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ぼくの帝国  作者: roka-ha
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第四章

     第四章



     1



「おーい。ドレイク、こっちの帳簿に、ここの数字を記しておいてくれ。あと、イエリンのドーサ親爺宛の書簡も準備しておいてくれ。それから、今日、ラグーナから届いた荷物の確認と計算表も、よろしく頼む」

 彼は、次々と指示を出すキースの後をついて回る。彼の手には、あっと言う間に、書類の束が山積みされた。

 帝国都市ルイファ市内に、朝の第二の鐘が鳴り響くと、一斉に職人達がそれぞれの職場につき、働き出した。

 彼よりもずっと幼い子どもも、例外ではない。真剣な顔で、ハンマーや刀を振るう。荷物を運び、走り、手を動かす。

 書類の山を抱えたまま、彼は、それをぼんやりと眺めた。

「おい、ドレイク、突っ立ってないで、早く来い。次は、武具師ジャンのところに行くぞ。納期に間に合わないかもしれないと言っている。確認をするぞ」

 キースに言われて、彼は、はっと顔を向け、踵を返す。


 結局、彼は、初めて彼に与えられた、鎖かたびら師ドルトの元での仕事を、程無くクビになった。ドルト曰く、

「あまりにも使えない」

 のだそうだ。彼の仕事の失敗を補うのに、もう一人、余計に徒弟が必要になる。それなら、最初から、彼はいない方が良いのだそうだ。

「手先は不器用だし、勤労意欲も、周囲と溶け込もうという態度もない。これでは、他の連中のやる気を、逆に削いでしまいます。若が、あいつを本気で鎖かたびら師にしようというお気持ちがないのでしたら、あっしは、手を引かせてもらいますぜ」

 とドルトに丁重にお断りされたと、後になって、キースから聞かされた。

「まあ、俺も、忙しいドルトに任せちまったからなあ・・。でもさあ、ドレイク、はっきり言わせてもらうけど、お前さんは、俺の家族でも客人でもない。それに、もう立派な成人だ。今までどんな生活をしていたのかは知らん。でも、ここで暮らすつもりがあるのなら、自分で自分の食い扶持を、稼がなくちゃいけない。それくらいは分かるよな」

 キースに諄々と説かれて、彼は、小さく頷いた。

「工房でじっとしているのが嫌なのか?ドルトが言うには、いつも往来をぼうっと眺めているって言うじゃないか。外に興味があるのか?お前さんがやれる仕事を探すからさ、言ってみろよ。何が出来る?剣と槍が持てて、馬にも乗れるのは分かった。後は何が出来る?」

 問われて、彼も考える。他に自分が出来ることは何か。自分に何が出来るのか。

 一度、思考の中に沈むと、なかなか戻って来られない。こういうゆるやかな速度で物を考えるので、ドルトや他の徒弟達から、笑われ、馬鹿にされ、「木偶の坊」と呼ばれてきた。

「おい、聞いているのか」

 キースが、彼の顔を覗き込む。

「何か他にないのか。読み書きが出来るとか、計算が出来るとか」

 彼は、ゆっくりと顔を上げて、キースを見た。

「・・出来る」

「何?」

「読むこと、書くこと。計算をすること」

「何、本当か?なら、ここにお前さんの名前を書いてみろよ」

 そう言って、キースは、目の前にあった机に羊皮紙を広げて、羽根ペンにインクを付けて、彼に持たせた。

 彼は、羊皮紙を前に立った。言われるままに自分の名前を書こうとするが、ペン先が紙に触れようとしたその瞬間、その動きは、ぴたりと止まった。

「名前は、分から、ない。・・でも、文字は、書ける。・・何を、書けば、いい?」

 腕組みをして眺めていたキースが、軽く吐息をついた。

「・・うーん、そうだなあ。それじゃあ、出来上がった武具を、来月の十五日までには、指定の場所に届ける。料金については、材料費が高騰しているので、前回の二割増しでお願いしたい旨、書いてくれ」

「前回の、価格は?」

「十二万五千カランだ」

 彼は頷いて、ペンを走らせた。作成した文章を、キースに見せると、キースは、それを眺め、感心したように言った。

「へえ、綺麗な文字を書くな。俺よりずっと上手いよ。計算も合っている。よし、合格だ。俺の仕事の手伝いをしろ」

「え」

 キースは、にっこりと笑った。

「良かったな。また路頭に迷わなくて済んだな」


 こうして彼は今、日々、キースに従い、キースの指示を受けて仕事をしていた。

 キースの指示を書き記し、必要な場所にその指示を伝え、帳簿の整理をし、大量に送られてくる書簡に目を通し、その種類を選り分けて、キースに報告した。

 騎士見習い達の軍事訓練をする際にも、同行するよう言われた。

「ドレイク、そいつらの基本姿勢を直してやってくれ」

 とキースに言われ、槍を構えた少年達の、力の入りすぎた肩や曲がった腰に手をやり、整える。

 最初は、彼に敵意を抱いているようだった少年達も、最近は、丁寧な口のきき方に変わってきていた。

「ドレイク、木偶の坊から、随分と出世したなあ。うん。やっぱり、適所適材が大事だな」

 訓練の帰り道、そう言って、馬上のキースは、磊落に笑った。

 キースはよく笑う男だ。彼にだけではなく、誰に対してもよく気がつき、面倒見がいい。

 保護された当初、キースが何者か分からず、警戒していた彼も、キースの陽気で闊達な人柄に触れていく内に、次第に、キースの前では緊張感を解くようになっていた。

 この地で目覚めてから、八か月が経っていた。

 キースの館で、寝食を共にし、キースの後について仕事をしていく中で、突然の環境の変化に、当初は訳が分からず、よく見えていなかった周囲の様子が、次第に、くっきりと見えるようになってきた。

 周囲の人々の生活の一つ一つが、彼にとっては、初めて見るもの、経験することばかりだった。

 食材を手に取って選び、切って、潰して、熱を加えて、調理すること、皆が食べる為に食卓を整えること、後片付け、汚れた衣服の洗濯、寝室を整えること、それらをシェリーから、一つ一つ教えられ、常に自分の手と身体を動かした。

 鎖かたびら師ドルトのところでは、七歳の子どもが、額に汗を浮かべて、懸命に働いているのに驚いた。背は彼の腰ほどでしかない。腕も細いし、手も小さい。それなのに、彼よりもずっと早く作業が出来た。子どもは、そこかしこで働いていた。キースが言うには、それが普通のことなのだそうだ。

 キースの側にいて、知ったことは他にも多くある。皇帝直轄都市としてのルイファ市の立場、軍事訓練の方法、武具や食料品の流通の流れ、常勝と謳われた先のダイン皇帝がもたらした戦禍。都ルーヘンから遠いこの地でも、多くの戦死者を出し、孤児を生み出してしまったことも、数を挙げられて知った。

 自身の手足を動かしながら、彼は、懸命に聞き、見ようとしていた。これまで何も知らなかった、知ろうともしていなかった外の世界のことを。

 そこには、彼の想像を絶する数の人間一人一人の、確かな日常があり、濃密な人間関係があった。笑い声があり、泣き顔があり、怒号と、汗と鼻をつく匂い、喧騒と馬の嘶きと音楽と恋の歌があった。

 彼にとっては、全てが眩しかった。彼の見る物全てが、鮮やかな色彩を持って、彼の網膜を次々と刺激した。

 彼は、時に涙を流した。見ている物が、あまりに強い色彩を放つので、正視できないのだ。必死に耳を塞いだ。両耳に入ってくる音や言葉が、あまりに多過ぎて、早過ぎて、頭の中が、キーンと音を立てた。

 入ってくる情報を処理するのに、理解と感情が追いつかない。そして、周囲からは、「木偶の坊」と呼ばれた。

 キースとシェリーは、そんな彼を辛抱強く受け止めてくれた。彼の反応を見ながら、何度でも丁寧に説明し、彼が理解する様子を見せるのを待った。

 その二人の姿に、彼は、七歳の頃から、常に自分の側で仕えてくれた教育係と彼女の息子を重ねた。

 そうすると、混乱し、冷たくなっていた心の中が、まるで、雪穴の中で、小さな蝋燭が灯されたように、ほんの少しだけ温かくなる。

 その温かさを拠り所として、彼は、目の前で日々繰り広げられる光景と、自分がかつて過ごしてきた場所の光景を、比べて見ようとする。

 けれど、その途端に、頭の中に、黒いベールのような膜がかかる。

 彼は、それを振り払おうとする。今、起こっていることを正しく理解する為に、過去のことを考えようとする。

 だが、出来ない。自分の心の内を、より深く考えることが、どうしても出来ない。

 本当は、分かっている。

 膜がかかるのではない。自分が、考えるのを拒否しているのだ。

 かつて、あの暗い城の中で、自分の身に起こったことを。



 毎月第四の金曜日は、施しの日だった。

 路上で生活している者や、食べる物に困っている人々に、エルリー家の門戸を開き、庭でパンや温かいスープでもてなす。

 シェリーと彼は、前日から、支度に取りかかった。台所の竈に大鍋を置いて、山のような野菜を次々と切り刻んで入れ、豚肉や数々のハーブと共に、時間をかけて、じっくりと煮込むのだ。

 煙突からは絶え間なく煙があがり、館中にスープの香りが漂う。館に住む猫達も、尻尾を立てて、そわそわと歩き回った。

 当日の朝、台所では、シェリーが召使達にテキパキと指示を出していた。

「ねえ、少しスープが薄いわ。このスパイスを、もう少し足してみて」

「マーサ、スプーンを用意して」

「エミリ、パンはまだなの?」

 問われた召使が答えた。

「奥様、さっき、門番から連絡が来たんですが、どうも、パン窯の調子が悪いそうで、まだ数が足りないそうです」

「まあ、もうすぐ皆、来ちゃうわよ。パンがなかったら、暴動が起きちゃうわ」

 シェリーは、側で控えていた彼に目を留めた。

「ねえ、ドレイク。馬に乗って、パン焼き小屋まで、パンを取りに行ってくれないかしら。とりあえず焼けた分だけでいいから。残りのパンは、焼き上がり次第、届けるように言ってちょうだい。スープと果物だけじゃ、とてももたないわ」

 彼は頷いて厩に走った。いつも乗っている栗毛の馬に跨る。

 朝靄が立ち込める中、既にエルリー家に向かって歩いてくる幾人かとすれ違う。

 真っ黒に汚れたボロボロの衣をまとい、痩せた身体で、引きずるように足を動かす男。貧弱な泣き声をあげる赤子を胸に抱きながら、片方の手で、男の子の手を引いてやって来る母親。

 その歩みは、力強くはない。それでも、決して止まない。一歩一歩、生きていく糧を得る為に、歩を進める。温かいスープが待つあの館の門をくぐるまで。

 彼は、母子の小さな背中を見送った後、急いで馬を駆けさせた。

 焼き立てのパンを入れた布袋を背負い、再びエルリー家の館に戻った時には、既に門の外まで、人々の行列が出来上がっていた。

「ドレイク、早く持って来い!伯母上がお待ちかねだぞ」

 キースが台所から出て来て、彼を手招きした。

 パンを入れた布袋を持って台所に駆け込むと、シェリーが待っていた。

「ドレイク、ご苦労様!なんとか間に合ったわね。さあ、皆で、パンを切って!まだまだたくさん焼いてもらっているから、とりあえず、今、来ている人達全員に回るように、薄めにお願いね。さあ、ドレイク、これを庭に持って行って、配ってちょうだい」

 彼は、指示されるままに、パンを並べた盆を受け取った。

 彼が庭に出て行くと、四方から手が伸びて、盆の上のパンが、あっという間に少なくなった。

「ドレイク、それじゃあ、皆に平等にパンが行き渡らないだろ。俺の後について来な。でかい声を出すんだぞ」

 同じようにパンを載せた盆を持ったキースが言って、顎をしゃくった。庭のマロニエの木の下に向かう。

「皆さん、焼き立てのパンですよ!スープをもらった人から並んで下さい。あ、あなたは、さっき、こいつからくすねましたね。俺はちゃんと見てましたよ。だから、列の最後尾に戻って、戻って。パンはまだまだありますから、順番に。その方が早く食べられますからね!」

 キースが陽気な声で言った。パンを服の中に隠し持っていた男が、

「ちぇ、キース様には敵わねえな」

 と言うと、それまで切羽づまった様子で待っていた人々の表情が、一斉に柔らかくなった。

「さあ、ドレイク。お前さんも声を出すんだ。今、門に入ってきた人が、どうしていいか分からなくて、こっちを見てるぜ」

 キースに促され、彼は頷いた。

「館にいらした方は、まずは、スープをもらって下さい。パンは、スープをもらってから、このマロニエの木の下でお配りします。順番にお渡ししますから、並んで下さい」

 懸命に声を張り上げるが、キースのようには通らない。彼の必死な様子がおかしいのか、周辺にいた人々が、どっと笑った。

「やたら丁寧な口を利く兄さんだなあ」

「兄さんの方こそ、そんな青白い顔で、スープとパンが必要なんじゃないかい?」

「でも、まずはスープが先だよ!」

 笑い声が起きる。隣りでキースが腹を抱えて笑っていた。人々の表情が一気に明るくなった。

 彼が、どうぞ、とパンを差し出すと、待っていた男が、

「ありがとう、兄さんも頑張ってな」

 と笑みを返してくれた。


 後で焼き上がったパンも追加され、館に訪れた人々に、充分に行き渡ったようだった。

 人々は、用意された椅子や木陰に直接座り、スープのお代わりを貰ったり、果物を食べたりしながら、くつろいでいた。

 誰の胃も充分に満たされたようで、その場には、まったりした、和やかな空気が満ちていた。パンをお土産にもらって、館から出て行く人もいれば、どこからか持ち込んだ酒を飲みながら、談笑する男達の姿も見られた。

「よし、俺もちょっと混ざろうかな」

 そう言って、キースは、何人かでまとまっている男達の集団の中に入って行った。

 キースが言うには、ここに集まってくる人々は、情報の宝を持っているのだそうだ。

 家も市民権も持たない彼らには、国境も、法律も、関係ない。生きる為にあらゆる手段を使って、国家間を移動し、どんな仕事もしようとする。命を賭して見聞きしてきた彼らの情報は、どんな噂話より正確で、早いのだそうだ。

 キースは、シェリーが門戸を開いて、そんな彼らを受け入れる度に、彼らの中に混じり、様々な話をしていた。帝都ルーヘンでのこと、野盗が出没する国境地帯のこと、今年予想される天候不順、麦の収穫量など、近くにいると鼻をつまみたくなる悪臭を放つ集団の中にいながら、キースは、いつもの陽気な笑顔を絶やさない。

 シェリーは、一仕事を終え、エプロンを外して、朝、彼がパンを取りに馬で出かけた時にすれ違った母子のところに行き、座りながら話し込んでいた。食べる物が足りず、乳の出が悪くて、と母親は、涙を流しながら話していた。

 彼は、心地よい疲れと共に、マロニエの木に寄りかかって、ぼんやりと庭の中の情景を眺めていた。

 自分の知らなかった世界が、ここにもまたあった。

 世界はこんなにも広く、多くの人間で溢れている。騎士や貴族や召使、商人、職人、農民達だけではない。老人や病んだ者、貧者、子どもに赤子、庇護を必要としている人間は多い。

(何も、知らなかった。見ていなかった。何も、知ろうとしていなかった・・)

 自分の視野の狭さに愕然とする。いったい、自分は、あの城の中で、これまで何をしていたのだろう。


 物思いに沈んでいると、目の前にほっそりした脚が見えた。顔を上げると、七歳くらいの少女が立っていた。彼と目が合うと、にこりと微笑んだ。

 彼は、その少女をよく見知っていた。目が不自由らしい老婆の手を引きながら、よくこの館にやって来ていた。美しい金色の髪、緑色の瞳を持っている。その金色の髪を初めて目にした時、彼の胸の奥で、何かが疼いた。

 それは、それまで感じたことのない痛みだった。

 少女は、はきはきと言う。垢だらけだが、可愛らしく、利発そうな顔立ちをしていた。

「お兄ちゃん、お疲れ様でした。このパンをどうぞ」

 目の前に、少女の手のひらにのったパンが差し出された。

 彼は、それを見つめ、少女を見た。

「・・このパンは、そなたのものだ」

「でも、お兄ちゃん、朝からずっと働きずくめだったでしょう?わたし、知っているもの。朝、馬に乗ってパンを取りに行っていたこと。戻って来てからも、ずっと動き回っていたわ。その間に何も口にしていなかったことも、知ってるわ」

 そう言えば確かに、朝早く起きてから、何も口に入れていなかった。目の前のパンを見て、彼は急に空腹を覚えた。

 だが、繰り返した。

「これは、そなたのものだ」

「でも、わたしは、もうお腹いっぱい、いただいたわ。それに、これは、お兄ちゃんへのご褒美なの」

「ご褒美?」

 少女は頷いた。

「そう。わたし、お館に来る度に、お兄ちゃんのこと、ずっと見ていたから。お兄ちゃんがシェリー様やキース様に、色々と教えてもらっているのを、いつも見ていたの。前は、何にも出来なくて、立っているだけだったけど、今日のお兄ちゃんは、すごく頑張っていたわ。だからご褒美なの。頑張った人には、素敵な言葉とご褒美をあげるのよ。わたしには、このパンしかないから、このパンは、わたしからのご褒美なのよ。だから遠慮なく食べてちょうだい」

 はきはきと言う物言いに押されるように、彼は、そのパンを手に取った。

「では・・」

 彼がそう言うと、少女は、首を横に振った。

「違うわよ、お兄ちゃん。こういう時は、ありがとうって、言えばいいのよ」

「ありが、とう・・」

 彼がぎこちなく言うと、少女は、にっこりと笑った。

「どういたしまして!」

 彼がパンを食べ終わるのを確認してから、少女は、楽しそうに言った。

「よし、ご褒美、終わり!」

「そなたの名は?・・名は何と言う?」

「レイよ」

「そうか。レイは、あそこに座っている婦人と共にいるのか?」

「そうよ。あそこにいるのは、わたしのおばあちゃんよ。婦人なんて、お兄ちゃんて、面白い言い方をするのねえ。まるで貴族様みたいね」

 レイは、くすくす笑う。

「おばあちゃんは、少し目が悪いの。でもまったく見えない訳じゃあないのよ。わたしは、おばあちゃんの目の代わりになるよう、いつも一生懸命、周りを見ているの。優しいおばあちゃんが、うっかり馬や犬の糞を踏んでしまったら、悲しいじゃない」

「そうか。それで、わたしのことも見ていたのか?」

「そうよ」

 レイは、彼に向き直り、彼の顔をじっと見つめた。

「・・ねえ、これって、訊いてもいいのかしら」

「何だ?」

「あのね、『セリカ』って、誰?」

「え」

「初めてお兄ちゃんとここで会った時、お兄ちゃん、わたしを見て、すごく驚いた顔をして、そう唇を動かしたの。わたしには、『セリカ』って言っているように見えたわ。ねえ、セリカって、お兄ちゃんの、大切な人?」

 彼は、息を呑んでレイを見つめた。

 この地で目覚めてから、一度もその名を唇から出してはいなかった筈なのに、無意識に口にしていたのだろうか。

 彼は、自分の迂闊さを、今更ながら認めた。

「本当に目が良いな、レイは。・・そうだ。その名前は、わたしにとって、とても大切な、わたしの命よりも、ずっと大切なものだ。だから、決して誰にも言わないで欲しい」

「うん。分かったわ。約束する。誰にも言わないね」

 レイは、素直に頷いた。

 その時、背後から、声がかかった。

「二人で秘密の話か?」

 振り向くと、キースが、にやにや笑いながら立っていた。

「お前さん、子どもが相手だと、よく喋るんだな。よお、レイ、今日は腹いっぱい食べたか?ユサナばあさんはどこだ?」

「こんにちは、キース様。今日は、美味しいパンとスープを、たくさんいただきました。おばあちゃんは、あそこの木陰で休んでいるわ」

「そうか。では、ちょっと挨拶に行こうか。おい、ドレイク、お前さんも来い」

 キースに引っ張られるようにして、彼は、キースとレイの後について、老婆の元に向かった。

 杖を脇に置き、木陰に座って、瞑想をしているかのように目を閉じていた老婆が、目を開けた。

「・・おやまあ、キース様。お元気そうで。今日も、有り難い食事を、美味しくいただきましたよ。シェリー様にも、後でご挨拶しようと思っておりました」

 目の色は濁っていたが、かすかに見えているのは、レイが言った通りのようで、その目は真っ直ぐに、キースを見つめていた。

「ユサナばあさんも、達者で何よりだ」

 キースは、手を差し伸べて、老婆のしわだらけの両手を丁寧に取った。

「ユサナばあさんに見てもらいたい男がいる。俺が八か月前に、ドレイク広場で拾った男だ。自分の名前も忘れちまっている」

 そう言って、彼の腕を取って、老婆の前に立たせた。

「キース、いったい、何を・・?」

 戸惑う様子の彼に、キースは笑った。

「そんなに警戒するなって。大丈夫だよ。この人は、人の手に触れることで、その人の心の中が読めるんだ。悪いものじゃない。たぶん、お前さんにとって、大事なことを言ってくれる。俺に聞かれるのが嫌なら、俺は席を外すよ。・・なあ、レイ。あっちでレモンとオレンジのジュースを飲みに行こうか」

 キースが言うと、レイは、うん、と言ってキースの手を取った。

 二人の足音が消えた後、老婆は、彼の方を見上げて言った。

「まずは、お座りなさいませよ」

 彼が座ると、老婆は、顔を傾けるようにして、笑った。

「・・キース様は、お人柄はいいが、少し強引なところがおありになる。あたしはそんな大した力は持っていませんよ。ただ、目が悪い分、幼い頃から、一生懸命、物を見ようとしていたら、いつの間にか、色んな物が見えるようになっただけのこと。・・どうかえ?ここでこうして出会ったのも、何かの縁、あたしの手を取ってみるかい?」

 彼は、しばらく逡巡したが、そっと老婆の手を取った。

 老婆の手は、指先が固く、ひび割れていた。その手が彼の手をぎゅっと握る。思いの外、力強かった。

 彼は、すぐ側にある老婆の顔を見つめた。

 老婆は、目を閉じていた。瞼がぴくぴくと動く。老婆の眉間に、ぎゅっと深いしわが刻まれた。

「・・ああ、冷たい。冷たいねえ・・。これまで、お辛い目に遭われたのだねえ・・」

 彼の手と身体が、びくっと震える。老婆は、ゆっくりと目を開き、彼を見て、頷いた。

「でも、もう大丈夫・・。あなた様を暗闇に閉じ込めて、その心と身体を傷つける人は、もうどこにもおりません。・・あなた様は、もう、自由なのです。自分の意志で、何処にでも行ける。望めば、何でも出来るのですよ」

 老婆に真っ直ぐ見つめられ、彼は、わずかに身じろぎした。

「・・お名をお忘れになったとか、あたしの口から申しましょうか?・・あなた様のお名前は」

「申すな」

 彼は勢いよく立ち上がって、老婆を睨んだ。

「それは、不要だ」

 老婆は、わずかに目を見張り、静かに頭を垂れた。


 庭では、人々の楽しげな談笑が続いていた。

 彼は、その中を縫うように歩いて行った。両の拳をぎゅっと握りしめたまま、自分がどこに向かって歩いたらいいのかも分からなかった。

「ドレイク、話は終わったのか」

 呼び止められ、振り向くと、キースがいた。レイの姿はない。

「どうだ、面白い話は聞けたか」

 黙って通り過ぎようとする彼の腕を、キースは捕まえた。

「何をする」

「ちょっと来いよ。俺とも話そう。そろそろ自分のことを話そうって気にならないか?」

 強引に腕を引っ張られ、 彼は、キースの居室に入れられた。

 キースが部屋の扉を閉める。

「ユサナばあさんは、なかなか強烈だろう。俺も、昔、自暴自棄になっていた頃があってな。ユサナばあさんが俺の手を取ったら、憑き物が取れたように、頭の中がすっきりしてな。・・結局、ここが、基本ってことなんだよな」

 キースはそう言って、自分の胸をとんとんと叩いた。

「・・お前さんはさあ、やっぱり、ちょっと普通じゃないんだよな。何も出来ない木偶の坊かと思えば、馬には乗れるし、槍も剣も持てる。読み書きも計算も出来る。・・それになあ、お前さん、確かに、いつもぼうっとしているんだけどな、時折見せる、威厳みたいなものは、そう簡単に消せるものではないよ」

 彼は、黙って、キースの話を聞いていた。キースは彼を見つめて、言った。

「お前さんさあ、皇位を追われたカイザ皇帝なんだろう?消息不明だと聞いていたけど」

 彼は、キースを見返し、低い声で言った。

「・・わたしを、どうする気だ?」

 キースが笑う。

「そう威嚇するなよ。どうもしないさ。お前さんは、俺の下で働いているドレイクだ。まあ、言うなれば、ただの元皇帝だ。皇位がなけりゃあ、俺達一市民と、何も変わりゃあしねえ。だがな・・」

 彼を見返すキースの目が、強く光った。

「十三年前に起きたマースの戦いで、俺の伯父は、戦死してるんだよ。小さな頃から俺を可愛がってくれた伯父でね、俺は、常々、なんであの優しかった伯父が、俺達とは何の関わり合いもないビスナ王国のマースなんかで、死ななくちゃならなかったのか、疑問に思っていたんだよ。・・なあ、元皇帝よお、今度、じっくり教えてくれないか?お前さんの親父が、おっ始めたんだろう?」



     2



 謀反が起こったのは、カイザの戴冠式が終わってから二か月、セリカとの結婚式を目前に控えた、ある夜のことだった。

 首謀者は、ダイン皇帝の異母弟、アンセルムだった。

 カイザとセリカは、共に大広間で夕食を取っていた。側には、ラリサとルークも控えていた。

「・・今夜は、なんだか静かね。まだ早い時間なのに、城の中も外も、何の音もしないわ。まるで、城中の人間が眠ってしまったみたい」

 セリカが、不思議そうにそう言った。

 カイザもまた、耳を澄ました。ずっと忙しい日々を送っていたので、セリカと共にゆっくり食事をするのは、随分と久しぶりのことだった。ラリサやルークもいたことで、気が緩んでいたのだろう。

 確かに、静かだった。

 先程まで、召使達が、料理が載った皿を運んだり、下げたりして、この大広間にも、人の出入りがあったが、今は、どういう訳か、しんとしている。

 カイザがルークを見ると、ルークが頷いて立ち上がった。

「ちょっと様子を見てまいります」

 ラリサが無言で椅子から立ち上がり、腰に佩いた剣を抜いて、カイザの側に立った。

 しばらくの静寂の後、得体が知れない地響きのような揺れが、城中に響いた。

 次いで、何かが割れる音、人と人とが叫び合う声、剣と剣がぶつかる音が聞こえてきた。

 気づくと、セリカも剣を抜いて、カイザの隣りにいた。

 階下から声が聞こえる。多くの男達が、口々に何かを叫んでいた。

「何処にいる!」

「カイザ皇帝は、何処にいる?」

「捕らえろ!」

「捕らえろ!」

 階段を上る足音が聞こえてきた。部屋に入ってきたのは、ルークだった。

「ルーク、これはいったい」

「カイザ様、謀反です!ダイン様の弟君のアンセルム様が、謀反を起こしました!」

「・・謀反?叔父上が?」

 カイザが呟くのと、剣を鞘に収めたラリサが、燭台を持って叫ぶのと同時だった。

「カイザ様、こちらへ!逃げましょう。セリカ、そなたも一緒に来い。ルーク、後ろを頼む」

 ラリサに手を引かれ、カイザは、ラリサが持つ蝋燭の灯りを頼りに、暗闇の中、らせん階段を下りていった。時折、足元がかすかに揺れた。内部からではない。城外から攻撃されているようだった。

「・・謀反だって?これは戦だよ。どこからか兵を引き入れたんだ」

 ラリサが、吐き捨てるように言った。

 永遠に続くかと思われる長い階段と、すぐ近くに迫っている暗闇に、自分が今、何処にいるのか、何をしているのか、分からなくなる。カイザの足がもつれて転んだ。身体が階段から転がり落ちる。

「カイザ様!」

「カイザ、大丈夫?どこか怪我をした?」

 自分の顔のすぐ側で、セリカの声が聞こえた。カイザは、懸命に手を伸ばした。温かい手が触れる。セリカがぎゅっと手を握って、言った。

「ラリサ、あとどのくらい下りるの?」

「もう少しだ。カイザ様、お急ぎ下さい」

 セリカの腕に掴まりながら、何とか立ち上がる。足をくじいたらしい。思うように動かない。カイザは、歯を食いしばって、足を引きずりながら、歩を進めた。


 ラリサが、カイザとセリカを案内したのは、人がようやく五人入れるくらいの小さな空間だった。

 下りてきた時間から考えて、城内の地上近く、若しくは地下にある部屋らしかった。急に空気がひんやりとした。

 ラリサは、何処からか燭台を幾つか用意して、自分が持ってきた蝋燭から、火を移した。

 ごつごつとした岩壁がぼうっと浮かび上がった。足元に敷物や靴、短剣などが置いてあった。

「ここは、代々の皇帝とその側近しか知り得ない秘密の部屋です。城の外につながっております」

 確かに、燭台の蝋燭の炎が、わずかに揺れていた。何処からか、空気が流れてきているようだ。

「ルーク、見てきたことを報告せよ」

 ラリサの言葉に、ルークは頷いた。

「はい。わたくしが大広間を出てしばらくした後、一斉に事が行われたようです。騒ぎは広範囲に及んでおり、予め伏せられていた兵が、四方で蜂起したように思われます」

「外からもだな」

「はい。武装した兵を暗闇に紛れて潜り込ませたのでしょう」

「入念に計画されていたか。わたしとしたことが、全く気づかずにいたよ。まさか、あの男が、こんな暴挙に出るとはな・・」

 ラリサは苦々しげに呟いて、顔を上げた。

「カイザ様、事は急を要します。ひとまず、城外にお出になり、安全を確保した上で、状況を確認いたしましょう。ルークに案内をさせます。カイザ様とセリカは、城外にお逃げ下さい」

「ラリサは?」

 セリカの言葉に、ラリサは薄っすらと笑んだ。

「お逃げになった後、そうと分からないよう、誰かが出口を塞がなくてはなりません」

「わたしも、残る」

 カイザが言うと、三人が驚いた顔をした。

「足をくじいている。ここまでが精一杯だ。ルーク、セリカを連れて逃げよ」

「それなら、わたしも残るわ」

 セリカがそう言った時だった。

 頭上から、階段を駆け下りる激しい足音が聞こえてきた。

 男達が、叫んでいる。

「偽物の皇帝を探し出せ!」

「皇妃候補と一緒に隠れているらしいぞ」

「その娘も偽物の皇妃だぞ!ひっ捕らえろ」

「もしや偽帝の子を、もう宿しているかもしれん」

「偽帝の子か。それは、問題だぞ」

「ひっ捕らえて、アンセルム様の元に、二人並べて引きずり出せ!」

 足音と怒号が、どんどん近くなる。

「気づかれたかっ!」

 ラリサが立ち上がって、入口の扉近くの壁を両手で押すと、背後の岩がゆっくりと音を立て、人一人がやっと通れる位の穴が出現した。その奥には、暗闇が広がっている。

 ラリサが、剣を持って、入口の扉を睨みながら、言った。

「カイザ様、早く、お逃げ下さい!カイザ様!」

 カイザは、足元に転がっていた短剣を手に取った。

「セリカ、来いっ!」

 そう叫んで、側にいたセリカの腕を取り、自分の胸の中に抱き寄せた。長い髪が手に触れる。カイザは躊躇なく、その髪を掴み、短剣で切っていった。バサバサと髪が落ちた。

「カイザ様?お止め下さい!何をなさいますか!」

 ルークの制止の声も聞かずに、カイザは、セリカの髪を切り続けた。

 緑色の目を大きく見開いたまま、カイザの顔を見続けるセリカに、カイザは頬を寄せて、口づけた。

「・・そなたは、生きろ!城を出て、そなたの心を存分に生かせ」

 足音は、すぐ側まで近づいていた。

 カイザは大声を上げた。

「ルーク、セリカを無事に出せ!これは命令だ。行け!早く行け!」

 カイザが、セリカの背を強引に押した。

 ルークが、意を決したように頷いた。

「かしこまりました。カイザ様もどうぞご無事で。母上、カイザ様をよろしくお願いいたします」

「分かっている」

 ラリサが、散らばったセリカの髪を集めて、布袋に入れながら言った。

「セリカ、カイザ様のご意志に背くな。無事に逃げてくれ」

「カイザ!ラリサ!」

 涙声で叫ぶセリカの手を、ルークが引いた。

「セリカ様、さあこちらへ。早く!」

「早く!」

 その姿が見えなくなった後、ラリサは、セリカの髪が入った布袋を穴の暗闇の向こうに放り、岩を動かして穴を塞いだ。

 カイザを振り返って、言った。

「足の方は、大丈夫でございますか?」

 ドンドンドン、と入口の扉を叩く激しい音がこだましていた。

 カイザは頷いた。

「・・何とか、歩くことは出来る」

 ラリサが泣き笑いのような表情になって、言った。

「そうですか、先程のお言葉は、やはり、セリカを生かす為でしたか。・・カイザ様は、ご立派に成長されましたな・・」

 扉に、ドーンと振動が走る。何人かで体当たりしているらしい。頭上から、パラパラと小さな石や砂が落ちてきた。

 カイザは、ラリサの隣りに立った。カイザが幼い頃から、片時も離れずに仕えてくれた女性だった。強く、厳しく、優しい。

 いつも見上げていた横顔だったのに、いつの間にか、カイザの方がラリサを見下ろしている。カイザは、ラリサの肩に手を置いた。

「ラリサ、よいな。そなたも、生きよ。生きて、ルークとセリカの元に行け。これは命令だ」

 ラリサは、カイザの顔を見上げ、その顔をじっと見た。

「カイザ様、今夜は、命令ばかりなさいますな」

「そうだな。わたしの命令は、もう、これで終いだ」

「いえ。そのようなことを申してはなりません、カイザ様。よろしいですか、最後の最後まで、諦めてはなりませぬ」

 カイザは小さく頷いて、雪崩を打って飛び込んでくる兵達を見つめた。



 カイザは捕えられ、この謀反の首謀者であるアンセルムが待つ謁見の間に連れて行かれた。ラリサとは、その場で引き離された。

 足を引きずりながら、両脇を二人の兵に抱えられて、カイザは、アンセルムの前に立った。

 燭台の上で揺れ動く蝋燭の幾つもの炎が、目に眩しい。カイザは、思わず目を細めた。

 わずかに開いた視線の先に、二か月前に戴冠式を行って、自分が座っていた玉座があった。色とりどりの宝石が散りばめられ、朱色のビロードが貼られたその玉座に、今は違う男が座っていた。

 父の異母弟、自分の叔父にあたる人物だった。歳は、父より八歳年下の三七歳。

 父の開く宴会などで、時折、見かけたことがあったように思うが、言葉を交わしたことはなかった。

 がっしりとした体躯の父と比べて、線が細く、いつも、落ち窪んだ目だけがギラギラと光っていた。

 アンセルムは、甲冑を着込み、上気した面持ちでカイザを見ていた。

 その両脇にも、謁見の間の出入り口にも、甲冑を身に着けた兵達が、剣を抜いて、アンセルムとカイザの様子を見守っていた。兵達に見知った顔はない。ラリサとルークが言っていたように、この日の為に、アンセルムが、城外の何処からか、連れ込んだ兵達なのだろう。

「食事の最中に、無粋な真似をして済まなかったな。これでも気を利かせたつもりだぞ。皇帝として食した、最後の晩餐の味はどうだったかな?」

 カイザは、アンセルムの前に跪かされた。アンセルムを見上げる。

「意味が分からないといった顔かな。・・まあ、そなたには、何が何だか分からないだろう。知っているのは、わしと義姉君、そなたの母とされるイザベル皇妃だけだからな」

 アンセルムは、謁見の間にいる全ての人間に聞かせようとするように、ゆっくりと周囲を見回した。

「わしの兄、そなたの父と義姉君が結婚した時、わしは、まだ独身で、ヴェリア城で暮らしていたからな。兄君が戦闘で城を長く留守にしている間、わしは、兄君から頼まれて、義姉君のお世話をしていた。だから、わしと義姉君は、最初から分かっていたのだ。そなたに、このカストニア帝国の皇位を継ぐ資格がないことを。

 そなたは、ダイン皇帝とイザベル皇妃との間のお子ではない。自ら産んだ皇子が急死し、錯乱していた義姉君に乗じて、誰かが、義姉君にそなたをあてがったのだ。義姉君は、最初からそれに気づいていた。だが、声を大にして言えなかった。言えば、ダイン皇帝との間に、お子が生れなかったことになるから。だが、お子は、確かに生れたのだ。義姉君は、自分が産んだ皇子が、死んでいないと本気で思っていた。事実と乱れた心との均衡を保つ為に、義姉君には、そなたが必要だった。

 それに、義姉君は、この先、兄君が別の女人との間にお子をもうけてしまったら、皇妃としての立場が危うくなるのではないかと恐れていた」

 カイザは、次から次へと言葉を紡ぐ、アンセルムの薄い唇を見つめていた。頭がぼうっとして、アンセルムが何を言っているのか、よく分からない。

「・・何を、言っている?」

 母イザベルの名を聞いただけで、身体が、知らずガタガタ震えてきた。

 今、叔父は何と言ったか?

 自分が、母の子ではない?

 アンセルムが、目を細めて言った。

「分からないだろうな。だが、証がある。義姉君自身が、わしに言っていたのだ。何度もな。自分が産んだ皇子には、左の二の腕に痣などなかったと・・!」

 カイザは、無意識に左の二の腕に手をやった。母に何度も打たれ、足で踏みつけられた、あの痣。

 そうだ、母イザベルは、涙を流しながら、よく言っていた。

「こんなものは、なかった!わたくしの子に、こんなものはなかった!どうしたらなくなるの?この痣をどうやって、消せばいいの?こんなもの、こんなもの・・!」

 カイザの左の二の腕の痣を打ちながら、最後は、半狂乱になって叫ぶ母に、カイザは、耳を押さえながら言った。

「ごめんなさい。お母さま、ごめんなさい。ごめんなさい・・」

 幼かった自分の声が、頭の中でこだまする。

――ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。

 カイザは、低くうめき声を上げて、頭を抱えた。

 カイザを見つめるアンセルムの顔が、わずかに動いた。

「どちらにせよ、そなたのような愚鈍な男には、このカストニア帝国の皇帝は、到底、務まらん。そなたを皇太子として立てるなど、兄君ともあろう方が、選択を誤ったな。わしは、そなたが憎くてこうした訳ではない。このカストニア帝国の民の為なのだ。わししか、このカストニア帝国の皇帝を継ぐ資格のある者は、おらんのだ!」

 最後は、高らかに宣言するように、アンセルムは声を張り上げた。


 頭上から滴り落ちた水が、目を閉じたままのカイザの頬を打った。

 何処からか、水が漏れてきているらしい。

 カイザは目をきつく閉じたまま、わずかに身じろぎした。手首と足首につながれた鎖がガチャガチャと重い音を立てた。

 カイザは、地下牢に閉じ込められた。

 アンセルムは、カイザに言った。

「そなたの処遇は、追って沙汰する。今夜のところは、ゆっくり休んでいるがよい。おい、偽帝を地下牢にお連れしろ。丁重にな。無論、鎖をつけるのを忘れてはいかんぞ。何しろ、偽物だからな」

 大声でそう言うと、周囲の兵達が、カイザを見て、一斉に嘲笑した。

 カイザは、暗闇の中、きつく目を閉じ続けた。

 幼い頃から、暗闇に入れられるのには慣れていた。

 本当に怖いのは、目を開いているのに、何も見えないことだ。だから、目を閉じていれば、少なくとも、真の暗闇を見ずとも済む。恐怖心を少しでも抑えることが出来る。

 静かに呼吸をする。頭の中に、先程のアンセルムが言った、母の言葉が蘇った。

――自分が産んだ皇子には、左の二の腕に痣などなかった。

 カイザは、ゆっくりと右の手を、左の二の腕に持っていった。

 ここに丸い青い痣があることは、嫌と言うほど知っている。自分を産んだ筈の母親がそう言うのなら、カイザには、どうしようもない。真相を確認しようにも、父帝も、もう亡い。

(・・それなら、わたしは、誰だ?)

 自分はいったい、何故、ここにいる。

 ずっと、この城の中で、暗闇と恐怖と苦痛に晒されてきた。ずっと母に、ごめんなさい、と言い続けてきたのに、母は、憎悪に満ちた目で、自分を睨むばかりだった。胸を突き刺すような、あの冷たい灰色の瞳で。

 ガンガンと激しい頭痛がし、胸がきつく締めつけられた。カイザは、胸を両手で押さえながら、大きく息をついた。

(・・もう、どうでもいい)

 廃位された皇帝がどんな運命を辿るのか、カイザは、知っていた。

 自分が今、何を考え、苦悩しようとも、それは全て無駄なことだ。意味のないことなのだ。それなら、全て、止めてしまえばいい。考えることも、生きることも。

(もう、どうでも・・)

 カタン、と何かが鳴った。

 頭上にある覗き穴から、蝋燭の灯りを背に、誰かの目が覗いていた。

「・・カイザ様」

 男の声だった。しばらくすると扉の向こうで、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。

 男は、扉を開けて入ってきた。

「ああ、カイザ様、なんと・・、おいたわしい、こんな所に、こんなお姿で・・」

 黒いフードを深く被った男の顔は、暗くてよく見えない。

 男は、跪き、手に持っていた鍵で、カイザの手首と足首につながれた鎖も外した。

「足を痛められたと聞いております。歩けますか?」

 カイザは、ゆっくりと足を動かしてから、頷いた。

「それでは、急ぎましょう。只今、アンセルム達は、大広間で酒盛りをしていて、皆、泥酔しております。城を脱出するなら、連中が油断している今しか、機会はございません」

 カイザを支えるように、男は、カイザの脇の下に肩を入れた。

「・・そなたは、誰だ?」

 カイザの問いに、男は言った。

「以前、わたくしの妹が、陛下から御慈悲をいただきました。病に倒れた母に食事をさせる為に、調理場の塩入れから、貴重なハイルの塩を盗んだ妹を、陛下は罰せず、寛大な御心で許して下さいました。何も口に出来ずに、痩せ衰えた母は、妹がハイルの塩を入れて作ったスープを飲み、美味しい、と言って、穏やかな顔で亡くなりました。わたくしは、その御恩に報いる為に、参上いたしました」

 カイザは、男の腕に、そっと手を置いた。

「・・気持ちは有り難いが、止めておけ。逃亡の幇助をしたと、叔父上に知られたら、そなたも、ただでは済まない。そなたの妹を悲しませることになる。わたしの為に、命を粗末にするな。・・わたしは、もう、このままここで、朽ちてよいのだ」

「陛下、陛下のお命をお救いしたいと願っているのは、わたくしだけではございません。今、大広間で繰り広げられている宴の食事の中に、密かに微量の眠り薬を入れた者がおります。看守の協力を得て、ここでこうして地下牢の扉を開け、鎖を解いております。わたくしがここに来るまでに、何人もの人間が、命を賭して陛下をお救いしたいと動いております。・・どうか、陛下、その者達の命と思いを無駄になさらないで下さい」

 床に額を打ち付けて懇願する男を、静かに見つめてから、カイザは、かすかに頷いた。

 生きたかった訳ではない。逃げたい訳でもない。

 ただ、目の前で必死に訴える男の為に、カイザはゆっくりと歩を進め、足を引きずりながら、地下牢を出た。



     3



 ドレイクが、先のカイザ皇帝ではないかと考え始めたのは、いつからだろう。

 キースも、最初は、ドレイクを、ただの「木偶の坊」だと思っていた。

 世間ずれしていて、理解が遅く、表情も乏しく、気力もない。今まで誰の庇護の下で生きてきたのか、何故、ルイファのドレイク広場に捨てられていたのか、不思議でたまらなかった。

 それでも、剣が持てる。馬に乗れる。高等教育も施されている。これは、只者ではない。ドレイクを、ドレイク広場で発見した時期と、遠い帝都ルーヘンで起こった謀反とを結びつけるのに、時間がかかったが、次第に、目の前にいる、このドレイクこそが、先のカイザ皇帝なのではないか、と思うようになった。

 そして、とうとう、施しの日に、キースは、ドレイクが何者かを突き止めた。本人もそれを否定しなかった。

 それから二週間、相変わらずドレイクは、キースの下で仕事をしている。キースの指示に黙って従い、使い走りをし、共に騎士見習いの少年達に槍を教えている。

 キースは、どうも釈然としない。

 確かに、キースは、ドレイクに言った。ドレイクは、もはや、ただの元皇帝に過ぎず、皇位がなければ、自分達一市民と何も変わりはしないと。

 だから、ドレイクは、これから生きてゆく為には、自分達と同じように、地道に汗水垂らして働き、食べてゆくしかない。

 実際、あの施しの日以降も、ドレイクの態度には、何の変わりはなかった。ドレイクは、ただ静かに、生きていた。

(もう放っておいていいんだ。あいつ自身の問題だし、だいたい、もう終わったことなんだし・・)

 キースは、自分にそう言い聞かせるが、何かが胸に引っかかる。納得出来ていない。

 キースは、自分の中に生まれた、こういう感覚を大事にしていた。

 本能が、伝えているのだ。きっとこれは、自分にとって、意味のあることなのだ。真剣に取り合うべき事柄なのだと。


 夕食後、キースは、ドレイクを居室に誘った。

 ワインを盃に注ぎながら、キースは思い切って訊いてみることにした。

「・・なあ、ドレイク。なんで、皇帝を廃されたんだ?出自に疑いがあるって聞いたけど」

 猫のアヴィが、嬉しそうにドレイクにまとわりつく。その背をそっと撫ぜてから、ドレイクは、静かにキースを見返した。

 元皇帝という先入観がなくても、時折、ドレイクが見せる表情には、どきりとしたものを感じさせた。

「・・わたしの母が」

 ドレイクの唇から、かすれたような声が漏れ出た。

「わたしを産んだことを否定したそうだ。わたしの、この左の二の腕には、青い痣がある。自分が産んだ皇子に痣はなかったと、何者かが、母に、わたしを皇子としてあてがったのだと」

「それで、あの傷が・・?ひでえなあ・・」

 思わず呟くと、ドレイクが怪訝な顔をした。

「あ、悪いな。お前さんが気を失っていた時に、見ちまったんだ。お前さんを診た医師も言っていた。最近のものではないが、相当の期間、痛めつけられていたんだろうと。お前さんの母親がそれをやったのか?母親って、イザベル皇妃だろう?・・具体的に、どんなことをやられたんだ?」

 ドレイクは、キースを見つめながら、淡々と答えた。

「・・暗闇に閉じ込め、水をかけ、殴り蹴り、罵詈雑言を浴びせ、首に縄をつけ、食事を与えず。・・もう、後は、よく覚えていない・・」

 ドレイクの指が、アヴィを撫でる。アヴィの、グルルルルという喉の音が鳴っていた。その姿を、ドレイクは、優しく、淋しげに、見つめている。

「・・とても可愛い子猫を、人から貰ったことがある。小さくてか弱いものを慈しむ心を養うようにと。三毛猫で、瞳は緑色だった。抱いたら、とても温かくて、可愛らしくて、力を入れたら、壊れてしまいそうだった。とても嬉しくて、大切にしようと、一緒に寝台の中に入れた。子猫は、わたしの脇の下で、丸まって、ぐるぐると喉の音を鳴らしていた。けれど・・」

 その指が、アヴィの頭をそっと離れた。

「その翌日から、子猫の姿は見えなくなった。死体が見つかったのは、城外の肥溜めの中だった」

 キースが息を呑んだ。

「それも、皇妃がやったのか?」

 ドレイクは、薄く笑った。

「皇太子のものを自由に動かせるのは、城の中に、二人しかいない。皇帝と皇妃だ。その時、父帝は、他国に遠征に出かけていて、城を長く留守にしていた」

 キースは、深くため息をついた。

 ドレイクを診た医師から、身体中にひどい虐待の跡があると聞かされた時から、ずっと気にかかっていた謎が、ようやく解けた。

「成程なあ、そういう訳か・・。しっかし、ひでえなあ、そいつは・・。お前さんが、イザベル皇妃の産んだ子ではないというのは、本当なのか?」

 ドレイクは、首を振った。

「父帝も母も、もういない。真実は、分からない。幼かったわたしを救い、色々なことを教えてくれた者がいる。先程、話した子猫は、その者が与えてくれた。その者に聞けば、何かを知っているのかもしれないが。でも、もう、それは、どうでもいいことだ・・」

 ドレイクの表情は、固く、暗い。キースは、次に続く言葉を失った。

 皇太子として、何不自由なく、甘やかされた生活をしていたのだと、勝手に想像していた。だからこそ、身体に残る傷跡に違和感を抱いていた。目の前にいる少年が、そんな凄絶な過去を背負った皇帝だったとは。

「お前さん、すごいな・・」

 思わず口にすると、ドレイクは意外そうにキースを見た。

「すごい?・・わたしが?」

「ああ。俺がお前さんだったら、とっくに心が折れていたかもしれん。ドレイクさあ、よく生き残ったなあ・・、こんな遠くまで。本当に、すごいよ」

 ドレイクの頭に手を乗せ、黒髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「何をするっ・・!」

 抵抗するように言うドレイクの顔を、キースは、いたずらっぽく笑いながら、覗き込んだ。

「なあ、好きな子とか、いなかったのか?」

 ドレイクの憮然とする顔を見て、キースは、また笑った。



 キースの声はよく通る。

 彼は、闊達に笑う。頭の回転も早く、決断も的確だ。共にいて、誰もがキースを慕っているのが、よく分かる。

 良い指導者とは、こういう者を言うのだろう。

 カイザは、素直にそう思う。

 自分が、元皇帝だったと知られてからも、自分に対するキースの態度は、変わらない。

 最初は、都にいる現皇帝である叔父アンセルムに通報され、即座に連行されるのだろうと思った。それならそれで、もう構わないとも思っていた。

 だが、都からの兵は、一向にエルリー家の館に押し寄せては来ず、キースは、以前と変わらず、カイザを仕事に連れて回っている。

 カイザは、裁判を経ず、ヴェリア城から逃げ出した。皇帝の意図に従わず、逃亡した罪は、重い。その逃亡を幇助した者も、匿った者も、叔父アンセルムに知られたら、無事では済まないだろう。

(・・キースは、何を考えている?)

 キースは、何故か、カイザの過去を知りたがった。カイザは、問われるままに、胸の奥底にしまい込んだ、幼少時の記憶を、キースに話して聞かせた。

 何故なのかは分からないが、思い出すのも苦痛を呼び起こすばかりだった事柄を、キースには、淡々と、言葉にして語ることが出来た。

 ラリサにもルークにも、上手く話すことが出来なかったのに、不思議だった。

 自分が今、城の外を出て、都から遠く離れた、この地にいるからかもしれない。

 キースとシェリーと猫や犬達と暮らし、仕事をし、貧者達に施しを行い、様々な境遇の人間と接することで、自分がこれまでいた世界と体験してきたことを、少しずつ客観的に見られるようになったのだろう。

 話すことは、自分を解放することでもあった。他者に名を明かし、自分の過去を言葉にしたことによって、カイザは、身体中を覆っていた重い鎧のような物を、ようやく取り外せたような気持ちになった。

 よく生き残ったな、とキースは言ってくれた。

 だが、自分がこうやって生き残れたのは、自分の力などではないと、カイザは知っている。

(あの男は、どうなったのだろう・・)

 カイザは、城の地下牢から自分を逃してくれた男のことを思い出した。

 黒いフードを、ずっと目深に被っていたので、顔は思い出せない。彼が言っていた、ハイルの塩を盗んだ妹というのは、どういう娘だったか。それもよく思い出せない。

 あの夜、そしてこの地に至る迄の一か月間、自分を生かそうと動いてくれた者達は、果たしてその後、無事だったのだろうか。

 ラリサと、ルークは。

 キースから、好きな子はいなかったのか、と問われた時、カイザの頭によぎったのは、金色の髪の娘の姿だった。

(セリカ・・)

 彼女は、無事だろうか。

 生きて故郷のブレッシェンに戻っただろうか。彼女がかつて愛を誓った婚約者と、再会出来ただろうか。

 最後にセリカを抱きしめた時の感触を思い出す。

 あの夜も、彼女は剣を抜き、ラリサと共に、自分を守ろうとしてくれた。

 いつも手を伸ばせば、すぐに触れられる距離に、彼女はいてくれた。迷いながらも、カイザの側にいたいと言ってくれた。

 今は、何処にいるのかも分からない。それでも、心から願う。

(無事でいてくれ・・)

 ずっと考えまいとしていた。自分は、何かを得たいと願ってはいけない。大切だと思ったら、手に入れてしまったら、それは儚く消えてしまうのだと。

 惨殺された、あの子猫のように。

 けれど今、カイザは願う。自由な心で、自分が生き残る為に、守り、助けてくれた人々の無事を。



     4



 孤児院は、今日も、子ども達の元気な声で満ちていた。

「セリカさま、パンのお代わりをちょうだい」

「あたしも」

「ぼくも欲しいよお」

 パンが入った籠を手に持ったセリカには、次から次へと声がかかる。

 セリカは、一人一人にパンを手渡しながら言う。

「まずはみんなが、一つずつ食べてからね。みんなは、カチアおばさんが作ってくれた、その野菜スープを、きちんと飲みきること。そうしたら、余ったパンを、みんなで分けましょう」

 セリカの言葉に、子ども達が、木のスプーンを手に、元気よく返事をした。

「はあい」

「カチアおばさんのスープは、人参ばかりだからなあ」

「栄養たっぷりよ。文句を言っては駄目」

 小さな子ども達が、口元をスープで汚しながら、互いに言い合う姿に、セリカは微笑んだ。

 台所から、ルカがやって来た。

「セリカ、交代するよ。明け方までトマスに付き合ってたから、疲れただろう?少し休みなよ」

「ありがとう、ルカ。じゃあ、パンが余ったら、みんなで分けてちょうだい。まずは野菜スープを飲ませてからね。わたし、ちょっと外の空気を吸ってくる」

 パン籠をルカに手渡して、セリカは、食堂の扉を押して、広間を横切り、外に出た。

 孤児院の前には、明るい緑色の草原が広がっている。牛や羊が、思い思いに草を食んでいた。

 セリカは、頭上を見上げた。

 もう太陽があんなに高く上がっている。ルカが、洗濯し、干し終わった白いシーツが、風に気持ち良さそうになびいていた。セリカは、眩しくて目を細めた。

 ブナの木陰に、セリカは、腰を下ろした。

 昨夜、八歳のトマスという男の子が、急に発作を起こして、暴れた。トマスが落ち着いて、眠りにつくまで、セリカは、ずっと付ききりだったので、さすがに眠い。

 セリカは、木の根本に寄りかかって、膝を抱え、額を膝に付けた。無意識に、右手で、左の薬指に嵌めた指輪に触れる。大丈夫。ちゃんと、ここにある。

 セリカの髪は、他の女性のように長くない。縛ったり、編んだりすることも、まだ出来ない。ここに辿り着いた時は、まるで少年のようだった、とカチアおばさんは、よく笑った。

「誰に切られたの?ひどいねえ」

 と、当初、子ども達は無邪気に訊いてきた。セリカは笑って、決して答えなかった。カチアおばさんにも、ルカにも話していない。次第に、誰もセリカの髪のことを言わなくなった。

 セリカは呟いた。

「せっかくカイザが、わたしの為に切ってくれたのに、もうこんなに伸びてしまったわ。もう誰が見ても、わたしが少年だとは思わなくなってしまったわね」


 ダイン皇帝の異母弟アンセルムによる謀反が起こったあの夜、カイザに背中を押されるようにして、ルークとセリカは、ヴェリア城の外に続く暗い道を走った。つまずいて何度も転んだ。その度に、ルークが手を差し伸べてくれた。

 ようやく城の外に出て、闇に紛れてルークがセリカを案内したのは、街の市場の片隅にある店だった。セリカは、その店の主を知っていた。

 三か月前、同じように城を出て、このカストニア帝国を出国しようとした。

 エスカの港で、一緒にオーデン湖を渡る船に乗り、国境を越えようとしたが、ラリサに阻まれた。

「セリカ姫、久しぶりだな」

 トール隊長は、セリカを見て、言った。その後ろから、ひょっこり顔を出したのは、ルカだった。

 ルカは、セリカの姿を見て、驚いたように、口を押さえた。

「リセ、あんたの、髪!ひでえ、誰がそんなことをしたんだよ!」

 ルークは、隊長に言った。

「トール殿、緊急事態が発生した。かねてからの約通り、セリカ様を、無事にブレッシェンまで送り届けて欲しい。猶予はない。出発は、今すぐ」

 隊長は、顔を引き締めた。

「了解した。おい、みんな、出発の準備だ!荷物を準備しろっ」

 周囲に集まった男達が、一斉に動き出した。

 ルークは、セリカに向き直った。

「セリカ様、わたくしは、城に戻り、カイザ様と母の様子を見て参ります。ここでお別れです。ご安心下さい。トール隊長は必ず、セリカ様をブレッシェンまで連れて行ってくれます。事態が落ち着きましたら、わたくしも、セリカ様の元に伺います。それまで、どうか、ご無事で」

「ルークも、気を付けて」

 それだけ言うのが、精一杯だった。ルークは、あっという間に、闇の中に消えてしまった。

 セリカもまた、すぐに馬車に乗せられ、ベルリー川から船に乗った。

 後からトール隊長から聞いたところによると、以前、セリカが、オーデン湖で警備隊に捕まった際、ラリサとトール隊長は、直接、顔を合わせ、何か緊急事態が起こった場合、セリカを無事にブレッシェンに送り届けるよう、予め契約を交わしていた。

 陸路で迂回しながら、ウェスティア王国に入った一行は、首都ケストを通過し、遂にブレッシェンに辿り着いた。

 今は、ウェスティア王国のブレッシェン地区となっていたが、カストニア帝国との戦で生き残った旧領民の多くが、今もそこで暮らしていた。

 カチアおばさんも、婚約者のカリエも、無事だった。


 セリカは、カストニア帝国との戦闘後に建てられた孤児院に寝泊まりし、孤児の世話をした。

 ウェスティア王国のヘンリ国王は、セリカを、元の貴族として待遇してくれようとしたが、セリカはそれを断った。

 ルカは、セリカと共にブレッシェンに残ることを決め、同じように孤児院で働くと言った。カチアおばさんも一緒だ。ルカは、カチアおばさんから、刺繍が習えると喜んだ。

 セリカのバラバラに切られた短い髪を、カチアおばさんは、何も訊かずに、鋏で整えてくれた。

 孤児院にルークがやって来たのは、それから一か月後のことだった。

 ラリサは、負傷したが、何とか無事に城を脱出し、ルークと共にイエリン地方のラリサの実家に身を寄せていること、カイザが、あの日の夜以来、忽然と城から姿を消してしまい、消息不明であることを聞いた。

「何者かが、我々にも知られない内に、カイザ様を城から脱出させたものと思われます。母は、諦めておりません。傷が癒え次第、探しに行くと言っております。勿論、わたくしも、共に参ります」

 淡々と話すルークに、セリカは訊いた。

「・・ルークは、カイザが無事だと思うの?」

 ルークは、静かな瞳でセリカを見つめてから、はい、と答えた。

「そうでした、これを」

 と、胸のポケットの中から、ハンカチにくるまれた小さな物を取り出した。ハンカチを開いてみると、指輪だった。

「皇妃の証である指輪です。出来上がり次第、セリカ様にお見せするようにと、カイザ様から言いつかっておりました。城に戻った際、何とかこの指輪だけは、入手することが出来ました。セリカ様のものです。どうぞお受け取り下さい」

 と、セリカに手渡した。セリカは、それを受け取り、ルークに訊いた。

「わたし、これを、どうすればいいの?」

「お好きなように」

 ルークは、穏やかに答えた。

「カイザ様でしたら、おそらく、そうお答えになるでしょう」


 ルークが訪れてから、もう八か月が経った。

 ラリサと共にカイザの探索に出ているルークからは、何の便りもない。

 セリカは、孤児院で働きながら、日々を過ごした。

 婚約者だったカリエには、婚約の破棄を申し出た。今は、ウェスティア王国ブレッシェン地区の監督者となり、人々の暮らしを見守るカリエは、理由を聞くこともなく、申し出を受けてくれた。

「セリカ、君は、心を、カストニア帝国に置いてきてしまったようだね」

 優しい表情で、そう淋しげに言った。

 かつて領主の娘だったセリカには、多くの求婚者があった。セリカは、求婚の全てを断り、ルークから手渡された指輪を、左手の薬指に嵌めた。

 孤児院には、様々な子ども達がいた。

 先のカストニア帝国との戦闘で孤児になった子もいれば、棄児、養育者から虐待された子もいた。

 ラリサから、カイザの生い立ちを聞き、セリカは、保護を必要とする子ども達に対して、自分に何か出来ることはないかと考えた。

 小さかったカイザを救うことは、もう出来ないけれど、ここには、母を失った、たくさんのカイザがいるから、自分は、彼らの母に代わって、小さな身体を何度も抱きしめてあげよう。笑顔を返してあげよう。たくさん愛してあげようと思った。

 そして、ルークからの便りを待とう。いつまでも待とう。

 セリカの髪は、少しずつ伸びている。

 あの時、カイザが何故、咄嗟に、セリカの髪を切ったのか、セリカには分かっていた。

 セリカを生かす為だったのだ。

 セリカが、カイザの皇妃となる娘であると知られないように。万が一、カイザとの子を宿しているかもしれないから。それを確かめる為に、セリカは捕えられ、恐ろしい身体検査をされるかもしれなかった。

 あの数十秒の出来事と口づけは、不器用なカイザの、セリカに対する、精一杯の愛情表現だったのだ。

(あんな強烈なことされたら、忘れられなくなっちゃうじゃない・・)

 セリカは、思い出して、苦笑した。

 心地よい日の光に目を閉じて、うとうとしていると、

「セリカ様」

 と、遠慮がちに、声をかけられた。目を開けると、目の前に、先程まで思い出していたルークの姿があった。

「・・ルーク?」

「先程、院の方に伺ったのですが、こちらにいらっしゃると聞きまして。お休みのところ、申し訳ないのですが・・」

「ルーク!」

 セリカは飛び起きるようにして、ルークの腕に手を触れた。

 ルークは、やわらかく笑んでいた。それを見て、彼が朗報を持ってきたのだと分かった。

「・・カイザが、見つかったの?」

 声が震えた。

「まだ確定した訳ではありませんが、大体の所在は分かりました。帝国都市のルイファにいるようです」

「帝国都市のルイファ・・?カストニア帝国の南西部の?そんなに遠くに?」

 はい、とルークは頷いた。

 ルークによると、ラリサの傷が癒えた後、ラリサとルークは、実家の商家であるドーサ家を拠点にしながら、四方を捜索した。既にアンセルム皇帝の統治は始まっている。表立って動くことは出来なかったので、ラリサの父のハンスの協力を得て、商人ルートを主に使った。

「カイザ様の逃亡の痕跡が、なかなか掴めず、苦労いたしましたが、イエリンに戻っていた際、母が、たまたま、ある書簡を目にしまして、それが、カイザ様のお書きになった文字だと主張しまして」

「カイザの書いた書簡?」

「はい。母は、間違いないと申しております。どうやら、カイザ様は、帝国都市ルイファにある商家に身を寄せているらしいのです。これから、母と、ルイファに行って参ります。セリカ様には、これだけはご報告しておきたくて、急ぎ、馬を走らせました」

 突然の報告に、セリカは、何と言っていいのか、分からなかった。

「もし、カイザが生きているとしたら、これから、カイザはどうなるの?・・ラリサは、カイザに会って、何をしようとしているの?」

「それは、わたくしにも、分かりませんが、今は、カイザ様のご無事を確認することが、先決だと考えております」

 ルークの静かな口調に、セリカは頷いた。

「そうね。その通りだわ。・・ルーク、本当は、わたしも一緒に付いて行きたい。でも、足手まといになってしまうから、わたしは、ここで、待っています。カイザにもし会えたら、そう伝えて」

「かしこまりました」

 ルークはそう言って、セリカに一礼し、風のように立ち去った。

 セリカは、頭上の空を見上げた。

 先程までは、過去の出来事ばかりを思い出して、反芻していた。

 カイザを思う時、セリカに出来るのは、それしかなかった。けれど、今は、これから先の未来のことを考えることが出来る。

(・・カイザ、あなたは、今、どんな風にしているの?何を見て、何を考えているの?わたしのことを、少しでも思い出すことはある?)

 遠いルイファの空の下にいるカイザに、心の中で語りかけた。

 空は、セリカの希望と不安に満ちた思いを反映するかのように、染み入ってしまうような、深い群青色をしていた。



 イエリン地方の商人が、キースの館を訪ねてきたのは、丁度、キースとカイザが、シェリーと共に昼食を取っている時だった。

「キース様に、急ぎ、お目通りを願っております」

「イエリン地方から、わざわざ来たのか?一人か?」

「いえ、お二人でございます。女人とお付きの若い男でございます」

 小姓がそう伝えた時、スプーンを持ったカイザの手が、ぴたりと止まった。それを横目で見てから、キースは、口元をナプキンで拭い、言った。

「よし、すぐに行く。客間に通せ。ドレイク、お前さんも一緒に来い」

 不審顔のシェリーをよそに、キースは椅子から立ち上がって、カイザの肩をぽんと叩いた。

 カイザは、一瞬、躊躇う素振りを見せたが、キースに続いて席を立った。

 客間に向かって歩きながら、キースはカイザに言った。

「俺には、イエリンからわざわざ訪ねてくるような女友達はいない。おそらく、お前さんに会いに来たんだろう」

 カイザは、固い表情のまま、無言だった。

 扉をノックして、キースは部屋に入った。後に、カイザも続く。

 来客用の椅子に座っていたのは、三十代半ばくらいの女と、二十代前半くらいの青年だった。

 女は、目を見張るほど美しいが、その頬には、剣によるものと思われる傷があり、なんとも言えぬ凄みがあった。逆に、隣りにいる青年は、どこか穏やかな空気をまとっている。二人は親子だろうか。対照的な印象ながら、何かしら共通したものを感じた。

(商人だって?こんな隙のない商人がいるものか)

 二人の視線は、一心に、キースの後ろに立つカイザに向けられていた。

 カイザを見ると、やはり、蒼白な顔をして、二人を凝視していた。

「お探しいたしました。よくぞ、ご無事で・・」

 女がその場に跪き、カイザに向かって礼をした。隣りにいた青年もまた、膝を折った。

 カイザは、安堵と恐れが入り混じったような、複雑な表情をしていた。

 握りしめた拳が、かすかに震えている。

「・・やめろ」

 カイザは、二人を睨みながら、声を絞り出すように言った。

「やめてくれ。・・もう、たくさんだ」

 そう吐き出して、カイザは、踵を返し、逃げるように、客間を出て行った。


「・・さてと、主役が逃げちまったが、何から話したらいいかな」

 カイザが客間を去った後、言葉もなくそれを見送る二人に椅子を勧めてから、キースは話し始めた。

「俺は、この館に住む、キース・エルリーだ。先程の男は、俺が九か月前に、このルイファ市のドレイク広場で、意識を失って倒れているのを保護した。名前を忘れていたので、ドレイクと呼んでいた。今は、ここで共に暮らしながら、俺の仕事の手伝いをしてもらっている。・・イエリンの商人と言うと、ハンス・ドーサのところか?あいつが書いた書簡の筆跡を見たのかな?読み書きが出来るから、書簡の代筆をやってもらっていた。最初は、反応もいちいち遅く、とんでもなく鈍くさい奴だと思っていたが、最近は、よくやっているよ」

 黙って聞いていた女が、顔を上げた。

「先程は、失礼いたした。本来なら、貴公に最初にご挨拶申し上げるべきところを。わたしは、ラリサ・ドーサと申す。隣りにいるのは、わたしの息子でルークと申す。貴公に世話になっているイエリンのハンス・ドーサは、わたしの父だ」

「ほう・・」

 ラリサは、キースを見た。

「突然、このように押しかけて、唐突な申し出をすることをお許しいただきたい。貴公の下で働いている、先程の男を解雇し、わたし共に託していただきたい。わたし共は、この十か月の間、ずっと彼を探していたのだ」

「・・あいつから、大体のことは聞いている。本当の名前は、カイザ・カストニア。元皇帝だったこと、現皇帝である叔父アンセルムの謀反のこと、母親であるイザベル皇妃から、幼い頃、虐待されていたことも」

 キースの言葉に、ラリサの顔が、さっと真剣なものになった。

「ラリサと言ったな。幼かったあいつを救い、色々と教えてくれた者というのは、あんただな。・・なあ、一つ訊いていいか?あいつは、確かにダイン皇帝の子か?」

 キースの質問の真意を図るように、ラリサの目は、注意深くキースを見続けた。

 キースも、それに応えるように、見返した。

 ラリサは、覚悟したように言った。

「そうだ」

「何か証拠はあるのか?あいつは、イザベル皇妃の産んだ皇太子ではないという理由で、廃位されたんだろう?あいつを産んだ母親を知っているのか?」

「わたしが、ダイン皇帝との間に、カイザ様をお産み申し上げた。だが、まだ赤子の時に、ダイン皇帝の命によって拉致されてしまった。わたしがカイザ様に、都ルーヘンのヴェリア城の中でお会いしたのは、カイザ様が七歳の時だ。その時に初めて、自分の息子が、皇太子として育てられていたことを知った。イザベル皇妃からの虐待に気づいたダイン皇帝が、実の母であるわたしを、カイザ様の教育係にと召し抱えたのだ」

「成程、そういうことか・・」

 そう言いながら、キースは、内心、唸った。

 頬に傷のある、目の前の美しい女とその息子の数奇な運命と、その運命に自分も今、関わっていることが、何とも不思議だった。

「・・それで、俺があいつを解雇したら、あんたは、これからあいつを、どうするつもりなんだい?」

 キースの問いに、ラリサは、当然のように答えた。

「カイザ様は、間違いなくダイン皇帝のお子だ。わたしは、ダイン皇帝から母君の形見として授けられた指輪も持っている。アンセルムこそ、偽帝だ。ダイン皇帝のご遺志に背き、あろうことか城外から兵を引き入れ、カイザ様を廃した。皇帝になってからも、私腹を肥やすことばかりを考え、領民を苦しめている。いずれ兵を集め、カイザ様の復位を目指す」

「だが、あいつに、その気はなさそうだぜ。今まで悲惨な目に遭ってきたんだ。放っておいてやるってのも、あいつの為だと思わないか?」

 ラリサの目が、光った。

「カイザ様こそ、皇帝になるべくお生まれになった方だ。そうでなければ、これまで、何故、あのようなお辛い目に遭わなければならなかったのか?・・必ず、カイザ様を、再び皇帝の座におつけする。わたしは、自分が死ぬまで、それを諦めることはない」

(・・すごいな、母親ってのは)

 キースは、ラリサの凄まじい執念に、舌を巻いた。

 確かにカイザには、何とも言えない魅力がある。

 弱そうに見えるが、イザベル皇妃からの虐待を生き抜いた底力も、弱い者に対するいたわりの気持ちもある。他人の言うことにも、素直に耳を傾けられる。為政者として、大切な資質を持っている。

(あとは、兵力と金、信頼出来て、有能な者を側に付ければ、可能かもしれんが・・)

 腕組みをしながら、頭の中で色々と算段している自分に気づき、キースは思わず苦笑した。

 何ということだ。自分は、都から遠く離れた一都市の、ただの商人だと言うのに、何故、今、こんなどでかいことを考え始めているのか。

「・・なあ、例えばだけど、俺は、この帝国都市ルイファ軍の副隊長だ。隊長と話が出来る。金もそれなりにある。カストニア帝国内外の各地の通商ルートも把握しているし、利用出来る。俺があんたに協力する代わりに、今、ここで、俺と寝ろと言ったら、あんたはそれを受けるかい?」

 ラリサは目を見張って、キースを見返し、即座に頷いた。

「受けるよ」

 キースが驚いて言った。

「即答だな」

 ラリサは薄っすらと笑んだ。

「・・あの子は、乳児の時に攫われた。あの子が、ヴェリア城で一人苦しんでいる時、わたしは、あの子をこの手で守ってやれなかった。長い間、辛い目に遭わせてきたんだ。わたしは、あの子を守る為なら、何でもするよ」

 ラリサの言葉に、キースは、破顔した。

「止めておこう。息子とは関係なく、お願いしたいな」

 問うように自分を見つめるラリサに、キースは、頭を掻きながら、言った。

「あいつを拾ったのが、運の尽きかな・・。ああ、やっぱり、何でもかんでも拾って来てはいかんな。情が移っちまう」

 そう呟いてから、ラリサとルークに向き直った。

「決めたよ。あんた達に、俺も協力する。あいつを、このカストニア帝国の皇帝に復位させる。これは、鎖かたびらの作り方を、あいつに教えこもうとしたドルトの親爺より、大変な仕事だぞ」

 キースは、立ち上がった。

「後で、また話をしよう。部屋を用意するから、ゆっくりしててくれ。まずは我が主に、早速、ご挨拶してくるよ」

 二人を置いて、客間を出た。

 カイザの姿を探す。

 カイザは、自室の寝台の上に腰かけていた。その膝の上には、いつものように、アヴィが乗っている。アヴィのゆったりした様子を見てから、キースはカイザに言った。

「ドレイク、お前さんをたった今、解雇する。何処へでも好きな所に行くといい」

 カイザが、驚いた表情をした。キースは、構わずに続けた。

「ラリサの計画に乗っかることにした。今度は、家来として俺を雇え。お前さんが、このカストニア帝国の皇帝復位を目指すのなら、協力するぜ」

 言葉もなく自分を見つめるカイザに、キースは、笑って言った。

「お前さんの父親が、ビスナ王国に乗り込んで戦争を仕掛けている間、お前さんは、たった一人で、ヴェリア城の中で戦っていた。そのご褒美を、今、やるよ。俺を使え」



     5



 その晩、ラリサとルークを交えた食事は、静かなものだった。シェリーも表情を固くしていた。

 食事が済み、スプーンをテーブルに置いて、ラリサがカイザを見て言った。

「カイザ様、今からお時間をいただけますか?お話ししておきたいことがございます。キース殿も、伯母君も、ご一緒にどうぞ」

 あたしは知らない方がいいよ、とシェリーが席を外した後、ラリサは、一同を見回した。

 カイザは、目の前に懐かしいラリサとルークがいることが、まだ信じられなかった。

 変わっていない。右頬に生々しい斬り傷が刻まれていたが、その美しさも精悍さも失われていなかった。その後ろに控えめに佇むルークの姿も、以前と同じだ。

(二人とも、無事で、良かった・・)

 二人に会ってから、胸の中に生まれた問いを、カイザは、思い切って口にした。

「ルーク、セリカは・・?セリカは、無事か?」

 ルークが、優しい表情で頷いた。

「はい。ご無事でございます。今は、旧ブレッシェンの孤児院にて寝泊まりし、働いていらっしゃいます。カイザ様の消息が分かりそうだとお伝えしましたところ、大変、お喜びになっておりました。一緒に行きたいけれど、足手まといになってしまうので、ブレッシェンにてお待ちになるとのことです」

「そうか・・」

 胸の中が、訳も分からず、ざわめいた。どうしてセリカのことを考える時、自分の胸は、いつもこんな風に苦しくなるのか。

 ラリサは、カイザの前に進み出た。

「カイザ様、今回の事態を招いたこと、完全にわたくし共の不覚でございました。まさか、あのアンセルムが、あのようなことを考えていたなど、思いも至りませんでした。アンセルムは、その後、謀反の際に軍事協力を得た帝国内のエルフト王国のフランソワ国王の言いなりで、増税をし、徒に関税をかけ、無意味な規制を増やし、多くの民を苦しめております。近くエルフト王国と国境を接するキール王国と戦闘を交えるという話も聞こえてきております。カイザ様には、一刻も早く復位していだたき、これ以上のアンセルムの悪政を止めていただかなくてはなりません」

 ラリサの放つ鋭い言葉が、カイザの胸に次々と突き刺さる。自分から剥がれた筈の見えない鎧が、また身体を覆っていく。

 カイザは、その恐怖に、心の中でうめき声をあげた。

「・・ラリサ、もういい。やめてくれ。わたしは、もうヴェリア城には、戻らない。・・もう、嫌だ。あんな牢獄のような場所は、もうたくさんだ」

 カイザの反論に、ラリサは、驚いた顔をした。これまでカイザがラリサに対し、口ごたえをしたことなど、一度もなかったからだ。

「・・カイザ様?」

 カイザは、続けた。

「わたしは、このままでいい。今のままで、充分だ。・・皇帝になど、もうなりたくない」

 カイザは、ラリサを見つめ、抵抗するように言った。

「それに、わたしは、ダイン皇帝の正当な後継者ではないという理由で廃されたのだ。先帝も先の皇妃も亡い今、それを覆すことは出来ない」

「出来ます」

 ラリサは、短く言った。

「あなた様は、紛れもなくダイン皇帝のお子でございます。何故なら、わたくしが、ダイン皇帝との間に、あなた様をお産み申し上げたからでございます」

 ラリサの言葉に、カイザは、意味が分からないといった風に、ラリサの顔を見た。

 ラリサは続けた。

「先の皇妃は、ご自分の皇子を亡くし、錯乱状態に陥り、自身が納得する為、ヴェリア城内に仕える人間の殺戮を、次々と行いました。事態を改善する為に、ダイン皇帝が、まだ赤子だったあなた様を、わたくしから奪い、皇妃の息子として育てさせたのです。七年後に、ヴェリア城で再会するまで、わたくしは、自分の愛した男が皇帝であると知りませんでした。自分の息子が、皇帝の血筋を引く皇子であると知らなかったのでございます。・・ですから、あなた様は、紛れもなくダイン皇帝のお子です。アンセルムこそ偽帝、廃すべき男でございます」

 ラリサの最後の言葉は、もう聞こえていなかった。

(わたしは、母の子ではない・・?ラリサが、わたしを産んだ・・?)

 だから、母は。

 あんなに自分を憎んだのか?

(だから、あんな風に、わたしを・・。わたしを、憎んで。何度も、何度も・・)

 全身に怒りが溢れてきた。身体中に刻まれた傷跡が、熱を帯びる。身体が震えた。

 カイザの口から、獣のような咆哮が上がった。

「黙れっ、ラリサ!ふざけるなっ!それなら、わたしは、いったい、あの城の中で、何の為に、誰の為に、あんな風に、あんな風に・・」

 流れ落ちる涙に、言葉が続かない。

 カイザは拳を振り上げて、ラリサの頬を打った。その頭も、肩も、手を振り上げて思い切り叩いた。ラリサの栗色の髪が乱れ、その唇には、血が滲んだ。ラリサは黙って、カイザにされるがままだった。

「・・もう、このくらいでいいだろう?ラリサの気持ちも考えてやれ」

 振り上げた手を、キースに押さえられた。

「ラリサも、弟のルークも、お前さんを守る為に、十年以上も側を離れずに仕えてきたんだろう?子どもを突然奪われた母親の気持ちを想像出来るか?謀反の後、もう何処かで死んでいるかもしれないのに、決して諦めず、十か月かけて、ここまでお前さんを探し当てたんだぜ。お前さんが書いた、たった一枚の書簡の筆跡を見逃さなかった。ラリサは、お前さんを復位させる為なら、何でもすると俺に言った。何でもだぜ?・・こんなすごい母親、そういないぜ」

「・・わたしは、皇帝になど、ならない!」

 カイザは、ラリサを睨みながら、言い放った。

「即位する前から、分かっていた筈だ。皇帝になる適性もないわたしに、そなたは何を望んだのだ?わたしは、何も出来ない。この帝国のこと、民のことも、何も知らなかった。・・こんな無知で、弱いわたしに、帝国の主になど、なれる訳がないだろう・・」

 最後は呟くように言って、カイザは踵を返して、部屋を出た。

 ラリサの頬を叩いた手のひらが、いつまでも熱く、痛かった。



 あの日以降、カイザは、ラリサと言葉を交わしていない。

 ラリサの姿を見ると、声をかけることが躊躇われる。

 怒りに我を忘れ、ずっと自分を守ってくれた人をひどく打ってしまった。感情を暴力で訴えてしまった自分が情けなかった。

 あれでは、自分を傷つけてきた母イザベルのやってきたことと同じだ。

 キースは、カイザを本当に解雇した。自身も、仕事は他の者達に任せて、ルイファ軍の隊長、ラリサやルークと、連日、何やら熱心に協議をしていた。

 カイザには、やることがなくなってしまった。仕方なく、館でシェリーの手伝いをした。

 明日は、施しの日だった。鍋いっぱいのスープを作る為に、野菜を洗い、包丁で、細かく切っていった。

「ドレイクの作ったスープが飲めるなんて、幸運な人々だね」

 キースから大方の話を聞いているのだろう、シェリーは、冗談めかして言った。

 野菜を切り終わり、一休みしていると、

「皇帝はやめて、料理人にでもなるのか」

 と声をかけられた。

 キースが、にやにやとしながら、台所に入って来た。

「はーあ、協議が長引いちまって、ちと疲れたな。伯母上、客間に冷たい物と甘い菓子でも運んでもらえませんか」

 そうシェリーに声をかけてから、キースは、カイザの横で、水差しからカップに水を注ぎ、カップの水をぐいぐいと飲み干した。

 カイザに、にやりと笑う。

「それで、どう?また皇帝になる気になった?」

「ならない」

 カイザは、短く答えた。

「今のアンセルム皇帝の評判は、相当、悪いらしいぜ。ヴェリア城内でも、行方不明のお前さんを探し出して、再び皇帝にと推す声も上がってきているらしい」

「わたしには、関係ない」

「関係ないってことはないだろうが。なんで嫌がるかなあ。望めば、何でも手に入る。何人の命も手中に出来る。この帝国の人間、領民の生活、そこに転がっている石ころまで、全て思う通りになるのになあ」

 カイザは、視線の先にある小さな丸い石を見つめながら、言った。

「わたしは、皇帝になる器ではない。・・わたしより、キースの方こそ、相応しい」

 心の内で、ずっと思っていたことを思い切って言うと、キースは、目を丸くして、呵々大笑した。

「俺が、皇帝?あはははは。そりゃあ、面白い冗談だ。あり得ないね。・・あのさあ、なりたいって奴が、誰でも皇帝になれる訳じゃあねえんだよ。前にも言ったろ?相応しい奴には、運、威厳、存在感、資質、親の七光り、その他諸々が、ちゃあんと備わっているんだよ。母親が誰だろうが、関係ない。お前さんは、ダイン皇帝の息子なんだろう?じゃあ、正真正銘の皇子だろうが。皇帝なんてのは、偉そうな顔をして、家来からの報告を、ふんふん頷きながら、黙って聞いてりゃあいいんだよ。簡単だろ?今までだって、そうやってきたんだろう?何を今更、そんなに迷うことがある?」

「・・迷ってなど、いない」

 言い返すが、キースには、カイザの心の内は、お見通しなのだろう。

 本当は、怖いのだ。

 この状況から、逃げ出したい。過去のことは、忘れてしまいたい。何もかも忘れて、このまま朽ち果てたい。

 けれど、逃げ出したいと願うその一方で、自分が見てきた、市井の人々の、笑顔に溢れた、ささやかな生活や、小さな子どもや貧者や弱者を、現皇帝や他の誰かが、脅かし、苦しめ、傷つけようとするのなら、それは、決して許さないという気持ちも生れていた。

 それでも、自分の無力さ、小ささを嫌と言うほど知ってしまった以上、再び、皇位に就こうという気にはなれなかった。

 キースは、そんなカイザを見て笑った。

「・・まあ、よくよく考えるがいいさ。言っておくが、現皇帝に反旗を翻す以上、失敗したら、俺達も処刑される。お前さんにその覚悟がないなら、最初からやらない方がいい。俺達のルイファ軍や、お前さんのおっかさんや弟を、無駄死にさせるなよ。やらないなら、自分でちゃんとラリサと話して、彼女を納得させて、止めろ」

 キースの緑色の瞳が、強く光った。

 キースは、カイザが共に訓練した、騎士見習いの少年達も、ルイファ軍に加えようとしていた。

 自分の復位の為の戦いに、あの屈託のない少年達をも、危険にさらしてしまうことになる。

 カイザは、言葉を返せなかった。



 翌日の朝、カイザは、シェリーを手伝って、以前と同じように、庭のマロニエの木の下で、パンを配った。

 顔馴染みになった老人や親子連れが、カイザに挨拶をしながら、パンを押し戴く。

「お兄ちゃん、おはよう!今日はパンが間に合ったのね!」

 レイが、祖母ユサナの手を引きながら、庭に入ってきた。カイザは、スープの皿を持って、ユサナの手を取り、近くの椅子に案内した。

「こちらに、スープを置いておきます」

 そう声をかけると、ユサナは、濁った目でカイザを見上げた。

 カイザは、その前に跪いて言った。

「先日は、お世話になりました。あなたの言葉は、長い間、わたしを覆っていた鎧を外してくれました」

 ユサナが、しわがれた声で言った。

「けれど、まだ、迷っていらっしゃる・・」

 カイザは、頷いた。

「はい。迷っております。あなたは、わたしに言った。わたしは、もう自由で、自分の意志で何処にでも行ける。何でも出来ると。・・人間というのは、本当に不思議なものです。自由だと言われると、不自由であった頃が、懐かしくなる。自分の意志で何処にでも行けると言われれば、怖くて、何処にも行けなくなる。何をしてもいいと言われると、何をしたらいいのか、分からなくなる」

 ユサナは、薄っすらと笑った。

「そうですねえ、自由で、不自由な存在ですねえ。・・カイザ様、そうお呼びしても、もう差し支えないでしょうか?」

 カイザは、ああ、と答えた。

「あたしは、過去のことを感じることは出来ますが、未来のことは存じ上げません。ですから、あなた様の今後をお話しすることは出来ません。・・ただ、一つだけお伝えしておきたいのは、あたしら下々の者は、何も出来ないということです。・・明日、戦が起き、自分達が死ぬだろうと分かっていても、何処にも逃げられない。この与えられた土地の中で、逃げ惑うしかないのですよ。・・あなた様の自由と、あたしらの自由は、次元が全く違うのです」

 カイザは、頷いて、きつく目を閉じた。

 ユサナの言う通りだった。それでもまだ、自分は迷い続けている。どうしたら良いのか、分からない。

「・・お兄ちゃんは、何がしたいの?」

 目を開けると、側で、祖母とカイザの話を黙って聞いていたレイが、大きな緑色の瞳で、カイザを見ていた。

「何でもいいの。言ってみて。言葉にするって大切なことよ。さあ、目を瞑って、想像してみて。お兄ちゃんは、今、自由です。そうしたら、一番に、何をしたい?」

 七歳の少女に促されて、カイザは、目を閉じて、考えた。

 そして、戸惑いながら、唇を開いた。

「・・とても大切な人がいる。彼女に会いたい。ただ、会いたい」

 レイは、にっこりと微笑んだ。

「やりたいこと見つかったね!その人に会っておいでよ、お兄ちゃん。そうしたら、もっとやりたいことが見つかるかもしれないよ」

 ユサナも頷いた。

「それがよろしい、カイザ様。あなた様は、この世界を、もっとご自分の足で歩いて、ご自分の目で見て、ご自分の心で感じるのがよろしいですよ。そうしたら、きっと、お心が定まりましょう」

 そう言って、ユサナは、すっと腕を上げ、遠い空を指差した。

 それは、セリカが暮らすブレッシェンがある方角だった。



 ルークの案内で、カイザは、キースと共に、ブレッシェンに向かった。

 キースは、道中、内外の情勢を掌握し、商人ルートを使って、軍事資金と協力者を得るつもりだと、カイザに言った。

 セリカに会う為に、ブレッシェンに行きたい旨を伝えた時、ラリサは、かすかに苦笑した。キースは、

「おい、セリカ嬢は、美人なのか?俺も早く会いたいなあ」

 と、からかうように言った。

 ラリサとキースは、着実に戦闘準備を進めていた。

 自分がこのまま迷っていては、この試みは、確実に失敗に終わってしまう。その結果、多くの死者を、無駄に出してしまうことになる。カイザは、それだけは避けたいと思っていた。

 ユサナが、セリカがいる方向を指差した時、カイザの中で、何かが生れた。

 ブレッシェンに辿り着き、再びセリカに会えた時、自分の中で、答えが見つかるのではないかと思った。

 この期に及んで、結局、自分は、他者を頼ろうとしている。でも、それでもいい。情けなくていい。

 少なくとも、今、迷っている自分の心を、きちんと受け止めようと思った。


「あと少しで、ブレッシェンに入りますが、その前に、少し休みましょうか。カイザ様、キース殿」

 馬に乗って先頭を走っていたルークが、カイザを振り返って言った。

 カイザは、頷いた。長く馬を走らせたので、さすがに身体が、疲れてきていた。

 カイザは、馬を下り、ルーク、キースと、大きく枝葉を茂らせた大木の根本に腰を下ろした。

 互いに黙って水を飲み、途中、立ち寄った小さな市場で入手したパンと干し肉を口にする。喉も乾き、空腹だったので、肉の塩気が美味しかった。

 皆、しばらく無言で目の前の風景を眺めた。

 かつてカストニア帝国軍との戦闘が行われたというこの野原には、腰の高さほどの雑草が生い茂っていた。そこに鍬や鋤を入れる農民はいない。戦闘で田畑が荒らされ、住んでいた家を燃やされ、牛馬を奪われ、皆、殺されてしまったのだそうだ。

「・・お前さんの親父さんは、戦争好きで知られていたが、これを見ると、やっぱり、戦争ってのは、最も非効率なやり方だと思わないか?一度、駄目にしちまった田畑は、そう簡単には元には戻らない。人なんて、死んじまったら、それこそお終いだ」

 キースが、風景を眺めながら、呟くように言った。

 カイザは、先日の施しの日の別れ際、ユサナが、カイザの手を取りながら、話して聞かせた言葉を思い出していた。

「良い指導者とは、どんな人でしょうか?戦に勝ち続ける人ではございません。あたしら庶民にとって、良い指導者とは、戦をしない皇帝です。国の畑を荒らさず、民を傷つけず、悲しませない皇帝です。

 キース様は、無益な戦争で、大切な伯父上を亡くされました。両親を幼い頃に亡くされたキース様にとっては、心の支えとなってくれた方でした。ですから、キース様は、前々から、無益な戦いを続けるダイン皇帝を嫌っておりました。騎士見習いの少年達を鍛えていたのも、主君であるカストニア皇帝の為ではございません。その命令によって、無益な戦に駆り出された時、彼らを無駄死にさせたくなかったからでございます。

 今、キース様が、命を賭して、あなた様の復位に向けて動こうとされているのは、あなた様なら、むやみに国土を荒らさない、民を苛めない、そういう皇帝になられると、期待しているからなのではございませんか」

 カイザは、風を顔に受けながら、目を閉じた。

 今更ながら、自分の小ささが情けない。

 今、かつて戦場だった、この場においてすら、カイザはぼうっと、目の前の風景を眺めるだけだった。だが、隣りにいるキースは、過去を踏まえ、俯瞰して物を見ていた。

 キースは、道中、その地域にまつわる様々な話も、カイザに聞かせてくれた。

 知識も経験も、行動力も、人間としての器の大きさも、全く及ばない。

 ルークも同じだ。これまで、ずっと黙って、穏やかな表情で、自分を守ってくれた。

 ラリサが自分の産みの母親だと知った時、カイザは、激情のままに、ラリサを激しく打ってしまった。自分の母親が、カイザに打たれるのを、ルークは表情変えず、静かに見守っていた。本当は、辛かったに違いない。

(・・なんて、ふがいない男だ。わたしは、本当に、弱くて、情けない人間だ)

 胸の内に生れた、自身への嫌悪感に、吐き気がしてきた。カイザは、ぐっとそれを押さえつけた。

(・・こんな自分は、嫌だ。・・強くなりたい。もう誰も傷つけなくてもいいように、強くなりたい)

 心の内で叫びながら、カイザは、目の前の風景を睨み続けた。


 セリカが孤児達と暮らす孤児院は、旧ブレッシェンの南方にある丘の中腹にあった。

 ウェスティア王国のヘンリ国王の肝いりで建ったというその孤児院の周囲には、林と草原があり、明るい日差しの下、羊や牛達が、鶏と共に、のんびりと草を食み、のどかな空気が流れていた。

「へえ、立派な建物だな。うちの市の孤児院とは大違いだ」

 キースが、感心したように言った。

 門の前に立ち、ルークが、カイザに言った。

「カイザ様。今、セリカ様にお知らせいたしますので、こちらでお待ち下さい」

 カイザは、それを手で制した。

「わたしが行く。中の様子を見てみたい。三人で急に行ったら、子ども達を驚かせてしまうだろう。ルークとキースは、ここで待っていてくれ」

 ルークとキースは、黙って頷いた。

 カイザは、馬を下り、門をくぐった。

 そのまま真っ直ぐ進む。

 ちょうど淡黄色の小さなバラが満開に咲いていて、通路沿いに緑と淡黄色の美しいアーチを作っていた。それをくぐると、その隙間から青空が覗いた。

 蜜蜂の、生命力に満ちた羽音が、ブーンと耳をかすめた。

 歩を進めると、奥の方から、子ども達の声らしい、甲高い声が聞こえてきた。声のする方に向かう。

「セリカさまあ、こっちに来てえ!ライトとショーンが喧嘩をしているの!」

 一人の女の子の声が響いた。

 次いで、わあん、という子どもの大きな泣き声が聞こえてきた。

「あらあら、どうしたの?」

 懐かしい声音に、カイザは、思わず立ち止まった。心臓が激しく打つ。

「あのね、セリカさま、ライトがね、ショーンに意地悪を言ったのよ。ショーンのお母さんは、ショーンが嫌いなのよ。だから、ショーンを捨てたのよって」

「違う!そんなの嘘だ!ぼくのお母さんは、ぼくを捨てたりなんかしない。病気になってぼくを育てられないから、ぼくをここに預けたんだ。ライトなんか、親の顔も知らないじゃないか!」

「なんだと、この野郎!」

 女の子達の悲鳴が響いた。

「やめて、やめて!セリカさま、ルカ、助けて!」

 カイザが覗くと、二人の少年が、泣きながら、激しく腕を振り回し、取っ組み合いをしていた。周りには、多くの子ども達がいて、口々に何かを言いながら、それを見ていた。

 カイザの視線が動く。その先に、セリカの姿があった。

 セリカのふんわりとした金髪は短く、まだ肩にも届いていなかった。隣りには、セリカとそう変わらない歳だと思われる少女がいた。

「ライトもショーンも、もう止めなさい。小さな子達が、びっくりした顔で見ているわよ」

 セリカが二人の少年の間に入ると、一人の少年が、目を真っ赤にして言った。

「セリカさま、本当なのかな?お母さんは、本当は、ぼくのことが嫌いなのかな?だから、ぼくを捨てたのかな?」

 セリカは、跪いて、ショーンと呼ばれた少年の顔を見た。

「嫌いな訳ないじゃない。みんな、ショーンのことが大好きで、とても大事に思っているのよ」

 両手で少年の頬を包んで、そっとその胸に抱き寄せる。

「ライト、あなたもおいで。あなたも、とても大切な子、いつまでも泣いていたら、あなたのことが大好きなカチアおばさんが、悲しい顔になってしまうわよ」

「カチアおばさんは、ライトより、ぼくの方がずっと好きなんだ」

 セリカの胸にすがりながら、ショーンが言った。

 セリカが笑う。

「わたしも、ルカも、カチアおばさんも、みんなのこと、一人一人が、とても大切なのよ。みんなが、ブレッシェンの子なんだもの。一人一人が、この世界で、たった一人しかいない大事な宝物なのよ。だからもう、泣かないで。可愛い笑顔を見せて。たくさん笑って」

 そうして、ショーンとライトを抱きしめた。

「でも、セリカさま、ブレッシェンはもう、なくなってしまったんでしょう?」

 ライトが顔を上げて訊いた。セリカは、頷いた。

「そうね。でも、あなた達がこうして生きているからいいの。みんながいれば、ブレッシェンは、みんなの中で生き続けるわ。みんなのお父様、お母様は、それぞれ色んな事情で、みんなと離れてしまったけれど、どうか覚えておいて。ここに、みんなを大事に思っているわたし達がいることを」

 カイザは、知らない内に、身体を乗り出していた。

 セリカの側にいた女の子が、セリカのスカートの裾を引っ張った。

「セリカさま、あそこに、知らないお兄さんがいるわ」

「え」

 そう言って、セリカは顔を上げて、カイザの方を見た。

 セリカと目が合った。

 セリカは、信じられないものを見たといった風に、立ち上がり、口を覆った。

「・・カイザ?カイザなの?」

 その瞬間、カイザは、大きく一歩を踏み出していた。身体と心が、勝手に動いていた。

 手を伸ばし、セリカの腕に指を触れ、そのまま自分の胸の中に抱き寄せた。

 周囲にいた子ども達が、わあっと歓声を上げた。


 セリカに案内されて、キースとルークも、孤児院の建物の中に入った。

 応接間らしい部屋に通された。セリカが持ってきたハーブティーを飲んだ後、カイザは、口を開いた。

 バラの茂みの中から、セリカと子ども達の姿を見た時、カイザの心は決まった。

 ずっと迷っていた。どうしたら良いのか分からなかった。何かを決意する為には、もっと、劇的な何かが必要なのだと思っていた。

 今、カイザの胸の中は、静かだった。心は澄み渡り、すっきりとしていた。

 あの時、彼らの姿を見て、彼らの話す声を聞きながら、カイザは、ただ強く思ったのだ。

 愛する人を守りたい、無垢な子ども達を守りたい、と。

 他国からの支配、無益な戦、愚かな政策から、無辜の民を守らなければいけない。親や大人からの理不尽な虐待から、子ども達を守らなければいけない。それが、為政者としての使命なのだと悟った。

「・・自分に、もし、その力があるのなら」

 カイザは、そう言って、キースとルーク、セリカを、順番に見た。

「民を守りたい。・・でも、自分のふがいなさも、無力さも、嫌と言うほど分かっている。こんなわたしが、本当に、皇帝になど、なれるだろうか」

「なれるよ」

 と、力強くキースが言った。

「あのさあ、皇帝が一人で国を作っている訳じゃない。それは、お前さんが経験して、分かったことだろう?カストニア帝国を作るのは、カストニア帝国の民だ。お前さんは、玉座に座って、書類に署名すればいいだけなんだ。でも、誰にだって署名出来る訳じゃない。とんでもない奴にペンを渡せば、ここにいる子らも含めて、帝国内外の民や子ども達が、とんでもないことになる。俺の言っていること、分かるよな?」

 カイザは、黙って頷いた。

 キースは、優しく笑った。

「自分一人でやろうとしなくていいんだよ。お前さんは一人じゃない。お前さんを助けたいと思っている人間は、多くいる。アンセルムによる謀反が起きた時、誰かが命懸けでお前さんを城から出し、遠く離れたルイファまで連れて逃げたんだろう?」

 カイザは、頷く。

「ここに、お前さんを愛する人がいる。命を懸けて守ろうとするおっかさんと、弟がいる。これから有能な奴を、どんどん集めればいい。そいつらをガンガン動かして、上手く働かせばいいんだよ。・・例えば、俺みたいな、ね」

 そう言って、キースは、片目をつむって見せた。

 ルークを見ると、ルークも、優しく微笑して頷いた。

「セリカ」

 カイザは、セリカに言った。

「わたしは、再びヴェリア城に戻るつもりだ。どのくらいかかるかは分からない。皇帝に復位したら、そなたも再びルーヘンに戻り、わたしの妃となって欲しい」

 セリカは、左手の薬指に嵌めた指輪に、そっと右手を触れた。

 カイザに、にこりと微笑む。

「これをいただいた時から、心はずっと共にあります。わたし自身、自分が守るべき領民を多く失いました。でも、残された子ども達は、いつも前を向いて生きています。わたしは、子ども達の姿を見て、確信しました。人が生まれて何かをすることは、この世界にとって、絶対に、大きな意味があると。・・カイザ、どうぞ、あなたが望むように生きて下さい」

 そう言って、跪き、カイザの手の甲にそっと口づけた。

 キースもルークも立ち上がり、カイザの前に、静かに跪いた。



     エピローグ



 キサリ山の上に、高くそびえたつ、焦茶色のヴェリア城が見える。

 甲冑を身に着けたカイザは、馬上から、天守の塔の上にひるがえる軍旗を眺めた。叔父のアンセルム皇帝は、城にいる。

 これから、ヴェリア城を攻撃する。

 カイザの右隣りには、ラリサとルークがいた。

「ラリサ」

 カイザは、ラリサに話しかけた。ラリサが馬を近づけた。

「ずっと、そなたに、ちゃんと言えずにいた。わたしを何度も救ってくれたこと、こうして今も側にいてくれることを、心から感謝している」

「カイザ様・・」

 ラリサの淡褐色の目に涙が光った。ラリサはそれを腕で拭った。

 カイザの左隣りで、馬に乗っていたキースが、顔を傾けて言った。

「良かったな、ラリサ。・・それでさ、俺も、前々から言おうと思っていたんだけど、親子関係も良好になったところで、そろそろ、また恋愛してみようって気にはならないか?・・まあ、俺と、てことだけど」

 キースの言葉に、ラリサは、絶句したように目を丸くした。

「・・そんなこと、考えたこともなかったよ。カイザ様が皇位に就いて、セリカとの間に子どもでも出来たら、考えてみても良いが・・」

 キースは、笑った。

「人生は、そんなに長くないよ。いいよな?ルーク」

 笑顔で問われて、ルークは、戸惑ったように言った。

「・・母上が、そう望むのでしたら」

 カイザは、ヴェリア城を見つめながら、三人のやり取りを聞いていた。

 強い風が吹き、塔の上の軍旗もたなびいた。

 カイザの周囲には、ルイファ軍や帝国内外の諸侯や都市の軍が並んでいた。いずれも、ラリサとキース、そしてカイザが、アンセルム現皇帝に反旗を翻すにあたり、軍事協力を要請し、得た兵力だった。

 この場に立つまでに、ブレッシェンでセリカに会ってから、七か月かかった。

 ヴェリア城を脱出してから、一年半が経っていた。

 目の前にあるのは、かつて牢獄だと思っていた場所だ。もう二度と戻りたくないと思った場所だった。

 今度は、きっと、自分の城としてみせる。

「キース」

 カイザは、キースに言った。

 キースが、カイザを見た。

「わたしが再び皇位に就くまで、絶対に死ぬなよ」

 ヴェリア城を睨みながら、続けた。

「一度、皇位を引きずり下ろされた男が、これからどうやって生きていくのかを、その目で見届けろ」

 キースは、すっと真剣な表情になった。そして、短く言った。

「御意」


                おわり


〈参考文献〉

『図説騎士の世界』(池上俊一著) 河出書房新社

『甦る中世ヨーロッパ』(安部謹也著) 日本エディタースクール出版部

『武装の騎士』(ジョン・D・クレア著) 同朋舎出版

『図説中世ヨーロッパの暮らし』(河原温・堀越宏一著) 河出書房新社

『輪切り図鑑ヨーロッパの城』(スティーヴン・ビースティー画、リチャード・ブラット文、桐敷真次郎訳) 岩波書店




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