込んで絵を描いたり絵本を読んだりしていたように思う。何か話をしたのだろうか、もうそこまでは覚えていない。でも、シアは当時本当に幼くて、ただ毎日近くで勝手に遊んでいただけだったと思う。シア自身は恩を受け取るほどのことをしていないと断言できるくらい。
「恩返しかあ……」
両親の代わりに恩を受け取ると決めてから、季節は移り変わった。もう十分すぎるとシアは思っている。『恩返し』だからと理由を付けて、差し出される手をためらいなく取る日々は、まるで家族と暮らす日常が帰ってきたようで。重い荷物を遠慮なく預け、あれがしたいと気軽に頼み、やる事を任せてシアは別のことをして……両親以外にこんなに気楽に頼ったことはない。ずいぶんと甘えさせてもらったと、シアは視線を落とす。
「好きになっちゃう前に、お別れしないとなあ」
ひとりになった寂しさが埋められて、驚きの連続に孤独を抱える時間なんて薄れてしまって、毎日がとても楽しくて。
でも、まだ弁えているとシアは頭を振る。彼は、フィルディードにはもっと相応しい場所が、彼が得るべき栄誉が、手にすべき様々なものがある——英雄なのだから。
「でも、フィルディードさんおいも食べるの楽しみにしてるしなあ……」
一緒に植えて、秋が来たら採れるのだ。どうやって食べようか、とも話をした。オーブンで焼くだけでもおいしいし、塩とバターで炒めるのもいい。ごろごろの芋が入ったパンも作りたいし、グラタンにするのだっていい。
「一緒に食べようって、約束したし……」
シアは目を閉じてそう呟く。
そんな言い訳を必要とする時点で手遅れなのだと——シアはもう、薄々感付いていた。








