34 それぞれの
控室は思っていたよりも静かだった。
舞子は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだまま、じっと床を見つめている。呼吸は落ち着いていた。少なくとも、そう見える。
壁越しに聞こえてくるのは、耳慣れない言語と、紙が擦れる音。審査員たちの声は低く、感情の起伏は感じられない。
控室には年代もバラバラなアジア系の女性が数人、順番を待っている。3次審査をパスした猛者たち。
――ここまで来た。
それだけは、はっきりしていた。
結果がどうあれ、もう戻れない。
引退宣言をした瞬間から、選択肢は一つしか残っていなかった。
舞子はゆっくりと目を閉じた。
頭の中で音を思い出す。
旋律。呼吸。最初の一音を出す前の、ほんの一拍。
怖さはなかった。ただ、届くかどうかだけが分からない。
――生きて。
怜に向けて叫んだあの言葉が、胸の奥で静かに残っている。
自分はちゃんと歌えているだろうか。
生きた声で。
名前を呼ばれるまで、まだ少し時間がある。舞子は背筋を伸ばし、もう一度、深く息を吸った。
*
タクシーは、空港へ向かって走っていた。
怜は後部座席に身を沈め、窓の外を流れていく街並みをぼんやりと眺めている。景色は速い。けれど、自分だけが取り残されているようだった。
韓国に帰ることを父には話していない。
――父さんはツアー中かもな。まあ、いいさ。
行き先を告げてから、言葉は一度も発していない。
ラジオが、静かに流れていた。
最初は、ただの音だった。
無機質な伴奏、よくあるメロディ。そしてボーカル。
耳に入って、すぐに抜けていくはずのもの。
――それなのに。
怜の指先がわずかに動いた。
派手ではない。
技巧をひけらかすような歌い方でもない。
けれど、余韻を感じさせる息遣い。
言葉と心が、ずれていない。
スッと胸に入ってきて、深いところできらめく。
怜はまばたきを忘れた。指先は無意識にシートを強く掴み、呼吸が浅くなる。
優しいのに、残酷なくらい真っ直ぐな声が突き刺さる。
胸の奥で何かが、強く打った。それは波紋のように全身に広がっていく。
……説明はいらなかった。
確認もしない。
誰の声なのか考えるまでもなく、もう分かってしまっている。
――まだ、終われない。
頭で考える前に、身体が先に理解していた。
空港の案内標識が視界に入る。
怜は、その文字を見つめたまま、動かなかった。
数秒。
長い、数秒。
それから、前の座席に向かって低く、けれどはっきりと声を出した。
「……すみません」
運転手がバックミラー越しに視線を寄こす。
「行き先、変更してください」
「え?」
「病院へ。今すぐ」
一瞬の間のあと、運転手は何も聞かず、ウインカーを出した。
車体が滑らかに方向を変えた。同時に世界の向きも変わった気がした。
ラジオの中で歌は続いている。
怜は目を閉じる。
涙は出なかった。けれど、喉の奥が熱い。
もう分かっている。あの声だ。
理由は、もう十分だった。
歌が、届いた。
それだけで、決断するには足りていた。




