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世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


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34 それぞれの


 控室は思っていたよりも静かだった。


 舞子は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだまま、じっと床を見つめている。呼吸は落ち着いていた。少なくとも、そう見える。


 壁越しに聞こえてくるのは、耳慣れない言語と、紙が擦れる音。審査員たちの声は低く、感情の起伏は感じられない。


 控室には年代もバラバラなアジア系の女性が数人、順番を待っている。3次審査をパスした猛者たち。


 ――ここまで来た。


 それだけは、はっきりしていた。


 結果がどうあれ、もう戻れない。

 引退宣言をした瞬間から、選択肢は一つしか残っていなかった。


 舞子はゆっくりと目を閉じた。


 頭の中で音を思い出す。

 旋律。呼吸。最初の一音を出す前の、ほんの一拍。


 怖さはなかった。ただ、届くかどうかだけが分からない。


 ――生きて。


 怜に向けて叫んだあの言葉が、胸の奥で静かに残っている。


 自分はちゃんと歌えているだろうか。

 生きた声で。


 名前を呼ばれるまで、まだ少し時間がある。舞子は背筋を伸ばし、もう一度、深く息を吸った。



 タクシーは、空港へ向かって走っていた。


 怜は後部座席に身を沈め、窓の外を流れていく街並みをぼんやりと眺めている。景色は速い。けれど、自分だけが取り残されているようだった。


 韓国に帰ることを父には話していない。


 ――父さんはツアー中かもな。まあ、いいさ。


 行き先を告げてから、言葉は一度も発していない。


 ラジオが、静かに流れていた。


 最初は、ただの音だった。

 無機質な伴奏、よくあるメロディ。そしてボーカル。

 耳に入って、すぐに抜けていくはずのもの。


 ――それなのに。


 怜の指先がわずかに動いた。


 派手ではない。

 技巧をひけらかすような歌い方でもない。


 けれど、余韻を感じさせる息遣い。

 言葉と心が、ずれていない。

 スッと胸に入ってきて、深いところできらめく。


 怜はまばたきを忘れた。指先は無意識にシートを強く掴み、呼吸が浅くなる。


 優しいのに、残酷なくらい真っ直ぐな声が突き刺さる。

 胸の奥で何かが、強く打った。それは波紋のように全身に広がっていく。

 

 ……説明はいらなかった。

 確認もしない。


 誰の声なのか考えるまでもなく、もう分かってしまっている。


 ――まだ、終われない。


 頭で考える前に、身体が先に理解していた。


 空港の案内標識が視界に入る。

 怜は、その文字を見つめたまま、動かなかった。


 数秒。


 長い、数秒。


 それから、前の座席に向かって低く、けれどはっきりと声を出した。


「……すみません」


 運転手がバックミラー越しに視線を寄こす。


「行き先、変更してください」


「え?」


「病院へ。今すぐ」


 一瞬の間のあと、運転手は何も聞かず、ウインカーを出した。

 車体が滑らかに方向を変えた。同時に世界の向きも変わった気がした。


 ラジオの中で歌は続いている。


 怜は目を閉じる。


 涙は出なかった。けれど、喉の奥が熱い。


 もう分かっている。あの声だ。

 理由は、もう十分だった。 


 歌が、届いた。

 それだけで、決断するには足りていた。

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