表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/35

30 条件付きの希望


 舞子は、自分が思っていた以上に、深く落ち込んでいた。


 怜の前を離れたあの日から、心の奥に重たいものが沈んだまま、浮き上がってこない。忙しい毎日の中でも、ふとした瞬間に怜の言葉が思考の隙間へ入り込んでくる。


 ――治療は、意味がない。


 あの静かな声。諦めを受け入れた人の、疲れ切った目。


 舞子は自分の無力さを、何度も反芻していた。


 励ますこともできなかった。ただ、彼の恐怖を突きつけられて、立ち尽くしただけだ。


 ――私は、何もできなかった。


 そう認めるたび、胸の奥がチクリと痛んだ。


 それでも、時間は待ってはくれない。オーディション本番は、刻一刻と近づいていた。


 ダンスレッスン、歌唱練習、演技指導。それらすべてを英語でこなさなくてはならない。

 スケジュール帳はびっしりと埋まり、息をつく暇もない。


 鏡の前に立ち、振付を確認しながら、舞子は必死に自分を保っていた。

 集中しなければ。今は、目の前のことに向き合わなければ。


 そう言い聞かせても、どこかで気持ちが追いついてこない。


 レッスン後、スタジオの隅で一人、ペットボトルの水を飲み干していたときだった。


「……やっぱり、無理してるな」


 不意にかけられた声に、舞子は顔を上げる。


 伏見だった。いつもの軽い調子ではなく、ほんの少し真剣な眼差しをしている。


「大丈夫です」


 反射的にそう答えてから、舞子は自分の声が弱々しいことに気づいた。


 伏見はそれ以上追及せず、隣に腰を下ろす。


「正直、今の君はあまり余裕がないように見える」


 舞子は何も言えなかった。自分自身でも分かっている事実、否定できない状態だったから。


「……医者の、知り合いがいてね」


 伏見の言葉に、舞子の指がぴくりと動いた。


「海外で実績のある脳外科医だ。近々、日本の医大で客員教授をやることになってる」


 伏見は淡々と続ける。


「研究者でもある彼は、最先端の治療に定評があるんだ。手術の成功率も、国内の標準とは少し違う。全部が希望とは言わない。でも――」


 一瞬、言葉を切る。


「“意味がない”って一言で片付ける話じゃない」


 舞子は、息を呑んだ。


 心が、揺れた。けれど、その揺れをどう受け止めていいのか分からず、舞子は考えるのをやめた。


「……私が聞いていい話なんでしょうか」


 自分の立場が急にわからなくなった。怜に拒まれたばかりの自分が、希望の話をしていいのだろうか。


 伏見は、肩をすくめて笑った。


「いいかどうかは、あとで決めればいい」


 そして静かに言う。


「とりあえず、話を聞いてみようじゃないか。俺も同席する、通訳が必要だからな」


 舞子はしばらく黙っていた。胸の奥で、恐れと期待がまだらに混ざり合っている。 


「会うだけだ。決断は要らない」


「……分かりました」


 その返事が、誰のためのものなのかも分からないまま。




 伏見が指定したのは、大学病院の一角にある小さな応接室だった。

 白い壁に、簡素な机と椅子。医局の延長のような、生活感のない空間。


 先に部屋に入っていたのは、五十代半ばくらいの男性だった。白衣は着ておらず、代わりに落ち着いた色合いのジャケットを羽織っている。


 紹介を終えると、伏見は一度咳払いをした。


「じゃあ……俺が通訳をやる。と言っても、専門用語は正直分からないからな。細かい話は省くが、そこは勘弁してくれ」


 医者は気にする様子もなく、静かに頷いた。


 舞子は、背筋を伸ばして椅子に座る。

 話を聞く覚悟はしてきたつもりだったが、胸の奥がざわついている。


 医者は、穏やかな声で話し始めた。


「今回検討できる治療法は、比較的新しいものです。日本ではまだ症例が少ないため、万能というわけではありません」


 伏見が少し言葉を選びながら、舞子に伝える。


「新しい治療法で、まだ例が多くない。誰にでも効くわけじゃないってさ」


 舞子は、黙って頷いた。


 医者は続ける。


「この治療法は、その人の体質に合うかどうかが大きく影響します。合っていれば、回復の可能性は確実に高まります」


 伏見が言い換える。


「体質との相性がかなり重要らしい。合えば、結果は悪くない」


 舞子の指先が、膝の上でわずかに強張った。


「ただし――」


 医者は、そこで一拍置いた。


「それだけでは足りません」


 伏見も、その間をそのまま伝える。


「……それだけじゃ、足りない」


 医者の視線が、舞子に向けられる。それは問いかけでも、期待でもなかった。ただ、短い視線だった。


「回復を早めるかどうかは、本人の“生きる気力”がものを言います……多くの場合、それは“理由”ではなく、“誰か”です」


 伏見は、少し言いにくそうにしながらも、はっきりと訳した。


「本人の、生きようとする気持ち。それが、回復の速度に影響するって。生きる理由というより……誰かの存在、らしい」


 舞子は息を止めた。


「治療というのは、身体だけの問題ではありません。特に長期にわたる場合は」


 医者は淡々と、しかし確信を持った口調で言う。


「経験上、回復を早めるのは、そういう気持ちです。医学的な数値では測れませんが、確実に差が出ます」


 伏見は、少しだけ言葉を削りながら伝えた。


「数字じゃ測れないけど……気力の差は、はっきり出る。これは、経験から来る話だそうだ」


 舞子は、俯いた。


 怜の顔が、脳裏に浮かぶ。

 静かな声で「治療は意味がない」と言い切った、あの目。


 ――生きる気力。何かではなく誰か。


 その言葉が胸の奥に重く落ちた。


 たとえ体質が合っていても、たとえ治療の選択肢があっても、怜がもう何も信じられなくなっていたら……。


 舞子は膝の上で拳を握りしめた。


 この話は希望でもある。だけど同時に、怜がどれだけ追い詰められているかを突きつけるものでもあった。


 伏見が、舞子の様子を横目で見ながら、静かに言った。


「……だから、強制はできない。最終的に決めるのは、本人だ」


 舞子は顔を上げなかった。


 希望は、確かにここにある。その希望を現実にできる“誰か”に自分はなれるのだろうか?





 部屋は、静かだった。


 テレビはつけていない。音があると、どうしても身体の違和感が浮き彫りになる気がして、最近は避けている。

 代わりに聞こえるのは、エアコンの低い作動音と、自分の呼吸だけだった。


 ――まだ、生きている。


 その事実を、怜は確かめるように胸に手を当てた。


 深く息を吸おうとすると、頭の奥が微かに軋む。痛みと呼ぶほど強くはない。けれど、無視できるほど軽くもない。


 いつものことだ。


 棚の上に置いた薬に手を伸ばす。慣れた動作で、水と一緒に流し込む。

 数分もすれば、この不快感は引いていく。完全に消えるわけじゃない。ただ、“考えなくて済む程度”にはなる。


 それでいい。それで、今日も終われる。


 怜はソファに深く身体を沈めた。視線がふと玄関の方へ向く。


 ――もう、来ないだろうな。


 分かっている。分かっているのに、つい意識してしまう。


 インターホンが鳴らないこと。ドアの向こうに、気配がないこと。


 あの日、俺は君に責められる覚悟をしていた。「そばにいる」という約束を破った俺を。


 でも君が俺に向けたものは、期待でも、希望でもない。もっと単純な、「元気になって欲しい」という感情。


 俺は弱虫なんだよ、舞ちゃん。


 弱虫で卑怯者なんだ。自分に残された時間は短いと分かっていたくせに、君の涙を止めたくてあんなことを言った。そのくせ、約束を守れなくなったら、君を突き放したんだから。


 怜は、目を閉じた。


 ――治療は、意味がない。


 自分で口にしたその言葉が脳裏に浮かぶ。こんな弱い自分を知られてしまった。きっと幻滅しただろうな。本当は嫌われて終わりたくなかったのに。


 もう、何もないな。

 誰もいない。

 何も、起きない。


 部屋は、変わらず静かだった。


 それが今の自分にとって、唯一の安らぎであり、痛みだった。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ