35 世界でひとつ、君の歌声
「残すところ、千秋楽まであと十日ですね」
舞子にメイクを施しながら、鏡越しにメイクアップアーティストが声を掛けた。
千秋楽まで、あと十日。
その言葉が、今では現実の重みを持って胸に落ちる。
「一年半、あっという間だったような、長かったような……沙耶さんのお腹もこんなに大きくなって」
お腹に向けられた視線に、沙耶は少し照れたように笑った。
「でも最後までお付き合いしますよ。舞子さんのミュージカルに携われて、ほんとに楽しかったです。さ、できましたよ!」
終わりのタイミングを計ったかのように、スマートフォンが震えた。
舞子に小さく断りを入れて、沙耶が楽屋の隅へ移動する。
「はい、もしもし……ええ、大丈夫よ。でも……それなら待ってますね、じゃあまたあとで」
メイク用のガウンを脱ぎながら、舞子はにこやかに沙耶へと視線を向けた。
「もしかして、ご主人?」
「ええ、もう安定期に入ったから大丈夫なのに……終わったら迎えに来るって」
舞子が夫妻の仲睦まじさを褒めようと口を開きかけたそのとき、ノックの音が響いた。
沙耶がドアを開けると、楽屋口係が大きな花束を持って立っていた。
「花束と、メッセージカードがついてます。こちらに置きますね」
すでに花束やプレゼントで溢れ返っているテーブルに、ひときわ大きなそれが加わった。
カードに書かれた、たった一文字を見つめた舞子は、一呼吸ついてから呟いた。
「Y……」
「送り主ですか?」
「ええ、兄なんです」
舞子はカードを花束に戻して、微笑んだ。それから視線を外し、鏡に映る自分を見つめた。
照明の下で表情は穏やかだ。張りつめた気配は、もうない。
「……不思議ですね」
ぽつりと零れた声に、沙耶が首を傾げる。
「何がですか?」
「千秋楽が近づいてるのに、あまり怖くないんです。前は、終わるのが怖かったのに」
舞子は自分でも意外そうに、小さく笑った。
「今は……ちゃんと終われる気がしてます」
沙耶は一瞬だけ考え、それから柔らかく頷いた。
「舞子さん、もう“立ってる”からじゃないですか。終わりがある舞台の上に」
その言葉に、舞子は何も返さなかった。ただ、胸の奥で静かに肯定する。
――そうかもしれない。
ここまで来た。
逃げずに、立ち続けた。
あとは、歌って降りるだけだ。
再びノックの音がして、今度はスタッフが顔を出す。
「ミス舞子、そろそろ五分前です」
「はい、すぐ行きます」
舞子は立ち上がり、鏡の前で一度だけ深く息を吸った。
その視線が、もう一度だけテーブルの花束に戻る。
Y。
たった一文字の、その向こう側。
――見てるんだね。
それが分かるだけで、十分だった。
舞子は背筋を伸ばし、楽屋の扉へ向かう。
廊下の先から、オーケストラの調律音がかすかに聞こえてくる。
ざわめき、足音、舞台が息を吹き返す直前の気配。
それに触れると、じわじわと胸が高揚してくるのが分かる。
あそこに、あの舞台の中心に自分の声がある。
舞子は、歩きながら心の中で静かに呟いた。
「私は舞台に上がり、主人公の今日を生きていく」
楽屋前の廊下を抜けた先で、客席整理のスタッフがインカム越しにやり取りをしていた。
「一階ロビー、入場開始五分前です。VIP対応、問題ありません」
「了解。中央通路は満席予想、誘導強めでお願いします」
別のスタッフが、手元の名簿を確認しながら小声で言う。
「……今日もすごい。立ち見は確定ですね」
「千秋楽ですからね」
年配のスタッフも、客席を見渡してから静かに頷いた。
「最初は“話題先行”だと思ってたんだが。今はもう、観た人が次を連れてきてる」
「ええ。“あの人の声を聴きたい”って」
開場ベルが、控えめに鳴る。
「……不思議ですよね」
若いスタッフがぽつりと言った。
「派手な演出でもないし、有名原作でもないのに」
「だからでしょう」
年配のスタッフは、通路を整えながら答えた。一瞬の沈黙のあと、インカムがまた鳴る。
「客席、案内再開します」
「了解。――さ、始まりますよ」
スタッフたちはそれぞれの持ち場へ散っていく。
ざわめきの中で、客席はゆっくりと満ちていった。
これから響く声を、待つために。
ほどよい疲れの余韻をまとい、舞子は楽屋のソファに身を預けた。
「――終わった」
すべてを出し切った。全力でここまで駆け抜けてきた。高ぶっていた気持ちは徐々に静まり、空っぽになった頭でそっと目を閉じた。
「……怜さん、来なかったな」
事実をそのまま口にする。
それが何を意味するのか、声に出せば理解できるとでもいうように。
楽屋に置きっぱなしのラジオが、かすかにノイズを立てていた。
舞子はソファから身を起こし、ぼんやりとそれを見つめる。
いつからそこにあったのか分からない。電源も、切った覚えはない。
――そういえば。
舞台に上がる前、誰かがつけっぱなしにしていたのかもしれない。そんな取るに足らない理由が頭をかすめる。
立ち上がり、スイッチを入れた。
ザーッ、という雑音のあと、はっきりとしたアナウンサーの声が流れた。
「――東京、渋谷のスタジオからお送りします。長期療養を経て活動を再開したミュージシャン・RAYが、先日、復帰第一弾シングルを発表しました」
舞子の指が止まった。
「タイトルは――『世界でひとつ、君の歌声』」
一瞬、音が遠のいた。
舞子は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
軽やかなリズム、そして歌声。
力強く、命の輝きに溢れた声が流れてくる。
『タクシーの窓 見上げた空
いつもと変わらない
何も変わらないまま
このまま ゆっくりと
世界は閉じていく
足掻きはしない
抵抗しない
それなのに
いますべてを知った
その歌が その声が
僕を引き戻す
いますべてが見えた
その答え 君の歌が
僕を引き戻す』
胸の奥から、ゆっくりと感情が込み上げてくる。
安堵。喜び。誇らしさ。
そして、胸が締めつけられるほどの愛おしさ。
舞子はラジオの前にしゃがみ込み、片手で口元を押さえた。
涙が、リノリウムの床に小さな音を立てて落ちた。
「……よかった」
歌は続いている。世に向けて放たれた、再生の証。
舞子は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……帰ろう」
それは独り言だったが、不思議と迷いはなかった。
楽屋の片隅で荷物をまとめ始める。衣装。私物。小さな記念品。
ノックの音がしたのは、そのときだった。
コン、コン。
一瞬、心臓が跳ねた。
舞子は呼吸を整え、扉へと向かう。
「はい」
ドアの向こうにあったのは、視界いっぱいに広がる花。
黄色いフリージア。
あの日と同じ、上品で強い香りが胸を満たす。
足音が、一歩前に進んだ。
「千秋楽、お疲れさま」
少し照れたような、ラジオから流れる歌声と同じ声。
拭ったはずの涙が、また頬をつたう。
フリージアの花びらが耳をくすぐると、懐かしい温もりが舞子を包んだ。
おわり。




