30 条件付きの希望
舞子は、自分が思っていた以上に、深く落ち込んでいた。
怜の前を離れたあの日から、心の奥に重たいものが沈んだまま、浮き上がってこない。忙しい毎日の中でも、ふとした瞬間に怜の言葉が思考の隙間へ入り込んでくる。
――治療は、意味がない。
あの静かな声。諦めを受け入れた人の、疲れ切った目。
舞子は自分の無力さを、何度も反芻していた。
励ますこともできなかった。ただ、彼の恐怖を突きつけられて、立ち尽くしただけだ。
――私は、何もできなかった。
そう認めるたび、胸の奥がチクリと痛んだ。
それでも、時間は待ってはくれない。オーディション本番は、刻一刻と近づいていた。
ダンスレッスン、歌唱練習、演技指導。それらすべてを英語でこなさなくてはならない。
スケジュール帳はびっしりと埋まり、息をつく暇もない。
鏡の前に立ち、振付を確認しながら、舞子は必死に自分を保っていた。
集中しなければ。今は、目の前のことに向き合わなければ。
そう言い聞かせても、どこかで気持ちが追いついてこない。
レッスン後、スタジオの隅で一人、ペットボトルの水を飲み干していたときだった。
「……やっぱり、無理してるな」
不意にかけられた声に、舞子は顔を上げる。
伏見だった。いつもの軽い調子ではなく、ほんの少し真剣な眼差しをしている。
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、舞子は自分の声が弱々しいことに気づいた。
伏見はそれ以上追及せず、隣に腰を下ろす。
「正直、今の君はあまり余裕がないように見える」
舞子は何も言えなかった。自分自身でも分かっている事実、否定できない状態だったから。
「……医者の、知り合いがいてね」
伏見の言葉に、舞子の指がぴくりと動いた。
「海外で実績のある脳外科医だ。近々、日本の医大で客員教授をやることになってる」
伏見は淡々と続ける。
「研究者でもある彼は、最先端の治療に定評があるんだ。手術の成功率も、国内の標準とは少し違う。全部が希望とは言わない。でも――」
一瞬、言葉を切る。
「“意味がない”って一言で片付ける話じゃない」
舞子は、息を呑んだ。
心が、揺れた。けれど、その揺れをどう受け止めていいのか分からず、舞子は考えるのをやめた。
「……私が聞いていい話なんでしょうか」
自分の立場が急にわからなくなった。怜に拒まれたばかりの自分が、希望の話をしていいのだろうか。
伏見は、肩をすくめて笑った。
「いいかどうかは、あとで決めればいい」
そして静かに言う。
「とりあえず、話を聞いてみようじゃないか。俺も同席する、通訳が必要だからな」
舞子はしばらく黙っていた。胸の奥で、恐れと期待がまだらに混ざり合っている。
「会うだけだ。決断は要らない」
「……分かりました」
その返事が、誰のためのものなのかも分からないまま。
伏見が指定したのは、大学病院の一角にある小さな応接室だった。
白い壁に、簡素な机と椅子。医局の延長のような、生活感のない空間。
先に部屋に入っていたのは、五十代半ばくらいの男性だった。白衣は着ておらず、代わりに落ち着いた色合いのジャケットを羽織っている。
紹介を終えると、伏見は一度咳払いをした。
「じゃあ……俺が通訳をやる。と言っても、専門用語は正直分からないからな。細かい話は省くが、そこは勘弁してくれ」
医者は気にする様子もなく、静かに頷いた。
舞子は、背筋を伸ばして椅子に座る。
話を聞く覚悟はしてきたつもりだったが、胸の奥がざわついている。
医者は、穏やかな声で話し始めた。
「今回検討できる治療法は、比較的新しいものです。日本ではまだ症例が少ないため、万能というわけではありません」
伏見が少し言葉を選びながら、舞子に伝える。
「新しい治療法で、まだ例が多くない。誰にでも効くわけじゃないってさ」
舞子は、黙って頷いた。
医者は続ける。
「この治療法は、その人の体質に合うかどうかが大きく影響します。合っていれば、回復の可能性は確実に高まります」
伏見が言い換える。
「体質との相性がかなり重要らしい。合えば、結果は悪くない」
舞子の指先が、膝の上でわずかに強張った。
「ただし――」
医者は、そこで一拍置いた。
「それだけでは足りません」
伏見も、その間をそのまま伝える。
「……それだけじゃ、足りない」
医者の視線が、舞子に向けられる。それは問いかけでも、期待でもなかった。ただ、短い視線だった。
「回復を早めるかどうかは、本人の“生きる気力”がものを言います……多くの場合、それは“理由”ではなく、“誰か”です」
伏見は、少し言いにくそうにしながらも、はっきりと訳した。
「本人の、生きようとする気持ち。それが、回復の速度に影響するって。生きる理由というより……誰かの存在、らしい」
舞子は息を止めた。
「治療というのは、身体だけの問題ではありません。特に長期にわたる場合は」
医者は淡々と、しかし確信を持った口調で言う。
「経験上、回復を早めるのは、そういう気持ちです。医学的な数値では測れませんが、確実に差が出ます」
伏見は、少しだけ言葉を削りながら伝えた。
「数字じゃ測れないけど……気力の差は、はっきり出る。これは、経験から来る話だそうだ」
舞子は、俯いた。
怜の顔が、脳裏に浮かぶ。
静かな声で「治療は意味がない」と言い切った、あの目。
――生きる気力。何かではなく誰か。
その言葉が胸の奥に重く落ちた。
たとえ体質が合っていても、たとえ治療の選択肢があっても、怜がもう何も信じられなくなっていたら……。
舞子は膝の上で拳を握りしめた。
この話は希望でもある。だけど同時に、怜がどれだけ追い詰められているかを突きつけるものでもあった。
伏見が、舞子の様子を横目で見ながら、静かに言った。
「……だから、強制はできない。最終的に決めるのは、本人だ」
舞子は顔を上げなかった。
希望は、確かにここにある。その希望を現実にできる“誰か”に自分はなれるのだろうか?
部屋は、静かだった。
テレビはつけていない。音があると、どうしても身体の違和感が浮き彫りになる気がして、最近は避けている。
代わりに聞こえるのは、エアコンの低い作動音と、自分の呼吸だけだった。
――まだ、生きている。
その事実を、怜は確かめるように胸に手を当てた。
深く息を吸おうとすると、頭の奥が微かに軋む。痛みと呼ぶほど強くはない。けれど、無視できるほど軽くもない。
いつものことだ。
棚の上に置いた薬に手を伸ばす。慣れた動作で、水と一緒に流し込む。
数分もすれば、この不快感は引いていく。完全に消えるわけじゃない。ただ、“考えなくて済む程度”にはなる。
それでいい。それで、今日も終われる。
怜はソファに深く身体を沈めた。視線がふと玄関の方へ向く。
――もう、来ないだろうな。
分かっている。分かっているのに、つい意識してしまう。
インターホンが鳴らないこと。ドアの向こうに、気配がないこと。
あの日、俺は君に責められる覚悟をしていた。「そばにいる」という約束を破った俺を。
でも君が俺に向けたものは、期待でも、希望でもない。もっと単純な、「元気になって欲しい」という感情。
俺は弱虫なんだよ、舞ちゃん。
弱虫で卑怯者なんだ。自分に残された時間は短いと分かっていたくせに、君の涙を止めたくてあんなことを言った。そのくせ、約束を守れなくなったら、君を突き放したんだから。
怜は、目を閉じた。
――治療は、意味がない。
自分で口にしたその言葉が脳裏に浮かぶ。こんな弱い自分を知られてしまった。きっと幻滅しただろうな。本当は嫌われて終わりたくなかったのに。
もう、何もないな。
誰もいない。
何も、起きない。
部屋は、変わらず静かだった。
それが今の自分にとって、唯一の安らぎであり、痛みだった。




