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世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


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32 逆転


 怜はほとんど衝動のまま外へ出ていた。


 エレベーターを待つ余裕すらなく、階段を下りる。息が上がるのも構わなかった。頭の奥がじくじくと疼いていたが、それすら今はどうでもいい。この程度の痛みで立ち止まるつもりはなかった。


 ――ふざけるな。


 何度も、同じ言葉が胸の中で反響する。


 マンションを出て、通りに出る。信号待ちの赤がやけに長く感じられた。


 怒りの矛先は、はっきりしている。

 季実子――母親から聞かされた、あの話だ。


 *


「舞子さんがね……賭けをしてるの」


 穏やかな声だった。いつもと同じ、感情を抑えた口調。


 それがなおさら癇に障った。


「賭け?」


「ブロードウェイのオーディション。もし、合格できなければ……芸能界を引退する、そう決めてるそうよ」


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。


 引退? ウソだろ? 今、やっと羽ばたき始めたところじゃないか。

 

「……それで?」


 声が低くなるのを、自分でも自覚していた。


「もし舞子さんが合格したら――あなたにも治療を試してほしい、って」


 あまりにも突拍子がなくて、一瞬、意味が分からなかった。


「……は?」


「だからね、怜。これは強制じゃないの。ただ――」


「荒唐無稽だ」


 思わず、遮っていた。


「人の生死を、そんな賭け事で左右しようだなんて」


 母は反論しなかった。ただ、静かにこちらを見ていた。


「ふざけてる」


 自分の声が荒れていくのが分かる。


 彼女の顔が浮かんだ。必死に前を向こうとしていた、あの目。

 だからこそ、余計に腹が立った。


 同情でも、善意でも、覚悟なんて――そんなものを背負わせるつもりなんて、なかったのに。


 *


 信号が変わる。怜は、歩き出した。


 行き先は決まっている。舞子が今いる場所。ダンススタジオだと、沢本は言っていた。胸の奥に、別の感情が混じる。


 怒りだけじゃない。

 焦り。

 恐怖。


 もし、その賭けが本気だったら。


 もし、舞ちゃんが本当に――

 自分のために、すべてを投げ出そうとしているのだとしたら。


 それだけは認められない。


 息を整える間もなく、怜はスタジオの入ったビルを見上げる。


 ガラス越しに、音が漏れている。

 リズム。

 カウント。


 ――やめさせる。そう、決めた。


 賭けも治療も、何もかもだ。舞ちゃんの人生を、こんな無茶に巻き込むわけにはいかない。


 怒りを鎧にして、怜は扉を押した。


 スタジオの扉が開いた瞬間、音楽が止まった。


 怜は静まり返った中で舞子を見つけると、口元にだけ笑みを浮かべた。


「……それで、ブロードウェイか」


 冷たい声だった。 感心でも期待でもなく、ただ値踏みするような響きがあった。


「ずいぶん大きく出たな」


 周囲の空気が一瞬で張り詰めた。舞子が何か言う前に、怜はぐるりと視線を走らせた。


「悪い。続けてくれ」


 そう言いながらも、立ち去る気配はない。耐えきれず、インストラクターが咳払いをした。


「……二人とも、外で」


 その言葉に、怜は肩をすくめる。


「だってさ」


 舞子の腕を掴み、半ば引きずるようにスタジオを出た。廊下に出た途端、怜の表情から薄笑いが消える。


「どうしてここへ……」


「決まってるだろ」怜は一歩、踏み出す。「ふざけた賭けを、やめさせに来たんだよ」


 その目は冷たく澄んでいた。感情を消した視線が怒りを感じさせた。


「俺の人生をネタにして、自分の進退を賭けるなんて――」


 一拍置いて怜は続けた。


「ずいぶんとヒロイン気取りじゃないか」


 その言葉が舞子の胸に突き刺さる。一瞬、息が詰まった。


「……違う」


 反射的に舞子は声を荒らげた。


「そんなつもりじゃない!」


 舞子は自分でも驚くほど、感情が先に出てしまった。


「私は――!」


 言いかけて言葉が詰まる。でも、否定だけはしたかった。


「怜さんを利用しようなんて、思ってない」


 顔が上気して視界が熱を帯びてきた。気持ちと言葉がうまく繋がらない。


「どうしても治療を受けて欲しかった、それだけなの」


「覚悟のつもりか? 自分が犠牲になりますから、って?」


 舞子は歯を食いしばった。


「違うって言ってるでしょ! 私は自分を犠牲にする気なんて……ないつもりだった。オーディションは絶対合格する。トライアウトだって成功させてみせる!」


「俺はもう受け入れたって言っただろ! これ以上俺を揺さぶらないでくれ!」


「ごめんなさい。でも……私のわがままと分かってても、諦めて欲しくない! だって、そばに……そばにいてくれるって言ったじゃない!」


 声は震える。涙で喉がつかえそうになりながら、舞子は声を振り絞った。


「生きて! 生きて、また私と一緒に歌って!」


 それはほとんど叫びだった。舞子の悲痛な声が廊下に響き渡り、怜の心を揺さぶった。


 怜は言葉を失った。


 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、止まる気配を見せないのに、舞子の視線はしっかりと怜を捕えている。


 ちょっとした思いつきで始めたことじゃない。賭けを持ち出したのが、生半可な気持ちからではないのは明白だった。


 ――逆転したな。舞ちゃんの覚悟を、俺は侮っていたみたいだ。


 独りぼっちの暗闇に肩を震わせて涙しても、一度決めた決意を曲げない芯の強い女性、それが君だ。


 怜は、ゆっくりと一歩近づいた。何か言いかけて、結局言葉を探すのをやめた。


 その指先が、舞子の頬に触れる。

 涙を拭うというより、確かめるような頼りない動きだった。暖かな涙が親指を一筋伝っていく。


「……ずるいよ」


 かすれた声でそれだけ言って、怜は小さく笑った。

 それは舞子が初めて目にする、ひどく弱々しい笑顔だった。


 怜はそのまま背を向けた。


 扉が閉まる音だけが、長く廊下にこだました。




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