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ぼくの帝国  作者: roka-ha
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第三章

     第三章



     1



 幼い頃から、美しく、利発な子よ、と両親からも周囲の人間からも、可愛がられた。

 ラリサの生家のドーサ家は、カストニア帝国の南東部に位置するイエリン地方の商家だった。

 国境に程近い中都市だったので、外国からも商人が行き来し、馬具や農具、銀細工や羊毛までもを、幅広く取り扱う店は、いつも繁盛し、多くの客と従業員とで賑わっていた。

 物心ついた頃から、欲しいと訴える物は全てあてがわれ、やってみたいと訴えることは、母親の苦笑と共に、何でもやらせてもらえた。女子には、文字の読み書きなど、不要であると言われていた時代に、男の子達と共に文字を習い、詩を諳んじた。馬にも乗り、剣も手にとった。

 年頃になると、そろそろ良い縁談を、と両親が相談しているのを横目に、多くの崇拝者を従えて、昼は馬に乗って狩りに、夜は華やかなドレスに身を包み、宴に繰り出していた。

 望んだ物は、何でも手に入ると思っていた。勿論、今更、王侯貴族の娘として生まれたかったなどという、子どもじみたことは言わない。学問をして、父の商売を見て、両親の様子を見て、男尊女卑を元に成り立っているこの社会の仕組みについては、大方、理解しているつもりだった。

 十五歳のラリサが手にしているのは、父の財力、美貌、若さ、そして、女としての可能性だった。

 日頃、仲の悪い両親が、馬鹿みたいに額を突き合わせて相談している結婚相手などには、ラリサは一切、興味がなかった。どうせ、働かずに遊んでばかりいる、どこか田舎の豪商のどら息子か、金に困っている貴族の次男坊、といった類に決まっている。

 ラリサが求めていたのは、結婚相手ではない。心も身体も熱くなって、溶けてしまうような恋をしてみたかった。

 結婚など、どうでもいい。男に支配され、心身を踏みにじられる生活は、ラリサにとっては、既に墓場にいるのと同じだった。

 日夜、崇拝者にかしずかれながら、ラリサは懸命に探していた。己の命を賭しても構わないと思える恋の相手を。

 そして、その時は、訪れた。

 ちょうどその頃、カストニア帝国と、ラリサの住むイエリン地方と国境を接するラグーナ王国との戦いがあった。

 ダイン皇帝自らが親征するということで、イエリン地方の商人達にも、戦いに協力するよう触れが回り、ラリサの父ハンスも、資金、物資、住居を提供することとなった。

 ラリサの屋敷に宿泊することになった部隊は、ダイン皇帝の親衛隊の一人である、帝都ルーヘン出身の青年貴族が率いていた。

 彼の名は、ルイス・エコアと言った。

 黒髪黒眼のその容貌は、目鼻立ちのくっきりとした男らしい顔立ちで、威厳と自信に満ちていた。

 乗っている馬といい。身につけている銀色に光る甲冑といい、彼に仕える騎士達の物腰といい、明らかに、この青年が、両親が言うところの高貴な出自で、ダイン皇帝の信頼を得ていることが伺われた。

 ルイスの部隊が到着する日、父の命令により、ラリサはその身を飾り立てて、ルイス一行を迎えた。

 吝嗇な父が、私財を投げ打ち、ダイン皇帝に協力しようとするには、理由がある筈だった。

 多くの犠牲者が出る戦争ですら、父にとっては、己の財を増やす絶好の機会なのだ。そして、この時、父が投資として差し出そうとしていたのは、娘のラリサだった。

 都から来た貴族の目に止まり、あわよくば、愛人にしてもらおうとの魂胆が、あまりに見え見えで、ラリサは、半ば、げんなりしながら、半ば、恋の相手を求める期待の気持ちを胸の内に秘めながら、その時を迎えた。


 一行が到着したその夜、父が開いた歓迎の宴で、ラリサは、父にいざなわれ、ルイスの前に跪いた。

「ルイス様、ここにありますは、わたくしめの娘のラリサでございます。田舎者ですが、ご滞在の間、ルイス様のお世話をさせていただけましたら、わたくし共にとって、大変、光栄なことでございます」

 舞い上がって口上を述べる父を横目に、ラリサは頭を垂れながら、目の前の青年の左手の薬指に光る大きな指輪を見ていた。

(・・そう、妻帯者なのね)

 ルイスの声が頭上でした。よく通る、低い声だった。

「ハンス・ドーサ、この度の戦に対する貴公の多大なる協力に、心から感謝する。そちが率先して協力を申し出てくれたおかげで、他の商人達も、こぞって手を上げてくれたと、陛下も大層、お喜びであった」

「へ、陛下が・・。も、勿体のうございますっ」

 ルイスの言葉に、横にいた父が、感極まった声を上げて、ひれ伏した。

「娘御、ラリサと申したな。面を上げよ」

 ラリサは、ゆっくりと顔を上げた。ルイスが身につけている、品の良い衣装が目の中に映し出される。

 そして、目の前に立つルイスを見上げた。

(まあ、この方は・・、なんて目をしているのかしら)

 ラリサは、心の内で驚嘆した。

 ルイスは、じっと、ラリサを見下ろしていた。太い眉の下のその黒い瞳は、好奇心と慈愛と厳しさとを併せ持った、生命力に満ちた、強い光を放っていた。

(なんて、強い目・・)

 今まで出会った男の中で、このような強い目を持つ者はいなかった。ラリサは、内心の驚きと、湧き上がる恐怖とを隠そうと、唇をきつく結びながら、真っ直ぐにルイスを見つめ返した。

 ルイスの目が、驚いたように、わずかに見開かれた。その中に、楽しげな色が見えた。

「ラリサ、か。歳はいくつだ?」

「じゅ、十五歳でござりまする!」

 父の声が、裏返っている。

「そうか。・・美しいな」

 ルイスは、ラリサの手を取った。ラリサの目を見つめたまま、その甲に口づけた。

 瞬間、ラリサの胸に、鋭い何かが打ち込まれたような衝撃が走った。ラリサは、それに耐え、懸命に目の前のルイスを見つめ続けた。

 目をそらすことが出来なかった。

 唇を、ラリサの手の甲からゆっくりと離し、ルイスは破顔した。

「美しくて、強い。佳き娘だ」


 初めて出会ったあの日のことを、ラリサは、後になって、何度も考える。

 生娘だった訳ではない。男性が寝所で、どのように振る舞うのか、既に知っていたし、恋の駆け引きも心得ていた。

 だが、ルイスと出会って、これまで自分が、これが恋愛だと思っていたことが、ただの真似事に過ぎなかったことが、よく分かった。

 ルイスの一挙一足が気になった。馬に乗って颯爽と早駆けする姿、剣を腰に佩き、部下に語りかける姿。ルイスが、その強い眼差しで見つめる者、笑いかける者、全てに狂おしいほど嫉妬した。どんなに遠くにいても、ルイスの姿は、一瞬で見つけられた。ルイスの声を、ラリサの耳は、常に懸命に捕らえようとした。

 ラリサの心は、ルイスに完全に奪われてしまった。

 どうしてなのか、自分でも分からない。ルイスを思うだけで、胸が締めつけられて、苦しくなった。それは、これまで経験したことのない、甘美な苦しみだった。苦しいのに、思うことをやめられない。ずっとこの痛みを、感じ続けていたかった。

 ルイスが、ダイン皇帝の命令で、ラグーナ王国に部隊を率いて出征した際には、ラリサは、寝食を忘れて、その無事と勝利を祈った。

 あまりに根をつめるので、両親が心配し、休んで、何か口にするよう説得したが、ラリサは聞き入れようとしなかった。

 ルイスの部隊が勝利し、無事にイエリンの地に戻ってきたと聞いた時、ラリサは、礼拝所の祭壇の前で気を失った。


 目が覚めた時、ラリサは寝台の上に、横になっていた。

 すぐ側の椅子に腰かけ、自分を見ていたのは、ルイスだった。。

「目覚めたか?」

 あまりの驚きに声が出ない。

「父君と母君から聞いた。我々の勝利と無事を願って、ずっと祈っていてくれたと。おかげで、カストニア帝国軍は、勝利したよ」

 ルイスは、優しく笑んだ。

「そなたのおかげだな」

 ずっと欲していたその視線と声が、自分にだけ向けられていることを感じながら、ラリサは、震える声で答えた。

「ルイス様、この度のラグーナ王国での戦闘の勝利、心より、お喜び申し上げます」

 知らず涙がこぼれた。自分でも驚くほどの涙が、次から次へと、目尻から頬を伝い、髪と枕を濡らした。

「・・ご無事であって欲しい、今ひとたびお会いしたいと、そればかりを願っておりました。女の浅ましい願いです。ルイス様の勝利は、ルイス様のご武勇と神のご加護があってのこと、わたくしのおかげなどではございません・・」

 声が震えた。ラリサは、両手で顔を覆った。

 たった十日ほどの間で、こんな風に、ただ一人の男性だけを思い、胸を焦がすことになろうとは、自分でも想像もしていなかった。

 夢にまで見ていた恋の筈だった。けれど、その恋する自分は、なんて弱く、情けないほどにちっぽけな存在になってしまうことか。そして、それを知ってもなお、今、この場にあって、自分のすぐ側に、恋する人がいることに、ラリサの胸は、喜びと幸せで、張り裂けそうだった。

 しばらくの沈黙の後、ルイスが言った。

「・・そうか」

 顔を覆ったままのラリサの両手が、大きな温かい手で、そっと外された。

「そなたのおかげで、こうしてまた会えたな」

 涙で滲む視界に、ルイスの笑顔が見えた。少しずつ笑顔を近づけて、ルイスはラリサに口づけた。

 その熱く、とろけるような口づけに、ラリサは、腕を伸ばし、夢中でルイスにしがみついた。

 確認するように自分を見つめるルイスに返事をする代わりに、ラリサは、今度は、自分から、ルイスに唇を寄せていった。


 ラグーナ王国での戦いに勝利して、休戦協定が結ばれ、ルイスの部隊が都ルーヘンに帰還したのは、それから二か月後のことだった。

 その間、ルイスとラリサは、幾度となく身体を合わせ、共に夜を過ごした。

 ルイスから都への帰還の旨を告げられた時、ラリサは、夢のようだった日々が、ついに終わるのだと覚悟した。

 ラリサとルイスの関係を知った父ハンスはやきもきしていたが、ルイスから、ラリサを都に同行したいとの申し出はなかったし、ラリサも、自分からは何も言わなかった。

 二人で激しく抱き合っている時にも、ルイスの左手の薬指には、結婚指輪があった。田舎の商人の娘が、ルーヘンについて行って、都の貴族出身の彼の妻に対して、我こそがルイスの愛人だと闘志を燃やすほどの無鉄砲さもないし、無知でもなかった。

 ラリサだけが、知っていた。

 ルイスと夜を共に過ごすようになって以来、月の物が止まっていた。

 自分の身体のことはよく知っている。月の物が訪れる周期は、これまで乱れがなかったので、ラリサは確信した。

(わたしは、ルイス様とのお子を宿した)

 それだけで充分だった。これ以上、何を望むと言うのだろう。

 別れの朝、ルイスは、見送りに出た両親に礼を言った後、ラリサの手を取った。

「ラリサ、そなたと過ごした時間は、わたしにとって、夢のような時間だった」

「ルイス様、わたくしにとっても、それは同じでございます」

 ルイスは、優しい笑顔で頷いた。そして、気がついたように、首にかけていた銀のチェーンを外し、ラリサに差し出した。

 チェーンには、指輪が付いていた。その指輪には、小ぶりだが、美しい赤いルビーが嵌められていた。

「これを・・。わたしの母から譲り受けたものだ」

「ありがとうございます」

 ラリサはそれを両手で押し戴いた。

 いずれ、これは、生まれてくる子に、父親の形見として、手渡そうと思った。



 ラリサの妊娠の兆候に最初に気づいたのは、母だった。

 食事時に、ラリサが度々吐き気をもよおし、席を外すのを不審に思ったようだ。母から問われ、ラリサは、頷いた。

 母から報告を受けた父ハンスは、喜び勇んでラリサの部屋にやって来た。

「でかしたぞ!ラリサ!ルイス様とのお子を宿したのだな!なんてことだ!これは早く都に手紙を遣って、ルイス様にお知らせせねばな。おーい、誰かいるか?紙とペンを持って来い!」

 遂にこの日が来た、とラリサは深く息を吸ってから、父を真っ直ぐ見つめた。

「お父様、どうか、落ち着いて。お静かになさいませ」

「これが落ち着いてなどいられようか。ルイス様のことは、わしらもどうしたものかと案じておったのだ。この屋敷の誰もが、そなたとルイス様とのことは知っておる。ところが、ルイス様は、わしにはおくびにもそれを出さない。わしがそれとなく話を向けても、そなたを都に連れて行くとはおっしゃってくれなんだ。・・このままでは、そなたは、単なる一時の慰み者としての烙印を押されてしまう。これからどこかに嫁にやることも出来なくなってしまう。それでは困るのだ。今まで数ある求婚者を断ってきたわしの面目もたたない。しかし、これで既成事実が出来たぞ。早速、ルイス様に手紙を遣ろう。生まれてくる子とそなたを都に迎え入れてもらおう。・・ああ、誰か、早く、ペンとインクの用意をせよっ」

「お静かになさいませ、お父様!」

 ラリサの強い声に、ハンスが驚いた顔をした。

「ルイス様への連絡は不要です。わたくしに恥をかかせるおつもりですか?」

「なに!何故、恥とな?」

 ラリサは、軽く息を吸って、ハンスに向き直った。ルイスとの子を身籠ったと知った時から、決めていたことだった。

「このお腹の中にいる子が、ルイス様とのお子かどうか、わたくしには分かりません」

「なんだと!それは、どういうことだ?それでは、いったい、誰の子だと言うのだ?」

「それは、申し上げられません」

 きっぱりと言い放つラリサを、ハンスは驚愕の表情で見つめた。開いた口が、ぷるぷると震えている。

「・・何を言っているのだ、そなたは。そんなことは、そなたの侍女に確認すれば済むことだ。そなたとルイス様とのことは、皆が知っておる。そなたが身籠っているのなら、その腹の中の子は、ルイス様とのお子に決まっているであろう?」

「その証拠は?」

「なに、証拠とな?」

 挑みかかるように父親に問うてくる娘の顔を、ハンスは、まじまじと見つめた。

「はい。このお腹の中の子が、確かにルイス様とのお子に間違いないと、どうやって証明なさるおつもりですか?少なくとも母親のわたくしが、分からないと申しているのです。このようなあやふやな状態で、ルイス様にご連絡を差し上げますか?仮に父親が違っていたらどうなさいます?それがルイス様に知られたらどうなさいます?虚偽を申し出た咎で、わたくしもお父様も、生まれてくる子も、罰せられるかもしれません。・・ですから、ルイス様へのご連絡は無用です。誰が父親かは分からない子ですが、わたくしの子どもであることは確かです。わたくしが、この子を一人で育てます」

 ラリサの迫力に気圧されたように、ハンスは、後ずさりして、壁に寄りかかった。

「・・何故だ、ラリサ?・・何故、そのような・・」

 ハンスは驚きのあまり、目に薄っすら涙を浮かべながら言ったが、後に続く言葉が見つからないようで、唇を結んで、黙り込んでしまった。

「・・申し訳ありません、お父様」

 ラリサは、ハンスに小さく頭を垂れた。


 父が部屋から出て行った後、ラリサは、息を深くついて、寝台にゆっくりと腰をおろした。

 後になって手が震えてきた。拳をぎゅっと握ってそれを止めた。

 ルイスとの子を身籠ったと知ってからラリサが考えたのは、どうやって、これから生まれてくる子を守るかということだった。

 ルイスが、ラリサを愛人として遇するつもりがないことは、何となく感じていた。

 ルイスは、都での生活や、自宅に残しているだろう妻のこと、ラグーナ王国での戦いが終わった後のことについて、一切、ラリサに語らなかった。

 ラリサも、ルイスの愛人になって、共に都で暮らしたかった訳ではない。

 ただ、目の前にいるだけで、胸が締めつけられる愛おしい男を、その気持のまま、愛したかっただけなのだ。

 ルイスも同じ気持ちだったのではないかと、ラリサは思っている。互いが、先のことなど一切考えずに、ただ相手を欲して愛し合ったからこそ、それは夢のような時間だったのだ。夢と現実は、相容れないものなのだ。

 夢の中を束の間生きていたラリサを、現実に引き戻したのは、この腹の中にいる子だった。

 いずれルイスとの別れはくる。夢には必ず終わりがやってくる。けれど、自分のこの腹の中に、確かに生命が宿ったのなら、その生命は、夢の中に生きるのではない。これから、この現実の世界の上に降り立っていくのだ。

 ラリサはそれを想像した時、震えおののいた。

(守らなくてはいけない)

 咄嗟に思った。

 生まれてくるこの生命を、何としても、守らなければいけない。

 何故なら、この生命は、ラリサがあれほど待ち望んだ恋の証だからだ。

 己の命を賭しても構わないと思える恋の相手に出会い、確かに愛し合った証だからだ。

 彼の子を宿したと聞いたら、ルイスは、ラリサと生まれてくる子を都に呼び寄せようとするかもしれない。あるいは、子どもだけを引き取ると言うかもしれない。

 けれど、身分の低い商人の娘から生まれた子どもが、都で平穏に暮らしていけるとは思えなかった。

(それなら、この子は、ここにいた方がいい)

 決して手放してはいけない。自分の手元で、大切に育てるのだ。

 その為に、滞在中、ルイスには妊娠の可能性は語らなかった。そして、父には、この子の父親は、誰なのか分からない、と嘘をついた。そう伝えれば、父はルイスに連絡を取ることはないだろうと考えた。

 尻軽で、恥知らずな娘よ、と噂され、罵られても構わない。

 ラリサは、自分の子を守ると決めたのだ。


 季節が巡り、ラリサの腹は、日に日に大きくなっていった。

 その尋常でない腹の大きさと重さに、まだ産み月には日があるのに、息をするのも、姿勢を変えるのも苦しくて、身動きすら出来ない。医師の見立てで、腹の中の子は、双子であることが分かった。

「なんと、双子とな!」

 それを知って、父は泣き笑いのような表情を浮かべた。ラリサと生まれてくる子を都に送って、ルイスの愛人の座に据える、という野望は、どうやら諦めてくれたらしい。

 もともとラリサには甘い父親であったから、娘の身体の方が心配になったようだ。各地から、色々と精がつく食べ物を取り寄せ、用意してくれた。母も、ラリサの身の周りの世話をしてくれた。

 産み月に入ったある日、都にいるルイスからラリサのもとに、手紙が届けられた。

 どうやら、父は、ラリサに内緒で、ルイスに手紙を書いていたらしい。

 子どもの父親が誰か分からないと、ラリサが父に言ったことを、父がルイスにどういう風に伝えたのかは知らない。手紙には、そのことには触れられず、ラリサの妊娠を祝い、体調を気遣う言葉のみが添えられていた。

「やはり、ルイス様は、そなたと生まれてくる子を粗略に扱うつもりはないのだ!」

 と、父は感激していたが、ラリサは、この手紙だけで充分だと思った。

 返事は書かなかった。今は、腹の中にいる子どもを、無事にこの世に出すことが、何よりも大事なことだと思った。

 八月の暑い日、ラリサは産気づき、一晩中、繰り返し襲ってくる陣痛の波にうめき声を上げ、翌日の朝、ようやく双子を出産した。二人共、男の子だった。

 へその緒を切られ、血まみれの身体を湯で清められ、白い産着にくるまれた二人の赤子を、ラリサは横になったまま、胸に抱いた。

「二人共、とてもきれいな赤ん坊だね。そなたによく似ているよ」

 介助してくれた母は、笑っていた。

 ラリサは、朝日が差し込んでくる窓を見上げた。

 ルイスとの子を妊娠したのだと気づいてから、長い月日が経った。二人の赤子の産声を聞いた時、常に緊張していた日々が、ようやく終わったのだと実感した。

 ラリサは、改めて自分の胸の上にいる小さな赤子の頭を見た。二人共、小さな頭には薄っすらと毛が生えている。黒髪だ。ルイスの髪の色だ。

 顔はよく見えない。だが、小さな手と指が見えた。しわのついた白い指が、この赤子達が、数時間前まで、確かに自分の子宮の中にいたことをうかがわせた。その指がしきりに動いて、自分の胸に触れていた。

 赤子の口から、かすかな声のような音が漏れた。

 ラリサは、これまでに体験したことのない幸福感と共に、二つの生命の重みを確かに感じながら、目をぎゅっと閉じた。瞼が熱くなり、涙が滲んだ。

「双子だから、見分けるのが大変だ。何か目印があるといいね」

 母が、ラリサの胸から、赤子を一人抱き上げた。産着をまくって、腕や足をしげしげと見る。

「ああ、あったね。ほら、ラリサ、見てごらん。この子は後から生まれてきた方だったかね。この子の左腕の上の方。ほら、ここに青い痣があよ。どれ、先に生れた子を見せてごらん。うん、こっちの子にはないね」

 母の腕の中にいる赤子の左の二の腕に、確かに、丸い青い痣のようなものが、ちらりと見えた。

 どうしてなのか、分からない。だが、その腕の痣を見た時、ラリサの心の内に、かすかな不安のようなものが生まれた。

(なんだろう、これは・・)

 ラリサは、母から痣があると言われた赤子を受け取り、そっと胸に抱きしめた。産着に隠れてしまった腕を見ようとするが、痣はもう見えない。

 後で、ゆっくりと確認しよう、と思った。


 これ以上ない幸福感と達成感を味わったのは、束の間だった。

 ラリサには、育児という初めての仕事が待っていた。

 双子は、昼夜を問わず、同時に泣いて、乳を欲しがった。赤子の、乳首に吸い付く力は、想像以上に強かった。ラリサは、乳の出が良くなかったので、左右の乳首は、すぐに赤く腫れて、授乳の度に、ひどい痛みを伴った。

 見かねた母が、近所に子どもを産んだばかりの乳母を見つけてきてくれた。もう何人も子どもを産んでいる年配の女性で、初めは、他人に自分の子どもを預けることに抵抗感を覚えていたラリサも、女性の人の良さそうな顔を見て、両腕に抱えていた赤子の一人を、手渡せるようになった。

 兄は、ルーク、弟は、アンリ、と名付けられた。

 父と母も、初孫の誕生を喜んだ。

 双子が同時に泣くので、そんな時は、交代であやしてくれた。これまで家事など一切せず、屋敷の中で威張り散らしていた父も、腕まくりをして、赤子の沐浴の手伝いを買って出てくれた。

「おうおう、本当に、孫とは可愛いものじゃのう。実際にこうして手に抱くまでは、分からなかったぞ。ようし、ラリサ、そなたがこのまま我を張って、ルイス様の元に行かないのなら、このルークとアンリのどちらかに、わしの店を継がせるからな。さて、どちらが良いかのう?」

 仰向けになって手足をばたつかせる兄弟を眺めながら、父は真剣に腕組みをして、言った。

 母が笑う。

「お前様、なんて気がお早い。二人共、まだ寝返りさえしていないのに、もうそのようなお話をなさるとは」

「いや、しかし、子どもはあっという間に育つと言うからな。早め早めに考えておかないとな」

 父と母は笑った。ラリサも乳母も、顔を見合わせて笑った。

 双子が生まれて大きく変わったこと、それは、このドーサ家を包む空気だった。

 私腹を肥やすことしか考えておらず、外に愛人を作っては、母と喧嘩ばかりしていた父、そんな父にとうの昔に愛想をつかし、無表情で、黙々と家事を取り仕切っていた母、その様子を遠巻きに見てきたこの屋敷に仕える者達。

 ラリサにとって、常に居心地の悪かったこの家が、赤子の泣き声が響き渡るようになってからというもの、明るい笑顔に満ちた家になっていた。

 父も母も、父親の分からない子を身籠った、というラリサの主張に、当初は戸惑い、怒り、ひどく落胆していた。

 特に、母は強く父に非難されたらしい。落ち窪んだ目に涙を乗せ、ラリサの手を取り、

「ルイス様でないのなら、誰がこのお腹の子の父親なんだい?どうか、この母には話しておくれ」

 と、涙ながらに説得された。

「お許し下さい。それは、申し上げられません、お母様。どうか、ご理解下さい。わたくしは、このお腹の中の子を産みたいのです。この子は、わたくしの子です。生まれてくるこの子を、このドーサ家の子として、育てていきたいのです」

 ラリサの決意が固いことを知った母は、それからもう、何も訊こうとせず、黙って出産の準備を手伝ってくれた。

 父もまた、母がとりなしてくれたらしい。最初の内は、「勘当だ!」と息巻いていたが、最後には、しょっちゅう産室を覗き、あれこれと指示を与えていた。

 そして今、双子を中心に、家族が集まり、笑顔で一緒に穏やかな時を過ごしている。それは、ラリサにとっても、予想外のことだった。

 ラリサは、何よりも、両親に感謝した。自分一人の手で、生まれてくる子どもを育てていく、と啖呵をきった。だが、結局、こうして両親がラリサを養ってくれているからこそ、ラリサは、安心して双子達に乳をあげ、世話をすることが出来ているのだ。

 母乳がたくさん出るようにと、栄養豊富な食べ物を見つけ、快適な部屋、産着を用意し、乳母、召使を雇って身の回りの世話をしてくれる。

 自分一人の力では、到底、出来ないことだった。


 真夜中の授乳を終え、ラリサは、ルークの隣りに、アンリをそっと横たえた。アンリは、乳を含みながら、いつの間にか、眠ってしまっていた。

 二人共、よく眠っている。ラリサは、寝台の上に横になり、頬杖をついて、二人の寝顔を眺めた。

 満月の明かりが、窓から差し込んで、目を閉じた二人の顔をよく照らしていた。

 双子だが、一卵性双生児ではないようだ。他の者は、よく似ていて分からないと言うが、ラリサには、はっきりと区別がつく。

(わたしなら、ひと目で分かる。目印なんて、要らなかったわね)

 そう考えてから、ラリサは、思い出したように、アンリの寝巻の左腕を、そっとめくった。

 白い月明かりの下、さらに白くて細い腕が露わになる。

 確かに、ある。薄っすらと、青い痣が。

 ラリサは、手を伸ばして、青い痣に触れた。

 母から、アンリの左の二の腕に青い痣があると聞いた時から、ずっと、心の内で、何かが引っかかっていた。

 乳母が言っていた。出産したばかりの母親は、少なからず、不安に似た感情を抱くのだそうだ。

 目の前にいるこの子が、本当に自分の子でいいのか。

 この美しい赤子が、確かに、自分の子どもなのか。間違いないか。

 確かに、眠っている時のルークとアンリの顔は、まるで徳の高い聖人のような、大人びた表情に見えた。

(可愛い、わたしの子ども達)

 痣を撫でながら、ラリサは思った。

 痣があると母から知り、実際にそれを目にした時に、ラリサが感じたのは、落胆だった。

 赤子はその存在自体、美しく完璧なものに思えた。その完璧な、白くて、綺麗な身体に、痣があった。

 ラリサは、その時、その痣を嫌だと感じた。なければ良かったと。

 今なら、別にそのくらい、と一笑に付せる。服を着れば見える場所ではないし、男の子だから、いずれは外遊びをして、白い腕も日に焼けて褐色になり、痣があること自体、気にならなくなるだろう。大体、本人の目につく場所にある訳でもない。

 それでも、その痣が気になってしまうのは、ラリサが、無意識の内に、自分の子どもは、完璧であって欲しいと望んでいたからだ。

「母親は、みんな同じようなものですよ。子どもの鼻がもう少し高かったら、もう少し色が白かったら、これがなかったら、あれがあったらってね。あれもこれも望んでしまう。完璧な子どもなんて、どこにもいる訳ないのにねえ」

 乳母の言葉を思い出して、ラリサは、一人、頷いていた。

 そうだ。完璧な子どもなど、いないのだ。この子は、この子なのだ。この痣を持った、そのままの姿で、この子なのだ。

 優しく腕に寝巻を戻し、夜具をかけてやった。

 二人の顔に、顔を近づけて、息をしているか確認をする。

 特に夜間、二人が眠っている時は、あまりに静かすぎて不安になる時がある。

 息をしているか。自分が微睡んでいる間に、乳を吐いて窒息していたりしないか。

 気になって、何度も起き上がる。

 ルークとアンリの鼻先に、自分の耳を近づける。かすかな鼻息を、ラリサの耳が捕らえる。

 大丈夫。生きている。ちゃんと息をしている。よく眠っている。

 安心して、再び横になった。


 生まれて三か月近くになると、双子は、ラリサの姿を目で追い、ラリサが笑いかけると、笑みを作るようになり、可愛らしさが一層、増していった。

 産後の身体の傷も癒え、授乳のリズムも整い、育児にもだいぶ慣れてきた。

 ルイスが再び、この屋敷を訪れたのは、突然のことだった。

 前もっての連絡もなく、先触れもなく、供の者を数人連れただけの軽装で、ルイスは現れた。

 父が急ぎ用意した部屋で、ラリサはルーク、母がアンリを抱いて、ルイスと対面した。

 約一年振りに会うルイスは、以前と変わらない威厳を漂わせていたが、何か心労でもあるのか、少しだけ疲労の影が見えた。それでも、ラリサを見ると、にこりと微笑んだ。

「ラリサ、相変わらず美しいな。母になって、一層、美しさが増した気がするよ。すぐにこうして来られなくて悪かった。色々と都で差し障りがあってな」

 ラリサは、跪いて礼をした。

「ルイス様、お久しゅうございます。こうしてまたお目にかかれる日が来ようとは、夢のようでございます」

 ルイスの懐かしい笑顔と声音に、激しく愛し合った日々の思い出が蘇ってきた。

 もう二度と会うことはないと思っていたから、こうして目の前にルイスがいることが、現実のこととは思えなかった。

「そなたの産んだ子ども達を見せておくれ」

「はい。こちらが、兄のルークでございます」

 ラリサは、ルイスの側に寄って、腕の中のルークを差し出した。二人共、ちょうど起きていて、大きな黒い目をぱっちりと開けていた。

 ルイスは、ルークを受け取って、しげしげとその顔を眺めた。

「こちらが、弟のアンリにございます」

 次に、母の手からアンリを受け取り、再び、ルイスは、目を細めて顔を寄せる。

「・・二人共、よく似ているな。わたしには区別がつかないよ。ラリサには、どちらがどちらかすぐに分かるのか?」

 ラリサは頷いた。

「はい。勿論でございます」

「さすが母親だ」

 ルイスが優しく笑う。その笑顔に、涙が出そうになる。ルークの大きな目が、不思議そうにラリサの顔を見ていた。


 その晩、父が開いた酒宴が終わってから、ラリサとルイスは、共に寝室に入った。

 最後に逢瀬を重ねてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。

 身体中に、ルイスの激しい愛撫を受けながら、ラリサは、この一年という時の流れを思っていた。一人で腹の中の子を守ると決めてから、長く、緊張した日々だった。

 今、隣りの小さな寝台には、双子が並んで、すやすやと眠っている。

 力強くて、温かなルイスの逞しい腕に抱かれながら、ラリサは、静かな涙を流した。

 ルイスが、それに気づいた。

「どうして、泣いている?」

 ラリサは、ルイスの胸に、自分の頬を押し付けたまま、言った。

「・・嬉しいのでございます。こうしてまた、あなた様にお会い出来たこと、側に子ども達がいること。女として、これ以上の喜びはございません」

 ラリサの髪を優しく撫でながら、ルイスが言った。

「そなたの父から、逐一、手紙は貰っていた。そなたが、身籠った子の父親が誰かは分からないと主張していること、故に、都に上って、わたしの元に来る意志はなく、このイエリンの地で、一人で子どもを育てるつもりであること」

 ラリサは、小さく頷いた。

 ルイスは、ラリサの顔をじっとを見た。

「そなたの意志を尊重しよう。そなたは、この地で、この子らを育てるがよい。・・ただ、これだけは、そなたの口から、直接、聞きたかった。わたしにまで嘘をつく必要はない。この子らの父親は、わたしだ。相違ないな?」

 ラリサは、ルイスを見つめ返し、黙って頷いた。

「そうか」

 ルイスは、ほっと息をつくように言った。

「わたしは、明日には、都に再び出立しなければならない。そなたと子ども達と過ごせるのも、今夜だけだ。今ひとたび、子ども達を抱かせてくれないか」

「はい」

 ラリサは、夜着をまとい、髪をまとめてから、隣りの寝台を覗いた。ちょうど、アンリの方が目を開けて、こちらを見つめていた。ラリサは、アンリを抱き上げて、ルイスに手渡した。

 燭台の灯りの中、ルイスが、じっとアンリを見つめる。

「赤子は、本当に可愛いものだな。自分の子どもでは尚更だ。・・この子は、兄の方か?」

 ルイスの問いに、ラリサは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「・・はい、そうでございます」

「そうか。そなたは見分けがつくと言うが、やはり二人共、似ていて、よく分からないな。何か区別出来るものがあるといいのだが」

「ございます」

 ラリサは、心の内で笑っていた。ルイスに会えて、きっと心が緩んでいたのだろう。咄嗟に、ルイスをからかってみようと思ったのだ。

「兄の方には、左の二の腕に青い痣がございます。弟にはございません。それが目印でございます」

「成程、そうか。・・ああ、これか。確かにあるな」

 確認するように、顔を傾けてアンリの腕を覗くルイスを見て、ラリサは声を上げて笑った。


 翌日の朝早く、ルイスは供と共に出立した。

 父ハンスには、ルイスより、二人の子どもを育てていくのに充分過ぎるほどの銀貨が手渡された。

 ラリサは、それを有難く受けることにした。

 それから一週間は、平穏に過ぎていった。

 絶え間なく、双子の泣き声と、周囲の笑い声が交錯する忙しい毎日が繰り返される。

 次第に、ラリサも屋敷の者も、ついこの間、ルイスがこの屋敷を訪れたことを忘れていった。

 ラリサは、夜眠る時には、常に、自分の部屋に、子ども達が眠る寝台を置き、一緒に眠っていた。その方が安心だからだ。

 その晩、そろそろ眠ろうと夜着に着替え、いつものように、双子が眠る寝台を覗いた。

 先程まで、二人で手足をばたつかせているのを見ていた。

「さあ、二人共、そろそろ母上を休ませてちょうだいね」

 そう言いながら、寝台を覗き、ラリサはその場で凍りついた。

 寝台の中には、赤子が一人しかいなかった。

 ルークが、小さな指を口に含みながら、、ラリサをじっと見ていた。

 どうして、この子しかいないのだろう。さっきまでアンリも一緒に、この寝台にいた筈なのに。黒い瞳で、自分を見ていたではないか。

 どこにいったのだろう。

 だが、アンリはまだ寝返りさえ出来ない。自分でどこかに行く筈がないのだ。

 それなら、どうして、アンリがいないのだろう。

 事態を把握するのに、束の間、時間がかかった。

 誰か。

 誰かが、アンリを、ここから連れ去ったのだ。

 ラリサは、悲鳴を上げた。

 喉の奥から、悲鳴が、後から後から流れ落ちるようだった。



     2



 カイザが与えてくれた馬を、セリカは、ずっと走らせた。

 馬が泡をふいて倒れた後は、自分の足で走り、途中、エスカという町で、オーデン湖を挟んだ隣国のライエス公国に向かうという旅商人の一団に拾ってもらい、カストニア帝国の出国を目指した。

 ヴェリア城を出てから、一週間が経っていた。追手が迫っている様子はなかった。何しろ、皇太子であるカイザ自らが、セリカを城から解放したのだ。それに異を唱える者はいないだろう。

「リセ、これをお食べよ。朝食が済んで荷物を船に積んだら、検問をくぐるってさ」

 セリカとそう歳の変わらないルカが、セリカにパンの入った包みを渡してくれた。

「ありがとう」

 セリカは、包みを押し戴いた後、それを開けて、黒くて丸いパンを食べた。ヴェリア城で食べていたような、上質な小麦のパンではなく、固くて、塩辛かったが、空腹の身としては、何よりのご馳走だった。

「はい、これも飲みな」

 竹筒に入った水も分けてもらう。ごくりと喉を鳴らして飲むと、隣りで見ていたルカが、おかしそうに笑った。

「お嬢さんも、あたし達、下々と一緒だね。水を飲むと、喉が鳴る」

「すごく喉が渇いていたから。でも、わたし、お嬢さんじゃないわよ。そもそも奴隷として、このカストニア帝国に連れて来られたんだし」

 ルカが吹き出した。

「そんな上品な言葉遣いの奴隷がいるもんか。あたしは、これまで、色んな国を旅してきたんだよ。お城にも上がったことがあるし、町も、村も、市場も、畑も、そこで暮らす人や働く人達をいっぱい見てきたんだ。リセ、あんたは、どう見たって、いい所で育ったお嬢さんだよ。・・まあ、そのお嬢さんが、どうして、供の者も連れず、たった一人で、街道を歩いてきたのかは知らないけどね。おまけに、うちの隊長に会うなり、一緒にカストニア帝国を出国させてくれなんて言うんだもの、本当、みんな、びっくりしてたよ。あんたって、大胆というか、世間知らずというか、まあ、変わったお嬢さんだよね」

 ルカは、膝を抱えたまま、くすくすと笑った。

 五日前の夕方、セリカは、エスカの町に到着し、店々が、既に片付けを始めていた市場の中を歩いていた。空腹と足の痛さと疲れとで、身体中がだるく、視界もぼやけてきていた。

 今夜の宿をどうしようかと考えていた時、ふと、耳慣れた言葉が聞こえてきた。

「隊長、売れ残ったこの敷物はどうします?船に乗せるには重いですよ」

 セリカが暮らしていた大陸北東部のアクセントに音が似ていた。ブレッシェンで話されているものではない。おそらく、隣国のウェスティア王国か、その周辺地域の言葉だ。

 セリカは、思わず、立ち止まり、隊長と呼ばれた男の顔を見た。

「そうだなあ。いい品だから惜しいが、帰る前に、もう少し安くして、こっちの銀細工か何かと替えるしかないな。そうしたら、向こうで高く売れるしな」

「・・あの、お話し中、すみません」

 気づいた時には、声をかけていた。

 男二人が、不思議そうな顔で、セリカを見た。

「もしや、皆様は、大陸北東部の方々でしょうか?近々、このカストニア帝国を出られるのでしょうか?それは、船でオーデン湖を渡るということですか?」

「確かに、俺らは、ウェスティア王国の出だよ。こっちに商売に来ていて、五日後、この荷物を船に積んで、カストニア帝国を出国する予定だが、それが何か?」

「お願いします!」

 セリカは、そう言って、その場にひれ伏した。

「どうか、わたしも、その船に一緒に乗せて下さい」

「はあ?お嬢さんをかい?だいたい、あんたは、一人なのかい?お供とかお付きとかは?」

「おりません。わたし一人でございます。わたし一人が乗ることで、荷物を減らさなくてはならないのでしたら、その分の働きをいたします」

 セリカの懸命な言葉を聞いて、二人の男は顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。

「働きって、お嬢さん。お嬢さんに何が出来るわけ?料理とか洗濯とか?やったことある?」

 隊長と呼ばれていた男が言った。

「だいたい、ここを出て、何処に行きたいんだい?」

「ブレッシェン伯領に行きたいのです」

 セリカの言葉に、笑っていた隊長の顔が、すっと真面目な顔つきになった。

「・・確かに、あんたも北東部のアクセントだな。お嬢さん、ブレッシェン伯領に親戚でもいたのかい?やめときな。住民の六割が、先のブレッシェンの戦いで殺されたって話だぜ。田畑も荒らされ、今は、どこもかしこも治安が悪いって聞いている。あんた一人で無事に辿り着けやしないさ」

 セリカは、ひれ伏したままで言った。

「わたしは、ブレッシェンで生まれ育ちました。訳あって、先の戦の後、このカストニア帝国に連れて来られました。故郷が消えてしまったことは、重々承知のことでございます。ですが、ひと目、この目で、故郷の様子を見たいのでございます。一緒に船に乗せていただくだけで結構でございます。検問を出て、対岸に辿り着きましたら、捨て置いて下さって結構です。・・勿論、隊長の寛大なお心で、ウェスティア王国まで一緒に連れて行って下されば、これ以上、ありがたいことはないのですが」

 そう言って、そっと顔を上げるセリカに、隊長は、破顔した。

「なかなか交渉上手なお嬢さんだ。ここに連れて来られたと言ったな。何か事情でもあるんだろうな。でも、まあ、それは聞かん。聞いても詮ないことだしな。だいたい、ここにいる俺達も、それなりに事情はある。でもまあ、いいよ。乗せていってやる。同じ北東部のアンクセントを喋る誼だ。対岸までと言わず、ウェスティア王国まで連れて行くよ」

「本当ですか?」

 セリカは驚いて声を上げた。

「ああ。だが、俺は商売人だ。ただでは乗せん。お嬢さんが言ったように、ウェスティア王国に着くまでに、ちゃんと働いてもらうよ」


 セリカは、リセと名乗り、ルカと共に、隊員達の食事の用意をし、衣服の洗濯や繕い物をした。

 繕い物のついでに、カチアおばさんから習った刺繍を施してみると、ルカは、目を見開いて感嘆の声を上げた。

「うわあ、すごい!細かくて綺麗だ!リセ、あんた、こんなすごい刺繍、どこで習ったんだい?」

「よく知っている人が、刺繍が上手で、教えてもらったの。わたしなんて、まだまだ。でも、そんなに喜んでもらえるなら、皆さん、一人一人の上着に、イニシャルでも縫ってみようか」

「えー、すごい!やって、やって!」

 ルカが、次から次へと、上着を持ってきた。

 エスカの町の、賑やかな市場に立ち並ぶ店の片隅で、生地を見つめながら、ひたすら針を動かしていると、不思議な気持ちになった。

(・・カチアおばさんは、無事かしら?)

 何度も思った。カチアおばさんを思うと、どうしても、カリエのことが思い出されてしまう。

 あの戦いの後、このカストニア帝国に連れて来られてから、もう四か月が経っていた。

 カリエとの結婚式の為に、カチアおばさんに縫ってもらったドレスは、どうなったのだろう。メアリが保管してくれていただろうか。きっと、もう、誰かの手に渡っているのだろう。

(カリエ、カチアおばさん、メアリ、みんな、どうか、無事でいて・・)

 胸の奥からこみ上げてくる大きな塊を、セリカは、針を動かしながら、何度も飲み込んだ。

 隊員達は、セリカが施すイニシャルの刺繍を、想像以上に喜んでくれた。

「こりゃあ、すげえ。国に残した俺の妻とお袋の分も頼む」

「十歳の娘の土産に、花か何か、縫ってやってくれないか」

 と、どこからか、新品のハンカチを持ってやって来た。

「ちょっと、ちょっと、みんな!リセは忙しいんだよ。注文なら、あたしを通してちょうだい!順番だよ!」

 何故か、ルカが張り切って、仕切っている。

 隊長のトールが、それを見て大笑いした。

 セリカの刺繍をしげしげと見て言う。

「料理の腕はないが、こいつは大したものだ。どれ、俺も、お袋の土産に頼むか」

「隊長、いくら隊長でも、ここは順番ですからね。只今の順番だと、カストニア帝国を出国してからの仕上がりになりますが、お客様、それでよろしいですか?」

 ルカが、店の主人のように勿体ぶって言うのが、おかしくて、セリカも、周りにいた男達も、一斉に笑った。


 いよいよ、カストニア帝国を出国する時がやって来た。

 全ての荷物を船に積み終え、預かっていたハンカチとシャツ、糸や針も籠に入れ、セリカは、ルカと共に、船に乗った。

 あれから追手は来ていない。誰もセリカを探していない。だが、念の為、ルカが着ていた服を借り、薄汚れた緑色のスカーフを頭から被った。

 トール隊の一団がウェスティア王国に持ち帰る荷物は、主に、銀細工だった。ウェスティア王国で織った毛織物をカストニア帝国で売り、得た金で、銀細工や、細々とした装飾品を購入し、それをウェスティア王国に持って帰って、価格を割り増して売るのだそうだ。

「いよいよ出発だね。あんた、船酔いは大丈夫なのかい、リセ?」

 セリカが、船べりに寄りかかって、深緑色の水面を眺めていると、ルカが話しかけてきた。

 知り合って五日。最初は、お嬢さん、お嬢さん、と嫌味のように言われていたが、一緒に隊員達の世話をしている内に、すっかり打ち解けて話せるようになった。

「うん。大丈夫、だと思う」

 強い風が吹くと、船もぐらりと揺れる。

 ラリサによって、このカストニア帝国に連行された時も、オーデン湖を船で渡った。あの時は、心身共に疲れ果てていて、道中の記憶があまりないが、船に乗って苦しんだ覚えはない。

「そっかー、なら、良かった。あたしは、初めて船に乗った時は、ひどいもんだった。船も身体も頭の中も、ずっとぐらぐら揺れている感じでさ。地面に立った時の気持ちは、忘れられないなあ。固い地面に腹ばいになって、頬ずりして抱きしめたよ。ああ、地面、会いたかったよおって」

 両腕を大きく広げるルカの身振りがおかしくて、セリカは笑った。それを見て、ルカは、照れ臭そうにした。

「・・あのさあ、リセは、ブレッシェンに帰るんだろう?あたし、まだ、ブレッシェンには行ったことがなかったんだ。ブレッシェンって、どんな所だった?」

 過去形なのは、ルカも、先の戦を知っているからだ。

 セリカは頷いて、頭上の澄んだ青空を見上げ、遠い故郷の空と、その下に広がる風景を思い出した。

「・・そうね。麦がよく育って、夏になると麦畑が金色になるの。農民の子ども達が、歌を歌いながら、両親と一緒に刈り取りに励んでいるの。小さいけれど、子ども達もみんな、働き者で。小規模だけれど、市場も時々開かれて、女の子達がお洒落して、カチアおばさんの刺繍の入ったハンカチやスカーフを、みんなで争って買いに来るの。カチアおばさんというのは、わたしに刺繍を教えてくれた人で、わたしのなんか笑われちゃうくらい、見事な刺繍をする人だった」

「へえ・・」

 セリカの顔を見ながら、ルカは言った。

「リセのお父さんとお母さんは、今もそこにいるの?ブレッシェンは、ウェスティア王国に併合されたんだろう?あんたの家は、どうなっているんだろう?」

「父は、先の戦で戦死したわ。母は、わたしが五歳の時に亡くなっている。・・家は、分からない。もう燃えてなくなっているかもしれないし・・」

「今、ブレッシェンに行くのは危ないって、隊長は言ってた。それでも、リセは、やっぱり行くつもりなのかい?」

 ルカの問いに、セリカは頷いた。

「ブレッシェンがなくなったことは理解しているの。自分がこれから、どうにかして一人で生きていかなければならないことも。それでも、見たいの。あの場所がどうなったか。大切な人々が無事かどうか、ちゃんとこの目で確認したい」

「そっか・・」

 セリカを見つめるルカが、少しだけ泣き出しそうな笑みを見せた。

「・・ルカ?」

「・・ごめん。ごめんだけど、あたし、あんたのことが、ちょっと羨ましいな。だって、あんたには、ちゃんと帰りたい場所があるもんな。あんただけじゃない。隊のみんなもそうさ。ウェスティア王国に、ちゃんと家族がいる。家族が、みんなが帰るのを、首を長くして待っている。あたしだけなんだよな、どこにも帰る場所がないのはさ」

 ルカは、船べりに背を預け、細い足を伸ばし、時折、遠くを見るような表情を浮かべながら、自分のことを話し始めた。


 ルカというのは、路上で暮らしていた時に、一緒にいた老人がつけてくれた名前だった。

 ルカは、自分の年齢も、名前も、生まれた場所も知らない。

 物心ついた時には、路上で暮らし、市場で並ぶ食べ物を掠め取って生きてきた。

 ダイン皇帝による戦だけでなく、他の国王や諸侯達も、互いの境界線を巡り、軍隊を出して、しょっちゅう小競り合いを行っていたから、戦いによって、親と家を亡くしてしまう戦争孤児は、別にそう珍しいことではなかった。

「他にもさ、いっぱいいたよ、あたしみたいなのは。みんなでさ、市場の隅の物置場に、宿なしの爺さんと一緒に暮らしてた。ちゃんと食料を調達する店と順番を決める作戦を練ったりしてさ。・・まあ、それなりに楽しかったよ。捕まって店の親爺にぶたれた時は、すげえ痛かったけど・・」

 そう言って、ルカは、セリカに笑って見せた。

「一人だったけど、ずっと一人じゃあなかった。・・でもさ、一緒にいた他の奴らとは、決定的に違うことが一つだけあったんだ。あたしだけだったんだ。親の顔を知らなかったのは・・」

 誰よりも多く食料を調達し、誰よりも早く市場を走り抜けても、得ることが出来ないもの。それは、自分を産んだ母親についての記憶だった。

「分かんないんだよ、あたし。何にも思い出せないんだよ。ほんの三歳の子どもすら、『母ちゃん』のことを思い出して泣いているってのに、あたしの頭には、きれいさっぱり何も残っていないんだ」

 それを理由に、ルカをからかって、いじめる子どももいた。

 自分がいかに父親に可愛がれ、母親に優しくしてもらったかを、事細かくルカに話して聞かせたり、ルカが横で聞いているのを知りながら、わざと他の子と、『母ちゃん』の話をしたりするのだ。

 もともと記憶にないものを引っ張り出そうとしても、それは無理な話だった。だから、ルカは、他の子達が、両親の思い出話を始めると、心の内で、そっと両耳に蓋をした。

(でも、今は、いないんだろ。ここに、こうしているんだろう。それなら、結局、あたしと同じじゃないか)

 そう心の中で毒づきながら。

 いつからか、まだ五歳くらいのポールという男の子が、物置場に居ついていた。

 ポールは、要領が悪く、身体のバランスがまだ整っていないのか、ひょこひょこ歩き、よく石につまずいて転んだ。せっかくパンをくすねても、転んで、パンを手から落として犬に取られ、挙句、パン屋の親爺に大きなげんこつをもらって、よく泣いていた。

 そのポールが、何故か、ルカによく懐いた。可愛らしい綺麗な声で、にこにこと笑いながら、

「ルカ。ルカ。待って」

 と言いながら、よく後をついてきた。

 懐かれると、そう嫌な気持ちはせず、ルカは、あれこれとポールの世話を焼いてやった。もともと身体が丈夫ではなかったのだろう。よく咳をし、いつも鼻水を垂らしていた。

 ひどい長雨が続き、春なのに寒い日だった。雨漏りがひどい物置場に、皆で固まるように座っていた。

 腹を空かしながら目をつむっている時、ルカは、隣りで座っていたポールの身体が、ひどく熱いことに気づいた。

「爺ちゃん、ポールがすごい熱だ」

 ポールは既にぐったりとした表情で、目の中は真っ赤に充血していた。

「・・ああ、こりゃあ、ひどいな」

 ポールの額に触れた爺さんは、眉を下げて困ったように言ったが、爺さんも何も出来ないことは、ルカにも分かっていた。

 それよりも、他の子ども達からポールを隔離しなければならない。もしポールが流行病にかかっているのなら、一気に皆が倒れてしまう。

 ポールを物置場の隅に移し、臭い毛布をかけてやった。ポールは、震えながら毛布にくるまり、しきりに、寒い寒い、と訴えた。

 額は、その小さな頭が燃えてしまうように熱い。唇の上に水を落としてやりながら、ルカはポールの耳元で言った。

「・・ポール、大丈夫だよ。じきに治るからな、ぐっすり眠るんだよ」

「・・うん」

 ポールは真っ赤な顔で頷いて、ルカに、にこりと笑んだ。

 ルカは、ポールから少し離れた場所で横になった。その晩、ポールの苦しげな呼吸が、いつまでも続いた。

 知らぬ間にうたた寝をしていたようだった。気づくと、ポールが目を開けて、じっとルカを見ていた。

 雨は止み、破れた屋根の隙間から、月の光が差し込んでいた。

「ポール、起きてたのか?どう?水を飲む?」

 近くに寄って尋ねるルカに、ポールは首を振った。汗で金色の髪の毛が、べっとりと額と頬にはりついていた。

「熱はどう?まだ寒い?」

 ルカの問いに、ポールは応えず、ただ大きな青い瞳をいっぱいに開けて、ルカを見ていた。

 やがて、小さなかすれるような声が聞こえた。

「・・おかあ、さん」

 ポールの額は、依然として、燃えるように熱かった。熱のせいで、意識が朦朧としているのかもしれない。

 ルカは、少し躊躇ったが、思い切って、腕を伸ばして、ポールの身体を抱き寄せた。

「そうだよ、ポール。おかあさんだよ。おかあさんが、ずっと側にいるよ。だから大丈夫だよ。すぐに元気になるからね。もう何にも心配しなくていいんだよ」

「うえーん、おかあさん、おかあさーん」

 ポールは、目から涙の粒をぽろぽろと落としながら、ルカにしがみつき、声を上げて泣いた。弱りきったこの小さな身体のどこに、こんな強い力が残っていたのかと驚くほど、ポールは長い間、ぎゅっとルカにしがみついていた。

 しゃくり上げるポールに、ルカは言った。

「さあ、目をつむって、もう少し、おやすみ。朝になったら、きっと元気になっているからね」

 ポールは素直にこっくりと頷いた。そして、その手をもぞもぞと動かした。

「・・おかあさん、ずっと、僕と、ててをつないでいて」

 ルカが手を近づけると、ポールの小さな指が、ルカの指をぎゅっと握った。ポールがルカを見て、嬉しそうに、にこりと笑った。

 やがて、ポールの苦しそうな息遣いが、静かな寝息に変わった。ポールの温かな体温をその手に感じながら、ルカも次第に眠りに入っていった。

 翌朝、ポールは死んでいた。

 爺さんと他の大きな子ども達と、市場の隅にある共同墓地に、ポールを埋葬しに行った。

 ポールを埋めた土の上に、白い野の花を手向けながら、ルカは、昨夜、ポールと手をつないで眠りに入った時のことを思い出していた。

 おかあさん、と言って泣いていた。

 ポールは、熱のせいで、ルカを自分の母親だと錯覚したのだろうか。母親と一緒に手をつないでいると信じきって、安心して永遠の眠りについたのだろうか。

(・・もし、そうなら)

 ルカは、自分の手のひらを見つめながら、思った。

(あたしの手が、少しは、役に立ったという訳だ・・)

「ルカ、泣いているのかい?」

 爺さんに、そう訊かれて、ルカは驚いた。自分の視界が、涙でぼやけていた。

 これまでにも、何人もの仲間の死を見送ってきたが、悲しいとは思わなかった。これだけ劣悪な環境にいるのだ。弱い人間が、病を得て死んでしまうのは、仕方のないことだと思っていた。

 母親の記憶もない、人から愛された記憶もないから、自分も、人を愛したり、大切に思ったりしたことはなかった。

 けれど、ポールは、そんなルカを慕ってくれた。汚れのない真っ直ぐな瞳で、ルカに笑いかけ、ルカの手を必要としてくれた。

 昨日まで温かかった、ポールの小さな手を思い出す。小さな身体、小さな頭。精一杯、生きて、走って、母親を欲して、死んでいった。その姿を思い浮かべるだけで、胸が苦しくなり、涙が溢れてきた。

 泣きながら感じていたのは、怒りと羨望だった。

 怒りは、小さなポールをこの厳しい環境に置き去りにしたポールの母親に対してだった。どうして、あの子を守ってやれなかったのか。もう、この世に存在していないかもしれないポールの母親に、激しい憤りを感じた。

 羨望は、母親を慕うポールの気持ちにだ。ただ、ひたすら母親を求めるポールの姿を見て、ルカの心が震えた。

 羨ましい、と思ったのだ。母親から愛された記憶を持つ人間を、生まれて初めて羨んだ。

 こういう感情を自分が抱いたことに、ルカは驚いた。

 ポールの死を悲しいと感じ、母親を慕うポールに、嫉妬に似た気持ちを覚えた。こんな苦い思いは、これまで味わったことがなかった。

(痛い、胸が、痛いよう、苦しいよう)

 ルカは、ポールが眠る墓の前に跪いたまま、いつまでも泣き続けた。


 オーデン湖の上を、緩やかに風が吹き、船がぐらぐらと揺れた。自分のことを話すルカの、額にかかる茶色の髪も、さらさらと揺れた。

 セリカは、ルカの話を聞きながら、いつの間にか、両の拳をぎゅっと握りしめている自分に気づいた。

「隊長に拾われたのは、全くの偶然さ」

 気を取り直すように、ルカが明るい声で言った。

「あたし、油断して肉屋の親爺に捕まって、見せしめに、市場の真ん中で、棒で叩かれたことがあったんだ。それを止めに入って、助けてくれたのがトール隊長さ。もう五年くらい前になるかな。それで、あたしの話を聞いてくれて、一緒に旅をするかと言ってくれた。隊長の故郷は、遠いウェスティア王国だけど、商売でいつも色んな国を旅している。ちゃんと仕事をすれば、隊の一員として雇ってやるって。あたし、お願いしますって、言ったんだ。一生懸命に働きますからってね。

 ウェスティア王国に戻った時には、隊長の家に世話になっているんだ。隊長や隊のみんなには感謝してる。色々と教えてもらってるし、みんな、あたしに親がいないことをからかったり、意地悪したりしないし。・・でも、まあ、それでも、こうやって、仕事を終えて、船に乗り込んで、さあ、ウェスティア王国に戻るぞという時には、さすがのあたしも、ちょっと複雑な気持ちにはなる訳だ。あたしは、どこに帰るのかなあってね。あたしは、この先、どこに行くのかなあって・・」

 言葉を切って、セリカを見た。

「ごめんな。リセだって、両親が死んで、大変な思いをした筈なのにな。羨ましいなんて言って。・・でも、これも、あたしの正直な気持ちなんだ」

 むき出しになったルカの細い手足。確かに、その腕には、昔、負ったと思われる傷の跡が幾つか残っていた。

「謝る必要はないわ」

 セリカは、首を振った。

 自分は、他人に棒で叩かれたことなど、一度もない。

 こうやって、今、同じ船の上に立って、同じ風を浴びているのに、これまで互いが生きてきた環境がこんなにも違うことに、セリカは驚いていた。

 人間は、平等ではない。身分も家も家族も、健康も、能力も、天の神は、人間に、等しく与えては下さらない。何故なのか。

 そう考えた時、心の内で、何かが、引っかかった。

 誰かが、セリカに言っていた。大切なことを教えてくれた。何て言っていた?

 思い出せない。

 遠くから、隊長の声が聞こえてきた。

「ルカ、船を出すぞ!」

「はーい、隊長、了解です!」

 ルカが応えて、セリカを見た。

「さあ、リセ、その敷物の下に隠れて。臭いし、窮屈だろうけど、検問を渡りきるまで、我慢しててな」

「ルカ?」

 セリカに、ルカは、にっと笑ってみせた。

「追われているんだろう?リセ、いや、セリカだったよな。あんた、ブレッシェンのお姫さまなんだろ?」

 驚いて言葉も出ないセリカに、ルカは言った。

「最初に気づいたのは、隊長さ。いくら同じ北東部のアクセントでもさ、あんたさ、話す言葉が違うって。下々の者の話す言葉じゃないって。それに、腰に立派な剣を佩いていた。普通さあ、女の子は、そんな物騒なもんを持ってないよ。旅商人を舐めちゃいけないよ。こっちも騙されて、危ない目に何度も遭ってるんだ。ダイン皇帝がブレッシェン攻めをした時、あたし達はウェスティア王国にいたから、噂は聞いていた。領民の前で、ブレッシェン伯がむごたらしく処刑されたことも、剣を持って戦ったお姫様が、捕まって、カストニア帝国に連行されたことも」

 船はゆっくりと動き出した。セリカは、ルカに促されるまま、敷物の下に身体を横たえ、身を隠した。

 驚きは、次第に静まっていった。今は、無事に検問を抜けることが先決だ。

 検問を抜け、無事にオーデン湖を渡りきることが出来れば、ブレッシェンへの道程がぐっと近くなる。

(・・ああ、どうか。どうか、無事に通り抜けられますように)

 セリカは、そう願いながら、腰に佩いた剣を引き寄せた。


 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。船は、ギイギイという音を立てながら、水面を漂っているようだ。湖水が船体を叩くパシャパシャという音が、時折、耳に届いてきた。

「リセ、もうすぐ検問だ」

 ルカのくぐもった声が聞こえてきた。

 セリカは、暗闇の中で、息をひそめた。

「次、止まれ!」

 警備兵の声がした。隊長の声がする。

「お疲れ様です。こちらが、許可証です」

「ええと、ウェスティア王国のトール隊だな。船は二艘。人数は計六名。積み荷は、銀細工と・・。箱を開けてみろ。そっちの奥の方は何だ?」

 身体の上に何かがどさりと乗った。その上から、ルカの明るい声が聞こえてきた。

「すみませーん。あたしらの汚い服です。洗濯する暇がなかったんで、ここに詰め込んじゃいました。お目にかけますか?かなり臭いですけど」

「ああ、いい、いい。そっちは見せなくて」

 警備兵の笑う声が聞こてきた。

「よし、行っていいぞ。気をつけてな。良い旅を!」

「ありがとうございます」

 再び船が、ギイギイと音を立てて動き出した。

 ルカの重みを感じながら、セリカはずっと息をひそめていた。

 身体の上で、ルカがもぞもぞと動いた。わずかに視界が明るくなり、その向こうに、ルカの顔とその後ろに青空が覗いた。

「検問を通過したよ。悪いけど、もうしばらくは、このまま隠れてて」

 その時だった。

 何か、人の怒号のような、太鼓のような音が、オーデン湖全体に響き渡った。

「なんだ、あれは?」

 隊長の声が聞こえた。

「狼煙が上がっているぞ!」

 状況が知りたくて、セリカは、そっと敷物から顔を出した。隊長と他の隊員達が、立ち上がったまま、呆然と対岸を見つめていた。

 セリカが首を巡らすと、対岸の狼煙台に、次から次へと狼煙が上がっているのが見えた。

 あれは、全ての兵に緊急を知らせる狼煙だ。

(このカストニア帝国を揺るがす何かが、起きた)

 咄嗟に、カイザの姿が頭をよぎった。

「おい、警備隊が出てきたぞ!」

 港から、次々と警備隊の船が出てきた。あの旗印はよく知っている。カストニア皇帝の御旗だ。

「止まれ!止まれー!一大事だ!全ての船は、速やかに港に戻れ!」

 船から兵が大声で叫んでいる。

「何だ?」

「港に戻れって?」

「いったい、何が起こったんだ?」

 すぐ近くの船に乗っていた男達が、口々に叫ぶ。

 その内、誰かが言う声が、セリカの耳にも届いてきた。

「ダイン皇帝が、崩御された。突然死で、死因もまだ分からない状態なので、国境を一時、閉鎖するとのことだ」

「それから娘を探しているそうだ。ヴェリア城から逃げ出したらしい。皇太子妃の候補になっている。娘を見つけて引き渡せば、報奨を貰える。娘の逃亡を幇助する者は、全員死罪だってよ。十六歳の娘だ。金色の髪、緑の瞳、北東部のアクセントで話す」

 隊長と他の隊員にも、聞こえている筈だった。セリカは、ぎゅっと目を閉じた。ブレッシェンまでの道程の遠さを思った。

 船は、再び動き出した。ギイギイという音が、胸の奥まで低く響いてきた。

「・・なあ」

 顔を上げると、トール隊長が顔を見せた。心底、困ったという顔をしていた。

「ヴェリア城から逃げ出した娘ってのは、あんただろう?」

 セリカは頷いて、言った。

「城から逃してくれたのは、皇太子その人です。彼が、わたしを城外へ出してくれました」

「じゃあ、皇太子とは別に、誰か、あんたを逃したくない奴がいるんだ」

 ラリサの顔が浮かんだ。片時もカイザの側を離れない、偏狭なお目付役。

「で、どうする?もうすぐ港に着くが。俺としては、約束通りに、あんたをウェスティア王国まで一緒に連れて行ってやりたかったが、捕まったら、全員、死罪とくれば、さすがにそれは出来ない」

「選択肢はありません。岸に着いたら、わたしを警備兵に引き渡して下さい。知らぬ間に船に忍び込んで眠っていたらしいと言って。報奨を得て、皆さん、無事に故郷にお帰り下さい。ご親切にして下さったことは、感謝しております」

 隊長は腕組みをしたまま、唸るように声を吐き出した。

「・・それしかないな」

 それまで、むっつりと二人の会話を聞いていたルカが、声を上げた。

「なんかさあ、ちょっとずれたこと言うかもしれないけど、リセさあ、お城に戻ってお妃様をするっていうのも、そう悪くないんじゃない?」

 ルカは、怒ったような顔をしながら言う。

「だって、あんたの故郷はもうないし、家族もいないんだろう?今更、帰ったって、しょうがないだろう。それよりもさ、あんたをお妃にしたいって人のところに戻って、いい暮らしをした方がさ、よほど建設的ってもんだろう。・・こっちはさあ、住む場所も食べるものもなかったってんのに、何、贅沢言ってんだか。ああ、もう、なんか、腹が立つなあ・・」

 そう言って、赤くなった目を、手の甲で、ごしごしと拭った。

「それにさ、あたし、あんたなら、いいお妃様になれると思うんだよ。だって、あんた、領民を守る為に、ブレッシェンで、剣を持って戦った姫だろう?父親を戦で殺されたんだろう?そういうお妃様が近くにいれば、皇太子って、次の皇帝になるんだよな?その人だって、前の皇帝みたいに、あちこちに、やたらめったら戦争ばっかりふっかけたりしないんじゃないかなあ?そしたら、あたしやポールみたいな孤児も、生まれない訳だし・・。別に、あたしのことは、もうどうでもいいんだけど、あたしは、なんとかやっているから。・・ああ、何、言ってんのかな、あたしは・・」

「ルカの言うことも、一理ある」

 隊長は、セリカに手を差し伸べて、セリカの身体を起こした。

 セリカの両手を、縄で後ろ手に縛りながら言った。

「無くなった故郷を思う、あんたの気持ちもよく分かる。領主の姫なら、尚更だろう。でも、ルカが言う通り、あんたの父親の土地も領民も、もう既に他人のものだ。あんたが戻ったって、出来ることは何もない。それなら、これからのことを考えた方がいい。俺は、あんたを捕らえようとしている奴は、人を見る目を持っていると思う。・・俺も、あんたなら、いい皇妃になると思う。まあ、変人と言われている皇太子の妻になるのは、抵抗があるかもしれんがな」

 力強く縛り上げられ、セリカは痛さで顔をしかめた。

 船は岸辺に近づいた。対岸にいる警備兵が、こちらを見て何かを言っている。

 隊長が、セリカの胸の前に剣の切っ先を差し出しながら、座っているセリカに顔を寄せて言う。

「あんたが、みんなの服に縫ってくれた刺繍は、それは見事だった」

「隊長のお母様へのハンカチには、出来ませんでしたね」

 セリカが言うと、隊長が小さく笑った。

「ああ、それだけが、心残りだ。だが、なあ、リセ、・・いや、セリカ姫」

 セリカは、隊長を見上げた。

「人には、それぞれ領分がある。お袋のハンカチに刺繍出来る奴は、探せば他に見つけられる。だが、セリカ姫には、姫にしか出来ないことがある筈だ。あんたには、それをやって欲しい。あんたの勇気と聡明さで、次の皇帝にうまく言って、戦場だらけのこのケイナス大陸を、もうちょっとましに出来ないだろうか。・・ついでに、俺達が、もっと安全に、快適に、商売がし易いようにしてくれると、ありがたいな」

 そう言って、片目をつむって見せた。

 セリカは顔を伏せて、軽く笑った。

 ルカの身の上話を聞いていた時に、心に引っかかったことを思い出した。

 人間は、平等ではない。人には、それぞれ領分がある。

 同じことを以前、言われたことがある。確か、麦の収穫の時に、カリエと麦畑を訪れた際に、農民のナナから教えられた言葉だ。

 人には領分というものがある。領主の娘と農民とでは、やるべきことが違う。だから、セリカには、領主の娘としての務めを果たして欲しいと、地面に額ずかれた。

 務めを果たそうと、父と共に、剣を持って戦った。けれど、結果、ブレッシェンは戦場と化し、畑は荒らされ、多くの領民が戦死した。あの時、セリカを諭してくれたナナも、楽しそうに歌を歌っていた兄妹も、今はどうしているのか、分からない。

(・・わたしは、まだ務めを果たしていないのだろうか)

 近づいてくる警備兵の顔を真っ直ぐ見つめながら、セリカは自問した。

 ここから逃げて、ブレッシェンに帰ろうとした。けれど、それでいいのだろうか?それは、本当に自分がするべきことなのだろうか。

 この世に、こういう形で生を受けて育った自分に、やるべきことは、まだ他にあるのではないだろうか?

 船が岸辺に着いた。隊長に促されて、後ろ手に縛られたまま、セリカは立ち上がった。ふらつくセリカの身体を、後ろからルカが支えてくれた。

「リセ」

 ルカが囁く。

「達者で。ほんの短い間だったけど、あたし、今まで、友達なんていたことなかったけど、あんたのことは、好きだったよ。友達だなんて、お姫様に言うのも失礼だけどさ」

 セリカも応えた。

「わたしも、同じ気持ちよ。ルカ、わたしに色々なことを話してくれてありがとう。皆様も、どうか、お元気で」

 セリカの言葉に、隊の皆も、真剣な面持ちのまま、小さく黙礼した。

「さあ、セリカ姫、再び、岸に上がろうか。ここから先は、あなた様次第。幸運を祈ります」

 隊長の力強い声に促されて、セリカは頷いた。

 真っ直ぐ前を向き、えんじ色の旗を持つ警備隊の集団の中へと、歩を進ませた。



     3



 再び戻ったヴェリア城内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。

 どうやらダイン皇帝が亡くなったというのは、本当のことらしい。

 セリカは、馬車での移送中、再び逃亡を図らないよう、常に見張られていたが、警備兵達からは、丁重に扱われた。

 ダイン皇帝が亡くなったのは、ちょうどセリカがルカ達と船に乗って、エスカの港を出発した、三日前の朝だった。寝室で、突然、胸を押さえて苦しみだし、あっという間に意識を失って、息絶えたという。

 暗殺、毒殺の疑いもあるとして、都および国境を守る警備隊にまで、国境を閉鎖する為の狼煙が上げられた。セリカがオーデン湖上の船の上で見たのは、その狼煙だった。

 市門から再びヴェリア城内に入ったセリカは、馬車から降り、城内の警備兵の案内に従って、歩を進めた。

 ついこの間まで、連日連夜に及ぶ華やかな宴会を繰り広げていたのが、嘘のようだった。

 そこここで使用人達が集まってうずくまり、すすり泣き、沈痛な面持ちで頭を垂れ、剣を持った兵達が、厳しい表情で、無言で足早に回廊を歩く。

 中郭への門の前で待っていたのは、ルークだった。セリカを見て、いつも通りの静かな表情で言った。

「セリカ様、ご無事で」

「ルーク、あなたの母君はどこ?」

 ルークに当ってもしょうがないと知っているが、再びヴェリア城に連れて来られ、悔しい思いが湧き上がる。

「ご案内します」

 ルークは、セリカの先に立った。後について歩きながら、セリカは、その背に囁くように言った。

「・・カイザは?カイザは無事なの?」

 セリカの問いに、ルークは、ちらりとセリカを見てから頷いた。

「はい。ご無事でございます。ダイン様が突然、崩御され、精神的にだいぶ参ってらっしゃるようですが・・」

「ねえ、ルーク、わたしを城から逃したのは、カイザなのよ」

「存じております」

「それなのに、何故、わたしを城に呼び戻すの?カイザがそうしろと命じたの?」

「・・いえ」

 それきり口を噤んでしまった。

 セリカは、それ以上、追求するのを諦めた。結局、セリカが対峙すべき相手は、一人しかいないのだ。

 通されたのは、ラリサの私室だった。

 書棚と文机に椅子、寝台に長椅子に小さなテーブル。皇太子付きの護衛兼教育係の長として、ダイン皇帝の信任も厚く、城内での地位も高いにしては、驚くほどに簡素な部屋だった。

 華美な装飾も、色鮮やかな生花を飾ることもないらしい。一日の大半を、カイザの側で過ごしているから、必要もないのかもしれない。

 しばらく長椅子に座って待っていると、ルークが扉を開けて顔を出した。

「お待たせいたしました。母が参りました。わたくしは、扉の前におりますので」

 足早に部屋の中に入ってきたラリサとセリカの両方に言って、ルークは会釈して扉を閉めた。


「オーデン湖の警備隊長から話を聞いた」

 ラリサは、目の前の椅子にどさりと腰をおろすなり、話し出した。

「ライエス公国行きの船に潜り込んで、出国を図ったが、検問所を抜けたところで、狼煙が上がり、岸に戻されたとか。・・生憎だったね」

 ダイン皇帝が崩御し、後処理に奔走していたのだろう。ラリサの表情には、疲労の色が濃く見えた。けれど、その嫌味な物言いに、セリカはカチンときて、立ち上がった。

「わたしを城から出したのは、カイザ本人よ。カイザが自分の馬にわたしを乗せて、市門を開けさせてくれた。行け、と言ってくれたの。それなのに、皇太子妃候補って、どういうこと?そもそも、わたしは、カイザの夜伽をする為に、ここに連れて来られたんでしょう?」

 ラリサは、セリカが一気に言うのを、静かな面持ちで聞いていた。

 セリカが、はあ、と息をつくのを待っていたかのように、話し出した。

「そなたを捕えて、警備隊に引き渡した旅商人の一団の隊長からも、話を聞いた」

「え?」

 ラリサは、セリカをじっと見つめた。

「事の成り行きを、詳細に確認したかった」

「詳細って、報奨は渡したの?皆は無事なんでしょうね?わたしが勝手に船に乗り込んだのだから、彼らに咎はないわ」

 言い募るセリカの顔を、ラリサは静かに見つめる。そして吐息をついた。苦笑のようにも見えた。

「そなたを連れて来たのだから、触れ通り、報奨はやったよ。彼らは、今日にでも検問所を抜け、カストニア帝国を出る筈だ」

「そう・・」

 良かった、と心の内で呟いた。

 ラリサは、セリカを見て、薄く笑った。

「・・やはり、甘いな」

「どういう意味?」

「事の成り行きを、詳細に確認したかったと言ったろう?そなたが城から逃げた後、わたしが手をこまねいて見ていたと思うか?そなたの足取り、隠れていた場所、乗った船、全て把握していたさ。わたしは、見たかったのさ。そなたが、どうやって、誰の協力を得て、このカストニア帝国から出ようとするのかをね」

 ラリサの言葉に、セリカは言葉を失った。ラリサは続けた。

「ダイン皇帝が崩御されたのは、全くの偶然だった。国境閉鎖の狼煙を上げる際、城から逃げた皇太子妃候補を探し出せと、伝令もついでに一緒に飛ばした。そなたがどう動くかを見たかったからだ」

「どうって・・」

「隊の連中を助ける為に、岸に戻れと言ったんだろう?報奨を得て、無事に帰れと。わたしが、トール隊長に直接、確認した。せっかく城から逃げ出したのにな。結局、また戻ってきた。そなたは、やはり、詰めが甘い」

 セリカが言い返そうとすると、ラリサはそれを遮るように言葉を続けた。

「・・だが、それが、そなたの最大の魅力でもあるな」

 ラリサは、セリカに向き直った。

「最初の質問から答えよう。確かに、カイザ様は、そなたを城から逃した。それは、カイザ様がそなたの為を思ってされたことだ。もともとは、そなたをカイザ様の側において夜伽をしてもらおうと思っていた。だが、ダイン皇帝が崩御されて、事情が変わった。今は、そなたを皇太子妃、いや、皇妃として遇したいと考えている。カイザ様は、一か月後には、新皇帝になられる予定だ。その二か月後には、結婚式を執り行う。その時に、そなたは、カイザ様の皇妃となるだろう」

 話が飛躍し過ぎて、言葉が見つからない。奴隷として、ブレッシェンから連れて来られた筈なのに、何故、自分が皇太子妃、いや、カストニア帝国の皇妃などになるのか。

「ラリサ、それは、どういうことなの?そもそも、カイザはそれを知っているの?」

「いや、まだカイザ様のお耳には入れていない。カイザ様は、そなたが再び城内にいることも、まだご存知ない」

「それでは、それを決めたのは、誰?」

「わたしだよ。もし、ダイン皇帝の御身に何かがあった時、カイザ様についてのことは全て、わたしに一任されていた」

 ラリサは、セリカの表情を読み取ったように、軽く笑った。

「皇太子の一介の従者、教育係に過ぎないわたしに、何故、そんな大事を決める権限があるのかって、不審顔だね。・・そうだね。そなたにだけは、全てを話しておいた方がいいだろうね。わたしとルーク、そしてカイザ様のことを」

 そして、ラリサは話し始めた。

 自分の生い立ち、十五歳の時、都ルーヘンからやってきた貴族ルイス・エコアと恋に落ち、双子をもうけたこと、双子が三か月の時に、弟のアンリが、何者かに拉致されたことを。



 その後、ラリサは、半狂乱になって、アンリを探した。

 まだ寝返りも出来ない赤子が、自分でどこかへ行く筈はないのだ。誰かが、何らかの意図をもって、ラリサの寝室に侵入し、アンリを攫っていったのだ。

 父も、多くの人を使って探すのを手伝ってくれたが、夜闇の中で起きたということもあり、何の手掛かりも見つからなかった。

 まるで、最初から、アンリはここにいなかったかのように、こつ然と、ラリサの手の中から消えてしまった。

 いつも一緒にいた弟がいないことが分かるのか、それともラリサの尋常でない様子に不安を感じるのか、兄のルークも、ひどくぐずり、一旦、泣き出すと、泣き止まないことが多くなった。ルークを腕に抱いて、その泣き声を耳元で聞きながら、ラリサも泣いた。

 都のルイスには、父が連絡したようだった。返ってきた返事には、双子の一人の突然の失踪を悲しむ文面と、せめて残された一人だけでも大切に育てて欲しい旨が記されていた。

「・・変だな。わしは、弟の方がいなくなったと書いたのだが、ルイス様は、どうも、兄の方がいなくなったのだと誤解されているようなんだが・・」

 父が、ルイスからの手紙を手に、腑に落ちない顔で首をひねった瞬間、ラリサの頭の中で、何かが弾けるように閃いた。

 誰かが、アンリを拉致した。

 あの夜、双子がいた寝台の側には、燭台が置いてあった。闇の中、蝋燭を吹き消した後の煙の匂いが漂っていた。

 何者かが、アンリを選んだ。どうやって?双子は、乳母が間違うほど、似ている。区別する為には、何か目印がないといけない。

 そこまで考えて、ラリサは、愕然とした。

 まさか、と思った。

 けれど、あのタイミングで、アンリが拉致されたことが、何よりも雄弁に、それを物語っている。

 最後に夜を共にした時、ルイスは、寝台で横になっていた双子を抱かせてくれと言った。

 たまたま目を開けて自分を見ていたアンリを抱き上げて、ルイスに差し出し、ラリサは、言ったのだ。

 この子が兄だと。ほんの悪戯心から、冗談のつもりで言ったのだ。

 ルイスは、ラリサに訊いた。双子を見分けるのに、何か目印はあるかと。

 ラリサは、答えた。兄の方には、左の二の腕に青い痣があると。弟の方には、痣はないと。

 あの時、ルイスは、自ら、アンリの寝巻の腕をめくって、痣を確認していた。

 アンリを攫ったのは、ルイスだ。

 ルイスは、アンリを兄の方だと勘違いしたまま、攫っていったのだ。

 それきりルイスからの連絡は、途絶えた。父が送った手紙が、ルイスの元に届くこともなくなった。父の使者は、都中を探し歩いたが、ルイスの居所を見つけられないまま、手ぶらで戻ってきた。アンリと同様に、ルイス・エコアという貴族もまた、最初からこの世にいなかったようだった。

 ラリサは、自分の推測を、思い切って父に話した。すぐにでも都に旅立とうとするラリサを、父は、厳しい表情で止めた。

「もう、いいではないか、ラリサ。もし、全てがそなたの言う通りだったとしても、ルイス様には、ルイス様のお考えがあったのだ。ルイス様が手紙に書かれていたように、そなたには、もう一人ルークがいるではないか。ルークを育てていく為の銀貨を、ルイス様は、たんと下さった。これ以上、何が言えるか?アンリのことは、もう諦めよ。最初からいなかったと思えば良いのだ」

 母もまた、涙を流しながら、ラリサに言った。

「子を思うそなたのつらい気持ちは、よく分かります。でも、まずは、目の前にいるこの子のことを考えなくては。今、お腹を空かして泣いているこの子を、そなたは守らねばなりませんよ」

 母が抱いていたルークは、ラリサの方を見ながら、手を伸ばして泣いていた。もう、母親が誰か、ちゃんと分かっているのだ。

 何処かに攫われたアンリは、ラリサが側にいないことで、今、この瞬間にも、どれだけ不安で悲しい思いをしているだろうか。

 ラリサは、ルークを受け取り、強く抱きしめながら、声を上げて泣いた。

 あの子が今、何処にいるのか、あのつぶらな黒い瞳で何を見ているのか、お腹を空かせていないか、誰かから、ちゃんと乳をもらっているのか。想像しただけで、胸が張り裂けそうだった。


 心の内でいなくなったアンリを思いながら、ルークを育てる日々が始まった。

 屋敷の人々に見守られながら、ルークは、すくすくと大きくなった。

 父は、ルークを跡取りにすると公言し、様々な場所に、まだ幼いルークを連れて回った。

 ルークに剣や馬術を教えながら、ラリサもまた、剣の腕を磨いた。

「何故、そこまで」

 と剣の師匠に驚かれるほど、自分を厳しく追い込んだ。

「もう、後悔したくないからでございます」

 ラリサは、目を光らせて答えた。

 突然、アンリを奪ったルイスを恨んだ。だが、最も恨むべきは、自分自身だった。

 アンリを奪われたのは、自分の寝所からだったのだ。自分に大きな油断があったのだ。

 恋をし、子どもをもうけ、再び恋人との逢瀬を楽しんだ。あの時、母として子ども達を守ると決めていた自分は、いったい、何をしていたのだろうか?

 もっと注意深くするべきだったのだ。

 何故、都にいた筈のルイスが、突然現れたのか、双子を見分ける為の目印を知りたがったのか、深く考えてみるべきだった。

 何にも考えが及ばず、ルイスとの再会に浮かれ、べらべらと喋っていた自分が愚かしい。あの時、自分は、なんて愚かで、なんと情けない母だったのだろう。

 ルークが安らかな寝息を立てて眠っている間、ラリサは寝台の上で起き上がり、闇を凝視した。

(もう、二度と、奪われたりはしない)


 ルークは、穏やかな子だった。

 言葉を覚えるのが早く、可愛らしい声で、ラリサに色々なことを話した。

「ははうえ、きのう、こわいゆめを見たよ。しらない女のひとが、ぼくをたたくの。ぼく、いたくて、こわくて、ははうえや、おじい様、おばあ様をよんだけど、だれもきてくれないの」

 ルークが、時折、怖い夢を見た、と夢の話を始めたのは、ルークが五歳になった頃だった。

 最初は、子どもらしい作り言だと思い、適当に相槌を打っていた。

「そう。それは、怖かったね。でも、大丈夫。それは夢なんだから。ルークは、母上といつも一緒だから、安心なんだよ」

 そう言って、ルークの小さな身体をぎゅっと抱きしめてやると、ルークは安心したように、にこりと笑って、もうさっき言った夢のことはすっかり忘れたように、走り去って行った。

「ははうえ、きのうは、かみを引っ張られたの。ぼく、いたくていたくて、泣いたの。やめてくださいって言ったの。でも、女のひとは、すごく怒るの。ぼく、ずっと怒られているの。どうしてかなあ・・、ぼく、何か悪いことをしたのかしら・・」

 ルークが、手のひらで自分の黒髪を撫ぜながら、再び夢の話をし始めた時、ラリサは、何かがおかしい、と感じ始めた。

 ルークが話しているのは、確かに夢の話だ。けれど、夢にしては、その話には連続性があり、いつも同じ人物が出て来る。

 女のひと。

 胸の中に奇妙なざわつきを覚えながら、ラリサは、ルークに訊いた。

「ルーク、ルークの夢の中に出て来る女のひとのことなんだけど、ルークはその人のこと、知らないの?」

 ルークは、少し考えるようにしながら、答えた。

「うん。知らない。ゆめの中でしか見たことない」

「どんなひとなのかなあ?ルークに意地悪するなんて、ひどい人だね。母上が、見つけたら、もうルークに意地悪はしないで下さいって言おうね。だから、女のひとのこと、もっと教えてくれないかな?」

 ルークは、思い浮かべるように言った。

「・・あのねえ、髪は白くて金色なのよ。すごくきれいなひと。でも、いつもぼくのこと、にらんでる。こわい顔になる。女のひとの灰色の目が、こわいの。ぼくのこと、嫌いみたいなの・・」

 そう言って、涙を浮かべた。

「そう。その女のひとは、ルークに何か言ってた?ルークのことを、何て呼んでた?」

 ルークは、小さな頭をふるふると振った。

「・・よく分かんない。でも、ゆめの中のぼくは、その女のひとのことを、おかあさま、と呼んでたよ。ぼくには、ははうえがいるのに、おかしいよね」

 心臓が早鐘のように打つ。まさか、と思う。それでも、その可能性を否定出来ない。

 ラリサは、懸命に息を整えながら、ルークに優しく言った。

「そうだね。おかしいね。ルークには母上がいるのにね。ルーク、あのね、ルークが時々見る夢のこと、いつでも母上に話してね。話しちゃえば、ただの夢だって分かるでしょう?そうしたらもう怖くないから。すぐに忘れちゃうから。ね、約束して」

「うん、いいよ」

 ルークは、利発そうな表情で頷いた。

「ははうえに、ぜんぶ、話すね」

 ラリサが疑ったのは、ルークが見ている夢の中の「ぼく」が、もしかしたら、アンリなのかもしれないということだ。

 荒唐無稽だし、ルークには、折りに触れ、アンリのことを話して聞かせてきたから、ルークが頭の中で、弟のことで、子どもらしい想像を膨らませ、それが夢として出て来ているのかもしれない。

 それでも、もし、アンリの意識が、ルークの夢を通じて、ルークにつながっているとしたら、これまで何の手掛かりもなかったアンリのことを、ラリサは初めて掴んだことになる。

 ラリサは、藁をも掴む思いで、ルークの様子を見守った。ルークが夢の話をするのを、辛抱強く待った。

 ルークの夢の話は、暗く、悪夢に類するものばかりだった。

 女のひとは、たいてい、「ぼく」に辛く当たり、「ぼく」は、いつも一人で暗い部屋にこもっていた。

「他には誰も出てこないの?」

 ルークに訊くと、ルークは首を振った。

 夢の話をする時のルークの表情は、ひどく強張っていて、その黒い瞳には、恐怖の色が見えた。

「・・ううん。だれも出てこないの。女のひとと、ぼくだけ。ははうえ、ぼく、こわいよ。もう、夢を見たくないよ・・」

 ルークは、ラリサに取りすがって泣き出した。ラリサは、ルークを抱きしめて、やわらかい髪を撫ぜながら、唇を噛んだ。

 夢の中の「ぼく」は、常に恐怖にさらされていた。叩かれ、蹴られ、水を浴びせられ、ひどい言葉と冷たい悪意を投げつけられていた。

 まだ幼い子どもに、そんな状態が耐えられる筈がない。

(・・ああ、なんとかして、救わなくては)

 夢を語るルークにも、変化が表れていた。夢を語る度に、ルークの表情には翳が生まれ、子どもらしい明るさが失われていくのが分かった。

 それでも、ルークは、夢のことを話すのを止めなかったし、ラリサも止めなかった。何か、アンリに関する手掛かりはないかと必死だった。

 そんなある日、ルークは決意したように、ラリサに言った。

 七歳になったルークは、さらに五つほど歳を取ったように、大人びて見えた。

「母上、ぼくは、夢の中のぼくをたすけてあげたいよ。・・あのね、ぼく、夢の中のぼくは、もしかしたら、おとうとのアンリなんじゃないかと思うんだ」

「どうしてそう思うの?」

「だって、ぼくたちは、双子だから。双子は、もともとはいっしょに母上のお腹の中にいたから。ぼくは、いつもアンリの胸の音を聞いていたんだ。・・母上、ぼくね、心配なんだ」

 ルークは、眉間にしわを作って言った。

「何が、心配なの?」

「あの女のひとさ。あのひと、アンリにどんどんひどいことしているんだ。ぼく、最近、気づいたんだ。アンリは、最初は夢の中で泣いてたの。おかあさま、ごめんなさい。ゆるしてくださいって、何度も言ってたの。・・でもね、最近見る夢では、アンリは、何も言わないの。泣いてもいないの。静かなの。夢は、何の色もないの。だんだん真っ暗になっちゃうの」

 話していて興奮してきたのか、ルークがラリサにしがみついた。

「ねえ、母上。都にアンリを探しに行こうよ。きっと、アンリは、ぼくに、夢の中で助けてって、言っているんだ。ぼく、早く助けに行かなくちゃいけないんだっ」

 涙をこぼしながら、ルークは震える声で言った。

「・・早く行かないと。アンリが、死んじゃうよ」

 ラリサは頷いて、ルークに向き直った。

「あなたの夢に出てくるのが、もしかしたら、アンリではないかと、わたしもずっと思っていた。あの子が幸福に穏やかに暮らしているのなら、わたしは何も言うまいと思っていた。でも、あの子がつらい目に遭っているのなら、わたしはあの子の元に行ってやりたいと思う。ルーク、あなたは、ここに残って、お祖父様とお祖母様と共に暮らしなさい」

「嫌です」

 ルークは、激しく頭を振った。

「ぼくも一緒に行きます。母上、ぼくは知っています。アンリは、ぼくの身代わりとなって、さらわれてしまったんだと、お祖父様が話してました。本当なら、弟のアンリこそが、母上の元にいて、夢の中のことは、ぼくが実際に体験することだったんです。だから、ぼくも母上と一緒にアンリを探します」

「遠い都まで行くんだよ。何が待っているか分からないし、危険なこともいっぱいあるよ。もしかしたら、もうここには戻って来られないかもしれない。お祖父様とお祖母様の顔も、もう見られないかもしれないよ」

 ルークは、こっくりと頷いた。

「それでも、ぼくは、母上と一緒にアンリを探します」

 ラリサは、ルークを強く抱きしめた。あんなに小さかった赤子が、今、自らの意志をもって、弟を探す旅に出ると言っている。

 ラリサは決意した。すぐに荷物をまとめ、旅支度をし、両親に事情を話した。

 ラリサの後ろでかしこまるルークを見て、両親は目頭を押さえたが、もう反対はしなかった。

 母は、涙ぐみながら、言った。、

「・・どうか、命を大切にして。わたし達にとっても、あなたは、大切な娘なのだから。あなたの子ども達は、わたし達の大切な孫なのだから」

「お父様、お母様、ありがとうございました」

 ラリサは深く礼をした。


 父が付けてくれた案内人と共に、ラリサとルークは、都に向けて旅立った。

 一週間かけて到着したカストニア帝国の帝都ルーヘンは、ラリサの想像以上に巨大な都市だった。

 ヴェリア城の足元に広がる市場は、人でごった返していた。

 市場には、ルークと同じくらいの歳の子どもがたくさんいた。店の中で父親らしい男の手伝いをしている男の子、物乞いの親子、玩具で遊ぶ子ども達、埃と喧騒が混ざり合う中、ラリサの視線は、どうしても、子どもの姿に釘付けになる。

(アンリは、どこにいるのだろう。本当に、このルーヘンにいるのだろうか。同じこの空の下にいるのだろうか)

 レンガ造りの建物が並ぶ市街を見下ろすキサリ山の上に、ヴェリア城がそびえ立つ。ラリサは、城を一瞥した後、案内人について歩き出した。

「この館でございます」

 案内人に連れて来られたのは、小ぶりながら瀟洒な建物だった。賑やかな市場から少し離れた一角に建っている。門は閉ざされ、もう誰も住んでいないのだろう、蔦が建物の周りを、びっしりと覆っていた。

 かつて父がルイスに連絡を取る際に、この案内人は、この建物の中で手紙の受け渡しをしていたということだった。ところが、アンリがいなくなり、その旨をルイスに連絡し、ルイスからの返信を得たのが最後のやり取りとなった。以降、館の門は、閉じられた。

 父に命じられた案内人は、周囲の聞き込みを行ったが、ルイス・エコアという名の貴族のことも、館の住人のことも、誰も何も知らなかった。

 案内人は、イエリン地方に帰って行った。ルークと、安宿で寝泊まりしながら、ラリサもまた、同じように、近隣の家々の門を叩き、ルイスの情報を集めようとした。

 館から人の気配がなくなって、七年近くが経つ。ラリサの問いに、誰もが首をひねった。逆に、胡散臭げに、旅装束姿のラリサとルークを見て、門から追い払った。アンリどころか、ルイスの情報さえ掴めない。

 ある夜、ラリサが寝泊まりしていた宿が、物盗りに襲われた。

 ラリサは、容赦なく男を斬った。泣いて命乞いをするので、その背を蹴飛ばし、宿から追い払った。

「美人さんなのに、すごいねえ」

 宿屋の亭主は感心して、ラリサとルークに、翌日の朝食を振る舞ってくれた。

 亭主とその奥さんと一緒に、きのこのスープにパンをひたして口にしながら、ラリサは、自分の子どもを探しているのだと話した。ラリサの隣りでは、ルークが、奥さんから甘い焼き菓子をもらって、両手で包むようにして、嬉しそうに食べていた。

「まだ三か月の時に攫われてしまったので、今、どんな風になっているのか分かりませんが、弟のこの子に、少しは似ていると思うのですが」

 万が一のことを考えて、ルークのことは、一つ下の弟として通した方が良いとラリサは考えていた。両親にも、ルークにも、予め、それを言い含めておいた。

「・・そうかい」

 流行り病で、十数年前、小さな女の子を失ってしまったという奥さんは、目を細めてルークを見つめた。

「この辺じゃあ、棄児も孤児も、うじゃうじゃいるからねえ・・。一人、一人、捕まえて、親のことを聞いてみて、顔を確認していくしかないのかねえ。でもねえ、まだ物心がつく前に別れちまったんじゃあね・・。自分の子どもだって、確認しようもないんじゃないの?どう思うね、あんた」

 亭主も腕組みをしたまま、唸った。

「うーん。俺は、貴族のルイス・エコアってのが気になるなあ。遠いイエリン地方にいたのなら、偽名でも通せたのかもしれないが、何故、そんな偽名を使う必要がある?・・いや、偽名を使わなければならなかったという訳なのかな・・?」

 しばらく考えるようにしていたが、思い立ったように顔を上げた。

「ラリサさんよ。手っ取り早く、お城に行ってみたらいいのかもしれないよ」

 その視線の先には、焦茶色のヴェリア城の見張り塔が見えた。

「お城、ですか」

「ああ。俺は、その貴族ってのが気になる。いくら貴族がのさばっているとはいえ、この都で、そう簡単に自由に偽名を使える貴族なんているのかな?少なくとも、ダイン皇帝の許可なしには無理だろうぜ。ダイン皇帝のお側にいる人間なら、何か分かることがあるかもしれん・・。あんた、何かないのかね。その貴族が身につけていた物とか」

「ございます」

 服の上から、肌身離さず身につけているチェーンに通した、ルビーの指輪に手を置いた。普段から、人目につかないように服の下にしている。ルイスを思ってのことではない。いつかアンリを探す時に、役に立つことがあるかもしれないと考えたからだ。

 亭主は、頷いた。

「そうか。そしたら、ヴェリア城に行って、そいつを見せてみたらいい。そういうのに詳しい奴なら、そいつが、どこからきたものか、分かるかもしれん。・・どれ、城に野菜と果物を運んでいる親爺を知っているから、ちょいと話をしてみようか」

 そう言って、亭主は、立ち上がり、出入り口から出て行った。

 奥さんは、少しだけ不安そうな顔をして、それを見送った。

「・・余計なお世話かもしれないけどさ。ラリサさん、その子を連れて、このままイエリン地方に戻った方がいいんじゃあないかい?城になんか、行かない方がいいと、あたしは思うけどねえ。だって、下手に城になんか入ってしまったら、そう簡単には出られないかもしれないよ?」

 その時、側でずっと黙っていたルークが、静かに言った。

「おばさん、ぼくは、お城に行きます。お城に行けば、兄のことが、何か分かるような気がするのです」

 奥さんは、驚いたようにルークを見た。

「そうかい?あんた達が、そう望むのなら、あたしはもう何も言えなけどねえ・・」

 奥さんは、困ったように笑いながら、立ち上がった。

「奥さん、そう言えば、ダイン皇帝には、皇子が一人いらっしゃるのでしたよね?」

 ラリサの問いに、奥さんは、ルークを見て、頷いた。

「そうだね。ちょうど、お前さんと同じくらいだね」

「皇妃様は?」

 ルークが、口を開いた。

「皇妃様の髪は、何色ですか?」

 ラリサは、はっとしてルークの顔を見た。

 奥さんは、どうして急に、そんな質問をするんだという表情を見せたが、にこりとルークに微笑みかけた。

「白金色だよ。それは美しい、太陽の光のような、見事な白金色の髪だそうだよ。あたしも、遠くからしか見たことがないけどね」

 その時、にわかに出入り口が騒がしくなった。馬の嘶きが聞こえる。足早に入って来た亭主は、固い表情で言った。

「ラリサさん。こちらから行く手間が省けたよ。お城からお迎えだ」

 立ち上がる間もなく、剣を持った兵が、何人もわらわらと入って来て、ラリサとルークとを取り囲んだ。

 ラリサの視線の先で、奥さんは、両手を胸の前で組んだまま、隅で震えていた。

 兵達の長らしき人物が一歩、前に出て、ラリサの前で跪いた。

「イエリン地方のラリサ様ですね?こちらは、ご子息ですか?」

 ラリサは、頷いた。

「そうです」

 男は、軽く会釈して言った。

「お探ししておりました。ヴェリア城までご案内いたします」


 馬車に乗せられ、その前後を護衛されながら、ラリサとルークは、ヴェリア城の城門をくぐった。

 城に着き、案内されるまま、階段を何段も上がり、細長い廊下を歩いた。城の奥深くに入っているのだろう。使用人の姿もなく、あったとしても、案内の男の姿を認めると、ひっそりと会釈して去って行った。

 ラリサとルークは無言で歩いた。突然の出来事に、これから何が待っているのか、全く予想もつかなかった。

 暗い廊下を静かに歩きながら、まるで、夢の中にいるようだ、とラリサは思った。

 この静けさ、暗さ、重さは、ルークが夢のことを語っていた時に、ラリサが感じていた感覚と似ている。

 今、ラリサは、ルークと共に、彼の夢の中に入り込んでいるような錯覚を覚えた。ルークを見ると、唇を引き結んで、その黒い目を大きく開けて、前を凝視している。ルークも同じように感じているのだろうか。

 男は、ある部屋の扉の前で足を止め、ラリサを振り返った。

「まず、こちらの部屋にご案内するよう、言いつかっております」

 そして、噛んで含めるように言った。

「・・驚かれるかもしれません。が、どうぞ大きな声を立てないで下さい」

 扉をノックした。

「・・カイザ様、失礼いたします」

 扉の向こうからは、何の反応もない。男は、ゆっくりと扉を開けた。

「カイザ様に、お客様でございます。・・さあ、ラリサ様、こちらへどうぞ」

 促されて、ラリサは歩を進めた。ルークも後に続いた。

 厚い敷物が敷かれているのか、足音もしない。薄い布がかけられている窓が見えた。その窓には、太い鉄格子が嵌っていた。

 部屋の奥に長椅子があった。そこに、立ち上がろうとしたまま、固まって動けなくなってしまったような子どもの姿があった。腰を浮かしたまま、こちらを見ている。

 歳は五、六歳に見える。小柄で、頬がふっくらとしていて、まだ幼く見える。

 同じ黒髪黒眼だが、ルークとは、全然、似ていない。どこかにルークの面影を探すが、見つからない。病的なほど青白い顔色、生気のない、うつろう視線。よく見たら、その身体は、小刻みに震えていた。

 ラリサが歩を進めると、子どもは、身体をびくりと震わせて、長椅子の後ろにさっと隠れた。

「あの」

「・・なさい」

 ラリサが話し始めるのと、子どもが口を開くのが同時だった。

「え?」

 ラリサは、聞き返した。子どもは、長椅子の後ろに自らを必死で隠そうとしたまま、再び、か細い声を出した。

「ぼ、く・・ご、め、なさい」

 一歩、進んで、ラリサは、ゆっくりと言った。

「わたくしは、ラリサ・ドーサと申します。こちらにおりますのは、わたくしの息子、ルークにございます。突然、お邪魔して申し訳ございません。わたくしは・・」

「・・ごめ、なさい」

 子どもは、繰り返した。ラリサは、顔を上げ、無言で、長椅子に近づいて行った。

「ラリサ様!」

「母上!」

 後ろにいる二人の制止の声も聞かず、ラリサは、長椅子の後ろに回り、そこでうずくまる子どもの顔を上げさせる。

 子どもは、小さな悲鳴を上げた後、両手で頭を抱えた。

「ぼ、く、ごめ、なさい。・・ごめ、なさい。ごめ、なさい・・」

 悲痛な声が、唇から流れ出る。

 ラリサは、咄嗟に、その左手を掴み、強引に袖をめくった。

 細い腕には、むごたらしい無数の傷跡があった。そして、ラリサは見た。

 かつて自分の赤子の左の二の腕にあったのと同じ形の青い痣が、目の前の子どもの腕にあった。

(目印・・。見つけた。ここにいた。こんな所に・・)

 ラリサは、呆然とした。

 片方の手をラリサに奪われて、子どもの顔が露わになった。子どもは、涙と鼻水を流しながら、まだうわ言のように繰り返していた。

「ごめ、・・なさい。ぼ、く、ごめん、なさい。・・おかあ、さま・・」

 ラリサは、ゆっくりと子どもの手を離した。何かを言おうと、ルークの方を振り返る。けれど、目の前にいる子どもの、あまりの尋常でない様子に、言葉が何も出てこない。

 ルークもまた、ただ黙って、目の前の子どもを見ながら、立ち尽くしていた。



 先触れの声と共に、その人は、現れた。

 ラリサとルークは、案内の男に促されるまま、その前にひれ伏した。

「面を上げよ。ラリサ、久しいな。幾年ぶりか」

 懐かしい声音だった。

「七年振りでございます。ルイス様、いえ、ダイン皇帝」

 ラリサは、そう言って、目の前の玉座に座るダイン皇帝を、睨むように見た。

 先に案内された部屋にいた子どもの左の二の腕の痣を見た時、ラリサは、全てを悟った。

 自分の恋の相手が、ダイン皇帝本人であったこと、奪われた息子が、皇太子として育てられていたことを。

「相変わらず、美しいな。・・隣りにいるのは、あの時の双子の弟か?」

「いいえ」

 真っ直ぐダイン皇帝を見つめたまま、ラリサは、即座にきっぱりと否定した。

「双子の弟の方は、あれから間もなく病を得て、死にました。この子は、その後、別の恋人との間に出来た子でございます」

 ダイン皇帝は、ラリサを静かな目で見つめ、頷いた。

「・・そうか」

「わたくしを探していたとか。どういうことか、お聞きしましょう」

 ダイン皇帝は、しばらくルークを見つめた後、視線をラリサに戻した。

「・・わたしは、長い間、イザベル皇妃との間に、子どもに恵まれなかった。皇妃は、妊娠しても流産してしまったり、死産だったりすることが多かった。都に戻ってから、そなたの父からの手紙で、そなたが妊娠したことを知った時、皇妃も妊娠していた。わたしは、そなたと生まれてくる子どもを都に呼び寄せる気は、最初からなかった。皇妃は悋気が強い。皇妃がそなた達のことを知れば、そなた達に何をするか分からなかった。生まれてくる子どもは、そなたと共に、イエリンのドーサ家で、ゆったりと育てばよいと考えていた。

 皇妃は、無事に皇子を出産し、都中が喜んだよ。皇子は、カイザと名付けた。ところが、二か月も経たない内に、ほんの僅かな間、乳母が目を離した隙に、皇子は死んでしまった。原因は分からなかった。皇妃は、気が狂うほどに悲嘆し、乳母をその場で斬らせた。皇妃はその場で笑いながら、わたしに言ったよ。怠慢な乳母に天罰を加えたから、これでわたし達の皇子は、もう大丈夫だと・・」

 ダイン皇帝の目は、暗く濁っていた。

「皇妃の妄想は膨らんでいった。もうこの世に存在しない皇子を探して、毎夜、城の中をふらふらと歩き回った。皇子はもうどこにもいない。だが、そう皇妃に言ったが最後、自分達の命が危うくなることを、誰もが知っていた。無論、皇妃は、わたしの言うことも、一切、聞こうとしなかった。

 そんな時、イエリンのそなたのことを思い出した。そなたが、双子の男子を出産していたことを。そなたは、わたしの子ではないと言っていたが、そなたの侍女に確認して、わたしの子であることは分かっていた。だから、そなたの元に行った。この目で子ども達を確認し、兄の方を都に連れて行き、皇妃との間の子として、育てていこうと思った。わたしの子であることに変わりはないのだから、血筋は問題ないのだと。

 だが、大きな誤算があった。皇妃は、わたしが連れてきた赤子が、自分が産んだ子でないと、最初から分かっていた。今も生きていると信じている自分の子は愛しているが、目の前にいるカイザは、憎い。わたしが、戦闘で城を長く空けている間、皇妃は、長年に渡って、カイザに、様々な虐待を行っていたらしい。わたしに決して気づかれぬよう、衣服の下に隠れて見えないところに傷をつけ、乳母や召使達を取り込んで・・」

 ダイン皇帝は、大きく息を吐いた。

「カイザを見ただろう・・?あれの様子が尋常でないことに、わたしが気づいたのは、最近になってからだ。乳母や召使達を詰問し、全てが分かった。皇妃はともかく、乳母や召使達に任せていれば、大丈夫だと思っていた。迂闊だった。カイザは、完全に皇妃に支配され、今、誰が側に来ても、ひどく怯える。

 カイザは、いずれわたしの後を継ぐ皇太子だ。どうにかして、育てていく必要がある。わたしは、そなたのことを思い出した。そなたなら、カイザの実の母親である。カイザも心を許すのではないか。だから、そなたをこの城に呼ぼうと考えた。使いをやって驚いた。そなたもまた、赤子を探しに都に旅立ったというではないか。

 何も告げずに、そなたから赤子を奪っておいて、このようなことを頼むのは、虫がよすぎるのは承知している。だが、そなたにしか頼むことが出来ぬ。ラリサ、このヴェリア城に留まって、カイザの面倒を見てやってくれないか?」

 ラリサは、ダイン皇帝の言葉を、ただ黙って聞いていた。

 口を開けば、怒りのあまり、叫び出しそうだった。

「・・あの子達を・・」

 ぐっと息をこらえながら、言った。

「あの子達を産んだ時のわたくしは、何も知らない娘でした。あなた様があのまま去っていって下されば、きっと、今でもイエリンで平和に暮らしていたでしょう。・・でも、あなた様が、あの子をわたくしの元から奪い去っていったあの瞬間から、わたくしは、平穏に生きることを許されなくなってしまいました。・・あなた様は、わたくしから子どもを奪っておいて、何をしておいでだったのか?」

 カイザの怯えた表情を思い出す。痛ましい傷跡が脳裏から離れない。声が震えた。

「・・あなた様は、あなた方は、わたくしの子に、いったい、何をしたのですか!あの子の父親であると言うのなら、何故、あなた様は、あの子を守ってやれなかったのですか!何故、あんな風になる前に、もっと早く、気づいてやれなかったのですか!」

 怒りで身体が震えた。

 ダイン皇帝は、申し訳なさそうに、顔をそむけた。

「・・すまないと、思っている」

「皇妃は?皇妃は、今、どうしているのですか?」

 ダイン皇帝は、厳しい表情で言った。

「状況を把握してからは、カイザは、皇妃から隔離した。カイザの養育については、今後、その一切をそなたに任せる。皇妃に口出しはさせぬ。ラリサ、どうか、引き受けてくれ」

 そう言って、ダイン皇帝は、ラリサに頭を下げた。



     4



「・・昔話は、どうしても、長くなってしまうね」

 ラリサは、セリカを見て、自嘲するように笑った。

「イザベル皇妃は、その二年後、病気で亡くなり、ダイン皇帝もこの度、身罷られた。どんどん昔の話になっていくね。・・まあ、わたしとルークが、カイザ様のお側で仕えるようになったのは、そういう経緯があったのさ。

 カイザ様も、少しずつだが、良い方向にお変わりになっていると思う。皇妃存命の際は、時に妨害もあって、時間もかかったが、人前に出られるようになったし、馬も剣も、よくお使いになられる。そなたも話して知っていると思うが、理解力も、ちゃんとおありになる。

 そして、ダイン皇帝亡き後、これから必要になるのは、皇帝としての務めだ。このカストニア帝国を統べる人間として、後継者をもうけること、公平で信頼出来る人間を、常に側に置くこと。わたしとルークだけじゃ役不足だ。さすがに、夜の方まではね・・」

 苦笑するラリサに、セリカは言った。

「それで、わたしなのね・・?どうして、ラリサ?どうして、わたしなの?」

 ラリサは、セリカを真っ直ぐ見て言った。

「公平で信頼出来ると、わたしが感じたからさ。後は、・・直感かな。あのブレッシェンの戦いで、そなたが剣を持って戦うのを見た時、そなたの姿があまりにも衝撃的で、語弊はあるかもしれないが、わたしには、生き生きとして見えた。このような娘を側に置けば、カイザ様に良い影響が生まれるのではないかと思ったんだ。そう思っていたら、そなたが自ら、カイザ様が眠る天幕に現れた。これこそ天祐というものではないかと思ったよ。

 カイザ様が、そなたを城から逃したと聞いた時は、本当に驚いた。カイザ様が、あのような積極的な行動を起こすことなど、今まで考えられなかったから。そなたを捕えたという旅商人の隊長から、詳しく話を聞いた時、わたしは確信した。そなたをカイザ様の側女として置くのではなく、妃にすべきだと。・・そなたには、やはり世間知らずで、どこか甘い部分がある。けれど、だからこそ、人を魅了する。そなたの言動は、公平で信頼出来る。そなたになら、カイザ様を任せられると思った。

 セリカ、頼む。わたしとルークと共に、カイザ様に仕えてもらえないか。皇妃となり、カイザ様を守り、支え、この帝国を統べる後継者を産んでもらえないか」

 ラリサの真剣な表情に、セリカは、なんと答えたらいいのか、分からなかった。

 たった今知った様々な事実が、頭の中を駆け巡る。ふと、頭の隅に引っかかった疑問を口にした。

「・・ルークでは、駄目なの?」

 ラリサが、顔を上げた。

「ルークは、本当は、カイザの双子の兄なんでしょう?それなら、そもそも皇位継承権は、ルークの方が先なんじゃないの?」

 ラリサは、固い表情で言った。

「わたしが産んだ双子の内、一人は、幼い頃、行方不明になった。そして、双子の片割れは、その後間もなく、病を得て死んだんだ。わたしが、ダイン皇帝にそう申し上げた。陛下もそれに頷いた。カイザ様は、ダイン皇帝とイザベル皇妃とのお子だ」

「でも、それなら、無理にカイザを皇帝に就けなくてもいいんじゃない?ダイン皇帝にだって、兄弟姉妹はいるのでしょう?ダイン皇帝の血縁者に皇位を譲ればいいじゃない。だって、カイザは、そんなの望んじゃいないんでしょう?彼に資質がないことは、誰が見ても明らかなのだから・・」

 セリカの言葉に、ラリサが立ち上がり、近くにあったカップを掴み、床に投げつけて、叩き割った。

「知った風なことを簡単に言うな!・・それでは、カイザ様は、何故、あのような目に遭ったのだ?」

 怒りに満ちた目で、セリカを睨む。

「カイザ様は、わたしやそなたが味わったこともない、想像を絶する恐怖と苦痛を、幼い頃から味わってきた。それが、どれだけ深くカイザ様の無垢なお心を傷つけてきたことか。それは、何故だ?何故、カイザ様は、そんな目に遭わなければならなかったのか?皇太子だったからだ。イザベル皇妃を母に持つ皇子だったからだ。・・ダイン皇帝が、カイザ様を次の皇帝として育ててきたのなら、必ず、皇位に就いてもらう。わたしも、ルークも、十一年間、その為に、カイザ様にお仕えしてきたのだ」

 ラリサが、小さく息をついた。

「・・そなたも、色々と考えるところがあって、この城に戻って来たのだろう?今一度、カイザ様にお目にかかり、じっくり考えて欲しい。カイザ様の妃となり、カイザ様を支えて差し上げて欲しい。どうか、頼む」

 そう言って、ラリサは、セリカの前で膝を折り、深々と頭を下げ、床に叩頭した。

 セリカは、ただ黙って、ラリサの細くて白いうなじを、見つめることしか出来なかった。



 ラリサの部屋を出ると、扉の前に控えていたルークが、カイザ様の元にご案内いたします、と言った。セリカは頷いた。

 一人でぐるぐる考えていても、結局、何の結論も出てこない。それなら、当事者同士、しっかり向き合った方がいい。

 自分が、カイザを夫として迎えられるのか、このカストニア帝国の皇妃になどなれるのか、そして、カイザ自身もそれを望むのか、彼の考えはどうなのか、ちゃんと話し合って、見極めた方がいい。

 静かに目の前を歩くルークに、セリカはそっと、話しかけた。

「・・あなたの母君から、全てを聞きました。ルーク、あなたも母君と同じ考えなの?カイザが皇位に就くことが、彼にとって良いことだと思っているの?」

 ルークの背は、何も答えない。その足取りは、いつも通り、ゆったりと落ち着いていた。

 しばらく歩いてから、カイザの部屋の扉の前で立ち止まった。ルークが頷くと、扉の両脇に立っていた二人の近衛兵は、敬礼して立ち去った。

「カイザ様は、こちらでお休みでございます」

 セリカの方を振り返って、ルークは言った。

「先程の質問ですが・・」

 いくぶん声を落として、ルークはセリカを見つめた。

「わたくしは、カイザ様こそが、このカストニア帝国の皇帝となられるべくしてお生まれになった方であると、確信しております。そして、セリカ様こそ、カイザ様のお妃に相応しい方でございます」

「どうして、そう言い切れるの?」

 ルークは、ふっと笑った。

「幼い頃より、多くの物を共に見てまいりましたから・・。それに、カイザ様が、自ら城からお出しになった筈のセリカ様が、今、こうして、ここにいらっしゃる。それが、答えではありませんか?」

 優しいが、真剣な眼差しで逆に問われ、セリカは、言葉に窮した。

「・・わたしも、よく分からないの。どうしてまた、ここに戻ってしまったのか。だからまずは、カイザに会おうと思ったの。だって、これは、わたしとカイザのことだから」

 ルークは優しく笑んで頷いた。

「その通りでございます。父君がお亡くなりになってから、睡眠の周期が不安定になっておりましたが、セリカ様のお顔を見ましたら、きっとまた、元気になられるでしょう」

 そう言って、ゆっくりと扉を開けた。


 カイザは、ちょうど目覚めたばかりのようで、寝台の枕にもたれ、窓の向こうを眺めていた。

 部屋の中に入ってきたセリカを見て、カイザは、短く言った。

「セリカ、何故、戻った?」

 純粋な驚きがこもった言葉だった。ラリサの思惑など、まだ知らないのだろう。セリカは、なんと答えたらよいのか分からなかった。

「・・あの、ダイン皇帝が崩御されたと聞いたわ」

 身体を起こそうとするカイザの背を支えて、セリカは介助した。

 カイザは、小さく頷いた。さらさらと額に黒髪がこぼれた。

「そうだ。急な心臓発作だそうだ。あまりに突然のことで、何も言葉を交わすことが出来なかった・・」

 淡々と言葉を紡ぎ出す。特に悲嘆している様子はなかった。ダイン皇帝も、カイザが皇妃から、虐待を長い間受けていたことを見逃していたくらいだ。もともと、そういう親子関係だったのだろう。

「一か月後に、カイザが新皇帝として戴冠式を行うそうね」

「・・そのようだ」

 呟くように、カイザは答えた。

 まるで誰か、別の人の話をしているかのようだった。

「おめでとうございます」

 セリカが言うと、カイザは、セリカに不思議そうな顔を見せた。

「・・何故、そのようなことを言う?」

「だって、カストニア帝国の皇帝よ。あなたは、このケイナス大陸で、最も強い権力をその手で握れるのよ。ラリサもルークも、それを望んでいるわ」

 セリカの言葉を聞いて、カイザは、自分の手のひらを静かに見つめ、ぽつりと言った。

「・・わたしは、何も持っていない。わたしには、何もない。この広いケイナス大陸において、わたしが知らないこと、分からないことは、多くある。だが、たった一つ、わたしに分かっていることがある。わたしには、わたしがない」

 カイザは、自分が身につけた服の胸の辺りを、両手で、ぎゅっと掴んだ。

「わたしには、わたしという人間が入っているのかすら、よく分からない。ラリサやルークが、何故、わたしを皇帝にと望んでいるのか、分からない。何も、分からないのだ・・!」

 セリカは、黙って聞いていた。

 幼い頃から、皇妃から受け続けてきた虐待によって、カイザの心の有り様がどのような影響を受けてきたのか、セリカ自身にもよく分かっていなかった。だから、何も言えなかった。言えるとすれば、自分が知っているカイザのことしかない。

「・・カイザ、以前、わたしの故郷のパンのことで、わたしがあなたに狼藉を働いた時、あなたは、それを罰せずに許してくれた。わたしの話を理解し、床の上に落ちたパンを拾って、食べてくれた。・・それに、城から出して欲しいという、わたしの願いを聞いて、城の市門を開けさせ、馬をわたしに与えて、城から逃してくれたわ。あなたは、決して、何も持っていない訳じゃない。あなたは、他人の気持ちを思いやれる、優しい心も持っているし、いざという時の行動力も持っている人よ」

 懸命にセリカの言葉に耳を傾けるカイザの顔は、まるで小さな子どものように見えた。

 本来なら、幼少期に、母親や保護者から与えられる、大きな愛情や、肌の触れ合いによる親密な交流を、カイザは与えてもらえなかった。

(本当は、皇位なんかじゃない・・!)

 ラリサは間違っている、とセリカは思った。

 本当にカイザに必要なもの、幼かったカイザが欲しいと願っていたもの、願うという選択肢すら与えてもらえなかったもの、それは、安心感だ。

 身体が傷つけられず、心が痛むことなく、何の心配も不安もなく、毎晩ぐっすり眠ることが出来る安心感。

 彼に必要なのは、ただそれだけなのだ。

 セリカは、寝台に腰かけ、手を伸ばしてカイザの手を取った。

 カイザの黒い瞳が、問うように、セリカを見つめる。セリカは、カイザの手を両手で包んだ。そして、そっとカイザの髪に指を触れ、その頭を、自分の胸に抱きしめた。

 不安そうに、カイザが訊いた。

「セ、リカ、何を・・?」

「大丈夫。目を閉じて。しばらくこのままでいて」

 見開いていたカイザの目が、ゆっくり閉じられた。せわしない呼吸が落ち着いてきた。次第に、自分の胸にカイザが頭を預けていることを感じ始めた。

 どのくらいそうしていたのだろうか、気づくと、セリカの胸の中で、カイザは静かな寝息を立てていた。

「これじゃあ、本当にお母さんになったみたいね・・」

 セリカは呟きながら、カイザの頭をそっと枕の上に移動させた。毛布をかけてやる。

 安らかな顔をして眠るカイザを見つめながら、これから、この人はいったい、どうなってしまうのだろうか、と思った。

 一国の主となるには、今のカイザは、あまりにも幼く、弱すぎる。生涯の大半を、自ら選んで戦場で過ごしてきた父帝のように、このカストニア帝国を力強く統べることなど、本当に可能なのだろうか。

――後継者をもうけること、公平で信頼出来る人間を、常に側に置くこと。

 ラリサの言葉を思い出す。

 ラリサが自分に望んでいるのは、カイザの側にいて、彼との間に子をもうけることだ。

 自分にそれが出来るのだろうか。婚約者がいたが、自分はまだ生娘だ。男女の夜の営みのことも、侍女から聞いた話しか、よく分かっていないのだ。

 さっき触れたカイザの手は、思いのほか温かく、セリカの手を包んでしまいそうなほど、大きかった。

「・・この手で、あなたは、これから、何を掴み取るの?」

 セリカは、目を閉じたままのカイザの寝顔に向けて、そっと呟いた。

 何かを掴み取って欲しい、と思った。



 カイザの戴冠式の準備は、着々と進められた。

 もともとダイン皇帝の皇子は、皇太子であるカイザのみであり、ダイン皇帝も、かねてよりカイザを自分の後継者として、内外に知らしめていた。

 ダイン皇帝にとって、大きな誤算だったのは、自身が急逝したことだろう。ダイン皇帝は、カイザの妃も、後ろ盾となる外戚も決めぬまま、この世を去ってしまった。

 残された家臣達は、動揺を抱えながら、ダイン皇帝の遺志に従い、カイザの教育係の長のラリサと図り、戴冠式の準備を進めた。

 家臣達が驚いたのは、ラリサが、カイザの正妃として、先のブレッシェンの戦いで、カストニア帝国に敗れた、ブレッシェン伯の娘をぜひにと推してきたことだった。

 異論も多少は出たが、カイザの状態は周知のことだったので、カイザにとって最も相応しい相手として、ダイン皇帝の信任も厚く、長年カイザに仕えてきたラリサが推すのなら、と賛同された。


「そなたが、カイザ様の妃となることが内定したよ」

 重臣会議を終えたラリサから、そう告げられた時、セリカは、自分でも驚くほどに静かな気持ちでいられた。

「そう・・」

「そなたの決意に、感謝する」

 ラリサは、そう言ってセリカに頭を下げた。

 セリカは、自分の胸にそっと手を置いた。

 何度も自問した。これからしようとしていることは、自分の心を殺すことか、それとも生かそうとすることか。

 一度は、逃げようとした。性の奴隷として扱われることが、何より怖かったし、耐え難いと思ったからだ。

 けれど、不思議な流れの中で、セリカは今、ここにいる。ラリサから、カイザの生い立ちの話を聞き、カイザと共に時間を過ごす内、次第に自分自身の気持ちが変化していくのを感じていた。

 セリカは、カイザが嫌いではなかった。傲慢でなく、決して他人を傷つけない。思考がゆっくりで、喜怒哀楽といった感情は分かりにくいが、その心は、驚くほど素直で、思いやりがあることも知っている。

 そして、カイザに、優しさと他人を思いやる心を教え、導いたのは、他でもない、ラリサなのだ。ラリサとルークが、カイザに献身的に仕え、常に側にいたからこそ、傷ついたカイザの心身が、少しずつ癒やされていったのだろう。

 ラリサの話を聞いた時、最初は、カイザを皇帝にすることは、カイザの為を思ってのことではなく、母としての、ラリサの勝手な思いからきたことなのではないか、と不満にも思った。

 けれど、どちらにせよ、カイザが皇帝になることは、もう決まっているのだ。

(それなら、ラリサとルークと一緒に、カイザを守っていきたい)

 そう考えるようになった。


 その日は、カイザの戴冠式と、その二か月後に行われるセリカとの結婚式に着る衣装合わせを行う為に、朝から仕立て屋が、ヴェリア城に大勢やって来た。

 セリカは、仕立て屋に言われるがまま、様々な衣装を着たり、脱いだりを繰り返した。

「お妃様の美しい金色の髪が映えるよう、晩餐会用のドレスは、こちらの色に」

「謁見の間でのご挨拶の際には、カイザ様の王冠に合わせて、この髪飾りをなさると、とてもお似合いでございますよ」

「お妃様、こちらの翡翠のペンダントも、ぜひご覧下さいませ」

 ブレッシェンでは見たこともない、触れたこともない、滑らかで良質な生地と、まばゆい宝飾品を、次から次へと並べられ、試着を勧められ、セリカは、次第に目眩がしてきた。

 少し休ませて欲しい、と、中庭に一人出た。

 戴冠式に向け、城中の人間が、忙しく立ち働いている。白髪頭の庭師がセリカの姿を認め、膝を折って礼をした。

「仕事中、ごめんなさい。少し、ここで休ませて」

 庭師は頷き、ガラガラと荷車を引いて、姿を消した。

 セリカは、庭に面して置かれたベンチに腰を下ろした。静かに息を吐き、両手で顔を覆った。

 セリカがカイザの皇妃となることが決まってから、急に身辺が慌ただしくなった。

 カストニア帝国の大臣達が、次から次へと挨拶にやって来た。

 儀礼を司る大臣が、セリカに分厚い巻物を見せながら、このカストニア帝国の歴史、戴冠式と結婚式で執り行われる儀式と式典の説明を始めた。

「全て、皇妃様に覚えていただかなくてはならない、大切な事項でございます」

 セリカには、五人もの召使が付けられた。カイザも準備で忙しいらしく、顔を合わせる機会がなかった。ラリサもルークも、カイザに付ききりで、姿を見せない。

 全て、自分で決めたことだった。けれど、結婚式で着る衣装に腕を通した時は、胸の奥が痛んだ。

 かつて、今と同じように結婚の準備をしていた。ずっと簡素だったけれど、カチアおばさんが、セリカの為に縫ってくれた白いドレスを着た時の、あの、ふわりとした優しい幸せに包まれた感覚を思い出した。

(・・ごめんなさい、カリエ。ごめんなさい、カチアおばさん・・)

 優しかった婚約者の笑顔を思い浮かべた。ここに残ると決めてから、カリエのことは、決して考えるまいと思っていた。そんな資格すら自分にはないのだ。自分は、カリエとの結婚の約束を破り、別の男の元に嫁ごうとしているのだから。

 目の中に滲んだ涙を、両手で押さえ込んでから、セリカは、顔を上げた。

「・・セリカ様、お探しいたしました。今、よろしいでしょうか?」

 ルークの控えめな声が、後ろから、かかった。振り向くと、ルークとその後ろにカイザが立っていた。カイザは、セリカの顔を、固い表情で見つめていた。

「カイザ様が、セリカ様と少しお話ししたいと申されまして。・・カイザ様、わたくしはあちらに控えておりますので、何かございましたら、お呼び下さい」

 そう言って、ルークは、立ち去った。

 カイザは、セリカの前に立った。ひどく真剣な顔をしていた。

「・・ずっと、訊きたいと思っていた。セリカ、そなたは、何故、ここに戻った?そなたには、ブレッシェンに婚約者がいると聞いた。何故、わたしの妃になるのだ?ラリサが、そなたにそう命じたのか?」

 セリカは、カイザの顔を見上げた。気のせいか、この数日会わなかっただけで、カイザは、随分と大人びたように見えた。あの時、セリカの胸の中で寝息を立てていたあどけなさは、すっかり消えていた。突然の環境の変化が、カイザの心身にも大きく影響を与えているのだろう。

 セリカは、カイザに答えた。

「ラリサに命じられたからではないわ。わたしが、自分で決めました。あなたの妃になると」

 カイザが目を瞬いた。

「何故だ・・?そしたら、セリカの心は、死んでしまうではないか」

「カイザ、わたし、あなたに城から出してもらってから、考えたの。ブレッシェンが滅び、わたしが生き残った意味を。わたしがここに連れて来られて、あなたに会った意味を。・・わたしには、何か、ここで出来ることがあるんじゃないかって」

 以前、ブレッシェンで農民のナナに言われたこと、オーデン湖で警備兵に引き渡される直前に、ルカとトール隊長に言われたことが、ずっと頭に残っていた。

 かつて、ブレッシェンの領民を守ることが、セリカの務めだった。ブレッシェンを失い、その務めはもう終わったのだと思っていた。

 けれど、セリカは、自分の務めを、まだ何も果たしていなかった。ルカと違い、自分は、衣食住に不自由せず、安全な場所で、多くの人に守られて育てられた。その幸福を享受した分、自分は、この世界に対して、何かを返すべきなのではないか。

「・・本当は、よく分からない。確信がある訳じゃない。でも、もし、あなたがわたしを必要としてくれるのなら、わたしは、あなたの側にいたいと思ったの。あなたの側で、自分に出来ることが、何かあるのではないかと感じたの。・・だから、決めたの。わたしは、そう感じた自分の心を、生かそうと思ったの」

 カイザは、きつく唇を引き結んだまま、真剣な表情でセリカを見つめた。

 セリカも、カイザを見つめ返した。

 ずっと伝えずにいたことを、カイザにやっと言えた。

 カイザのことは、まだ分からない部分の方が大きい。

 彼は、人間として、皇帝として、これから、多くの困難に直面することだろう。それを想像しただけで、セリカの胸は、訳もなく締めつけられて、苦しくなる。

 そう、今、セリカは認める。

 自分は、この人に、確かに惹かれている。側にいて、守りたい、支えたい、と思うようになっている。この気持ちは、いったい何なのだろう。

 カイザは、黙ったまま、セリカをずっと見つめていた。まるで、頭の中で、セリカの言葉を反芻しているかのように、しばらく静寂が続いた。

「・・わたしは」

 カイザが、ゆっくりと口を開いた。

「わたしが、誰なのか、今も、分からない。前にも、そなたに同じことを言った。こうやって戴冠式の準備をしていても、自分のこととは思えない。そなたが言うことが、よく分からない。そなたが、わたしの何を見ているのかが、分からない」

 そう言って、苦しげに頭を抱えて、しゃがみこんだ。

 セリカは、カイザの背を優しく抱いた。

「・・カイザ、大丈夫よ。何も心配しないで。あなたは、あなたのままで、そのままでいいのよ」

「わたしは、わたしのままで・・?」

 カイザが顔を上げる。セリカは頷いた。

「そう。あなたは、今のあなたで充分なのよ。思いやりのある、優しいあなたのままで。わたしも、ラリサもルークも、いつも側にいるわ。何も心配することはないわ」

「いつも、側に・・?」

「そうよ。だってわたし、あなたの妃になるのだから。・・まだあなたからは、何も言われていないけど」

 冗談めかして言うと、カイザは、ひどく戸惑った顔をした。セリカは笑った。

「いいの、無理しなくて。でも、その内、言ってね」

 カイザと話していたら、先程まで感じていた胸の痛みが薄れていくことに、セリカは、気づいた。

 こんな感じでいいのだ。こうやって、少しずつ、共に時を過ごしていくことが、自分にとってもカイザにとっても、大事なことなのだ。


 ルークの先導で、カイザと共に城に戻る。

 突然、扉がバタンと音を立てて開き、怒号と共に、一人の娘が飛び出して来た。

「待て!」

「不届き者め、捕まえろ!」

 そのすぐ後ろを、剣を握った警備兵達が追って来た。

「何をしている!カイザ様の御前であるぞ」

 ルークが鋭い声を発すると、警備兵達が、はっとしたように、ルークの後ろに立つカイザを見て、膝を折って頭を垂れた。

「大変、失礼いたしました」

「いったい、何の騒ぎだ」

 ルークが問うと、警備兵達は、後ろ手に掴んだ少女を、カイザの前に座らせた。

「この娘、調理場で働いている娘なのですが、あろうことか貴重な、ハイル産の塩を盗もうとしたのでございます」

「なんと、ハイルの塩を・・?」

「はい。この娘が、壺から塩をすくって小袋に入れるのを見た、と申す者がおりまして」

 城の調理場から物を持ち出すことは、大罪であった。特に、ハイル海でとれる塩は、滋味豊かなことで知られ、非常に高価だったので、皇帝とその家族、賓客しか使うことが出来なかった。

 ルークが訊いた。

「娘、それは本当か?」

 娘は、力尽きたように、ぐったりと頭を垂れていた。

「申し訳、ございません・・」

 その頬には、幾筋の涙が伝っていた。まだ十代初めくらいの少女であった。

「泣いて許されると思っているのか!」

 警備兵に怒鳴られ、引き立てられようとしたその時、セリカと共に、黙ってその様子を見ていたカイザが、口を開いた。

「待て」

 その場にいた全員が、カイザの方を見た。

「・・理由は?」

「は?」

「理由が知りたい。娘、・・何故、ハイルの塩が欲しい?」

 カイザに、直接尋ねられて、娘は、見るからに狼狽した。

「・・も、申し訳ございません。わたしには、体が弱く、寝たきりの母がおります。その母の具合が急に悪くなりまして、何も、口にしようとしません・・」

 言いながら、またぽろぽろと涙を落とした。

「・・何も口に出来なければ、命が尽きる日もそう遠くはない、とお医師に言われました。わたし、何とか、母に何かを食べて欲しくて、生きて欲しくて・・。お城にある魔法の塩と呼ばれているハイルの塩を料理に混ぜたら、もしかしたら、母が少しでも食べてくれるのではないかと考えました。考え始めたら、いても立ってもいられなくて、塩入れの壺に手を伸ばしてしまいました。・・どうか、どうか、お許し下さい」

 娘は、地面に額を押し付けて平伏した。カイザは、それを静かな瞳で眺めていた。

 しばらくの間、沈黙が流れた。

「・・行け」

 カイザの言葉に、娘が顔を上げた。

「ハイルの塩を、母親の元に持って行くがいい」

 隣りにいた警備兵が、信じられないといった顔をした。

「カイザ様、よろしいのでございますか?」

「よい。早く持っていけ」

 娘は泣きながら、ありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返した。

 カイザの表情は、静かなままだ。

 セリカは、ルークと目が合い、そっと笑みを送った。

 ルークもまた、口の端に、かすかな笑みを作った。

 カイザは、ヴェリア城の中から、帝国の至る所まで、これからどんな風に、このカストニア帝国を変えてゆくのだろう。

 セリカは、自分の胸の中に、ほのかな温かな思いが生まれているのを感じた。

 まだ小さいれけど、確かにある、眩しくて、キラキラしたもの。

 これは、きっと、希望というものなのだろう。




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