第二章
第二章
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黄金色に染まる麦を、ブレッシェン伯領の農民達が、鎌を持って、総出で刈りとっている。
今年の麦は豊作だった。長雨と続く日照りに、今年もまた昨年と同じように不作と見られたが、予想外の出来に、農民皆が胸をなでおろした。
海から遠く離れた、ケイナス大陸の辺境の地と呼ばれるブレッシェン伯領には、穀物以外にこれと言った特産物はない。
人々は、ただ、ブレッシェン伯から与えられた土地を耕して種を蒔き、水を与え、草を刈り、麦踏みを行い、その成長をひたすらに見守りながら、一年を終える。
農民達の表情は明るい。その額に汗を浮かべながらも、人々は歌を歌い、時折、大きな笑い声を立てて、麦の刈り取りにいそしんでいた。
二人の兄妹らしい幼子が、落ちた麦の茎を拾って、ぶんぶん振りまわして遊んでいる。
「こらこら、お前達、麦をおもちゃにして遊ぶんじゃないよ」
母親が注意すると、妹らしい女の子が声を上げる。
「お母ちゃん。あたしは、遊んでいるんじゃあないのよ。セリカさまみたいに、くんれんをしているのよ」
隣りにいた男の子が言った。
「お前がセリカさまなら、おいらは、カリエさまだい!セリカさまより、カリエさまの方が、お強いんだ!」
妹が真っ赤になって、兄に異議を唱える。
「違うもん。セリカさまの方が、ずっとお強いもん。お馬だって、セリカさまの方が、ずっと早く駆けていける。カリエさまは、いつも、セリカさまを追いかけているもん!」
「こらこら、お前達、もういい加減におし!」
親子のやり取りに、周囲で手を動かしていた農民達が、どっと声を上げて笑った。
「確かにねえ、我らのセリカ様は、並の騎士よりも腕が立つそうだからね」
「お父上のリチャード様の側近方よりも、早駆けが上手いし」
「おまけに、可愛らしく、気立てがいい。まあ、絶世の美女じゃないのが残念だが」
「あとお胸も、ちと小さい」
男達の勝手な言い草に、女達は呆れ顔になった。
「あんた達もいい加減にしなさいよ。秋には、セリカ様もカリエ様とご結婚されるのだからね。ご結婚されたら、奥様になられるんだもの。さすがに、もうこれまでのように、気楽にあたしら農民の前に、馬に乗って現れることなんて、なくなるだろうし」
「なあに、何の話?」
突然、飛び込んできた明るい声に、一同が顔を見合わせた。声のした方に顔を向ける。
「セ、セリカ様っ!」
目の前には、彼らが主と仕える、リチャード・ブレッシェン伯の一人娘のセリカが、金色の髪を三つ編みにし、農民の娘の出で立ちで、鎌を持ち、その緑色の瞳をきらきらとさせて、笑顔で立っていた。
「な、何故、そのような格好を?」
「だって、ここ、わたしが、種を蒔いたのよ。自分で蒔いたんだもの、自分でちゃんと刈り取りたいじゃない?」
すまして言う。後ろには、セリカの愛馬の手綱を引いた、婚約者のカリエが、苦笑を浮かべている。
皆が一斉に跪き、頭を下げた。
カリエが言った。
「皆、刈り取りの邪魔をしてしまって申し訳ない。気にせず、作業を続けてくれ。足手まといになるだけだから、やめておきなさいと、再三言ったんだがね。我が婚約者殿は、なかなか聞く耳を持っていらっしゃらなくてね・・」
「あら、カリエ。これは大事な視察なのよ。我が領民の主要な糧である麦作りを共に行い、共に刈り、製粉して、自分で育てた麦で作った焼き立てのパンを共に食べる。城の中でふんぞり返って星や暦を眺めているより、これ以上の学びはないと思うわ」
抗議するセリカに、カリエは優しく諌めた。
「セリカ、君が今やっていることは、単純に皆の作業の手を止めさせているだけだよ。ほら、ご覧。君を無視して、誰も作業なんか出来やしない。ここに君がいると、誰かが、君の面倒を見なければならない。君が怪我をしやしないか、と心配しなければならないんだよ」
カリエに促され、セリカは周囲を見回した。
確かに、誰一人として作業を行っている者はいなかった。皆、跪きながら、カリエとセリカのやり取りを見守っていた。
強引だった、とセリカは納得した。
「ごめんなさい。わたし、独りよがりだったわ」
小さな頭を下げると、農民達が慌てて立ち上がった。
「とんでもないことです、セリカ様。そんな風に思っていただいて、これ以上嬉しいことはございません」
「そうですとも」
と、先程の兄妹の母親が、笑顔を見せた。
「セリカ様が植えられた麦は、あたしらが責任持って、収穫させていただきます。それを製粉して、お城に届けさせていただきますとも」
「ありがとう、ナナ。でも、わたしがしたかったのは、そういうことではなくて・・」
「セリカ様」
真っ黒に日に焼けた母親が、優しくセリカを見つめる。
「このような身分の者が、差し出がましいことを申し上げます。セリカ様がご幼少の頃から、セリカ様の可愛らしく、愛らしいお姿を間近に見ることが出来たこと、あたしらのような身分の農民にも、分け隔てなく、常に親しく接して下さったこと、このブレッシェン伯領の領民として、ただただ感謝しております。あなた様は、自ら馬を駆け、この地の隅々までお訪ねになり、どんな身分の者にも、親しく声をおかけになり、いつも気にかけて下さった。あなた様は、今や、全領民に愛されていると言っても過言ではないでしょう」
母親の隣りに控える兄妹達が、一心にセリカを見上げている。妹のその小さな手には、先程、剣の代わりとして遊んでいた麦の茎が、ぎゅっと握られていた。
母親は、それを見やりながら、真剣な表情で続けた。
「だからこそ、申し上げます。もうそろそろ、自由に外にお出になることは、控えた方がよろしいのではありませんか」
「お前、セリカ様に、なんてご無礼なことを!」
女の言葉に、周囲が鋭い声をかけた。
「ご無礼は、承知のことでございます!」
女はひれ伏した。
セリカは、真剣な表情のまま、女の肩に優しく触れた。
「ナナ、顔を上げて。話を続けて」
女は頷いた。
「セリカ様、人には領分というものがございます。あたしらは、農民として領主様から土地をお借りし、それを耕して麦を作っております。この子らもそうです。農民の子として生まれ、この大地を耕すことを、あたしら親を見ながら、自分の手と足を使って学び、農民として生涯を閉じるのです。でも、あなた様は」
言葉を切って、女はセリカを見上げた。焼けた肌よりも濃い茶色の瞳が、真っ直ぐセリカを見つめる。
「農民ではございません。騎士でもございません。このブレッシェン伯領を統べるリチャード様の、ただ一人の、お子であります。そして、お優しくて聡明な婚約者のカリエ様と、まもなくご結婚される大切なお方」
女は地面に額ずいた。母親の迫力に押されたように、兄と妹も同じように、地にひれ伏した。
「あたしらは、この鎌と鍬で、この地を守ります。セリカ様とカリエ様は、どうかその類まれな聡明さとお優しさで、このブレッシェンの地をお守り下さいませ」
女の言葉に、周囲の農民達が一斉に額ずいた。
妹が持っていた麦の茎は、その手を離れ、今や、地に落ちている他の麦と見分けがつかなくなった。
「セリカ、少し休もうか」
ブレッシェン城への帰路、先程、農民達から額ずかれた麦畑を遠く見渡せる丘を上がりきったところで、カリエから声をかけられた。
セリカは頷き、愛馬から下りて、その手綱を近くの木に括りつけた。
農民の娘の真似をして編んだ三つ編みをほどいた。金色の光のような長い髪が、風にさらさらと舞った。
カリエが腰を下ろした。セリカも黙って傍らに座る。
眼下に、農民達が再び麦の刈り取り作業をしているのが見えた。先程まで遊んでいた兄と妹も、あの母親の隣りで、腰をかがめて、懸命に手を動かしているのが見える。
「教えられたね」
カリエに優しく言われて、セリカの頬が赤くなった。膝を抱えたまま、その顔を埋めた。
「わたし、恥ずかしい。・・でも、ちょっと悔しい」
言ってから、慌てて顔を上げる。
「悔しいって、農民のナナにああやって言われたからじゃないのよ。ナナの言う通りなのよね。わたしは領主の娘で、農民の娘じゃない。わたしは麦畑で麦を収穫してはいけない。それは、農民達の仕事の邪魔をしているだけなんだってこと」
セリカは唇を噛んだ。
セリカが五歳の時に、母が死んだ。そして母を深く愛していた父リチャードは、後添いを得ることをしなかった。セリカは、リチャードの唯一の子どもだった。幼少の頃から、セリカはブレッシェン伯の後継者として養育された。
父は、セリカに男子と同じ教育を受けさせた。まだ小さなセリカを馬に乗せて、領内の視察を行い、剣と弓矢を持たせ、共に狩りに出かけた。
幼い頃から活発で、好奇心旺盛だったセリカにとっても、城の中で、侍女達と物語や詩を詠んだりするより、父の側近の騎士達と野山を早駆けしたり、農民達と一緒になって麦畑を耕したり、水車小屋で麦を製粉するのを眺めたり、城の料理人と一緒になってパン生地をこねたりしている方が、ずっと楽しく、興味深かった。
領民の誰もが、そんなセリカを知っていて、セリカのいくぶん変った行動も理解してくれていると思い込んでいた。
「わたし、皆のこと、知りたかったの。皆の生活のこと、このブレッシェン伯領を作る仕組みのこと」
ブレッシェン伯の後継者として、必要なことをしているのだと思っていた。
セリカが訪れると、誰もが笑顔を見せて、歓迎してくれた。自分達の生活や仕事のことを詳細に語ってくれた。
「でも、違うのね。皆がわたしに望んでいるのは、そういうことじゃないのよね」
カリエは、横で、静かな表情のまま、セリカの言葉を聞いている。
カリエは十九歳。母方の従兄弟で、セリカが十歳の時からの婚約者だ。この秋、セリカが十六歳の誕生日を迎えた後、結婚式を挙げることになっている。
セリカは思った。この人は、いつもそうだ。
優しい表情で、セリカがすることを見守っている。時に苦笑しながら、時に面白そうに、セリカの言動を、ずっと側で見守ってくれていた。
「あのね、悔しいのはね、皆が、わたしを、早くあなたのお嫁さんにさせようって考えていることなの」
カリエの目が丸くなる。
「わたしが領主の娘として、どんなに頑張っても、所詮、わたしは女なのよ。わたしはそのつもりがなくても、皆が、わたしをあなたの妻に、と願っている。大人しくて、従順で、貞淑な妻に。そして一刻も早く男子の後継者を産めってことなんでしょう。わたしはそれが悔しいのよ」
早口でまくし立てるセリカに圧倒されたように、カリエは絶句し、しばらく考えるようにしてから、
「・・うん。それは確かに、悔しいかもしれないね」
と、しみじみと言った。
「さっき、ナナが言っていたよね。人には領分があるって。それは、男女にも言えるんだろうな。君は確かに賢くて、腕も立つし、馬にも乗れるけれど、それでも、君の代わりになる騎士はいる。まあ、それほど多くはいないにしても。君が麦の収穫を手伝っても、専門である農民の腕には到底及ばない。何故なら、君はこれまでの人生を、いつも麦畑の上で過ごしている訳ではないから。君は夕方には城に戻り、温かなスープとパンと葡萄酒を口にし、やわらかな寝台の上で休んでいるから。実際に城の外に出て得た君の経験や、それに伴う知識は、確かに君の見識を広めているけれど、問題は、それをどうやって、この領地を守る為に活かしてゆくかだよね。・・そこで、君の言う男女の性の違いだ」
穏やかだが、真剣な表情で、カリエはセリカを見つめた。
「女性には出来て、男には絶対に出来ないことは何か?君には分かるよね?」
「子どもを産むことでしょう?」
何となく話の展開が読めて、仏頂面になるセリカを見て、カリエは笑う。
「うん。正確には、子どもを産み、育てることだね。君は領主の一人娘で、後継者を望まれている。やっぱりそれは、他の誰にも出来ない、君にしか出来ないことだと思うんだよね」
「で、わたしは一刻でも早く子どもを産んで、育てて、これからは、他の誰の邪魔もしないように、城の中で大人しく引っ込んでいろって言いたいのね」
カリエが微笑む。
「まあ、君が、ずっと大人しくしているとは思わないけれどね。それに、子どもは授かりものだから、どんなに望んでも得られない場合もあるしね」
カリエはセリカに向き直り、その手をそっと取った。
「僕が言いたいのはね、君を知る皆が、君の幸福を望んでいるってことだよ。月並みだけれど、結婚して、夫に愛され大切にされ、子どもを産んで、愛情深く育てていく。皆は、君に、そんな風になることを望んでいるんだと思うよ。・・僕も含めてね」
真顔で見つめられ、セリカは恥ずかしくなり、慌てて顔を背けた。その頬は、相変わらず真っ赤なままだ。
「わたし、良い妻になる自信はないけれど、子どもは大好きよ。だから、出来ればたくさん欲しいわ。子どもが出来たら、大事に育てるわ。色々なことを教えてあげるの。剣術も馬術も。わたしが見てきたこと、学んだことを全部、教えてあげる」
「うん、そうだね」
セリカは、カリエの顔を見て、にっこりと笑った。
「それで、皆で一緒に、この丘を早駆けするわ。競争するの。カリエ、子ども達に負けないようにね」
セリカの言葉に、カリエは破顔して、セリカを胸の中に引き寄せ、そっと抱きしめた。
カリエとの結婚式を一か月後に控えた午後だった。
セリカは、ブレッシェン城の自分の部屋で、結婚式で着るドレスを試着していた。
父リチャードは、一生に一度の特別な衣装だから、隣国のウェスティア王国から、有名な仕立て屋を呼ぼうと言ってくれたが、セリカは、懇意にしている領内の仕立て屋のカチアおばさんに縫ってもらうことに決めていた。
セリカの母が父と結婚した時にも、カチアおばさんが母のドレスを縫った。その縁で、セリカが着る服は、小さな頃から、カチアおばさんが縫ってくれていたのだ。
「それにしてもまあ、あのセリカ嬢ちゃんがねえ・・。馬に乗りやすいスカートを作ってだの、農民の娘みたいな服を縫えだの、とんでもない注文ばかり出してきた、あのセリカ嬢ちゃんがご結婚だもの。本当に、時の流れは早いものですねえ・・」
セリカの身体にドレスをあてながら、カチアおばさんは、同じ言葉を何度も繰り返している。
もう七十歳を越え、常に背を丸めて縫いものをしていたせいで、もともと華奢だった身体は、ますます小さくなっていた。だが、その細くて小さな手が紡ぎ出す刺繍は、ブレッシェン随一の精巧さと美しさで、カチアおばさんの刺繍の入ったスカーフやハンカチを持つことは、領内の娘達の憧れだった。
セリカのドレスには、無数の刺繍が散りばめられている。ブレッシェン伯の紋章と、カリエのロイド家の紋章、それから、カチアおばさんが、「まるでセリカ嬢ちゃんのようだ」と、いつも評する、小さな白い薔薇の花があしらわれている。
ドレスに身を包んだセリカは、改めて、カチアおばさんに向き直った。膝を折って、カチアおばさんの手を取る。
「カチアおばさん、こんな素敵なドレスを縫って下さって、本当にありがとうございます」
カチアおばさんは、見る見る目に涙を浮かべて、首を振った。
「とんでもないことです。母君のクレア様に続き、セリカ嬢ちゃんの結婚式のドレスまで縫わせてもらえるなんて、仕立て屋として、これ以上の喜びはございませんよ。もういつ死んでも悔いはありませんとも」
セリカと、隣りにいた侍女のメアリは、笑った。
「大げさね、カチアおばさんは」
「カチアおばさんには、まだまだ働いてもらわなくてはなりませんよ」
侍女のメアリが言う。
「カリエ様とセリカ様とのお子がお生まれになりましたら、その産着とご衣装を。どんどん大きくなられるので、そのつど縫っていただかねばなりません。また下のお子がお生まれになったら、またその産着を」
セリカは、メアリを軽く睨んだ。
「もう、メアリ、やめてちょうだい。皆、すぐにそういうことを言うんだから。産着、産着って、まだ式さえ挙げていないのに、気が早すぎるわよ」
「いいえ、セリカ様、そんなことはございません」
「そうですとも!」
カチアおばさんはそう言って、勢いよく立ち上がった。
「ああ、それなら、こうしちゃいられない。お式が済みましたら、早速、産着を縫わなくては。あたしが生きている内に、出来るだけたくさん、セリカ嬢ちゃんのお子のご衣装を用意させていただきますとも!坊ちゃんでも、お嬢ちゃんでもいいように、色とりどりの生地とデザインで、胸のところには、小さな刺繍もあしらって・・」
バタバタと帰り支度を始めるカチアおばさんを、セリカが笑って引きとめた。
「カチアおばさん、待って。お茶でも飲んで、落ち着いて下さい。メアリ、お茶を用意して」
「はい、かしこまりました」
メアリは、笑いをこらえながら、立ち上がった。
部屋の窓からは、城外の賑やかな声が遠くから聞こえてくる。
ドレスを脱いで普段着に着替え、メアリが淹れてくれたハーブティーを、カチアおばさんと飲みながら、セリカは耳を澄ませた。
「城の外は、賑やかね」
カチアおばさんが頷く。
「もうすぐ収穫祭ですからね。それにセリカ嬢ちゃんの結婚式もありますから。今年は、麦も果実も豊作でしたし、無事に冬を越せそうだと、皆、一安心しているのでしょう。それも、リチャード様が、税を軽くなさっているからでございますよ」
父リチャードは、領民に課す税金を、他の領主よりも、ずっと少なくしていた。
収穫のほとんどが税として徴収されてしまう他の領地と違い、農民が安心してひと冬を越えられ、なおかつ、自由に他の物と替えられる余裕を残すようにしていた。
それが功を奏したのか、農民の娘や若者でも、貴族の娘や騎士達と同じように、カチアおばさんの刺繍入りのハンカチや、手袋を手に入れることが出来たし、手作りの髪飾りや、菓子、玩具や農具などを売買することも増え、小規模ながらも、ブレッシェンの市は、いつも賑やかで、様々な商品で溢れていた。
「全ては、聡明で慈悲深いリチャード様のおかげですよ。セリカ嬢ちゃん、あなた様は、本当に立派なお父上をお持ちになられた」
カチアおばさんの言葉に、セリカは頷いた。
セリカが、領内を歩き回り、突然顔を出しても、農民も職人達も、皆、いつも笑顔で歓迎してくれた。
それは、父リチャードのおかげだった。父が、常に、領民のことを考え、権威を振りかざさず、徒に富を集めず、公正な治政を行っているからこそ、人々は、領主の娘であるセリカを大切に扱おうとしてくれた。
「わたしも、お父様のようになれるといいんだけど・・」
強くて、民には心優しい為政者に。
呟くセリカに、カチアおばさんは、笑顔を向けた。
「セリカ嬢ちゃんなら、大丈夫ですとも!このカチアが保証いたします。だいたい、農民の子の名前全てを知っている女領主様など、ケイナス大陸広しといえども、このブレッシェンにしかいらっしゃいませんよ!それに、もうすぐカリエ様が、常にお側にいらっしゃいます。カリエ様も、リチャード様の下で、長くお勤めになられた方です。何か困ったことがあったら、いつでも夫君に相談なさるとよろしいでしょう」
セリカも、笑顔で頷いた。
「うん、そうね、これからは、わたし一人じゃないんだものね」
その時、中庭の方から、慌ただしい馬の蹄の音が響いてきた。城の守備をしている騎士達の甲高い声が聞こえた。
「まあ、急に、なんでございましょうか?」
メアリが窓から身を出した。
セリカも、ちらりと窓の外を見た。
壁をくり抜いた四角い小さな窓から、馬に乗った幾人かの騎士の姿が見えた。
見慣れぬ姿。ブレッシェンの者ではない。手に何かを持っている。
「・・それでは、あたしはこれで、おいとまいたします」
カチアおばさんが立ち上がった。
「メアリ、外までご案内して」
「かしこまりました」
セリカは、二人の後ろ姿を見届けた後、急いで父の執務室に向かった。
城内では、慌てた様子の騎士達が、走り回っていた。
セリカは、先程、窓の向こうにちらりと見えた騎士の姿を思い出していた。
騎士が手に持っていたのは、旗だ。先触れの旗。
(誰かが来る。この城に来ている)
そう、セリカは知っていた。
あのえんじ色を黄色で縁取り、真ん中に獅子の絵が刺繍されたあの旗を。
あれは、カストニア皇帝の御標だ。
このケイナス大陸に巨大な領土を持つ、カストニア帝国の皇帝の旗だ。
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ケイナス大陸には、様々な王国がひしめき合っている。
その下には、自由都市や諸侯が、各々の領土を持ち、君主である王と主従関係を結んでいた。だが、その関係は絶対的なものではない。自らの領土と軍隊を持つ都市や諸侯が、時勢により、どの王国に属するか、協力するか、あるいは敵対するか、自ら選ぶことが出来た。
ケイナス大陸の北東部に位置するブレッシェン伯領は、辺境の地と呼ばれていた。
国境を越えれば、その先は険しいキスト山脈が横たわり、その向こうは、言葉も文化も違う異民族が支配する土地であった。
従って、ケイナス大陸において覇権を競うどの勢力の主も、これまでブレッシェン伯領に全く興味を示さなかった。
深い森の木々を切り倒し、開墾し、現在のように麦畑が広がり、その収穫を領民が絶えず得ることが出来たのは、ブレッシェンの地が、これまで他の勢力に見向きもされなかったからだった。
領主であるリチャードは、どの勢力にも属さず、徒に他勢力との戦闘にも加わらず、周辺王国や諸侯達に、辺境の地の主と揶揄されながらも、孤高に独立を貫いてきた。
対してカストニア帝国は、このケイナス大陸の五分の三を実効支配する巨大帝国である。傘下には、五つの王国を従え、無数の諸侯や都市も支配下に置く。
カストニア帝国の帝都は、ルーヘン。ブレッシェン伯領とは遠く離れた、ケイナス大陸の中心部、ベルリー川沿いの肥沃な土地に位置している。ルーヘンは、ケイナス大陸の、商業と政治、文化の中心でもあった。
現在の皇帝は、四十五歳のダイン皇帝。曽祖父が基礎を築いたカストニア帝国の勢力を広げる為、二十八歳で皇位を継いでから、多くの時間を、ルーヘンにある、居城であるヴェリア城に身を置くことなく、帝国内を渡り歩くか、他国との戦場で過ごしていた。
辺境の地の主といえども、このケイナス大陸の覇者の一人として、ダイン皇帝の存在は、勿論、知っていた。だが、そのダイン皇帝と何らかの接触を持つことになろうとは、リチャードは、夢にも思っていなかった。それくらい、カストニア帝国とこのブレッシェン伯領との距離と規模の隔たりは、大きかった。
突然、ブレッシェン城を訪れたのは、カストニア帝国ダイン皇帝の使者とその従者達だった。
使者は、最初から居丈高だった。
城内に入っても、下馬せず、自分は、ダイン皇帝の使者であると声高に言い放ち、そのまま領主リチャードを待った。
さすがにリチャードの前では跪座したが、ダイン皇帝からの親書を手渡す際の口上も、その態度にも、リチャードを、辺境の地の主と侮っているのが見て取れた。
古くからリチャードに仕える側近のジョンなどは、眼光鋭く、腰に佩いた剣に手を伸ばそうとしたが、リチャードは、静かな表情でそれを制した。
ジョンの隣りには、間もなくリチャードの娘セリカの夫になるカリエが控えていた。
皆、固唾を飲んで、カストニア帝国からの使者とリチャードとの遣り取りを見守っていた。
リチャードは、使者から手渡された親書に目を通した。
時候の挨拶から始まって、遠く離れたカストニア帝国内や周辺王国においても、ブレッシェン伯の安定した治世を評価する声が多いこと。一人の為政者として、かねてより、リチャードと親交を結び、このケイナス大陸の趨勢について、大いに語り合いと願っていたこと。
定型文と言っていい文面をさっと読み進め、リチャードは、次の文章に目を移した。
固い表情のまま、リチャードの目線は、書面に落とされたままだった。
全てを読み終えた後、リチャードは顔を上げて、目の前の、不遜な表情をしたままの使者を見つめた。
「ダイン皇帝の御意志は分かり申した。それで、いつまでに返事を差し上げれば、宜しいかな?」
「いつまで、と申されますか?」
使者が、両手を広げて、馬鹿にしたように口元を歪めた。
「我が君は、当然、この場にて、直ちにお返事をいただけるものとして、わたくしめを遣わしておりますが」
「それは無理だ」
リチャードは、重々しく言った。
「使者殿。事は、このブレッシェン伯領の領民全体に関わる問題である。そのような重要な問題を、今、この場で、直ちに決めてよいものか」
使者は、へらへらと笑った。
「そちらに選択肢など、ございませぬよ。今すぐにお返事いただいた方が、お互いに時間を無駄にせずに済むのではありませぬか」
「何を!黙って聞いていれば、さっきから、なんてご無礼を!」
ジョンが、唾を飛ばしながら、剣を抜いて使者に詰め寄った。
「ジョン、止めよ!」
リチャードが一喝した。
ジョンの勢いに、悲鳴を上げて腰を浮かしかけた使者は、取り繕うように、鼻を鳴らした。
「はっ!まったくこれだから、辺境の騎士は、野蛮で困る。わたくしは、カストニア帝国のダイン皇帝の命を受けた使者であるぞ!わたくしへの行いは、即ち、ダイン皇帝への行いであるとわきまえられよ!」
「使者殿」
リチャードが、使者の剣幕を、静かに制した。
「我が家来の御無礼、大変、失礼をした。先程、伝えた通り、今すぐダイン皇帝への御返信は出来かねる。非常に重要な事だから、よくよく計らなければならないのでな」
リチャードの重々しい言葉に、使者がわずかに驚いたように言った。
「・・選択肢はございませぬ、と申し上げましたよ?」
「選択肢は、ある。決めるのは、ダイン皇帝ではない。我々だ」
目を見張る使者を、リチャードは睥睨した。
「カストニア帝国に戻って、ダイン皇帝に申し伝えよ。御親書、確かに受け取った。ご希望に添えるかどうかについては、しばらくの猶予をいただきたい、と」
「お返事をいただくまで、戻ることはまかりならぬと命じられております」
使者は、当惑したように返した。
「返事はまだだ」
リチャードは短く言って、使者を見下ろした。
「生憎、この地は辺境にて、今宵、使者殿にご満足いただけるおもてなしは出来そうにもありませんが、使者殿と従者の皆様には、城内の客間にてご宿泊いただきますよう。・・何しろ、辺境の地でございます。今、城門までお見送りさせていただいても、野犬に襲われてしまいますからな。明日、日の出と共に、カストニア帝国に戻られるのがよろしいでしょう」
そう言って、リチャードは、その場を立ち去った。
セリカが、父リチャードの執務室を訪れた時、そこには、カリエと父の側近のジョン、財務や軍務を預かる重臣達の姿があった。
テーブルを前にして、椅子に腰かけたリチャードが、セリカを認めて、かすかに微笑んだ。
父の哀しげな微笑を見たその瞬間、カストニア帝国からの使者が、このブレッシェンの地に、幸あるものではなく、禍々しいものを運んできたことが、セリカには、一瞬にして感じ取れた。
「セリカか・・」
リチャードは、セリカの手を取り、隣りの椅子に座らせた。
「・・カリエとの結婚式まで、あと一か月だったか・・。残念だが、このブレッシェンの地に、過酷な事態が起こる。わたしは、この地の領主として、決断せねばならない。どちらにせよ、領民は飢え、多くの血が流されることになる」
ジョン達の表情も、厳しく、強張っている。
「お父様、カストニア帝国のダイン皇帝は、何を言って来たのですか?」
セリカの問いに、リチャードは、テーブルに広げられたダイン皇帝の親書に視線を落とした。
かすれた声で言った。
「ダイン皇帝が、今、密かに計画している戦いに協力せよ、とのことだ。ブレッシェンの我が領民を、兵士として差し出せ。領内にある武器、馬、収穫した麦を集め、兵站に提供せよ。もし、拒めば・・」
言葉を切るリチャードに、セリカは問うた。
「拒めば?」
「カストニア帝国に敵対する勢力と見なし、まずこの地を壊滅させる、と」
ダイン皇帝の狙いは、ブレッシェン伯領の西側に位置するウェスティア王国だった。ウェスティア王国の西方と国境を接するカストニア帝国の東方のフーエル地方では、境界線を巡って、度々、両国間で小競り合いが起きていた。
もともと好戦的で有名なダイン皇帝は、その状態を良しとせず、ウェスティア王国に本格的な戦いを挑もうと考えていた。
策略家のダイン皇帝が、白羽の矢を立てたのが、どの勢力にも与しない長年の独立により、小さいながらも豊かなブレッシェン伯領だった。
ダイン皇帝は、小競り合いが頻発するフーエル地方でなく、ウェスティア王国の南方をぐるりと回って、反対側からウェスティア王国を叩くことを考えていた。
ブレッシェンと友好的な関係を築いていたウェスティア王国のヘンリ国王は、東方からの襲来に驚くだろうし、東方に位置する首都ケストを守る為に、フーエル地方から手を引くかもしれない。少なくとも、今後の交渉を有利に進められることは間違いなかった。
戦いには、兵と食糧が要る。ダイン皇帝は、手っ取り早く、現地でそれを手に入れることにした。即ち、ブレッシェン伯領の領主リチャードを脅し、協力すれば、カストニア帝国の上級貴族として厚く遇し、帝国内に領土を与える。だが、拒否すれば、このブレッシェンの地を容赦なく襲い、リチャードと、その家族や親族は皆、奴隷として遇することになる、と。
「糞っ!なんで、よりによって、こんな遠い地に目をつけるんだ!」
ジョンが、唾を飛ばしながら、大声で言った。
「カストニア帝国だろう?この大陸の半分以上の領土と富を自分のものにしておきながら、この上、何が欲しい?なんでこのブレッシェンなんだ!俺達が、ダイン皇帝に何をしたってんだ。フーエル地方の小競り合いなんて、俺達には、何も関係ないじゃないか。兵と麦を寄越せだと?俺達をいったい、何だと思っているんだ!」
そう言って、握り拳を、どん、とテーブルに叩きつけた。
それまで黙っていたカリエが顔を上げて、言った。
「リチャード様。先程、使者に、選択肢はあるとおっしゃいました。戦えば民が傷つき、食糧も尽きて飢え死にし、戦いに与せずとも、カストニア帝国軍に攻められます。他に、どのような選択肢がございますか?」
セリカが、口を開いた。
「ウェスティア王国のヘンリ国王を頼ればいいんじゃないかしら」
皆が一斉に、セリカの方を見た。
「勿論、ブレッシェンの独立は失われてしまうだろうけれど、ウェスティア王国とは、長年、友好関係を保っているわ。今回のことを予め、ヘンリ国王に報せて、援軍を頼めば、もしかしたら、力を貸してもらえるかもしれない。少なくとも、ブレッシェンが、カストニア帝国軍によって全滅させられることは避けられるかもしれない。この地や民の命を、少しでも多く救えるかもしれないわ」
セリカの言葉に、皆が固唾を飲んだ。
ダイン皇帝の要求に応えれば、上級貴族の娘として遇され、逆らえば、奴隷とされる。
父が、領民の命と引き換えに、カストニア帝国の領土と地位を得て喜ぶような人間ではないことは、セリカはよく分かっていた。それは、セリカも同じだった。
幼い頃から、ブレッシェン伯の後継者として父に従い、領内を回っていて、よく分かっていることがあった。
領主は、領民あってのものだ。民が畑を耕し、麦や作物を収穫してくれるから、領主やその家族は、毎日パンが食べられる。民が武器を取って城の内外で戦ってくれるから、領主は、城内で安心して眠ることが出来る。
それなら領主の仕事は何か?
民を守ることに他ならない。民の命、民の食べ物、民が眠る場所、耕す場所を守ること。その為に領主がいる。
セリカは、リチャードから、口にせずとも、そう教えられてきた。
自分が今、この場にあって考えるべきは、領民のことだ。
自分や父が殺されてもいい、奴隷に落とされてもいい。ブレッシェン伯領がなくなってもいい。ただ、領民の命だけは、救わなければならない。
セリカの覚悟が伝わったのだろう、リチャードは、セリカを見て、ふっと優しい笑みを浮かべて言った。
「佳き娘に育ったな、セリカ。わたしは今、そなたを誇りに思う」
リチャードは、腕を広げ、セリカを抱きしめた。力強い腕に抱きしめられながら、セリカは、こみ上げてくる思いを飲みこんだ。
覚悟は出来ている。父も自分も。
リチャードは、顔を上げ、厳しい表情で言った。
「ジョン、各村長を城に集めよ。事の次第をわたしが説明する」
次いで、カリエの方を見た。
「カリエ、すぐにウェスティア王国に行ってくれないか?ヘンリ国王に親書を出す。何とか、急ぎ援軍を出してもらえるよう、説得して欲しい。恐らく、これはわたしが、娘婿となるそなたに出す最後の命令だ」
カリエは、リチャードを真っ直ぐに見返してから、頭を下げた。
「かしこまりました」
ブレッシェン伯リチャードから、要望には応じられない旨の返答を受けたダイン皇帝の次の行動は、早かった。
返答してからわずか十日も経ずして、カストニア帝国軍が、ウェスティア王国を迂回する経路を通り、秘密裏に北上しているとの報せが、ブレッシェンの地にもたらされた。
リチャードが要望に応じようが、応じまいが、ダイン皇帝には、どちらでも良かったのかもしれなかった。ダイン皇帝が、ブレッシェン伯領を襲えば、ウェスティア王国のヘンリ国王が驚き、ウェスティア王国と戦わずして、フーエル地方での交渉を有利に進められるかもしれなかったからだ。
リチャードには、戦闘の準備をする時間が僅かしかなかった。
リチャードは、予め、事の次第を村長達に伝えた後、全領民を集めて、その前で、自らの決断を告げた。
突然のことに、領民達は初め、リチャードが何を言っているのか、分からないようだった。
男達は、戦闘の準備をする。女子ども、老人、病人達は、ブレッシェン城内に避難する。
城内に、ありったけの食糧と武器を集める。
村長から指示を受けながら、領民達は首をかしげていた。
昨日まで、普通に畑に出て、農作業をしていた。本当は、今日も色々やらなければならないことがある。それを放って、自分達は何をしているのだろう。
あと一か月もすれば、ここの領主の娘のセリカの結婚式があったのに、皆が、その花嫁姿を見るのを楽しみにしていたのに、どうして、当のセリカは、髪を縛って軍服に身を包み、走り回っているのだろう。
セリカの側に、セリカの夫となるカリエの姿が見えないのは、何故なのか。
領民は、そんな疑問を心の中で浮かべながら、追い立てられるように、戦闘の準備をした。
無事に生き残った領民の一人は、後にこの戦いを振り返って、
「あれは、悪夢のようだった」
と、評した。
黒い嵐のように現れた、鈍い銀色に光る甲冑に身を包んだ巨大なカストニア帝国軍は、武器も馬も兵の数も、ブレッシェン軍とは、比べようがなかった。
カストニア帝国軍は、容赦なく村を襲い、家々を破壊し、火を放ち、畑を荒らした。
領民達は、鎌や鍬や棒を振り回して、必死に応戦した。だが、カストニア帝国軍の兵士の剣によって、次々と血しぶきをあげて、倒れた。
一か月前まで、黄金色に輝いていた大地が、怒号と悲鳴と共に、赤い血で染まった。
リチャードとセリカは、その様子をブレッシェン城から見つめた。
戦闘が行われている場所の、さらに向こうの小高い丘に、次々と、カストニア帝国軍の兵士が集まっているのが分かる。
中央には、ダイン皇帝のえんじ色の旗が、風になびいている。わざわざこの辺境の地にまで自ら足を運ぶとは、余程の戦好きなのだろう。
セリカは、きつく唇を噛んで、その旗を睨んだ。
目の前では、一方的な殺戮が行われている。皆が愛したブレッシェンの地に、累々と死体が横たわる。
自分は無力だ、と感じた。
「・・あとどのくらいもつか。カリエは、間に合ったか」
隣りに立つ父が、低く呟いた。
セリカは、はっとした。
父の横顔は、冷静だった。目の前で領民が、カストニア兵によって、殺されている。本当は、誰よりも悔しく、無念であるに違いない。
それでも父は、毅然と、戦況を把握していた。
「セリカ、城への総攻撃が始まったら、わたしが防備を指揮する。そなたを構う余裕はなくなる」
父の言葉に、セリカは頷いた。
「承知しております。わたしも、一人でも多くの領民の命が救われるよう、最後まで戦うつもりです」
「逃げよ、と言っても、無駄だろうな」
父が、ため息をつくように言う。
「そうですね。だって、わたしは、お父様の娘ですもの。領主の娘が逃げ出していては、領民は、たまったものではありません」
父は苦笑した。
「それなら、一つだけ約束せよ。この先、何がそなたの身に起こるかは分からぬ。何が起こっても、命は大切にしろ。領民と同じように、わたしにとっては、そなたの命も、この上なく、愛おしく、大切なものだ。よいか。決して、死ぬな」
父の瞳を真っ直ぐ見つめて、セリカは頷いた。
「はい、お父様」
戦闘はそれから三日間続き、リチャードは捕えられ、領民の目の前で、処刑された。
カリエの説得に、ウェスティア王国のヘンリ国王は、ついに動かされた。
ウェスティア王国からの援軍がブレッシェンに到着したことで、カストニア帝国軍との戦闘は、休止となった。
多くの兵士と領民の命が失われたが、ブレッシェン城内に逃げていた女、子ども、老人、病人達は、領主リチャードの望み通り、命をつないだ。
3
ブレッシェン城を見下ろせる小高い丘に並んだカストニア帝国陣営の天幕の一つ、ダイン皇帝の御旗の立つ天幕から、少し離れた場所に設置された天幕の中で、ラリサ・ドーサは、先程から深い考えに沈んでいた。
歳は三十四だが、明るい栗色の髪を結い上げて軍服を身につけ、腰に剣を佩いたその姿は、無駄な贅肉は一切なく、すっきりとしていて、まるで少年兵のようでもある。
物思いに沈みながらも、一点を見つめるその淡褐色の目は、鋭い。
ブレッシェン軍に対する、カストニア帝国軍の一方的な戦いは、ウェスティア王国のヘンリ国王自らが、援軍として出陣して来るという予想もしない形で、休止した。
ケイナス大陸の辺境の地と言われるこの地で、大陸の二つの大国の覇者が顔を合わせることになり、今、ダイン皇帝の天幕では、その準備で大騒ぎとなっていた。
誰もが、この珍事に浮かれている中、ラリサはまだ、戦闘態勢を解いてはいなかった。
(・・まだ、終わってはいない)
ラリサは、天幕の奥にしつらえた寝台の方に目を遣った。
白布で周囲を覆われているその寝台には、彼女の主が横になっていた。
今は、起きている気配は感じられない。眠っているのだろう。
ラリサは、椅子の上で組んだ脚を解き、軽く伸びをした。
この馬鹿げた戦いに、主もラリサも、ダイン皇帝の命令によって駆り出された。
何の大義名分もない戦いだった。
これまで平和に暮らしていたブレッシェン伯領の民にとっては、突然の惨劇に、何が何だか、訳が分からなかっただろう。
領民の前で、ブレッシェン伯リチャードを処刑した時の光景が蘇る。
城外にいた領民も、城内にいた領民も、武器を落とし、地面に額をこすりつけるようにして慟哭した。その嘆きの声は、ブレッシェン城を震わせ、いつまでもカストニア帝国軍の兵達の耳に残った。
(・・ああ、そうか、あの少女だ)
ラリサは、思い出しながら、頷いた。
今回の戦いの中、ずっと何かが気になっていた。
何か、自分と主にとって、重要なものを見つけたような気がしたのだが、それが何なのか、よく分からなかった。
今、ようやく思い出した。
ブレッシェン城攻めの際、時折、目にした、城の上の甲冑を身につけた少女の姿を。
他に女性騎士がいなかった訳ではない。だが、少女の身のこなしと剣の腕は、明らかに他の騎士とは違っていた。
そう、あの時。
ブレッシェン伯の処刑を目の当たりにし、持っていた武器を落として嘆く領民の前に、少女は、馬を駆って城門から飛び出して来たのだ。
馬上で、黄金色の髪をなびかせて、剣を持つ手を高々と上げ、言ったのだ。
「立ちなさい!目の前の敵を見なさい!戦いはまだ終わっていない。最後の最後まで、諦めてはいけない。それがブレッシェン伯の遺志です。いい?皆、生きるのよ。何が何でも、生き延びるのよ!」
その姿に、満身創痍だったブレッシェン兵は再び奮闘し、結局、カストニア帝国軍は、ウェスティア王国からの援軍が到着する前に、ブレッシェン城を陥落させることが出来なかった。
「何を考えているのですか」
不意に後ろから声をかけられ、はっと、ラリサは振り向いた。
ラリサの息子のルークだった。
「ルークか」
明るい髪の色のラリサとは異なる、黒髪黒眼の持ち主。十八歳になるが、すらりと伸びた長身で、既にラリサの背をとうに越してしまった。
「母上が、そんな風に、物思いに耽られるとは、珍しいことですね」
主の傍にある時は、常に気を張っているラリサに、ルークは言った。
「ちょっと、気に係ることがあってね」
ルークは、ラリサの隣りの椅子に腰かけた。寝台のある方を振り返り、声を潜めた。
「・・カイザ様は?」
「眠っておられるようだ。昨夜は、遅くまでお休みになられなかったようだからね」
しばらく黙って二人で寝台の方を見つめてから、ラリサがルークに向き直った。
「・・それで、軍議の方はどうだった?」
「そうですね、ヘンリ国王の出方次第ですが、陛下は、ブレッシェン伯領をウェスティア王国に譲る代わりに、フーエル地方での主導権を握ろうとお考えです。この地は、確かに肥沃ですが、なにぶん、カストニア帝国からは離れておりますので」
「当然だな。・・ブレッシェン伯の家族は?確か、娘がいただろう?」
「はい。ブレッシェン伯には、娘が一人おりまして、縁続きの貴族と婚約しており、間もなく結婚の予定だったとか」
ラリサの目が、鋭くルークを見た。
「それは本当か?それでは、まだ結婚はしていないのだな?」
母の意外な質問に、戸惑った様子を見せながら、ルークは答えた。
「はい。捕虜となったブレッシェン兵が、涙を流しながら、口々に話しておりました。相当に人望が厚い父娘だったようでございます」
「・・それで、その娘は?今、何処にいる?婚約者と一緒か?」
ルークは首を傾げた。
「それが、どうやら双方、行方知れずらしく・・。婚約者が、使者としてウェスティア王国に援軍を求めに向かったことは分かっているのですが、現在のところ、その者の所在は確認されておりません。また、ブレッシェン伯の娘も、ウェスティア王国からの援軍が来た際の混乱の中、姿が見えなくなったそうで・・」
「・・ふん、そうか。あるいは、二人で手に手を取って逃げたかな」
ラリサが、面白くなさそうに呟いた。
母親がそのようなことを言うのは珍しく、ルークは、少し笑った。
「あの混乱の中です。まさかそのような、物語のようなことは起こりませんでしょう。・・確かに、稀有な姫君だと見受けられましたが」
ルークの言葉に、ラリサが頷いた。
「あれは、一筋縄ではいかない娘だよ」
ゆっくりと立ち上がった。
「・・それじゃあ、ちょっとばかり、陛下にお願いをしてみようかな。ルーク、遣いに行って来てくれないか?」
その晩、燈台に蝋燭を灯しながら、ラリサは、天幕の中で、身じろぎせずに、椅子の上に座っていた。
天幕の外では、ウェスティア王国のヘンリ国王との明日の話し合いを控え、武装を解いたカストニア帝国軍の兵達が、火を囲い、酒を飲みながら、賑やかに歌を歌っているのが聞こえてきた。
寝台の傍には、ルークが控えている。
主のカイザは、眠ったままだ。帝都ルーヘンのヴェリア城の自分の寝室よりも、このような天幕の中の方が、安心して眠れるらしい。
ルークと共に、カイザに仕えて十一年余り。カイザが、心から安心して眠れることこそが、最も大切なことと心得てきた。
その安眠を妨げる者は、何人たりとて許さない。
先程より風が吹いてきたようだ。天幕全体がぐらりと揺れたような気がした。
蝋燭の灯が、ゆらゆらと揺れる。
ラリサは、目を薄く閉じて、耳を澄ました。
自分にとって、大事な何かが起こる時、それは勿論、何の前触れもなく、突然降りかかることもある。それは仕方のないこと。それも運命と思って、受け入れるしかないこと。
けれど、よく考えて、神経を研ぎ澄まして、五感を働かせ、感じ取ることは、可能なのだ。
何か、大事なことが、起こる前触れを。
ラリサは、寝台の前で控えたままのルークを見つめ、その奥で眠るカイザの姿を思った。
ラリサはかつて、その前触れを見逃した。
感じ取ることが出来たかもしれない前触れを、掴めなかった。若くて、無知で、世間知らずだったから。
悔いても、悔み切れない。時間を戻して、もう一度あの日の朝から、生き直すことが出来れば、と何度思ったことか。
あの日から、心に誓っている。
自分の心に引っかかるもの。場所でも、風景でも、人でも言葉でも、起こった事柄でも、それは、自分にとって、何か意味のあることなのかもしれないと、留意すること。心を無にして、見つめること、感じること。
佳きことか、悪しきことかは、分からないが、それは、何かの前触れかもしれない。
蝋燭の灯りが、かすかに細かく震えた。
座っていたルークが、はっと顔を上げて、ラリサを見た。
動くな!
ラリサは、ルークを目で制した。ルークも、ラリサも、腰に佩いた剣に手をやる。
その時だった。
天幕の外で、近衛兵の大声がした。
「あっちの天幕で、か、火事だ!」
「早く、消せっ」
「何、ぼけっとしてやがる、水はどこだ!早く!」
「早く!水を持って行け!」
「急げ!」
酔った声と、怒号と、悲鳴とが混じった兵達の大声が、次々と聞こえてくる。
ラリサ達がいる天幕を警護していた近衛兵達も、火を消しに向かったらしい。バタバタバタという足音が、次第に遠ざかって行った。
蝋燭の灯りが、ゆらゆらと、さらに激しく動いた。
ラリサとルークは、身じろぎせずに、じっとしていた。
どのくらいの時が経ったのか、気づくと、灯りが届かない天幕の入口に、何か黒い影のようなものがうずくまっていた。
引き返す気はないらしい。ラリサは、少し笑み、立ち上がって、声をかけた。
「何か、用がおありか?」
黒い影が、すっと前に進んできた。
「・・陛下より、この時刻に伺うよう、申しつけられておりました」
現れたのは、黒いベールを頭から全身に覆い、その下に、白い夜着を身に付けた少女だった。ベールの下からは、愛らしい顔立ちが覗いていた。
「夜伽か」
「・・陛下は、どちらに?」
少女は臆することなく、歩を進め、視線を天幕の中に走らせた。奥の、白布に囲まれた寝台の前に立つルークの姿を認めたようだ。
「生憎、陛下はひどくお疲れでな、ぐっすりと眠っていらっしゃる。今夜はそなたの相手は出来そうにない。お引き取り願おう」
ラリサとルークの顔をじっと見つめながら、少女は、ゆっくりと、黒いベールを外しながら、言った。
「そういう訳には、まいりません」
長い金色の髪が、蝋燭の灯りに反射した。ベールを外した白い手に、剣が握られていた。
「母上!」
ルークが叫んだ。
ラリサに向かって、少女の剣が、勢い良く振り下ろされた。右、左、正面、また右、左、と息つく暇もなく斬りかかってくる。ラリサは無言で、剣で応じながら、少女を見た。
その緑色の目は、強い怒りと悲しみで満ちていた。ラリサに対する少女の激しい一撃一撃が、彼女の心の内の、どうしようもない怒りと悲しみを表しているようだった。
それでも、ラリサの方が上だった。少女の攻撃の一瞬の隙を狙って、少女の手から剣を叩き落とし、馬乗りになって、その腕をねじ伏せた。
ラリサは、言った。
「腕は確かにいい。だが、冷静さを欠いては、間違うし、無駄に体力を消耗する」
「母上、危ない!」
ルークが叫ぶのと、少女が身体をねじって体勢を変え、腰の帯から短剣を出すのと同時だった。
ラリサは、目の前に繰り出された短剣の切っ先を素早くよけて、少女の顔を張り倒し、少女が手に持った短剣を蹴飛ばした。少女の唇から血が流れ、白い夜着の上に滴った。
「まだ何か、持っているのか?」
ラリサは、少女に顔を近づけて、訊いた。
少女は気丈にも、ラリサを睨み続けている。
「剣を交えれば分かるだろう?わたしはそなたより強いし、ここで、ぼうっと突っ立っているこの男は、こう見えても、わたしより強い。・・そろそろ諦められよ。ブレッシェン伯の娘御。確か、セリカ姫と、言ったかな?」
ラリサの言葉に、少女がかすかに身じろぎした。
「単身、亡くなられた父君の敵討ちか。そのような肌も露わな夜着を着て。・・大胆で、無鉄砲で、捕まったら、わが身にどのような災いが降りかかるかも考えない。・・甘くていらっしゃるな。・・本当に、甘い」
「わたしを、斬れ」
少女は、ラリサを睨みながら、短く言った。
「斬れ!」
「良いことを教えて差し上げよう」
ラリサは、少女の言葉を無視して言った。
「ここには、ダイン皇帝はいらっしゃらない。この奥の寝台で眠っていらっしゃるのは、ダイン皇帝の御嫡男、カイザ皇太子だ。そなたは、訪なうべき場所を誤ったのだ」
ラリサの言葉に、少女は、大きく目を見開いた。かすれた声で言う。
「でも、御旗が・・」
「御旗は、わたしが取り替えておいた。先程も言ったが、冷静さを欠いていれば、間違う。そなたは、最初から間違っていたのだ。もっと冷静に状況を分析し、周到に準備を進めていれば、あるいはダイン皇帝の天幕くらいまでには、たどり着けたかもしれないが、今のそなたでは無理だな」
「・・わたしを、斬れ」
少女は再び言った。声は先程より小さかった。
ラリサは、冷やかに言った。
「そなたは、斬らない。ああ、それから、自死は考えるんじゃないよ。だって、自分で言っていたじゃないか。父君が処刑された時にね。立て。目の前の敵を見よ。戦いはまだ終わっていない。最後の最後まで諦めてはいけない」
ラリサは、少女の顔を覗き込むようにして、ゆっくりと続けた。
「・・それがブレッシェン伯の遺志だ。何が何でも生き延びろ、とね」
ラリサを睨み続けていた少女の目に、ふっと年相応の感情らしきものが浮かんだ。
ラリサは、いくぶん優しい声音で言った。
「あの時のそなたの言葉は、確実に、多くのブレッシェン兵の命を救ったと、わたしは思っているよ」
少女は、がっくりと肩を落とし、身体を震わせて嗚咽を漏らした。
カストニア帝国とウェスティア王国との休戦条約が締結され、フーエル地方での双方の勢力範囲が確定された。同時に、ブレッシェン伯領は、ウェスティア王国に吸収され、ウェスティア王国の一地方となった。
ヘンリ王は、かつて友誼のあったブレッシェン伯リチャードの死を悼み、生き残った旧ブレッシェン伯領民は、そのまま、かつて暮らしていた土地に留まることを許された。
カストニア帝国ダイン皇帝の暗殺に失敗し、捕えられたリチャードの娘セリカは、カストニア帝国に連行された。
4
カストニア帝国の帝都ルーヘン、ダイン皇帝の居城であるヴェリア城の一室。
まだ夜明け前の薄暗い中、セリカは、侍女のマリアに叩き起こされた。
「セリカ様、おはようございます。早くお起きになって下さいませ。わたくしが、ラリサ様に叱られてしまいます」
マリアの涙声に、セリカは、意識がまだ朦朧としている中、ゆっくりと、目を開けた。
まだ十二歳だというマリアが、涙目になって、セリカを見ている。
「ああ、泣かないで、マリア。今、起きるから。あっ、痛たたたっ」
昨夜も遅くまで続いたルークとラリサとの剣の稽古の影響か、腕が上手く上がらない。
「大丈夫でございますか?」
「大丈夫、大丈夫。わたしの腕も、なまったものだわ。ちょっと長い時間、続けて剣を振っていたくらいで、これだもの」
用意してもらった衣装に着替えながら、軽口を叩いた。
燭台を持つマリアの後について、薄暗いヴェリア城内の回廊を歩く。
皇太子カイザが住む、奥の部屋に進む。
カイザの部屋の扉の前では、二人の近衛兵が、寝ずの番をしていた。
「セリカ様をお連れいたしました」
マリアが、扉の前で声をかけると、
「入れ」
と声がした。
近衛兵が開けた扉の奥には、天蓋付きの大きな寝台が置かれ、四方が薄い幕で覆われていた。その側に置かれた椅子に、ラリサが座っていた。
セリカは、マリアを扉の前に残し、一人、部屋の中に歩を進めた。
「今日は、定刻通りだな」
「ラリサがマリアを脅すからよ」
「それが侍女の務めだ」
セリカは、ラリサの隣りの椅子に腰かけた。
「カイザは、いつ目覚めるの?」
「もうすぐだよ」
ラリサは、囁くように答えた。
カストニア帝国の帝都ルーヘンに連行されたセリカは、ダイン皇帝が父に宛てた親書の中で述べていたように、奴隷に落とされるのだと覚悟していた。
ところが、どういう訳か、ラリサ預かりの身となり、調度品も行き届いた個室を与えられ、身の周りの世話をする侍女まであてがわれた。
どうやらダイン皇帝とラリサとの間で、何らかの話し合いがあったらしかった。
もうブレッシェン伯領は、このケイナス大陸には存在しないのに、ヴェリア城内では、貴族の娘として扱われ、セリカ様、と敬称で呼ばれていた。
それでも、セリカにとっては、囚われの身であることに変わりはない。セリカは、ラリサの仕事の手伝いをするよう、命じられた。
ラリサは、皇太子カイザの、警護、世話係、教育係の長のようなことをしていた。身の周りの世話から、学問、馬術、剣や槍の稽古の時まで、息子のルークと共に、片時もカイザの側から離れない。
大国の皇太子として、皇太子カイザは、常に命を狙われていた。カイザの護衛も必要なので、女ながら剣が使えるセリカを、カイザの世話係兼、護衛にちょうど良い、と使うことにしたのだろう。
セリカが、この城にいる他の者達のように、カイザやラリサに敬称を付けないのは、自分の故郷を襲われた人間としての、せめてもの抵抗だった。
ラリサやルークは、特にそれを咎めなかった。
「・・それにしても、この人は、ずっと眠ってばかりいるのね」
セリカは、寝台の天蓋から垂れる幕をそっと開けて、中を覗き込むようにして言った。
皇太子カイザは、不思議な人だった。
初めて会ったのは、ラリサに、ルーヘンに連れて来られてから二日目だった。
ダイン皇帝が開く晩餐会に、出席するよう命じられた。カストニア帝国の臣下達が居並ぶ中、ラリサに連れられ、玉座に座るダイン皇帝の前に跪かされた。
亡き父の敵のダイン皇帝は、がっしりとした体躯、鋭い眼光の持ち主だった。
一年を通し、ヴェリア城にいるよりも、戦場に身を置く方を好むと伝え聞いていたが、何となく納得した。身につけていた衣装も、周囲の臣下達のように、華美ではなく、いつでも戦場に飛び出せるような、実用的なものだった。
ダイン皇帝は、亡き父の武勇と、セリカが単身、カストニア陣営に乗り込み、父の仇を討とうした行動を、勇敢である、と臣下達の前で称賛した。その上で、今後も、セリカを貴族の姫として遇し、その身は、ラリサに預けると告げた。
「これからは、ラリサと共に、皇太子カイザによく仕えるよう。カイザは、セリカ姫の勇敢な行動力を見習うがよい」
その時、セリカは、初めて、ダイン皇帝の隣りの椅子に座る皇太子カイザの顔をまじまじと見た。
歳は、もうすぐ十六歳になるセリカより二歳上の十八歳だと、ラリサから聞いていた。
ダイン皇帝と同じ、漆黒の髪、黒い瞳を持つ皇太子は、ダイン皇帝に話しかけられ、セリカの方に、ゆっくりと視線を落とした。
セリカは、かすかに違和感を覚えた。
確かに、カイザは自分の方を見たのに、目が合ったという感じがしなかったのだ。
目鼻立ちは、ダイン皇帝によく似ている。すっきりとしていて、端正で美しい。
だが、決定的に違ったのは、視線の強さだった。父親が持つ眼光の鋭さが、カイザには全くなかった。むしろ、何ものをも見ていないような、虚ろで儚げな目をしていた。
(なんだろう、この人・・?なんだか、変わった皇太子ね)
これが、カイザの第一印象だった。
思えば、最初からカイザは変わっていた。
セリカが、ダイン皇帝が眠る天幕だと思い込んで、忍び込み、ラリサと流血の戦いをしたあの日の夜も、カイザは垂れ幕に覆われた寝台の中で、ずっと眠りこけていたのだ。
いくらなんでも、そこは戦場である。剣と剣がぶつかり合う音も、ルークの叫び声も、普通は、眠っていても、聞こえてくる筈だ。それでも目覚めなかったとは、あまりに緊張感がなさ過ぎる。
ラリサによると、カイザの睡眠の周期は、常人とは異なるらしい。
何日も上手く眠れない日々があるかと思うと、身の周りで何があっても目を覚まさないくらい深い眠りに入る時もある。あまりにも無防備なので、そんな時は、ラリサとルークが、交代で寝ずの番を行っているのだそうだ。
「過保護ねえ。夜眠れないなんて、昼間、ちゃんと仕事をしないからだわ。朝、早く起きて、昼にめいいっぱい身体を動かして働けば、夜は嫌でも眠くなるものでしょう?」
セリカの言葉に、ラリサとルークは顔を見合わせた。
ラリサは、いくぶん楽しそうに言った。
「そうだね。今度、カイザ様がお目覚めになったら、ぜひ、そなたから、そう促しておくれ」
ところが、初めてカイザと会った日の夜以降、ラリサの言葉通り、カイザは深い眠りに入り、なかなか目覚めない。時折、目覚めても、水分や軽い食事を取った後、またすぐに眠りに入ってしまうのである。
あの日から、四日が経つ。
ラリサと共にカイザに仕えろと、ダイン皇帝に言われたものの、セリカは、まだカイザと一言も言葉を交わしていなかった。
カイザが目覚めたのは、セリカが部屋に来てから、三時間くらい経ってからだった。もう朝日が昇っていた。ちょうどラリサが仮眠を取る為、ルークと交代して、席を外していた。
「セリカ様、カイザ様がお目覚めになりました。どうぞ、こちらに」
垂れ幕を開けたルークに声をかけられたものの、何をしたら良いか分からない。
父の仇の息子に、臣下の礼を取る気にもなれず、セリカは黙って、ルークが用意した寝台脇の椅子に腰かけた。
大きな白い枕に頭を横たえていたカイザの黒い瞳の中で、窓から差し込む光が反射していた。カイザは、ゆっくりと身体を起こし、セリカの方を見た。
「・・誰、だ?」
物憂げな声で呟く。
カイザの足元に控えたルークが言う。
「セリカ様でございます。先のブレッシェンの戦いにて戦死しました、ブレッシェン伯の姫君でございます。ダイン様のご命令で、今後は、母とわたくしと共に、カイザ様のお世話をすることになりました」
ルークの言葉に、カイザがセリカを見つめ、考えるように空を見つめる。
「・・ああ、思い出した」
遠い目をして呟いた。
「あの時の・・」
それきり口を噤む。
しばらく経って、水をくれ、とルークに言った。もう、セリカのことはどうでも良いようであった。
セリカは、呆気に取られて、それを眺めていた。
(この皇太子、やっぱり、なんだか変だわ)
ようやくカイザが目覚めたので、ラリサと共にセリカの仕事が始まった。
目覚めている時のカイザの生活は、ブレッシェンにいた頃のセリカの生活とそう異なるものではなかった。規模は全く違えど、一国の後継者として、カイザにはすべきことが多くあった。
日中は様々な場所に視察に行き、ヴェリア城に戻れば、父のダイン皇帝が回してきた書簡や報告書に目を通し、大臣達の話を聞き、合間にラリサやルークと剣や馬術の稽古を行い、夜は、晩餐会に出席する。
カイザの変っているところには、数日間、ずっと付ききりで、それに付き合う内に、すっかり慣れた。
カイザは、セリカが側で見ていてイライラするくらい、自分の周りの物事や他人に対し、無関心、無反応だった。
人の話はちゃんと理解しているようだし、他者に害を与えるような問題のある性格ではないので、城内の人間は、皆、皇太子は、そういう人なのだ、と受け止めているようだった。
だが、一日中、カイザに付き合うセリカは、だんだんつらくなってきた。
(皇太子なんだから、もっと、しゃんとしなさい!)
と、心の中で思ったりする。
ダイン皇帝には、皇子は一人しかおらず、カイザの母である皇妃のイザベルは、九年前に他界していた。ダイン皇帝の後継者は、このカイザのみなのだ。
(もし、今、ダイン皇帝に何かあったら、このカストニア帝国は、どうなってしまうのかしら・・)
と、余計な心配までしてしまう。
それでも、セリカは囚われの身、カイザに仕える身として、大人しく、黙々とラリサの指示通りに動いていたのだが、ついにある日の昼食時、感情を爆発させてしまった。
どういうつもりか、ダイン皇帝が、旧ブレッシェン産の小麦を手に入れ、パンを焼いて、カイザの元に届けて来たのだ。
パンについてのラリサからの説明を、相変わらず茫洋とした表情で聞いていたカイザは、セリカの目の前で、そのパンを一口かじっただけで、皿の上に置いたのだった。
「食欲がない」
というのが、理由だった。
それまで黙って部屋の隅に控えていたセリカは、立ち上がり、つかつかとテーブルに歩み寄った。
「あ、セリカ様、何をなさいますかっ!」
驚いて声を上げるルークを無視し、一口かじっただけで、皿に返されたパンを掴み、カイザの前に立った。
カイザの隣りに座っているラリサは、黙って見ていた。
セリカは、カイザに言った。
「さっきも、ラリサが説明したでしょう。このパンは、あなたの父親が、わざわざ兵を動かして滅ぼしに行った、ブレッシェンの地でとれた小麦から作ったと。あなたも行って見たでしょう?あの美しい場所を・・。それを、あなたの父親は、あなた達は・・」
話している内に、胸の内にため込んでいた色々な思いが、口の中から吹き出てくるような感覚を覚えた。
思い出すまいと決めていた風景が、鮮やかに蘇る。風になびく小麦、歌を歌いながら、収穫に励む農民達、楽しげに笑う子ども達。それを見ながら馬で駆けた。心地よい風。あの時、すぐ側にいた優しい婚約者。優しい笑顔。今も、こんなにも色鮮やかに思い浮かぶのに。
(それなのに・・)
目の前で、ぼんやりとセリカを見上げるカイザを睨む。その顔が、自分の目から溢れて来た涙で滲む。
「食べなさい」
セリカは、パンをカイザに差し出した。
「これは、あなたの国の軍が蹂躙した土地の小麦から作ったものです。農民が種を蒔き、大切に育ててきたものです。本来は、あなた方などには食する資格のない、大切で、価値あるものです。あなたが戦場で、ラリサやルークに守られて、呑気に寝ていた時に、無残に殺されていった領民達の口にこそ、入るべきパンです。・・けれど、今、こうしてテーブルの上に乗っているのなら、あなたは、食べなければなりません。我が領民達の無念と共に、一つ残らず、全てを!」
セリカは、パンを乱暴にちぎり、自分を見つめているカイザの口元に持って行った。
「さあ、食べるのよ。口を開けるのよ!」
咄嗟に顔を背けるカイザの胸倉を掴み、セリカは強引に、自分の方に引き寄せた。
「・・口を、開けろ!」
「セリカ様、、おやめ下さい!」
ルークがセリカを止めようと、手を伸ばした。セリカは、その手を振り払い、カイザの唇にパンを、ぐいっと押し付けた。
唇を閉ざしたままのカイザの表情に、苦悶の色が浮かんだ。顔を背けながら、カイザは、低く言った。
「い、・・やだ」
その瞬間、ラリサが立ち上がり、セリカの頬をパンッと、打った。
「もう止めなさい、セリカ。このヴェリア城でのそなたの役目は何だったか?カイザ様に仕えることであったな。このような無礼を働くことではないであろう。そなたの父君は、食事中にこのような狼藉を働く教育を、娘に行っていたのか?」
セリカは、胸倉を掴んでいた手をゆるめ、カイザをそっと椅子に座らせた。荒くなった息づかいを落ち着かせる。
そしてゆっくりと膝を折って、跪いた。
「・・ご無礼を、お許し下さい」
カイザは、セリカをじっと見つめ、
「・・セリ、カ」
と言った。
ラリサとルークも驚いたように、カイザを見た。カイザがセリカの名を呼んだのは、これが初めてだったからだ。
カイザは、椅子から立ち上がって、手を伸ばし、床に転がったパン切れを拾った。
「セリカが、今、ひどく、泣いているのは、わたしが、これを食べないせいか?」
そう問われ、セリカは、初めて、自分の頬も口元も、涙にまみれているのを知った。黙ったままでいると、カイザが言った。
「・・それなら、食べよう。今、食べきれないものは、夕食に。ここにあるパンを、全部食べよう。・・そうしたらもう、セリカは、泣かなくても、よいな?」
そう言って、カイザは、手に持ったパンを口に入れた。
その様子を、ラリサもルークもセリカも、黙って見つめていた。
カイザの昼食の後、セリカは、部屋に戻って休んでいた。
マリアが、ルークの訪ないを告げた。
「母からです」
と、ルークは、籠の中のパンを見せてくれた。
ルークを、窓際にしつらえたテーブルに案内し、マリアにお茶を持ってくるよう頼んだ。
ルークの前にカップを置くマリアの顔は真っ赤で、その手はかすかに震えていた。ルークは、静かに会釈をした。
カイザに仕えるようになって、すぐに分かったことだが、常にカイザの側にいるルークは、このヴェリア城の侍女達の憧れの的だった。端正な顔立ちで、物腰静かで、礼儀正しく、それでもいざという時は、身を挺してカイザを守ろうとする闘志を身体中に秘めていた。
テーブルの上に置かれたパンを見つめて、セリカは言った。
「さっきは、みっともないところを見せちゃったわね。びっくりしたでしょう、貴族の娘があんな口を利くなんて。自分でもびっくりだもの・・」
ルークは、カイザが眠る天幕の中で、ラリサと流血の戦いを繰り広げた時から、セリカを見ていた。このきらびやかで、洗練されたヴェリア城の中にあっても、ルークには、何故か、素直に、素の自分を出すことが出来た。
「・・カイザにも、悪いことしちゃったわね。普通、皇太子に、あれはしないわよね」
「・・あの」
ルークが口を開いた。その静かな黒い目には、非難めいた色は何もなかった。
「もし出来ましたら、わたくしもいただいてよろしいでしょうか。セリカ様が生まれ、お育ちになったブレッシェンの地でとれた小麦のパンを」
セリカは、ぜひ、と頷いて、籠を差し出した。
ルークは、その中の一つを大事そうに両手で押し戴いてから、食べ始めた。
セリカも手を伸ばしてパンを取り、一緒に食べた。懐かしい故郷のパンは、甘く、香ばしく、この城で出されたどんな食事よりも、美味しかった。
そう感じる自分に驚く。ラリサに連れて来られてから、何かを美味しいと感じる味覚を、ずっと失っていたのだ。
ふわっと、また涙が浮かんだ。ルークが気遣うようにセリカを見る。セリカは慌てて、涙を拭いた。
「さっきから変ね、わたしは」
「セリカ様の故郷のパン、とても美味しかったです。御馳走様でした」
ルークが、律儀に頭を下げた。
「カイザ様も、そうおっしゃっていました」
「カイザも?本当に?」
「はい。セリカに叱られたから、しっかり噛んで食べてみた。そしたら、今まで食べたパンの中で、一番美味しかった、とおっしゃって」
柔らかく笑う。侍女達がこぞって見たがるルークの笑みだった。
「叱られて、か。・・つくづくカイザって、不思議な人よね。睡眠の取り方も、何とも掴みどころのない性格も。あなた達親子はよく付き合えるなって、感心しちゃうもの」
セリカの軽口に、ルークは微笑で返しただけだった。
実際、ラリサとルークの、カイザに対する献身ぶりには、目を見張るものがあった。
朝から晩まで、常に側を離れない。カイザの睡眠中にでさえ、どちらかが、必ず側にいた。
「ラリサかルークの一人だけだったら分かるけど、どうして、親子でカイザに仕えるようになったの?いつからカイザに仕えているの?カイザは、昔から、ずっとあんな感じなの?」
矢継ぎ早の質問に、ルークは少し躊躇うように考えてから、セリカを見た。
「最初のご質問については、いつか適切な時期が参りましたら、お答え出来るかもしれません。二番目の質問につきましては、わたくし共が、カイザ様にお仕えするようになったのは、今から十一年前のことです。その時のカイザ様は、そうですね・・」
少し言い淀むようにしてから、ルークは、セリカを真剣に見つめ、意を決したように、続けた。
「七歳でいらっしゃいました。初めてお会いした頃のカイザ様は、今よりも、もっと、・・厳しい状況にあったのではないかと、推察しております」
「厳しい状況って?」
「それもまた、いずれ時が参りましたら、お答え出来るかもしれません。今はまだ、お答え出来かねます」
ルークは、きっぱりと言った。
色々な事情があるらしいが、セリカが関わることではない、ということか。
「分かった、それなら、その時期とやらが来るまではもう、詮索しない」
「ありがとうございます」
「それなら、これが分かれば教えて。どうしてわたしは、このヴェリア城に連れて来られたの?ダイン皇帝が父に宛てた親書には、ダイン皇帝からの要求を拒めば、わたしは奴隷に落とされる筈だった。父は、要求を拒んだわ。それなのに、どうしてわたしは、ここで貴族の姫として遇され、今、こうしてカイザに仕えているの?さっきのあれを見たでしょう?カイザにあんな無礼を働いたのに、ラリサもあなたも、わたしを罰しなかった。それは何故?わたしは、あなた方のように、カイザに、心からの忠誠を誓うことなんて出来ない。わたしは、これから、どうカイザに接すればいいのかしら?」
「セリカ様を、こちらにお迎えしようと考えたのは、母です。母がダイン皇帝に提案し、ダイン皇帝が、その案を良しとされました」
「ラリサが?」
初めて聞く話に、セリカは驚いた。
「はい。それについては、いずれ近い内に、母から直接、詳しくお話しする機会があるかと思います。母はあの通り、カイザ様をお守りすること、カイザ様がお健やかにお過ごしになることを、何よりの自分の使命と考えております。セリカ様を、カイザ様のお側にお連れになることが、カイザ様の御為となると判断したのだと思います」
「カイザの為って・・。でも、わたし、これからも、色々とカイザに言っちゃうわよ、たぶん。だって、カイザを見ていると、時々、すごくイライラするんだもの。こんなこと言ったら、ルークに叱られちゃうかもしれないけど」
ルークは笑った。
「いいのですよ、それで。勿論、先程のように、直接、カイザ様に乱暴されるようなことは、さすがに止めていただきたいのですが。・・実際、わたくし共も、先程のカイザ様の言葉には、驚いているのですよ。カイザ様が、あんな風に、周囲にいる者を気遣われることは、これまであまりなかったので。・・そうですね。あるいは、母は、だからこそ、あなた様を、ここにお連れになったのかもしれません。このヴェリア城の中で、皇太子にあのような真似が出来る者は、他に誰もおりませんから」
妙に納得したように言う。セリカは腑に落ちないまま、言った。
「それじゃあ、わたしは、これからも、このままの感じで、カイザに接すればいいのかしら?」
「はい」
ルークは、力強く頷いて、笑った。
「今のセリカ様のままで、充分でございます」
皇太子カイザは、十八歳。もう妃を得てもおかしくない年齢だった。
多少、変わったところはあっても、そこは、カストニア帝国の皇太子。一日も早く後継者をと、ダイン皇帝の肝いりで、ヴェリア城では、連日、舞踏会が開かれ、帝国内外から、妙齢の貴族の姫君達が華やかに着飾って、カイザの前に跪いた。
「ユース候の御息女、テレサ姫でございます」
「キサリア公国の三女、マーガレット姫が、カイザ様にご挨拶をと、お越しになりました」
「エルフト王国のフランソワ国王の妹君の、カトリーヌ姫でございます」
先触れの声と共に、胸元も露わに、艶やかなドレスに身を包んだ美しい女性達が、謁見の間に入ると、居並ぶカストニア帝国の大臣達から、どよめきの声が起こった。
ラリサの隣りに控え、それを眺めていたセリカも、次々に目の前に現れる豊満な身体の美女達のまばゆい華やかさに、ただただ目を見張るばかりだった。
(さすが、カストニア帝国の皇太子。選り取り見取りじゃない)
が、当の本人は、所在なげに視線を彷徨わせ、挙句、眩暈がして気分が悪いと、顔を覆って、小さな声で、ラリサを呼んだ。
素早くラリサとルークが、立ち上がる。
「セリカ、急いでカイザ様のお部屋に、お茶の用意をしてくれ」
「はい」
謁見の間を退出し、カイザの部屋のテーブルに、熱いお茶を淹れて待っていると、ほどなく、ルークに支えられたカイザが、真っ青な顔で入って来た。
本当に具合が悪いようだ。今は、あまり睡眠がとれていない周期に入っていたのを、ダイン皇帝の厳命により、謁見の間に駆り出されたのだった。
「大丈夫?サーラ茶よ。気分がすっきりするから、少しずつ飲んでみて」
セリカが差し出したお茶を、カイザは、受け取って、ゆっくりと口に含んだ。
額に脂汗をかいている。セリカは、手に持ったハンカチで、それを拭ってやった。
ラリサとルークは、再び、謁見の間に戻って行った。
あのブレッシェンのパンの一件以来、二人は、カイザをセリカに任せても大丈夫だと判断したのか、セリカがいる時は、常にどちらかがカイザの側にいることはなくなった。セリカが、カイザに危害を与えることはないと、信用してもらっているのか。
当のカイザは、そんなことも頓着せず、静かにお茶を飲んでいた。青白かった頬に、かすかに赤みが差し、荒かった呼吸も、落ち着いてきたようだった。
「・・少しは良くなった?おなかは空いている?」
セリカの問いに、カイザは、ゆっくりと頭を振った。
「横になった方がいい?」
再び、小さく頭を振る。そのまま、ぼんやりと窓の向こうを見つめていた。
謁見の間では、まだ美女達がダイン皇帝に挨拶をしているのだろう。賑やかな音楽と笑い声が、静寂の中、時折、遠くから響いてきた。
カイザの横顔は、何も語らない。その黒い目は、蒼い空をただ見つめていた。
(本当に、不思議な人。見ているだけなら、素敵な皇子様なのにね・・)
美女ばっかり、選り取り見取りでいいわね、と軽口を叩きたいところだが、カイザの前では、セリカも沈黙してしまう。
そもそも、カイザは、着飾った姫君達の顔など、見てもいないようだった。初めてセリカがカイザに会った時と同じように、カイザの目は、その場にいる誰をも見ていないのかもしれない。
「今、眠れてないの?」
セリカの問いに、カイザがゆっくりと頷いた。そして呟くように、ぽつりと言った。
「・・眠りが浅いと、夢を見る」
「え?」
「怖い夢を、見る」
それきり、再び、視線を彷徨わせた。
その様子は、まるで、七歳の子どもが怖い夢を見た時のことを、母親に伝えるかのようだった。身体を固くして、背中を丸め、両腕で自分の身体を抱きしめている。
本当に、怯えているのだ。
以前、ルークが言っていた。ラリサとルークが仕える前のカイザは、厳しい状況にあったと思われると。
今のカイザの様子と、その過去の厳しい状況というのは、何か関係があるのだろうか。
けれど、ルークは、今は立ち入るな、とセリカに言った。
それなら、セリカは、それについては考えない方がいい。
「・・ねえ、カイザ。わたしをしっかり見てみて」
カイザが、ゆっくりと顔を上げた。
「今、あなたは、ヴェリア城の自分の部屋にいて、あなたの目の前には、わたしがいる。わたしのことが見える?」
カイザは頷いた。
「瞳の色は?」
「・・緑色、だ」
「よろしい。ちゃんと見えてますね」
ぼんやりとした表情のカイザに、セリカは笑って見せた。カイザは、懸命に、セリカの顔を見つめ続けていた。
「・・今、セリカは、わたしを見て、笑っているのか?」
「そう。笑っているわ。・・大丈夫、あなたが今、夜に見る夢は、怖くない。夢は夢でしかない。夢は、あなたに何もしない。何も出来ない。だから、何にも怖くない」
「・・何も、怖く、ない」
セリカの言葉を、カイザは、子どものように繰り返した。
その時、チリンと鈴の音が鳴った。
音のした方を見ると、窓の桟に、鈴を首につけた小さな黒猫の姿があった。侍女の誰かが飼っているのだろうか。
「あら、こんなに高い所なのに、お前、怖くないのね。すごいね。おいで、おいで」
セリカが呼ぶと、黒猫は、身体を優雅にしならせて部屋の中に、するりと入った。
セリカが人差し指を伸ばすと、黒猫は、鼻を近づけてそれをフンフンと嗅ぎ、それから、細い身体を、セリカの脚にこすりつけた。セリカは、その華奢な身体を抱き上げて、腕の中で抱きしめた。
「いい子ねえ」
黒猫は、セリカの腕の中で、髭を揺らし、喉をグルグルと鳴らした。
その時、初めてカイザの様子の変化に気づいた。
カイザは、腰を浮かして立ち上がるようにしたまま、セリカの腕の中の黒猫を注視していた。
「どうしたの?猫が嫌いなの?」
セリカの問いに、カイザの身体がびくっと震えた。
「ち、がう・・。母が・・」
その目に、ひどく悲しげな色が浮かんだ。
「お母さん?イザベル皇妃のこと?九年前に亡くなったという?」
「母が、猫が、嫌いだった・・。子どもを、たくさん産むから、と言って・・」
黒猫から目を背けるようにして、カイザは言った。
セリカは気づいた。カイザの視線は、再び空を彷徨ってしまっていた。
(一瞬、目が合ったと、確かに感じたのに・・)
カイザの視線は、もう目の前の黒猫を見ていない。別の何かを見ているようだった。
その夜、カイザは、久しぶりに深い眠りに入った。
ルークが寝ずの番を務め、ラリサとセリカの二人は、隣りの部屋で、遅い夕食を食べた。
夜遅くになってもまだ、弦楽器の音や、女達の悲鳴にも似た笑い声が聞こえてくる。
「当の主役が、ここで寝入っているというのに、変な宴ね」
セリカは、妃候補の女達の間で、カイザという存在が、ないがしろにされているようで、何となく面白くない。
ラリサは、葡萄酒を口にしてから、言った。
「ダイン皇帝の、ただお一人の後継者だ。周辺国からは、常に注視されている。カイザ様のご様子は、隠しても隠し通せるものではないからね」
「それでは、あの姫君達は、カイザのことを納得の上で、ここに来ているってこと?」
「そうだろうな。・・まあ、実際にお会いするまでは、あれこれと夢想はしたかもしれないが・・」
唇を曲げて、ラリサは薄く笑った。
「・・でも、本当に大丈夫なの?」
「何がだ?」
「結婚よ」
セリカは、ずっと気になっていたことを、思い切って口にした。
「あのカイザが、結婚なんて、つまり、男女が寝台の中でどうこう・・みたいなこと、カイザは出来るのかしら?」
セリカが顔を赤くしながら、ぼそぼそと言うのを見て、ラリサが笑った。
「出来るさ。カイザ様も、成人男性だ。お身体はいたって健康だ」
「でも・・」
「それに」
セリカの言葉を遮って、ラリサは、セリカを見つめた。淡褐色の目が、きらりと光った。
「その為に、わたしはそなたを、ブレッシェンから連れて来たのだからね」
「え?」
ラリサの言う意味が分からず、セリカは、ラリサの顔を見た。
ラリサは、セリカを真っ直ぐに見据えた。
「近い内にそなたには、カイザ様の夜伽をしてもらう。ダイン皇帝も、それは了承済みだ。だからこそ、そなたを奴隷に落とさず、貴族の姫として遇した。もし、そなたがカイザ様のお子を宿した時、母の身分が奴隷では、色々と都合が悪いからな。幸いカイザ様も、そなたには、お心を開いていらっしゃる」
セリカは、驚きのあまり、言葉がうまく出てこない。
「・・な、何を言っているの?わたしがカイザと?そんなの、無理よ!」
「何故だ?」
「何故って?だって、わたしには、婚約者がいるのよ!」
「だが、行方不明だ」
立ち上がって叫ぶセリカに、ラリサは言った。
「はっきり言っておこう。ブレッシェン伯領は、もうこのケイナス大陸には存在しない。そなたには、帰る場所はどこにもない。そなたは、奴隷に落とされるところを、こうやってダイン皇帝から格別の恩赦をいただいているのだ。そなたには、最初から、否という選択肢はない筈だ」
ラリサの真剣な表情から、彼女が強い意志を持って話していることが分かった。
セリカは、胸に激しい動悸を感じながら、訊いた。声が震えた。
「・・どうして、わたしなの?この城には、他にもたくさん侍女がいるじゃない。どうしてわたしじゃなくちゃいけないの?いったい、誰がそんなことを決めたの?」
「わたしだ」
ラリサの目が、セリカを射抜くように見た。
「わたしが決めて、ダイン皇帝に進言した。陛下がそれを良しとされた。近々、カイザ様にも、そのようにお伝えするつもりだ。皇太子妃が決まってから、寝所で何も知らない、何も出来ないでは、さすがに体裁も悪いからな。・・そなたも、心づもりはしておくように」
逃げるように自室に戻り、長椅子に腰かけ、セリカは両手で顔を覆った。
ラリサと話していた時に感じた激しい動悸は、徐々におさまってきたが、代わりに襲ってきたのは、言いようのない悲しみと怒りだった。胸の中がむかむかした。
ラリサとダイン皇帝がセリカに課したのは、否と言うことが許されない性の奴隷だ。
あの夜、カイザの天幕の中でラリサと戦って、捕らえられ、ルーヘンに連れて来られた時から、それはもう決まっていたのだ。
(それなのに・・)
ダイン皇帝から華美な部屋と衣装をあてがわれて、皇太子カイザの護衛兼、世話係なのだ、と勘違いしていた自分の愚かさが、たまらなく恥ずかしく、口惜しかった。
(・・これでは、奴隷と変わらない)
主に命じられるまま、意に沿わないことをしなければならない奴隷と一緒だ。
カイザのことが嫌いな訳ではない。でも。
セリカは、目を閉じ、両手で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
(・・でも、嫌だ!)
自分自身のぬくもりに、麦畑を見下ろせるブレッシェンの丘の上で、婚約者だったカリエが抱きしめてくれた時のぬくもりを思う。
カリエの胸は広くて、温かかった。セリカは、いつも、その中で安心して呼吸することが出来た。
――月並みだけれど、結婚して、夫に愛され大切にされ、子どもをたくさん産んで、愛情深く育てていく。皆は、君に、そんな風になることを望んでいるんだと思うよ。・・僕も含めてね。
優しい声音を思い出す。あの戦いが始まって、カリエが、父の使者としてウェスティア王国に旅立った日から、決してカリエのことは、思い出すまいとしてきた。
ラリサは、セリカに言った。ブレッシェン伯領はもうこのケイナス大陸には存在しないと。ブレッシェンは、カストニア帝国との戦いに負けたのだから。
父は処刑され、セリカは囚われの身となった。
自死は出来ない。必ず生きると、父と約束したからだ。
けれど、ここでダイン皇帝の命令に従って生き続けることは、セリカにとっては、心の死を意味する。
セリカは唇を噛んだ。拳をぐっと握りしめ、ゆっくりと顔を上げる。
帰る場所はもうない。優しかったカリエも、側にはいない。
父は、決して、死ぬなとセリカに言った。だが、セリカが、心の死の中を生き続けることを、父は、本当に望んだか?
違う。きっとそうではない。
父がセリカに望んでいたのは、自ら選ぶ生である筈だ。自分の人生をどう生きていくかを、自ら選んでいく、そういう生だった筈だ。
セリカは、立ち上がった。
ブレッシェン伯領はもうない。だが、セリカ・ブレッシェンはここにいる。この身体は温かく、まだここで息をしている。
今度は、自分で自分の命を守る番だ。
選択肢は、ある。
このヴェリア城を出て行く。
ヴェリア城脱出を心に決めてから、セリカは、カイザに仕えながら、脱出方法を探るため、城中を調べ始めた。
調べてみて気づく。ラリサは、セリカに最上階の部屋を与え、侍女マリアを付けた。窓からは逃げられない。どこに行こうとしても、ルーク、ラリサ、マリア、近衛兵の目が光る。監視されていたのだ。これでは、天守を出て、内郭への門すら抜けられない。城の外に続く市門は、遠い。
(どうすればいい?どうすれば、市門を抜けられる?)
考え抜いた末に、セリカが辿り着いたのは、カイザと二人でいる機会を使うことだった。
週に三日、カイザは、体調がいい時に、天守を出て、中郭で、ラリサとルークと共に、馬に乗り、剣の稽古をした。
カイザの馬術はなかなかのもので、馬もカイザによく懐いていた。剣の腕は、セリカには劣るものの、ラリサに鍛えられた成果が出て、他の従者に見劣りするものではなかった。
ラリサの方針で、カイザは、馬に乗った後、馬の世話を、自らの手で行っていた。
戦場にあって、最終的に生死を決するのは、人馬一体となれるかどうかだ。自らの命を預けるその馬の世話を本人がするのは、当然のことだと、ラリサは語っていた。
ラリサが、急遽、ダイン皇帝に呼ばれて、謁見の間に向かった後、セリカはルークと共に、カイザが、皇太子専用の厩に馬を連れて行くのに付き添った。
薄暗い厩の中で、カイザは、馬番から教えてもらった手順で、黙々と馬の世話をしていく。出入り口には、護衛が二人立っていた。
カイザが、馬の体にブラシをかけていると、にわかに外で騒ぎが起こった。幾人かの男達の怒号と馬の嘶きが聞こえてきた。
ルークは、軽く眉をひそめた。
「ちょっと様子を見て参ります。セリカ様、カイザ様をよろしくお願いいたします」
そう言って、厩を出て行った。
セリカは、カイザを手伝いながら頷いた。
今がその時だ、と思った。
「・・カイザ、そのまま、手を止めずに、わたしの話を聞いて」
セリカは、カイザにやっと聞こえるような小声で言った。
カイザは、一瞬、手を止めて、確認するようにセリカを見たが、小さく頷いて、再び手を動かした。
セリカは、ダイン皇帝とラリサから、カイザの夜伽の相手をするよう強いられていることを話した。
馬の横顔の向こうで、カイザが静かな表情でセリカを見ているのが分かる。
セリカは懸命に言った。
「わたしには婚約者がいるの。ブレッシェンの戦いで、行方不明になって、今は、生死も分からないけれど、婚約式で誓ったの。ずっと愛し続けると。だから、あなたの夜の相手をすることは出来ないわ。決してあなたが嫌いな訳じゃない。でも、ごめんなさい。嫌なの。それをしたら、わたしの心は、死んでしまう。・・だから、お願いします。どうか、この城から、わたしを逃がして下さい」
カイザの黒い目には、何の表情も浮かんでいなかった。ただ黙って、セリカを見ていた。
やはり、駄目なのか、とセリカが思った時、カイザの唇が、ゆっくりと動いた。
「・・セリカには、婚約者がいる。それをしたら、セリカの心は、死んでしまう・・。セリカは、この城を出たい・・」
確認するように、カイザは、小さく呟いた。
「それをしたら、セリカの心は、死んでしまう。セリカは、この城を出たい。・・セリカは、・・この城を、出たい」
繰り返した後、カイザは、静かに、外したばかりの鞍を再び馬の背に乗せ、ハミをかませて、手綱を引っ張り、歩を進めた。カイザの馬は、かるく鼻を鳴らして足踏みしたが、カイザに促されるまま、歩き出した。
「カイザ様?どちらへ?」
再び馬を連れて出てきたカイザに、出入り口の左右に立っていた護衛二人が、驚いたように問いかけた。
「カイザ様?」
「この扉を、閉めよ」
馬を扉から出して、カイザは、馬に飛び乗った。
「ルークが戻ったら、わたしはこの中にいる。良いと言うまで、厩の中に入るなと伝えよ」
そう言って、セリカに手を差し伸べた。セリカは、カイザに手を伸ばした。カイザは、思いの外、力強く、セリカを馬の背に引っ張り上げた。
馬上のカイザとセリカを、二人の護衛は、呆気に取られたように眺めている。こんな風にカイザに話しかけられたのは、初めてのことだったからだ。
「で、ですが、カイザ様・・」
「この扉を、閉めよ」
カイザがもう一度言うと、二人は、頭を垂れたまま、言われた通りに扉を閉めた。
「ここでルークを待て。わたしが良いと言うまで、ルークを中に入れるな」
それは、その場に居合わせた誰にとっても、驚くべき光景だった。
皇太子のものと分かる馬飾りをつけた馬に乗ったカイザが、金色の髪をなびかせた娘を後ろに乗せて、城内を疾走させていた。
普段は、ラリサとルークに護られ、十重二十重に護衛が従い、皇太子の姿も、その表情すらも盗み見ることは難しい。
カイザは、幼い頃より、城内の奥深くで育てられ、その言動を見聞した者から、「ちょっと変わった皇太子だ」と、囁かれていた。
自分では何もしない、しようとしない。あの皇太子は、意欲、意志といったものを持ってはいないのではないだろうか、と。
「ダイン皇帝は、男子を一人しかもうけていない。あの皇太子に、この大国を治められる筈がない。このままでは、この帝国の将来は危うい」
「だからこその縁談さ。ダイン皇帝の狙いは、ご自分の血を受け継いだ跡継ぎさ。ご自分が無理なら、お若い皇太子に任せるしかないだろう?」
「そうか、狙いは、皇太子のお子か。おつむの方は少々、あれでも、あちらの方は、ご盛んかもしれないしな」
連日連夜、催された宴に駆り出されていた召使や近衛兵達、城内に肉や野菜を運びこんでくる商人や農民達までが、皇太子の嫁選びについて、あれやこれやと、口さがなく噂をしていた。
そんな噂の渦中にいる、常に城内に引っ込んでいるか、外にいても、護衛達に囲まれ、決してお目にかかれない皇太子が、今、目の前を、馬に乗って疾走させていた。
「あ、あれは、誰だ?」
「まさか。・・あれが、カイザ皇太子?」
「まさかな」
「まさか」
誰もかもが、ただ驚き、ぽかんと口を開けて眺めているばかりで、何も出来ない。
カイザとセリカを乗せた馬は、内郭への門をくぐり抜け、内郭に入った。
内郭には、鶏や豚や牛といった家畜が飼われ、城内で栽培されている農産物の畑があった。
カイザの馬は、決してそれらを損なうことなく、風のように城の外に繋がる市門の前に到達した。
「カ、カイザ様?これは、いったい、どういうことで・・?」
カイザの顔を見知っていたらしい市門の前にいた警備兵が、平伏しながら、カイザを見上げた。
「市門を、開けよ」
「は?・・ですが、あの、ラリサ様からは、何のご連絡もいただいておりませんが・・。ルーク様が、後からいらっしゃるのでしょうか?」
警備兵が、顔を上げて、カイザの後ろを見ようとした。
「市門を、開けよ!」
カイザが一喝した。背中がピリピリと震えるほどの鋭い声に、警備兵は、はっと、立ち上がり、門を開けるよう、手を上げた。
低い音を立てて、重い扉がゆっくりと開き、カイザとセリカを乗せた馬は、城の外に出た。
後ろから、先程の警備兵が、心配そうに見守っている。
「城を出るのは、この娘だけだ」
カイザが言うと、警備兵は、安心したように頷いた。
カイザの背にしがみつきながら、セリカは、巨大な扉が目の前で開くのを、信じられない思いで見ていた。
扉の向こうには、曲がりくねった、なだらかな坂道があり、眼下には、豊かな水を湛えたベルリー川と深い森が広がっていた。
下から吹き上げてくる風に、懐かしい緑の匂いがした。
言葉を無くして黙り込むセリカの方を振り向いて、カイザは、自分が握っている手綱をセリカに手渡し、自分は馬から飛び降りた。
「早く、行け」
セリカを見つめて、確認するように、言った。
「これで、セリカの心は、死なない」
カイザの言葉に、セリカは不意に泣きたい気持ちになった。別れの言葉を伝えようと唇を開いたその瞬間、カイザの鞭が馬の尻を叩いた。
馬は嘶き、猛然と駆け出した。
セリカは、振り落とされそうになりながら、必死になって手綱を握った。
後ろを振り返ると、カイザの後ろには、既に大勢の警備兵達がやって来ていた。
カイザがこちらを見ているのが分かる。その姿がどんどん小さくなる。
どうしてか、涙がふわりと浮かんだ。けれど、前を向いた。
今は、ただ、逃げ切ることだけを考えればいい。
自分の心を生かす為に。