無農薬農薬
野菜はすくすくと育って、ずいぶん背が高くなってきた。長い支柱をさして麻紐で茎をくくり、シアはジョウロを取ってこようと立ち上がる。
「……そういえばフィルディードさん。魔法で水を撒けますか?」
ふと思い立って、シアはフィルディードに問いかけた。いつもは父が、水魔法で畑全体に水を撒いていたのだ。シアにはできないので、ジョウロで水をやるためにいつも勝手口横の外水栓と畑を何往復もしているのだが。
「水魔法は使えるのですが……使えません」
歯切れの悪い返答に、シアは首を傾げた。シアの不思議そうな様子にフィルディードは言葉を続ける。
「細かな加減が出来ないんです。周囲一帯に豪雨を降らせることが出来ます」
「豪雨」
「はい」
フィルディードは真面目な顔で頷く。シアは晴れ渡った青空を見上げ、なるほど、と言われた言葉を咀嚼した。
「それは……やめておきましょうねえ」
「わかりました」
「一緒にジョウロ使いましょうね」
少ししょんぼりするフィルディードに笑顔を向けて、シアはジョウロを取りに行く。豪雨はいけない。水を撒く手間を省くどころの騒ぎではなくなってしまうので。周囲一帯とはどこまで入ってしまうのだろう……と考えながら、シアはジョウロに水を入れた。
「あ、蝶々……」
水を撒いていると、どこからか蝶が飛んできた。二匹絡み合い舞うようにして、仲良く飛んでいる。シアは無言でジョウロを地面に置き、両手を振り回した。
「あっち行け! こっちに来るんじゃありません! 森で! 繁殖しなさい!!」
腕を振って追い払おうとするシアに、フィルディードは首を傾げた。
「蝶が嫌いなんですか?」
「違うの」
追い払われて、蝶はひらひらとどこかへ飛んでいく。シアは眉根を寄せて、もうこっちに来るなよ、と飛び去る蝶を睨みながらフィルディードにこたえた。
「厄介なんですよ。畑に卵を産み付けられたら、幼虫が葉っぱを齧るわ実を食い荒らすわで」
ぜんぜん蝶だけじゃないんですけど、とシアは肩を落とす。虫の大半は畑に害を与えにやってくるのだ。繁殖のためとはいえ、譲ってなんていられない。
「近くにあんな広い森があるんだからそっちで増えればいいのに……蜂なら大歓迎なんですけど……」
「防護する方法はないんですか?」
「農薬はあるんだけど……」
シアはハアとため息をつく。毎年見つけた幼虫を取り除いて、薄めた酢にハーブを漬け込んだ液を霧吹きで吹きつけて、それでも防げない虫害と戦っているのだ。
「強い薬は使い方を間違えると毒になるから、取り扱いに制限があるの。この村全体で買える量も決まっていて……村長の家の、鍵のかかる倉庫にしまわないといけなくて、麦畑とかもっと大きい畑のためのもので」
だからこんなこじんまりとした、シアの畑のために気軽に使えるものではないのだ。どうしようもないことだと理解しているし、また今年も戦うぞ、とシアは決意のこもったまなざしで畑を見つめる。
「……つまり、幼虫を退治できればいいんですね」
シアの様子を見てしばらく思案していたフィルディードが口を開く。シアが不思議そうに頷くと、フィルディードは畑を一望できる場所に陣取った。
「シアは僕の後ろに来てください。少し離れてもらったほうがいいかもしれません」
「う、うん?」
首を傾げながら、シアはジョウロを持ってフィルディードの後ろに移動した。少し考えてから畑を耕したときのことを思い出し、庭木の後ろまで下がって様子を伺う。
「そのまま動かないでください」
フィルディードは振り返ってシアの立ち位置を確認し、畑に向かってひとつ息を吐いた。
足が少し開かれ、右手がすうと動く。フィルディードの手が聖剣に触れた。
とても立っていられないほどの突風が吹き荒れた。シアはそう感じ、どっと尻もちをつく。何が起こったのかと周囲を見回せば、庭木の枝葉はそよともせず、風など吹かなかったと言うように葉を広げている。
「畑に向かって闘気を放ちました。幼虫などは退治できたかと思います」
フィルディードがシアを振り返りそう告げる。フィルディードの奥で、野菜の葉っぱからぽとぽとっと幼虫が落ちていった。
「はっはは、は……」
シアは尻もちをついたまま、驚くあまり笑い声を漏らす。
「定期的に繰り返せば、虫害が防げるかと思います」
(農薬……の代わりに英雄の闘気……が農薬……ッ!!)
言葉を失うシアに、フィルディードは『役立てることがあってうれしい』と言わんばかりに笑顔を見せる。シアは両手で顔を覆って下を向き、自問自答した。
(いい、いいのかなあ……! そんな事に、いやでも恩返し、い、いやでもいいのかなあ……!!)
「——その、余計な手出しだったでしょうか」
不安そうなフィルディードの声が耳に届き、シアは顔を上げた。せっかく良かれと思って、しかも本当に助かることをしてくれたのに、こんなしょんぼりした顔をさせていいのかとシアはぐっと目をつむる。深呼吸を二回。目を開いて、シアはフィルディードを見つめた。
「ものすごく助かります」
シアが決意を込めて頷くと、フィルディードはパッと笑顔を浮かべた。
「よかった……! では、定期的に虫の駆除を行います」
にこにこと嬉しそうな笑みを見せるフィルディードに、シアは肩の力が抜けた笑顔を浮かべた。もう、本人がいいって言ってるんだし恩返しだしありがたいしそれでいいや、と思い、深く考えるのを放棄する。
「はい、お願いしますね」
じゃあ水撒きを続けよう、とシアは立ち上がった。
その日から、シアの畑は英雄により、虫から守られることになったのだった。