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ぼくの帝国  作者: roka-ha
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第一章

     プロローグ



 国境沿いの街の広場の片隅に、小さくうずくまる黒い塊があった。

 彼は、目を閉じていた。

 手足を折り、薄汚れた、灰色のベールを頭からすっぽり被って、壁に寄りかかっていた。

 一見、広場の片隅に捨て置かれた古布か何かと間違えそうだが、目を凝らして見ると、それが人であることが分かった。

 肘や裾が破け、無残に穴があいている垢だらけの上衣に、大きすぎると思われるズボンをはいている。そのズボンも、ひどく汚れ、片方が、腰から破れ、地面に垂れ下っていた。

 どのくらい、ここでそうしているのか、彼自身にも、分からなかった。

 もう何日もここにいるのか、それとも、この場所に辿り着いたばかりか。

 どうやって?

 そんな風に問うことを、彼の心は、もうとうに拒否していた。目を閉じ、小さく身体を折りたたんだまま、かすかに肩を上下させ、彼は、ただ呼吸を繰り返す。

――よろしいですか。

 誰かが、必死な声で、言っていた。

――決して、その御名を他人に言ってはなりません。言えば、あなた様の命はございません。けれど。

 その目に涙が光る。

――けれど、どうか。ご自分のお名前を、お忘れなきよう。

 彼は、最後に自分に向けられたこの言葉を、何度も反芻していた。

 思考することを拒否した彼にとって、それは、意味をなすものではなく、単に、意識の表層を滑る記号のようなものでしかない。

 灰色のベールから覗く彼の頬の上に、ぽつ、と大きな雨粒が落ちた。

 その瞬間、彼は、まるで雷に打たれたかのように、びくりと身体を震わせた。

 ベールが動き、彼は、こわごわした様子で、顔を覗かせた。

 雨を降らす、どんよりと暗い天空を見上げるその黒い瞳は、恐怖に満ちていた。

 きつく結んでいた彼の唇から、かすかな呻き声が漏れた。

 その顔の上に、冷たい雨は、どんどん降り注ぐ。



     第一章



     1



 カストニア帝国の帝国都市であるルイファの商人キース・エルリーは、馴染みの居酒屋で、商人仲間達とビールを飲んでいた。

 幼い頃に両親に先立たれ、母の兄である伯父に、養子として引き取られた。伯父は、このルイファの市政を支配する大商人の一人で、キースは、幼い頃から伯父の後について、商売を学び、商才を磨いた。

 商才だけでなく、武勇にも優れ、ルイファの自治を守る軍の副隊長でもある。武器の整備や、城壁の管理などにも当たり、他の大商人からも一目置かれていた。

 彼の伯父が、先のマースの戦いで戦死し、彼の従兄弟である、伯父の一人息子のクリスが相次いで病死した際も、彼が、伯父の後を継ぐのは、当然のこととして受け入れられた。

 歳は、三十二歳、独身。がっしりとした体躯、肩まで伸びた明るい茶色の癖っ毛を、無造作に縛っている。その緑色の目は、笑うと優しく細くなり、街中の娘の心を、一瞬でわし掴みにしてしまう。

 性格は、豪放、磊落。男気があり、面倒見がいいので、商人仲間や部下や婦女子、犬、猫に至るまで、彼を慕う。

 彼の声は明るく、よく通るので、外で飲んでいれば、誰もが彼の存在をすぐに知ることが出来たし、そのつど、彼の姿を確認したがった。

 ビールを片手に集まった商人仲間は、同世代ばかり。皆、くつろいだ姿勢で、四方山話に興じていた。

「それでどうだい?今度の新皇帝の出来は?確か、先の皇帝の弟だって?」

 話は、一か月前に、都ルーヘンで起こった謀反事件に及んでいた。

「カイザ皇帝はどうなったんだ?まだ結婚もしてなかっただろ?」

「どうやら殺されたらしいぜ。あるいは地下牢に幽閉か。あれから姿が確認されてないらしいからな」

 このルイファは、カストニア帝国直属の帝国都市として、事実上の独立を与えられ、諸侯と並ぶ力を持っている。

 皇帝が住まう帝都ルーヘンとは遠く離れている。従って、誰が新皇帝になっても、このルイファでの生活は、これまでと変わることはないだろう。誰もがそう思っていた。

 一か月前、まだ即位して二か月にしかならない十八歳のカイザ皇帝に対し、彼の叔父のアンセルムが、その出自に疑いありとして、カイザを捕えて廃位に追い込み、自らが、皇帝となった。

「どうやら、帝国内のエルラト王国の軍を、ヴェリア城に引き込んだらしい。電光石火の早業だったと言うからな。カイザ皇帝は、抗弁する機会さえ、与えられなかったらしいぜ」

「出自に問題あり、って、じゃあ、誰の子だよ。皇妃のコレかよ」

「はははは、そうかもな」

 仲間達が、真っ赤な顔をして笑い合うのを、キースは、ビールを口に含みながら、眺めていた。

 最後にぐいと飲み干してから、立ち上がる。

「お先」

「何だよ、キース、もう行くのか?」

「ちょいと野暮用」

 片目をつむって言うと、

「この好色男!沿岸部から帰って来たら、早速、女かよ。そう言えば、仕立て屋のセーラはどうしたんだよ」

「ブラット家のアリッサは?」

 はやして立てる仲間達に、笑顔で片手を上げて、キースは、居酒屋を出た。

 人で溢れた目抜き通りを抜け、しばらく歩いた所に、キースが伯母と暮らす、エルリー家の館があった。

 門をくぐり、中に入ると、ちょうど伯母シェリーと顔を合わせた。

 シェリーは、キースを、実の子のように愛情深く育ててくれた。もともとは気丈で、明るい人だったが、十三年前に、夫と息子を相次いで亡くしてしまってから、晴れやかな笑顔を見ることが少なくなった。

「ああ、キース、お帰りなさい。やっぱり居酒屋に寄っていたわね」

 シェリーは、キースの赤い顔を見て、笑った。

「只今、戻りました。真っ直ぐ、館に戻るつもりが、カール達に捕まってしまって」

「そうなると思ってたわよ」

 そう言う伯母の表情が、以前より明るいことに気づく。

 キースは、シェリーが手に持っている水差しに目を遣った。

「・・あいつ、どうです?」

「今、ちょうど目覚めたところなの。あれからずっと熱を出していて、眠ったり、起きたりを繰り返していてね。喉が渇いていたらしくて、お水を全部、飲んじゃったから、今、また持って行こうとしていたところよ。あなたも、一緒に来なさい」

 促されて、後について階段を上がる。

「すみません。俺が拾っておきながら、伯母上に世話を頼んでしまって」

「仕事があったのだから、仕方がないですよ。それに、あなたが色々と拾ったものを世話するのは、慣れていますから」

 小さな頃から、瀕死の子犬や、母猫とはぐれた子猫を拾ってきては、、一緒に面倒を見てもらった。おかげで、この館では、今も犬や猫がいつも走り回っている。

「でも、まあ、今回は、さすがにわたしも驚いたけれど・・」

 そう言いながら、シェリーは扉を開けた。

 館の二階にある客用の寝室に入る。

 日当たりの良い部屋の奥にしつらえた寝台に、少年が横たわっていた。

 キースは、とうとう、人間まで拾ってきてしまったのである。


「気づいたか?気分はどうだ?」

 寝台の上の人物に、キースは、明るく話しかけた。

 おそらく十代後半。すっきりと整った顔立ちをしている。短く切りそろえられた漆黒の髪、同じように夜闇のような黒い瞳が、ゆっくりと動き、静かにキースを捉えた。

 ついで、キースの隣りに立つシェリーを見、再び、物問いたげに、キースを見る。

「俺は、この館の人間だ。ドレイク広場で倒れていたお前さんを担いで、ここまで連れて来た。隣りにいるのは、ここの館の主である俺の伯母だ。俺が五日間、ここを留守にしていた間、お前さんの世話を、頼んでいたんだよ」

 六日前の夕刻、キースが会合から、館に帰ろうと馬を走らせていた際、突然の豪雨に見舞われた。

 ドレイク広場を通りかかった時、当然ながら、人の姿はなかった。そのまま通り過ぎようとした時、広場の片隅にうずくまる、人間らしき姿を見つけた。

 物乞いの類だろうと思ったが、びしょ濡れのまま、雨宿りをしていないのも変だなと思い、馬から下りて、声をかけた。

 予想に反して、薄汚れた灰色のベールの下の人物は、まだどこか、あどけなさを残した少年だった。しかも、彼は、この暴風雨の中、身体を固く折ったまま、意識を失っていたのだ。

 さすがに放っておく訳にもいかず、キースは、少年を抱えて、館に戻った。

 翌日から、どうしても自分が行かなければならない仕事があったので、その後の世話を伯母に託し、自分は、沿岸部に出掛けて来たのだった。

「と言う訳で、何せ、お前さんが気を失っていたもんだから、事情も何も分からないまま、ここに連れて来ちまったんだ。・・が、お前さん、いったい、なんでまた、あんな所にいたんだ?」

 キースの問いに、少年は、無表情のまま、唇を閉ざし、何も喋らない。

 どうも変だな、と思い、再び、口を開こうとした時、シェリーがそれを制するように、静かに言った。

「目覚めたばかりだから、少し混乱しているのですよ。・・まあ、とにかく、もっと水を飲みなさい。喉が渇いていたのでしょう?」

 と、水差しから、カップに水を注ぎ、少年に差し出した。

 少年は、目の前に差し出されたカップの中の水を、ひどく真剣な表情で、しばらくじっと見つめた。やがて、腕を伸ばして、それを受け取り、ゆっくりと飲み干した。ほっそりとした首の喉仏が動く。

 今は、汚れた衣服ではなく、シェリーが着せたのだろう、キースの予備の清潔な寝巻を着ていた。

 カップを受け取る際に伸ばされた腕の白さが、何故か、キースの脳裏に、いつまでも残った。

「・・お前さん、あそこで何をやってたんだ?あの辺で暮らしている物乞いなのか?いつもどこで寝起きしてるんだ?親は?兄弟は?」

 内心、期待はせず、訊いてみた。案の定、何の答えもない。

(これは、ひょっとして、かなり厄介なものを、拾っちまったのかも・・)

 いつの間に入って来たのか、飼い猫のアヴィが、少年が横になっている寝台の上に乗って、手を揃えてちょこんと座っていた。

 七年前に、母猫からはぐれ、まだ目も開かない状態で拾ってきた猫だ。拾った時は、目やにで瞼がはりついていて、全身、泥だらけだった。銀色の毛並み良い美猫に育ち、キースによく懐き、今では可愛いお嬢さんだ。

 アヴィの、何かを期待するような金色の目を見ながら、キースは言葉を探した。

「・・ええっと、じゃあ、さ。せめて、名前を教えてくれないかな。俺は、キース・エルリー。このルイファで、商人をやっている。お前さんの名前は、何て言うんだ?」

 キースの言葉に、かすかだが、少年の表情が動いた。何かに反応したらしい。

「名、前は・・」

 かすれた声が、その唇から漏れてきた。キースも、側で様子を見ていたシェリーも、次の言葉を待った。

「名前は、分から・・ない」

 シェリーと目が合った。シェリーが、キースを見ながら、ゆっくりと瞬きをする。

――さあ、後始末は、自分でしなさいね。

 と、言われているようだった。



     2



 身体は回復したものの、自分の名前も分からず、仔細も話そうとしない少年を、これからどうすべきか、キースは迷った。が、結局、シェリーに頼み、館に留めおくことに決めた。

 少年は、どこから来たのか?

 近隣の諸侯の領土から、この帝国都市ルイファに逃げてきた農奴にしては、身体つきも華奢だし、何より色が白過ぎる。

 別に庇護が必要な子どもではないし、怪我もない、病を患っているという訳でもなさそうだ。意識が回復した以上、館から出て行ってもらうのには、何の不都合はなかった。

 けれど、少年の、何かが気になった。

 まるで大切な何かを、全てどこかに置き去りにしてしまったような、抜け殻のような無表情な顔。何か事情があるのだろうか、あるいは、少年は、心を病んでいるのかもしれなかった。

 病院に連れて行った方がいいのかもしれないが、なにぶん、まだ何も分かっていない。しばらく預かって、様子を見ようという気になった。

 何故なら、少年は、あの時、シェリーが手渡したカップから、水を飲んだからだ。

 喉の渇きという本能からとは言え、あの場で、ちゃんと自らの意志で水に手を伸ばし、それを口にした。

(・・こいつは、生きようとしている)

 そう感じた。だから留めることに決めた。それに、少年が意識を失っている間に、容体を診てもらった医師の言葉も気にかかっていた。

 自分とは関係ないと言えば、全く、関係ない。だが、どうにも放っておけないのは、もう性分と言っていい。

 シェリーに自分の考えを伝えると、シェリーも少年のことが気になるのか、

「そうね。わたしも、しばらく様子を見るのがいいと思うわ」

 と賛成してくれた。

 館に留め置くことにしたものの、体力も回復し、見た目はいたって健康な少年を、そのまま遊ばせておく訳にはいかない。この館では、働かざるもの、食うべからずなのだ。

 相変わらずキースやシェリーの問いかけには、うんともすんとも答えないが、こちらの言うことは、何となく分かっているようだったので、ともかく、何か仕事を与えてみることにした。


 それから一週間後の昼下がり、キースは、少年の教育係をやってもらっている鎖からびら師ドルトを呼んで、少年の様子を尋ねた。

「若、ありゃ、いったい、何ですか?どこに行ったら、あんな木偶の坊を見つけてこられるんですかい?」

 と、ドルトは、館の中に入るなり、息せききって話し始めた。

 とりあえず、何か仕事を任せてみようと、伯父の代から、鎖かたびら師として働いている、面倒見の良いドルト親爺の元に、少年を送り込んでみたが、キースが予想していた通り、少年は、全く使えないらしい。

 どこかひょうきんな表情のドルトの太い眉が、情けないくらい下がった。

「わしゃあ、この三十年、色んな若造を受け入れてますが、あんな変な奴には、これまでお目にかかったことがありませんぜ」

 とにかく訴えたいことがあるらしく、口から唾を飛ばしてくる。

「まあまあ、ドルト。とにかくまずは、ここに座って座って、な」

 キースは、ドルトを宥めながら、じっくり話を聞くことにした。

 少年をドルトの元に連れて行くにあたり、キースは、少年を、自分の父方の叔母の夫の妹の子という、分かったような、よく分からないような親戚として紹介した。

 商人と職人の仕事を覚えさせる為、見習いとして預かったということにした。勿論、ちょっと変わった奴らしいということも、ちゃんと付け加えておいた。

 ドルトの話を総合すると、まず、少年は、時間や命令、決まりごとを守らない。挨拶もせず、遅れたことを謝りもせず、ふらりと工房にやって来て、言われた作業をしているかと思えば、すぐに手を止め、顔を上げて、ぼうっと往来を眺めていたりする。

 他の徒弟のように、何時間も続けて同じ作業が出来ない。親方に返事もしない。仲間からの問いかけにも、口を閉ざしたまま、一切答えない。何を言われても、からかわれても、無表情のまま、ぼうっと突っ立っている。

「ありゃあ、正真正銘の木偶の坊ですよ。何を言っても、よく分からんようなんですよ。ぼうっと、こっちを見てる。若の遠縁っていうんで、皆、多少は遠慮してますが、陰では、あいつのことを、木偶って、呼んでまさあ」

「そうか」

 少年には、夕餉前には帰館し、シェリーの料理の手伝いをするように言ってあった。

 シェリーは、少年の無気力な様子には一向に構わず、まるで、何も知らない幼い子に、家事を教えるように、料理の載った皿の並べ方から、給仕の仕方まで、一つ一つを丁寧に説明し、彼が失敗しても、気を逸らしても、根気よく接していた。

 それが食べるという行為に直接結びつくものだからか、様子を見ていると、料理を手伝っている時の少年の動きは、緩慢ながら、少しずつ、状況に応じて対処出来ている気もする。

 ただ、こちらが驚くほど、物を知らない。井戸水の汲み方も、火のおこし方も、知らない。自分の服さえ、洗濯出来なかった。濡れた服の絞り方を知らないのである。今まで、いったいどういう暮らしをしていたのか。

 シェリーの方は、何やら楽しそうである。十七歳の若さで病死した息子クリスの面影を、少年に重ねているのかもしれない。確かに、線が細く、色白なところは、クリスに似ている。

 キースが仕事で館を留守にしても、あれこれ少年に世話を焼きながら、一緒に食事をしているので、寂しくなくていい、とシェリーは笑う。

 確かに、若干だが、少年の表情は、出会った時のものに比べて、柔らかくなった気もする。

 相変わらず、ぼんやりしていて、こちらの問いには一切、答えようとしないが、それでも、食卓の周りを歩く飼い猫達の姿を、どこか優しい目で追っている。シェリーに、お代わりは?と訊かれ、素直に手を伸ばすまでになった。

 もう少し、時間が必要かもしれない。

 キースは、ドルトに言った。

「まあ、ドルト親爺。本当に、あんたには苦労をかけてる。けど、もうしばらく付き合ってくれないかな?あいつには、色んなことをさせてみたいんだ」



 目の前の巨漢が、真っ赤な顔で、鼻を膨らませて、喚き立てている。

「だから、・・これが、・・って言った、よな。なのに、・・んで・・」

 彼は、真っ直ぐ、親方の顔を見上げる。

 男の顔は、彼を睨むのだが、太い眉根が困ったように下がり、いまいち迫力がない。遠巻きに見ている男達が、冷ややかに笑っているのが分かる。

 毎日繰り返されるこの光景に、さすがに彼自身も、少しずつ慣れてきた。

 彼は、今、親方に叱られている。

 最初は、周りの人間が何を言っているのか、全く聞き取れなかった。親方ドルトの言葉は、これまで彼が聞いていた言葉と比べて、独特のアクセントだったし、皆、一様に早口だ。

「全く、若も、人がいい。・・んだから」

 吐息混じりにそう言って、ドルトは彼に、行け、と身ぶりで示した。

 彼は、ゆっくりと持ち場に戻り、彼に割り当てられている仕事に取りかかった。

 普通なら、三日で習得出来るという、最も単純なこの作業を、彼は十日経った今でも、上手くやり遂げることが出来ないでいた。

 親方は分かっていない。彼が今、どのような状況にあるのか。

 言葉の問題だけではなかった。

 彼は今、どうして自分がここにいるのか。何故、この作業を自分がやらなければいけないのか、その理由が、分からない。

 何かを考えようとすると、途端に頭に靄がかかったようになり、ハンマーを持つ手も、止まってしまう。

 若、と言われているのが、暴風雨の下、意識を失っていた彼を、ドレイク広場から、自分の館に運んでくれたキースだ。

 医師を呼び、キースの伯母のシェリーが、彼を手厚く看病してくれた。

 その後、キースとシェリーが住むエルリー家の館に、共に住むことを許され、彼は今、そこで寝起きし、食事を提供してもらっている。キースとシェリーは、彼の命の恩人である。それは、彼も理解している。

 分からないのは、自分のことだ。

 自分は、何故、今も、生きている?

 何故、ここでこうして、こんなことをしている?

 何故、キースは、彼にこんなことをさせるのか?何故、自分はこんなことをしなくてはならないのか?

(いったい、何の為に?)

 考えようとすると、また頭に、薄い膜がかかる。

 この工房の職人達が、陰で「木偶」と自分のことを呼んでいることを、彼は知っている。

 その通りだと思った。

 自分は、木偶だ。



     3



 その日、キースは、騎士見習い達の槍の訓練の監督に行く予定だった。

 商人でありながら、伯父の勧めで幼い頃から馬術を習い、槍や剣の訓練を積んだキースは、今ではルイファでも有数の剣の使い手として、ルイファ軍の副隊長と、若い騎士見習い達の、槍や剣の訓練の監督も任されていた。

 朝、一緒に食卓につき、黙々とパンを食べている少年を眺めている内に、不意に思い立った。

「なあ、ドレイク」

 名前がないと、なにかと不便なので、キースとシェリーは、とりあえず少年のことを、ドレイク広場で拾った、ドレイクと呼ぶことにしていた。少年も、あえてそれに異を唱えなかった。

「今日は、仕事を休んで、一日、俺に付き合わないか?意識が戻ってから、ずっとドルトの工房に通っているだけだもんな。たまには気晴らししないとな。ドルトには、使いをやって、連絡しておくよ」

 いぶかしむ表情のドレイクを、キースは、厩に引っ張って行った。

 厩では、六頭の馬が干草を食んでいたが、キースの訪れを知り、一斉に蹄を鳴らして興奮し始めた。一頭の芦毛の馬の前に立つ。

「おはよ、ドールス。今日はよろしくな」

 ぽんぽんと首を叩くと、ドールスは、嬉しそうに鼻を鳴らした。

「お前さんは徒歩でな。お前さんも、馬に乗れればいいんだが」

 キースが言い終わらない内に、ドレイクは、黙ってすたすたと栗色の馬の前に進み、鞍に手を置き、さっと飛び乗った。おっかなびっくり、といった感じではない。普段から馬に乗り慣れている自然な身のこなし方だった。しかも、この中から、従順で、いい馬をしっかり選んでいる。

 内心、驚きながらも、キースは、

「それなら話が早い。じゃあ、行くか」

 と、ドールスに飛び乗った。


 ルイファ市内に作られた訓練場では、既に二十名ほどの騎士見習い達が、互いに向かい合い、槍の訓練を始めていた。

 まだ始めて間もない少年達ばかりで、へっぴり腰で、槍に振り回され、てんで様にならない。

 それを馬上から眺めながら、キースは、隣りのドレイクに目を遣った。

 普段の茫洋とした表情とは違い、静かだが、真剣な眼差しで、その様子を見守っているのが分かる。

「一応、ルイファは、カストニア帝国直属の帝国都市だからな。遠く離れていると言っても、いつ何どき、戦が始まって、お呼びがかかるか分からない。だから、こうやって、常に軍事訓練をしておく必要があるんだ」

 とりあえず説明してみる。ドレイクの表情に、少しばかり興味の色が走るのを見逃さなかった。

「今から十三年前に、先のダイン皇帝の肝いりで、隣国ビスナ王国のマース地方への遠征があった。それでルイファ軍も、引っ張り出されて従軍したんだけど、ろくに訓練もしていない隊を前線に送られて、壊滅状態になっちまってな。多くの戦死者を出しちまった。その反省があるんで、それから、ルイファとしても、戦える騎士をちゃんと育てようってことになってな。・・まあ、二か月前に、皇帝がまた入れ替わっちまって、これから何があるか、分からないしな」

 ドレイクの表情は変わらない。ただ、じっと槍を持つ少年達の様子を見つめている。

「もっと近くで見てみるか?」

 キースの言葉に、ドレイクは、かすかに頷いた。

 キースとドレイクが近づくと、それまで槍を力任せに振り回していた少年達が、一斉に動きを止めて、集まり出した。

「キースさん、こんにちは。よろしくお願いします」

 騎士見習いと言っても、皆、生まれは、この都市の労働者の少年達である。幼い頃から親元を離れ、宮廷などで礼儀作法を叩きこまれる世襲騎士とは訳が違う。

 馬も武器も、自分で調達しなければならないので、そこそこ裕福な家庭の息子でなければ、この訓練には参加出来ない。それでも、雄馬が手に入らずに、雌馬や去勢馬に乗っている者や、どこかの山で採って来た木の枝で、槍を手作りしてきている者もいる。

 力をつけて一人前の騎士になれれば、戦場での報奨金を得ることも出来るし、望めば、このルイファを出て、どこかの諸侯の、雇われ騎士になることも出来る。

 一都市の労働者として、朝から晩まで、同じ作業をコツコツ続けていく自分達の父親のような、地味でつまらない一生を送らずに済むかもしれない。それに、何といっても、馬に乗って、槍と剣を持つだけで、周りの女性の自分達を見る目が違う。

 厚い宗教心や主君への忠誠心など、全く持たないそんな彼らを、キースは、一から鍛えていかなくてはならないのだった。

「皆、揃っているか?」

 少年達の目が、キースの隣りにいるドレイクに移る。

 まだろくに馬に乗れない少年達を、彼は、背中をぴんと伸ばした美しい姿勢で、静かに見下ろしている。

「ああ、こいつは、俺の親戚でな。今、俺が預かっているんだ。今日は、一緒に訓練を見学させてもらうよ。・・おい、ドレイク、みんなに挨拶をしな」

 促すが、ドレイクの口からは、やはり何も言葉が出てこない。

 馬上のドレイクの姿を見つめる少年達の羨望の眼差しに、次第に剣呑な色が混ざる。

(・・ああ、やっぱり、駄目だよなあ。そんなに簡単に喋る訳ないよな)

 キースは、気を取り直すように、笑った。

「・・まあ、こういう奴なんで、無愛想で悪いな。俺からも、よろしく。さあ、やろうか」

 そう言って、馬から降り立った。


 一列に並んで槍を持つ少年達の構えを、キースは自らも、槍を手に、一人一人、確認して、直していく。

 ドレイクは、立ったまま、それを遠くから眺めていた。

 一巡して、キースは、ドレイクのところに戻った。

「どうだ?面白いか?」

 返事はないが、ドレイクの目には、確かに興味の色が見えた。

「一日中、暗い部屋で、針金を切って、輪っかを作っているよりはましかな。少なくとも、青い空が眺められるし、空気はうまいし、女の子にも会えるしな」

 キースが笑いながら、顎をしゃくったその先に、赤や青色といった色鮮やかなドレス姿の女性の集団が見えた。

 キースの動きに、

「きゃあああ、キース様!」

「こっちを見たわ!」

「違うわ。あなたじゃないわ、わたしを見たのよ!」

 と黄色い声が上がる。

 キースはため息をついた。

「・・まったく、これだから、みんな勘違いして、騎士になりたがるんだよな。面接の時、女にもてたいからって、はっきり言ってきた奴もいたんだぜ。即刻、お断りしたけどな。そんな奴の面倒なんて、誰が見るかってんだ」

 ドレイクは、静かな表情のまま、槍を振り回す少年達を見つめている。

「どうだ?お前さんも、ちょっと持ってみるか?」

 何気なく言ってみると、意外にもドレイクは、キースの顔を見て、小さく頷いた。

 キースは、手にした槍を無造作に渡した。全長二メートルになる武器である。しかも、かなり重い。

 ドレイクは、受け取った槍の感触を確かめるように、わずかに手を動かし、次いで、左右の手で、鮮やかに持ち直した。

 無駄のない、洗練された動きだった。

「お前さん、槍が持てるのか?」

 キースの問いに、ドレイクは答えない。ただ、久しぶりに自分が知っているものに出会ったというように、なめらかな動きを繰り返す。

「もしかして、剣も持てるのかな?おい、これを持ってみろよ」

 キースは、ドレイクの答えを待たずに、その手から槍を取り上げ、腰に佩いた剣を、ドレイクに手渡した。

 剣の重みでだらりと下がったドレイクの腕に、ぐっと力が入った。

 気づいているのかいないのか、これまでのぼんやりとした表情とはうって変わって、引き締まった真剣な顔になった。

 槍を振り回して、へらへら笑っている少年達とは全く違う、殺気のようなものすら帯びていた。

(・・おいおい、これは、素人じゃねえな)

 隙のない美しい構えを見れば、すぐに分かる。それどころか、かなりの腕の持ち主だ。

(こいつ、いったい、何なんだ?)

 気づくと、いつの間にやら、少年達が訓練の手を止め、剣を持つドレイクの動きを、驚いたように見つめていた。



 寝台の上に座り、壁にもたれながら、彼は、窓から差し込む月の光を、じっと見つめていた。

 足元には、彼に懐いてよく部屋に遊びに来る猫のアヴィが丸くなっている。

 手を伸ばして、月光を浴びるように、手のひらを開く。繊細な銀の糸のような光が、手のひらをなぞる。

 今日、久しぶりに馬に乗り、槍と剣を持った。

 槍と剣に触れた瞬間、置き去りにしてきた様々な記憶が、どこからか溢れ出て、一気に胸の中に押し寄せてきた。

 何度も振り回した、剣と槍の感触と重さ。

 常に自分の側にいてくれた女性とその息子。あの親子と出会えなかったら、自分は、とうの昔に、心を持たない木偶になっていただろう。

(今、木偶なら、結局、同じか・・)

 そう考えて苦笑する。

 笑える自分に驚く。

 この館で目覚めてから、、一か月が経つ。

 事態の把握に時間がかかったが、この館で寝起きし、毎日同じ作業をしていく内に、次第に状況が飲み込めてきた。

 本来は、殺されている筈の自分が、どういう訳か生き残った。

 土壇場で、彼を逃がした男の顔と名前を、彼は知らない。

 このルイファの地に至る迄の一か月間のことは、ほとんど記憶にない。彼と共にあった男は、道中、彼の為に食料と水を用意し、彼が痛めた足の手当をした。

 そして、この地に着いた後、彼が着ていた衣服を剥ぎ取り、わざわざボロボロの服を彼に着せ、ドレイク広場に置いて、去って行った。

 最後にあの言葉を言い残して。

 だが、彼は今も、男に感謝する気にはなれない。むしろ、当惑していると言っていい。

(・・何故だ?)

 ここで生活を始めてから、いつも問うている。

 どうして自分はここにいる?

 誰の為に?

 何の為に?

 銀の糸を掴むように、ぎゅっと手を握った。

 答えは見つからない。分からない。

 ニャアン、とアヴィが、かすかに鳴きながら、彼の手に体をすり寄せてきた。

 その小さな頭と背中を撫ぜてやる。やわらかくて、温かい毛。ぐるぐるという喉の音と共に、小さな体が震えている。

「アヴィは、今までは、俺のことが一番好きだったんだぜ。それなのに、なんで居候のお前さんに、そんなに懐くんだ?最近は、俺には冷たいんだぜ」

 とキースがむくれて言うように、アヴィは、彼が館にいる時は、常に彼の側を離れない。

 最初は、その素直な愛情表現に戸惑った。やわらかな毛に触れると、まだ幼かった頃の記憶が蘇り、胸の奥が、鋭い痛みで疼いた。

 それでも、アヴィに触れ続けたのは、かの人の言葉を思い出したからだ。

――小さくてか弱いものを慈しむ心を養うように。

 アヴィに触れている時だけは、自分が生きている理由も、ここにいる理由も、考えずに済んだ。

 ただ、指先に触れる、ほのかな温かさだけを感じていられた。

(・・無事だろうか)

 誰も信じられなかった。自分に向けられる言葉、視線、笑み、全てが、冷たく、欺瞞と憎悪に満ちていた。誰の顔も、いつも醜く、歪んで見えた。

 世界は常に暗く、冷たく、静かだった。何も見ない、聞こえない、感じない振りをして、その振りが自分の主要部分となり、そうやって自分は、何とか生き延びてきた。

 そんな真っ暗な世界で生きていた彼の前に、突然、現れた女性ラリサと彼女の息子ルーク。そして、ラリサが連れて来た少女。

 彼に怒りを爆発させ、彼に飛びかかってきた時の少女の顔が、ふっと目に浮かぶ。

(・・ルークは、間に合ったか)

 自分の無力さを知った今、それを確かめる術はない。それに、自分という人間に関わってしまったことが、彼らの運命を、大きく変えてしまったのだ。

 ラリサとルークは、命の危険は覚悟していただろう。だが、セリカは・・。

 彼は、小さく吐息を漏らした。

 アヴィの三角の耳が、ぴくぴくと動いた。



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