突然の英雄・再
「…………だめだ、寝れない」
夜、自室のベッドの中で目を閉じ寝返りを繰り返していたシアは、諦めて目を開く。
昼間に起こったことが衝撃的すぎて、どうにも寝付けないのだ。……まさか、救世の英雄が恩返しに来るだなんて。
フィルディードは階段の魔石を交換したあと、「今日はこれで失礼します。また明日伺います」と折り目正しく一礼し去っていった。『明日伺う』と言っても、この村に宿なんてない。昔、薬草の研究や採取が盛んだった頃にはあったのだが、研究が進んだ結果、薬草の人工栽培が可能になったのだ。この村は緩やかに役目を終えて、人が訪れることもなくなり……宿だった建物は、村に流れ着いた医師が診療所を開く約束で貰い受けた。
――そう、シアの住むこの家こそが、昔宿だった建物なわけで。
(……どこに泊まってるんだろう…………)
一番近い町でも、夜明け前に村を出発して日がすっかり落ちた頃にようやく到着するような、本当に僻地にある村なのだ。四方は森に囲まれていて、何とか維持している森の中の細い道を抜けた先には何もない草原が広がっているくらいの。
フィルディードは村長の家を訪ねたのだろうか。シアの家には患者を預かるための部屋があるが、この村で他に誰かを泊められるような家は村長の家くらいしかない。突然英雄が訪ねてきた村長の心境を想像して、シアは胃を押さえた。
(ウッ……だめだ、お水でも飲もう)
喉がえらく渇いている気がする。水でも飲んで気分を変えよう、とシアは身を起こした。スリッパを足に引っかけて、部屋を出て壁を探り、階段の明かりを点ける。パッと灯された明かりは、今日、フィルディードが魔石を交換してくれたおかげで点いたわけで。
(助かったんだけど……それは本当にそうなんだけど……)
何とも言えない気持ちを噛みしめながら、シアは明るい階段を下りてキッチンに向かった。
キッチンの小さな明かりを点けて、水栓を開けてコップに水を注ぐ。喉を潤す冷たい水に、シアはほっと人心地つく思いがした。今あれこれ悩んでも仕方がない。明日来ると言ったからには、きっとまた明日英雄が訪ねて来るのだ。とにかく睡眠をとらなければ身が持たない。
(よし、とにかくがんばろう……!)
何をがんばるのかよくわからないけれど、シアは決意を胸に顔を上げた。真っ直ぐ前を向いたシアの目に、リビングの窓が映る。カーテンのすき間から、チカリと光が漏れた。
(え…………? なんで?)
シアの家は、村の一番外側の、外れた場所に建っている。森を訪れる人のために建てられた宿だったから、森に面しているのだ。窓の外に光るものなど何一つ見えないはずなのに。
(やだ、どうしよう……)
どう考えても心当たりがない。明かりを設置しよう、なんて話だって聞かされていない。ゾッとして、シアはゆっくりと窓に近付いた。確かめずにはいられない。だって、この家にはもう、シアしかいないのだから。
明かりの主に気付かれないように、シアはそっとカーテンに手を伸ばす。ほんの少しのすき間から確かめて、もし、もしも悪いものだったら――ゴクリと息を呑んでシアはカーテンのすき間から外を…………
「ヒョエエ!!」
シアは思わずすっとんきょうな声を上げた。恐る恐る外の様子を確かめたシアの目に映ったのは、手元を明るく照らした英雄の立ち姿だった。
「なっ、何を、そこで何を!!」
シアはランプを引っ掴み、弾かれたように外に走り出た。血相を変えて走ってきたシアを見て、フィルディードは手元の明かりを消し、驚いた顔でシアを止めようとする。
「こんな時間に外に出るなんて、危険です。早く戻ってください」
「いやまずそこで何を?!」
「森に面していましたので、警護が必要かと思い夜警をしていました」
キリッとした顔つきで、当然のようにこたえるフィルディードに、シアは口をぱくぱくと開閉した。救世の英雄に、寝ずの番で身辺を守らせる、ただの村娘のシア――
(ない……! あまりにもない……!!)
言葉を失ってフィルディードを凝視するシアに、フィルディードは気遣うように言葉をかける。
「野営は旅で慣れていますし、この程度で疲れる身体でもありません。どうか、お気になさらず」
「おっ、お気に……ッ! するよオッ!!!!」
シアは腹の底から叫んだ。
「いいから! そういうのいいから!! も、もう……っとにかく家に入って!!」
「いえ、女性の一人暮らしの家に夜分上がり込むようなことは……」
(変なところで常識的ぃ……!!)
シアはグッと目をつむる。常識外のことを仕出かしている英雄が常識的なことを言いやがった。頭を抱え地団駄を踏みたい気持ちで、シアは痛感する。とにかく、とにかくこの英雄はシアに恩返しがしたくて、シアを守りたいのだと。
「もう、もう分かりました。大丈夫です。私はフィルディード様が、私を守ろうとしてくれているのだと信じます。そんなにも私を守ろうとしてくれる人が、同じ屋根の下だからって私に悪さをするわけがないじゃないですか! ……それに」
外でずっと警護なんかされたらおちおち寝てもいられない。気が咎めてしょうがないのだ。その上……シアは諦めたような半笑いを浮かべてフィルディードを見つめた。
「もし、万が一フィルディード様が私を害そうとしたとして、普通の民家の、普通の玄関の鍵が、何か障害に……なります……?」
「それは、その」
フィルディードは目を泳がせて言いよどみ、それから観念したように口を割った。
「なりません」
「ですよねえ」
シアはもういっそ可笑しくなってしまって、声を上げて笑い始めた。
「外も中も関係ないじゃないですか。大丈夫です、診療所だったから、患者さんを預かる部屋があるんですよ。そこを使ってください」
「ですが……」
「外で警護されるよりよっぽどいいです」
「――その、ではお言葉に甘えます」
シアはくすくすと笑いながらフィルディードを再び家に招いた。フィルディードはためらいがちにシアの後をついて行く。
ひとりで暮らす広い家に、ひとつ明かりが増やされた。