表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/35

29 治療は意味がない


 舞子は、もう一度、怜の元へ向かっていた。


 迷いがなかったと言えば、嘘になる。けれど、行かないという選択肢は、もうなかった。


 電車の窓に映る自分の顔は、少し強張っている。

 覚悟を決めたはずなのに、心臓の奥がひりつくように落ち着かなかった。


 ――怜は、治療を拒んでいる。


 昨日、季実子から聞いた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「病院には行っているけど……積極的な治療は、受けていないの」

「痛み止めや、症状を抑える薬で……ごまかしてるだけ」


 その言い方が、胸に残っていた。


 ごまかしている。

 それは、怜が自分自身に使う言葉として、あまりにも似合わなかった。


 ――もう、諦めてるの?


 そう思った瞬間、心が凍りそうになった。


 舞子は、怜が強い人だと思っていた。いや、強くあろうとする人だと、ずっと信じていた。簡単に諦めてしまうとは思えなかった。


 いえ、分からない。決めつけてはいけない。怜さんには彼なりの考えがあってのことかもしれないのだから……。



 改札を抜け、静かな住宅街へ入る。前に来たときと同じ道なのに、足取りは少しだけ重かった。


 ――また、拒絶されたら。


 そんな不安がよぎる。

 それでも、足を止めなかった。


 インターホンを押そうとした指が震える。舞子は一度、目を閉じた。


「……大丈夫」


 言葉にすれば、そうなる気がした。


 数秒後、スピーカー越しに、あの低い声が返ってくる。


「……誰」


 怜だった。


「舞子です」


 一瞬の沈黙。

 そして、ため息ともつかない微かな音。


「……また来たの」


 責めるようでも、拒むようでもない。その曖昧な響きが、余計に不安を煽った。だからまた心の中でつぶやく(大丈夫)と。


「話があるの。今日は……ちゃんと」


 短い沈黙のあと、オートロックが解除された。


 扉の向こうに立っていた怜は、無表情だった。目の下にうっすらと影があり、立ち姿にわずかな不安定さが見えた。


 舞子は、それを見て言葉を失いかけた。


 怜は舞子の視線に気づくと、わずかに顔を背けた。


「……用件、なに」


 その声は、静かだった。けれど、どこか怯えを含んでいて――

 舞子はその違和感を今度こそ見逃さなかった。


「……怜さん」


 舞子は、意を決したように口を開いた。


「昨日、あなたのお母さんに会ったの」


 その瞬間、怜の肩が、ほんのわずかに強張った。


「……は?」


「季実子さん、とても心配してた。あなたのこと――」


「……やめてくれ」


 絞り出すような、低い声だった。そこには、はっきりとした拒絶が込められている。


 それでも舞子は、止まれなかった。


「だから……きちんと治療を受けたほうがいいと思うの。きっと――」


「――希望はある、って言うんだろ?」


 怜が、舞子の言葉を遮った。

 自嘲を帯びたその声は、温もりを欠いた、乾いた響きだった。


「医者も、周りも、みんなそう言うんだ」


 怜は一歩、舞子から距離を取る。


「……そんなものは、とっくに消えてなくなったよ」


 吐き捨てるように言って、息をつく。


 舞子は、絶句した。


「怜さん……」


 怜は、舞子を見る。

 その目には、かつての冷たさではなく、剥き出しの感情が宿っていた。


「手術は難しい、が不可能じゃない。言われたよ、確かにね」


 笑った。

 けれど、その笑みは、今にも崩れそうに歪んでいく。


「でもさ――失敗したら、そこで終わりだ」


 怜の声が、わずかに震えた。


「そこで、終わりなんだよ。なんにもなくなっちまう……」


 おどけたように手を広げる。が、一瞬、言葉が途切れた。

 

 そう、失敗イコール死だ。――俺は恐ろしくて、それを言葉にすらできないんだ。今なら、まだ生きてる。まだ、終わってない。


 手術なんかしたら、“終わり”が、俺を攫っていくかもしれない……。


「……それが、怖い」


 初めてだった。

 怜が、こんなふうに誰かに弱音を吐いたのは。


 舞子の胸が、強く痛んだ。


 ――死ぬのが、怖い。


 そう、言葉にしなかった。

 けれど、言わなくても分かってしまうほど、切実な感情が伝わってくる。


 沈黙に耐えられないかのように、怜は続けた。


「説得しにかかったのだって、君がはじめてじゃない」


 怜は拳を握りしめる。


「“可能性はゼロじゃない”。“若く、才能あるあなたが諦めるのは勿体ない”、そう言ってさ!」


 怒りとも恐怖とも言えない表情で怜は続けた。


「でも俺は諦めることを受け入れたんだ。だから……治療は、意味がない」


 これまでの激情が嘘だったかのように、怜はぽつりとそう呟いた。


 諦める。その言葉の意味するものが、舞子の胸を深く抉った。

 怜の恐怖は、想像していたものより、ずっと現実的で、ずっと差し迫ったものだった。


 舞子は、自分の浅はかさを思い知った。


 ――私は、“治ればいい”って、簡単に考えてた。


 目の前にいるのは、未来を失うかもしれない恐怖と、毎日向き合っている人だった。


「……ごめんなさい」


 舞子の声は、かすれていた。


「私……分かったつもりで、何も分かってなかった」


 怜はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、疲れ切った表情で、視線を落としたままだった。


 舞子も、言葉を続けられなかった。

 

 重たい沈黙が、二人の間に落ちる。舞子は、その場から動けなかった。


 何を言えばよかったのか。

 何が正解だったのか。


 考えようとするほど、頭の中が白くなっていった。


 怜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 ――諦めることを受け入れた。


 そこにあるのは、怒りでも拒絶でもない。ただ、どうしようもない現実だけだった。


 生きることと、失うことが、同じ線上に並んでいる世界。

 そこに立っている人に向かって、自分はあまりにも浅慮な言葉を投げてしまった。


 彼を想う気持ちに偽りはない。その想いさえあれば、自分の言葉は伝わると慢心していたのだ。

 

 舞子は、唇を噛みしめた。


 悔しかった。

 愚かな自分が。


 怖さを「分かる」と言いながら、その重さを、本当には背負えていなかった。


 扉の向こうにいる怜の存在が、

 さっきまでより、ずっと遠く感じられた。


 舞子は、何もできなかった自分を抱えたまま、

 ただその場を離れるしかなかった。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ