表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/35

28 手放したくなかった人


 怜の病気について、舞子は調べるのをためらっていた。


 調べてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。

 検索欄に指を置くだけで、何かが決定的に変わってしまう気がして、画面を閉じたことは一度や二度ではなかった。


 それでも――。


 怜の冷たい言葉と、最後に見せたあの表情が、何度も脳裏に浮かぶ。

 突き放すようでいて、どこか怯えたような、遠ざけるためだけに作られた不自然な距離。


「……違う」


 舞子は小さく呟いた。

 あれは、私を嫌う目ではなかった。


 パソコンの電源を入れる音が、妙に大きく響く。

 検索欄に打ち込んだ文字列を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 ――脳。


 画面に並び始めた専門用語の数々を、舞子は一つひとつ追っていく。

 難しい言葉の意味を調べるたび、理解が進むほどに、逆に逃げ場はなくなっていった。


 それでも、目を逸らさなかった。怜の未来を知ることから、逃げたくなかった。




 怜は、その日も誰にも会わなかった。


 カーテンを半分だけ閉めた部屋で、ソファに腰を下ろし、膝の上に置いた検査結果から目を逸らしたまま、時間だけが過ぎていく。


 電話は電源を切ってあった。

 メッセージの通知が来ないことに、ほっとする自分がいるのが嫌だった。


 ――今は、誰の声も聞きたくない。


 いや、違う。

 聞いてしまったら、戻れなくなるのが怖かった。


 舞子の顔が浮かぶ。俺を心配そうに見つめる顔を見た瞬間、決意が揺らぎかけた。その髪に触れたくて、手が自然に動くのを慌てて止めた。


 最後に向けた、あの傷ついた目。


「……これでいい」


 自分に言い聞かせるように呟いて、怜は拳を握りしめた。これでいいんだと、何度も繰り返す。


 ドアの外から、その背中をじっと見つめる視線があった。


 季実子は、ノックすることもできず、ただ立ち尽くしていた。


 息子がこんなふうに一人で小さくなっている姿を見るのは、これが初めてではない。子供のように小さな丸い背中。それでも、今日の怜は、何かが決定的に違って見えた。


 何かを耐えているのではない。何かを、諦めようとしている。


「……あの子」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 季実子はその夜、ある番号を探し出した。息子の仕事上のパートナーなのに、一度も話をしたことがなかった、と今になって思い返す。


 怜が、あの子が、心から手放したくなかった人。


 翌日、舞子のスマートフォンに、知らない番号からの着信が入った。出るのはためらわれたが、何か予感がしたのかもしれない。


「突然ごめんなさい。……桐生怜の母です」


 名乗られた瞬間、舞子の心臓が大きく跳ねた。


「一度、あなたとお話がしたくて。怜のことで――」


 その声は、謝罪でも命令でもなかった。ただ、息子を思う一人の母親の、切実な響きを帯びていた。


 舞子は、答える前に深く息を吸った。


「はい、私もお話したいと思ってました」


 


 待ち合わせたのは、小さな喫茶店だった。昼下がりだというのに客は少なく、視界に入るのは商談中らしいスーツの二人組だけだった。


 舞子の前に座った女性は、怜とよく似た目をしていた。穏やかなのに、どこか張りつめている。


「……突然呼び出してしまって、ごめんなさいね」


「いえ」


 それだけで、胸の奥がざわついた。この人は、すべてを知っている人だ。


「怜は、あなたにとても感謝していたわ」


 その一言で、舞子は息を止めた。


「一緒に舞台に立てたこと。自分がもう一度、音楽と向き合えたこと。

 それから……あなたが、そばにいてくれたこと」


 舞子は、何も言えなかった。

 怜がそんなふうに自分のことを語っていたなど、想像すらしていなかった。


「でも、あの子は昔から、弱っているところを人に見せるのが下手で」


 母は、テーブルの上で指を重ねた。


「怖い、苦しい、離れたくない。そういう気持ちほど、隠してしまうみたいなの」


 舞子の胸に、ひとつずつ言葉が落ちてくる。


 ――冷たい態度。

 ――突き放す言葉。

 ――「関係者じゃない」という線引き。全部、怜の“拒絶”だと思っていた。


「……怜さんは、私に言いました」舞子は、ゆっくりと口を開いた。


「『もう関わらないでくれ』って」


 母は、少しだけ目を伏せた。


「ええ。あの子らしい言い方だわ」


 否定しなかった。そのことが、舞子の胸を強く打つ。


「でも、本当に関わりたくなかったら」


 舞子の声が、わずかに震える。


「……あんな目で、私を見ないと思ったんです」


 母は、はっとしたように舞子を見た。


「初めは強引に訪ねて行って、怒っていると思ったんです。でも……何か、こう必死に……冷静さを保とうとしているように見えて」


 言葉にした瞬間、すべてが繋がった。

 目が合ったとき、確かに彼の瞳が揺らいだ。冷たい顔をした仮面が剝がれかけたんだ。


 舞子は、膝の上で手を握りしめる。


「私……間違ってなかった」


 それは、誰に向けた言葉でもなかった。自分自身に言い聞かせるような、確信だった。


 季実子はわずかに微笑んだ。


「……ええ」


 そして、静かに言った。


「怜は、あなたに弱さを見せてしまいそうになるのが、いちばん怖いんだわ」


 舞子の胸に、熱いものが込み上げた。


 傷ついた。

 苦しかった。

 それでも。


 あの冷たさの奥に、確かに“想い”があった。それを知ってしまった以上、もう目を逸らすことはできない。


 舞子は顔を上げた。


「私、諦めません」


 迷いのない声だった。


「怜さんが一人で抱え込もうとするなら、私は――何度でも、向き合います」


 季実子も、ゆっくりとうなずき、窓外に目を向けた。


 その横顔は、ようやく誰かに託す決意をした母親のものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ