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世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


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33 不在


 伏見は資料の束から視線を上げ、深く息を吐いた。


「……厳しいな」


 机の上に広げられているのは、ブロードウェイ側から届いた要求条件だった。

 年齢制限や即戦力。代役ではなく、最初から主役級として舞台に立てる適応力。

 語学力、発声、演技歴。どれも“努力次第”でどうにかなる水準ではない。


 沢本は黙ったまま、最後のページに目を走らせている。


「挑戦権を与える、とは書いてあるが」


 伏見は苦笑した。

「正確には、ふるいにかける手間を惜しまない、ってだけだな」


 その時、部屋の隅で点けっぱなしになっていたテレビから、拍手の音が漏れた。


 トーク番組だった。

 司会者の徹美が、大げさな身振りで誰かを紹介している。


 伏見はこれから舞子が落とそうとしている特大の爆弾を、静かな目で見つめていた。


 画面の中で舞子が笑っていた。


 照明を浴び、やや緊張しつつも逃げることなくうなずいている。声は小さかったが、彼女の口元の動きははっきりと読み取れた。


「――落ちたら、引退します」


 一瞬、空気が止まったように感じた。


 伏見はリモコンを手に取ったが、音量を上げることはしなかった。改めて聞く必要はない。


「……もう、引き返せないな」


 それは独り言というより、確認に近かった。


 沢本は、ふと思い出して伏見の顔を見た。


「そういえば、どんな経緯であの医者と知り合ったんです?」


「いや、あれは呼び寄せた。だが、私が動かしたのはあれだけだ」


 沢本がわずかに眉を動かす。


「道を用意するのと歩かせるのは別だろ?」


「……まあ、ですね」


「しかし……久しぶりのいなり寿司はうまかったな」


「いなり寿司ですか?」


「そうだ。……妙によく染みていた」


 伏見の表情にふざけたところはない。沢本は首を傾げながら再び番組に視線を戻した。


 舞子は番組の中で終始笑顔を絶やさない。軽やかに話を続けている。

 まるで”引退宣言”は軽い冗談であるかのように。


 やがて沢本はゆっくりと視線を伏見に戻した。


「そこまで、怜くんのことを思ってるってことですよね」


 伏見は否定しなかった。


「思っている、で済む覚悟じゃないな。これはもう……人生ごと差し出してる」


 沢本は一度、目を閉じた。

 そして、静かに息を吸う。


「だったら」


 声は低く、揺れがなかった。


「僕はプロに徹します。情も同情も抜きにして、舞ちゃんを――合格させる」


 伏見はその横顔を見て小さく笑った。


「言い切るな」


「言い切らなきゃ、舞ちゃんの覚悟に見合いませんから」


 テレビの中で舞子がもう一度、深く頭を下げていた。スタジオに拍手が広がる。


 その音を背に沢本は資料を引き寄せた。


「無謀な場所に立とうとしてるのは分かってます。それでも、立つって決めたなら――支えます」


 舞子が挑もうとしているのは、試験ではない。

 戻れない場所への、一度きりの跳躍だ。




 

 スタジオには、ひとりの女性の声が響いていた。


 透明で癖のない歌声。音程もリズムも正確で、仕事としては申し分ない。


「――はい、ここまでで」


 ガラス越しにディレクターが手を挙げる。ブースの中の女性が、淡々とマイクを下ろした。


「仮歌なんで、感情はこれくらいで大丈夫ですか?」


「うん、十分。きれいにまとまってる」


 “十分”。

 

 沢本は譜面をめくりながら、無意識に眉を寄せた。


「……悪くない、はずなんだけどな」


 誰に言うでもない独り言だった。


 悪くない、なのに――。


 聞いたあと胸の奥に残るのは、説明のつかない違和感だった。


 伏見はソファに腰を下ろしたまま、しばらく無言で天井を見ていた。


「数字は出るだろうな」


「え?」


「悪くない。売れる。評価もされる……ただ」


 伏見はそこで言葉を切った。“ただ”の先を、言わなかった。

 沢本も、それ以上聞かなかった。聞かなくても、分かってしまったからだ。


 確かに音楽は、滞りなく流れている。けれど、そこに“誰か”がいない。

 それだけのことなのに、決定的だった。


 沢本は譜面を閉じ、静かに息を吐く。


「……代わりには、ならないですね」


 伏見は否定しなかった。否定できなかった。


 世界は回っている。

 仕事も進む。

 スケジュールは埋まり、締切は待ってくれない。


 それでも。


 たった一人の不在が、音楽の輪郭を、こんなにも曖昧にする。


 伏見は、譜面台に置かれた楽譜に目を落とした。

 タイトルは走り書き。歌い手の名前欄は、空白のままだ。

 

 仮歌はあくまで仮。本番のための代用品だ。


 けれど――


 この歌を「誰が」歌うかで、まるで別の曲になってしまうことを、伏見は知っている。


 ブースの外にある空っぽの椅子に、ほんの一瞬だけ目を向ける。


 ここにあるはずの声が、今は別の場所で試されている。

 舞子は、ここにはいない。

 今ごろ、海の向こうでもっと厳しい審査の前に立っているはずだ。


「……まだ、名前を書くには早いな」


 誰に言うでもなく、伏見は呟いた。


 この空白は、埋められる予定の空白ではない。


 ――埋められるかどうかを、試されている空白だ。


 スタジオの灯りが、一つずつ消えていく。


 照明が落とされた広い空間には、さっきまでの熱気の余韻だけが漂っている。床に置かれたままのマイクスタンドが、短すぎる出番に不服を訴えているようだ。


 すべての音が消えたあと、ただ静寂だけが次に響くべき声を待っていた。


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