28 手放したくなかった人
怜の病気について、舞子は調べるのをためらっていた。
調べてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。
検索欄に指を置くだけで、何かが決定的に変わってしまう気がして、画面を閉じたことは一度や二度ではなかった。
それでも――。
怜の冷たい言葉と、最後に見せたあの表情が、何度も脳裏に浮かぶ。
突き放すようでいて、どこか怯えたような、遠ざけるためだけに作られた不自然な距離。
「……違う」
舞子は小さく呟いた。
あれは、私を嫌う目ではなかった。
パソコンの電源を入れる音が、妙に大きく響く。
検索欄に打ち込んだ文字列を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
――脳。
画面に並び始めた専門用語の数々を、舞子は一つひとつ追っていく。
難しい言葉の意味を調べるたび、理解が進むほどに、逆に逃げ場はなくなっていった。
それでも、目を逸らさなかった。怜の未来を知ることから、逃げたくなかった。
怜は、その日も誰にも会わなかった。
カーテンを半分だけ閉めた部屋で、ソファに腰を下ろし、膝の上に置いた検査結果から目を逸らしたまま、時間だけが過ぎていく。
電話は電源を切ってあった。
メッセージの通知が来ないことに、ほっとする自分がいるのが嫌だった。
――今は、誰の声も聞きたくない。
いや、違う。
聞いてしまったら、戻れなくなるのが怖かった。
舞子の顔が浮かぶ。俺を心配そうに見つめる顔を見た瞬間、決意が揺らぎかけた。その髪に触れたくて、手が自然に動くのを慌てて止めた。
最後に向けた、あの傷ついた目。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように呟いて、怜は拳を握りしめた。これでいいんだと、何度も繰り返す。
ドアの外から、その背中をじっと見つめる視線があった。
季実子は、ノックすることもできず、ただ立ち尽くしていた。
息子がこんなふうに一人で小さくなっている姿を見るのは、これが初めてではない。子供のように小さな丸い背中。それでも、今日の怜は、何かが決定的に違って見えた。
何かを耐えているのではない。何かを、諦めようとしている。
「……あの子」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
季実子はその夜、ある番号を探し出した。息子の仕事上のパートナーなのに、一度も話をしたことがなかった、と今になって思い返す。
怜が、あの子が、心から手放したくなかった人。
翌日、舞子のスマートフォンに、知らない番号からの着信が入った。出るのはためらわれたが、何か予感がしたのかもしれない。
「突然ごめんなさい。……桐生怜の母です」
名乗られた瞬間、舞子の心臓が大きく跳ねた。
「一度、あなたとお話がしたくて。怜のことで――」
その声は、謝罪でも命令でもなかった。ただ、息子を思う一人の母親の、切実な響きを帯びていた。
舞子は、答える前に深く息を吸った。
「はい、私もお話したいと思ってました」
待ち合わせたのは、小さな喫茶店だった。昼下がりだというのに客は少なく、視界に入るのは商談中らしいスーツの二人組だけだった。
舞子の前に座った女性は、怜とよく似た目をしていた。穏やかなのに、どこか張りつめている。
「……突然呼び出してしまって、ごめんなさいね」
「いえ」
それだけで、胸の奥がざわついた。この人は、すべてを知っている人だ。
「怜は、あなたにとても感謝していたわ」
その一言で、舞子は息を止めた。
「一緒に舞台に立てたこと。自分がもう一度、音楽と向き合えたこと。
それから……あなたが、そばにいてくれたこと」
舞子は、何も言えなかった。
怜がそんなふうに自分のことを語っていたなど、想像すらしていなかった。
「でも、あの子は昔から、弱っているところを人に見せるのが下手で」
母は、テーブルの上で指を重ねた。
「怖い、苦しい、離れたくない。そういう気持ちほど、隠してしまうみたいなの」
舞子の胸に、ひとつずつ言葉が落ちてくる。
――冷たい態度。
――突き放す言葉。
――「関係者じゃない」という線引き。全部、怜の“拒絶”だと思っていた。
「……怜さんは、私に言いました」舞子は、ゆっくりと口を開いた。
「『もう関わらないでくれ』って」
母は、少しだけ目を伏せた。
「ええ。あの子らしい言い方だわ」
否定しなかった。そのことが、舞子の胸を強く打つ。
「でも、本当に関わりたくなかったら」
舞子の声が、わずかに震える。
「……あんな目で、私を見ないと思ったんです」
母は、はっとしたように舞子を見た。
「初めは強引に訪ねて行って、怒っていると思ったんです。でも……何か、こう必死に……冷静さを保とうとしているように見えて」
言葉にした瞬間、すべてが繋がった。
目が合ったとき、確かに彼の瞳が揺らいだ。冷たい顔をした仮面が剝がれかけたんだ。
舞子は、膝の上で手を握りしめる。
「私……間違ってなかった」
それは、誰に向けた言葉でもなかった。自分自身に言い聞かせるような、確信だった。
季実子はわずかに微笑んだ。
「……ええ」
そして、静かに言った。
「怜は、あなたに弱さを見せてしまいそうになるのが、いちばん怖いんだわ」
舞子の胸に、熱いものが込み上げた。
傷ついた。
苦しかった。
それでも。
あの冷たさの奥に、確かに“想い”があった。それを知ってしまった以上、もう目を逸らすことはできない。
舞子は顔を上げた。
「私、諦めません」
迷いのない声だった。
「怜さんが一人で抱え込もうとするなら、私は――何度でも、向き合います」
季実子も、ゆっくりとうなずき、窓外に目を向けた。
その横顔は、ようやく誰かに託す決意をした母親のものだった。




