突然の英雄
「ご無沙汰しております、フィルディードです。ご恩を返しに参りました」
医師だった父を亡くして三ヶ月。来客に応え玄関を開けたシアの前に立っていたのは、救世の英雄様だった。
§
シアは森の中にある、小さな村に生まれた。森に自生する固有種の薬草を採集するために昔築かれた、僻地にあるとても小さな集落に。
シアが生まれたときから、世界は混迷を極めていた。空を見上げればそこには大きな亀裂が走っていて、亀裂の奥からは暗闇が覗く。時折その闇が溶け出したかのように、亀裂はドロリと深黒の雫を垂らした。その度に、世界のどこかで悲劇が巻き起こるのだ。
魔物が溢れ、国家間で戦争が起こる。シアは小さくて平和な村で過ごしながら、集会所に据えられた魔道無線から流れる暗い知らせを聞いて、この世界はどうなってしまうのか、と恐ろしく思っていた。
そんな世界の危機に、希望は残されていた。ひとりの英雄が。彼はこの世界に住む四種族それぞれの真なる王と共に失われた祭壇を探し、創造神の元を訪れ、創造神を蝕む邪神を封印した。空の亀裂は閉じられて、邪神の影響下にあった争いは終息した。
シアは生まれて初めて亀裂のない空を見上げ、涙を流した。世界に平和が訪れたのだ。
魔道無線からは、久方ぶりに明るい声が届けられた。真なる王たちと、彼らを束ねた英雄を讃える喜びに溢れた声が。
創造神と同じ金の髪と金の瞳を持ち、聖印の刻まれた聖剣を携えた救世の英雄フィルディード。
――そう、フィルディードだ。シアはぽかんと口を開けて、自分を訪ねてきたフィルディード氏の頭のてっぺんからつま先まで視線を巡らせた。
金の髪、金の瞳、聖印が刻まれた聖剣、をお持ちの、『フィルディード』
髪の色と瞳の色、名前まではなんとか欺けたとしても、聖剣ばかりはそうはいかない。聖印の正しい形は誰もが皆知っているが、創造神の御力により守られていて、人の身で聖印を刻むことは出来ないのだから。
シアは目を泳がせながら恐る恐る口を開いた。
「………………あの、救世の英雄、神の御使い、剣聖、フィルディード様で……いらっしゃる……?」
医師だった父を亡くして三ヶ月、一人の寂しさに少しずつ慣れてきた頃、シアの前になんかとんでもないのが恩返しに来た。
「確かにそう呼ばれているのですが……」
英雄はためらうようにしながら言葉を続ける。
「……覚えていないかな、シア。僕は十四年前に行き倒れているところを、あなたに助けてもらったんです」
「……………………フィーくん?」
シアは『行き倒れ』という状況に覚えがあり、うかがうようにそっとフィルディードに問いかける。シアがまだ四歳かそこらのころだ。家の近くで倒れ伏したぼろぼろの少年を見つけ、父に助けを求めて叫び声をあげた。病室で共に過ごし、仲良くなって――昔泣きながら別れ、旅立ちを見送った少年。でも、あの子の名前は『フィーくん』としか覚えていない。まさか、とシアは唇を震わせた。
フィルディードはシアの呼びかけに、はにかむような笑顔を浮かべる。
「覚えていてくれて、嬉しい。あの時のご恩を返しに参りました」
「覚えているけれど、恩返しだなんて、そんな……」
「色々とあって、遅くなってしまいました。あの時シアが見つけてくれたから、僕は世界を救うことができました。先生にも奥様にも、たくさんの物を持たせてもらいました。……突然僕が訪れて、ご迷惑かもしれません。ですがあの時の恩を返したいんです」
「迷惑だなんて、その……突然……そう、突然言われましても、何をどうすればよいのやら……」
戸惑いながらシアは視線をうろつかせる。確かに昔『フィーくん』を助けたけれど、そのフィーくんが英雄様になっていたことにも、突然恩返しと言われることにも、とんと理解が追いつかない。シアは混乱して、エプロンを握りしめた。
「僕にできることならなんでもします。例えば……古代龍や一角獣に乗ってみたければ調教してきます。富や希少品なら、幸い伝手もありますので、ご期待に添えるかと思います。もし一国を望まれるなら、玉座をご用意します」
(黙っていたらとんでもないことになる……っ!)
戸惑っている場合じゃないとシアは震え上がった。
世界の護り手と崇められる聖獣様を連れて来られたら――しかも何か不穏な響きだった――伏して許しを請うしかない。それに英雄の伝手という響きがもう恐ろしい。間違いなく王様とかだ。そして一国はそんな気軽にほいほいとご用意していいものじゃない。シアは手に持ったエプロンを揉み合わせた。
(どうしよう、なにか……なにか言わないと……!!)
「……僕にできる珍しそうなことを上げましたが、何でもいいんです」
混乱し額に汗をにじませるシアに、フィルディードがそっと言葉をかける。
「なんでも……?」
「はい。それこそ上手く出来るかわかりませんが、雨漏りを直すだとか、草刈りをするだとか、何でもいいんです。あなたに恩を、返したいんです」
お役に立ちたいのだと真摯な瞳でシアを見つめるフィルディードに、シアはそっと息を吐くように聞き返す。
「本当になんでも……?」
「はい」
「じゃあ、あの……階段の灯りが切れて、魔石を交換したいけど届かなくて困っているんですが、その、それでも……?」
「もちろんです! 喜んで交換させてもらいます」
フィルディードは輝く笑顔で快諾した。その流れのまま家に招き、階段を見せ、シアは呆然としたまま交換用の魔石をフィルディードに手渡した。フィルディードはシアの目の前で、当然のような手つきで楽々と魔石を交換している。
(いいのかなあ……いいのかなあ……!!)
フィルディードが差し出す空になった魔石を受け取りながら、シアは心の底から英雄様にこんなことをさせていいのかと葛藤していた。