29 治療は意味がない
舞子は、もう一度、怜の元へ向かっていた。
迷いがなかったと言えば、嘘になる。けれど、行かないという選択肢は、もうなかった。
電車の窓に映る自分の顔は、少し強張っている。
覚悟を決めたはずなのに、心臓の奥がひりつくように落ち着かなかった。
――怜は、治療を拒んでいる。
昨日、季実子から聞いた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「病院には行っているけど……積極的な治療は、受けていないの」
「痛み止めや、症状を抑える薬で……ごまかしてるだけ」
その言い方が、胸に残っていた。
ごまかしている。
それは、怜が自分自身に使う言葉として、あまりにも似合わなかった。
――もう、諦めてるの?
そう思った瞬間、心が凍りそうになった。
舞子は、怜が強い人だと思っていた。いや、強くあろうとする人だと、ずっと信じていた。簡単に諦めてしまうとは思えなかった。
いえ、分からない。決めつけてはいけない。怜さんには彼なりの考えがあってのことかもしれないのだから……。
改札を抜け、静かな住宅街へ入る。前に来たときと同じ道なのに、足取りは少しだけ重かった。
――また、拒絶されたら。
そんな不安がよぎる。
それでも、足を止めなかった。
インターホンを押そうとした指が震える。舞子は一度、目を閉じた。
「……大丈夫」
言葉にすれば、そうなる気がした。
数秒後、スピーカー越しに、あの低い声が返ってくる。
「……誰」
怜だった。
「舞子です」
一瞬の沈黙。
そして、ため息ともつかない微かな音。
「……また来たの」
責めるようでも、拒むようでもない。その曖昧な響きが、余計に不安を煽った。だからまた心の中でつぶやく(大丈夫)と。
「話があるの。今日は……ちゃんと」
短い沈黙のあと、オートロックが解除された。
扉の向こうに立っていた怜は、無表情だった。目の下にうっすらと影があり、立ち姿にわずかな不安定さが見えた。
舞子は、それを見て言葉を失いかけた。
怜は舞子の視線に気づくと、わずかに顔を背けた。
「……用件、なに」
その声は、静かだった。けれど、どこか怯えを含んでいて――
舞子はその違和感を今度こそ見逃さなかった。
「……怜さん」
舞子は、意を決したように口を開いた。
「昨日、あなたのお母さんに会ったの」
その瞬間、怜の肩が、ほんのわずかに強張った。
「……は?」
「季実子さん、とても心配してた。あなたのこと――」
「……やめてくれ」
絞り出すような、低い声だった。そこには、はっきりとした拒絶が込められている。
それでも舞子は、止まれなかった。
「だから……きちんと治療を受けたほうがいいと思うの。きっと――」
「――希望はある、って言うんだろ?」
怜が、舞子の言葉を遮った。
自嘲を帯びたその声は、温もりを欠いた、乾いた響きだった。
「医者も、周りも、みんなそう言うんだ」
怜は一歩、舞子から距離を取る。
「……そんなものは、とっくに消えてなくなったよ」
吐き捨てるように言って、息をつく。
舞子は、絶句した。
「怜さん……」
怜は、舞子を見る。
その目には、かつての冷たさではなく、剥き出しの感情が宿っていた。
「手術は難しい、が不可能じゃない。言われたよ、確かにね」
笑った。
けれど、その笑みは、今にも崩れそうに歪んでいく。
「でもさ――失敗したら、そこで終わりだ」
怜の声が、わずかに震えた。
「そこで、終わりなんだよ。なんにもなくなっちまう……」
おどけたように手を広げる。が、一瞬、言葉が途切れた。
そう、失敗イコール死だ。――俺は恐ろしくて、それを言葉にすらできないんだ。今なら、まだ生きてる。まだ、終わってない。
手術なんかしたら、“終わり”が、俺を攫っていくかもしれない……。
「……それが、怖い」
初めてだった。
怜が、こんなふうに誰かに弱音を吐いたのは。
舞子の胸が、強く痛んだ。
――死ぬのが、怖い。
そう、言葉にしなかった。
けれど、言わなくても分かってしまうほど、切実な感情が伝わってくる。
沈黙に耐えられないかのように、怜は続けた。
「説得しにかかったのだって、君がはじめてじゃない」
怜は拳を握りしめる。
「“可能性はゼロじゃない”。“若く、才能あるあなたが諦めるのは勿体ない”、そう言ってさ!」
怒りとも恐怖とも言えない表情で怜は続けた。
「でも俺は諦めることを受け入れたんだ。だから……治療は、意味がない」
これまでの激情が嘘だったかのように、怜はぽつりとそう呟いた。
諦める。その言葉の意味するものが、舞子の胸を深く抉った。
怜の恐怖は、想像していたものより、ずっと現実的で、ずっと差し迫ったものだった。
舞子は、自分の浅はかさを思い知った。
――私は、“治ればいい”って、簡単に考えてた。
目の前にいるのは、未来を失うかもしれない恐怖と、毎日向き合っている人だった。
「……ごめんなさい」
舞子の声は、かすれていた。
「私……分かったつもりで、何も分かってなかった」
怜はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、疲れ切った表情で、視線を落としたままだった。
舞子も、言葉を続けられなかった。
重たい沈黙が、二人の間に落ちる。舞子は、その場から動けなかった。
何を言えばよかったのか。
何が正解だったのか。
考えようとするほど、頭の中が白くなっていった。
怜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――諦めることを受け入れた。
そこにあるのは、怒りでも拒絶でもない。ただ、どうしようもない現実だけだった。
生きることと、失うことが、同じ線上に並んでいる世界。
そこに立っている人に向かって、自分はあまりにも浅慮な言葉を投げてしまった。
彼を想う気持ちに偽りはない。その想いさえあれば、自分の言葉は伝わると慢心していたのだ。
舞子は、唇を噛みしめた。
悔しかった。
愚かな自分が。
怖さを「分かる」と言いながら、その重さを、本当には背負えていなかった。
扉の向こうにいる怜の存在が、
さっきまでより、ずっと遠く感じられた。
舞子は、何もできなかった自分を抱えたまま、
ただその場を離れるしかなかった。




