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世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


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27 関係者じゃない


 舞子がそれを知ったのは、本当に偶然だった。


 事務所からの帰り道、コンビニに立ち寄っただけだ。喉が渇いていて、温かい飲み物が欲しかった。それだけの理由だった。


 レジに向かう途中、雑誌棚の前で足が止まった。誰かが立ち読みをしていて、通路が少し狭くなっていたからだ。


 視線を落とした先にあったのは、週刊誌だった。普段なら手に取らない類の。


 ――表舞台から消えたあの人

 ――活動縮小の裏側。


 その程度の見出しだった。


 舞子は、無意識にページの端を目で追ってしまう。そして、次の瞬間、指先から力が抜けた。


 〈元イノセント・bの桐生怜、体調不良の真相〉


 名前を見た瞬間、思考が止まった。


 同姓同名だ、と一度は思った。だが、『イノセント・b』そして、記事の中ほどに載っている写真を見て、その可能性は消えた。


 見慣れた横顔だった。舞台袖で、楽屋で、何度も見てきた顔。でもステージの照明ではなく、病院の廊下で撮られたような、色のない一枚。


 紙面の文字が、急に遠くなる。


 〈関係者によれば、脳腫瘍の疑いがあり、手術を含めた治療方針について本人は慎重な姿勢を崩していない〉


 舞子は、息を吸うのを忘れていた。


 手術……腫瘍?


 言葉だけが、現実感を伴わないまま頭の中に落ちてくる。


 ――だから、連絡がなかったの?


 ――だから、あんなふうに、距離を取ったの?


 答え合わせのように、これまでの沈黙が一つずつ繋がっていく。


 舞子は雑誌を閉じることもできず、その場に立ち尽くした。


 知らなかった。何も知らされていなかった。

 それが、何よりも胸に刺さった。


 コンビニを出たあと、すぐスマホを取り出した。でも怜は出ない。


 ――会いに行こう、今すぐ。


 タクシーを捕まえようとしたとき、自分は怜の居場所を知らないことに、舞子は気付いた。


(前の家はもう引き払ったって、沢本さんが言ってた……)


 そうだ! 沢本さん。彼は怜のマネージャーでもある。


「え? 怜くんの居場所?」


「はい……あの、沢本さんは怜さんの病気のこと……」


 週刊誌か。それなら、と沢本は腹をくくった。


「ごめん、知ってた。怜君のお母さんから聞いてたんだ」


 聞きたいことは山ほどあった。でも今はまず怜さんと話したい。



 沢本に教えられた住所は、都心から少し離れた静かなマンションだった。

 舞子はエントランスの前で一度だけ深呼吸をして、インターホンを押した。


 数秒の沈黙。その間が、やけに長く感じられた。


「……誰?」


 スピーカー越しの声は、確かに怜だった。

 けれど、舞子が知っている声よりも低く、感情が削ぎ落とされている。


「舞子です」


 一瞬、間が空いた。扉が開く気配はない。


「帰って」


 即答だった。


「怜さん……話があるの。少しでいいから」


「俺にはない」


 短く切り捨てるような言い方だった。


「記事を見たの。私、何も知らなかった。どうして――」


「そっか、見たんだ」


 その言葉だけで、怜が状況を理解していることが分かった。


 しばらくして、オートロックが解除された。舞子は息を詰めたまま、中へ入っていく。


 扉を開けた怜は、以前よりも痩せて見えた。顔色は悪くない。だが、どこか作り物めいた落ち着きがあった。


 顔を見ると、舞子の心がひとつ、大きく鳴った。ずっと気づかないふりをしていた感情が、大きな波になって押し寄せてくる。


「座らなくていい、用件だけ言ったらすぐ帰ってくれ」


 舞子が何か言う前に、怜はそう言った。


「話ってなに」


「……どうして、黙ってたの」


「言う必要がなかったから」


 視線を合わせようとしない。それだけで、舞子の胸が締めつけられた。


「必要ないって、私たち……」


 『私たちは付き合ってたんじゃなかったの?』そう言いかけて、舞子は怜に別れを告げられた日の言葉を思い出した。


「わ、私たちはユニットを組んでるパートナーでしょう」


「じゃあ、ユニットは解散だ」


「……っ、どうして――」


「舞ちゃん」


 怜は苛立ったように舞子の言葉を遮った。

 名前を呼ばれたのに――距離が縮まらない。


「同情とか、心配とか、いらない」


「そんなつもりじゃ……!」


「じゃあ何しに来たの?」


 冷静な声だった。怒っているわけでも、取り乱しているわけでもない。

 だからこそ、拒絶がはっきりしていた。


「俺は今、静かにしていたいんだ。誰にも踏み込まれずに」


「でも、私は――」


「“関係者”じゃないだろ」


 その一言が、決定打だった。


 舞子は言葉を失った。

 否定もできず、肯定もできないまま、立ち尽くす。


「仕事も、舞台も、全部中途半端になる。だから」


 怜はようやく舞子を見た。

 一瞬、怜の体がピクっと動いた。だが、すぐまた目を逸らし、吐き捨てるように言った。


「だから、もう関わらないでくれ」


 それ以上、続く言葉はなかった。


 舞子は何かを言おうとして、結局何も言えなかった。玄関の扉が閉まる音だけが、静かな部屋に残った。




 怜が最後に見せた、あの冷たい目。

 突き放すような言葉。


 ――もう、関わらないほうがいい。


 思い出すだけで、心臓を鷲掴みにされたように苦しい。けれど同時に、舞子の中には、消えない違和感も残っていた。


 あの人は、本当にあんな言い方をする人だっただろうか。


 私がお金に困っているのを知って、手を差し伸べてくれた。

「マイ・フェア・レディ」稽古中の、松島先輩への行動。


 不器用だけど、いつも一歩引いた場所からこちらを気にかけてくれていた。


 冷たかった。確かに冷たかった。

 けれどそれは、感情を断ち切ろうとする必死さのようにも見えて――


 まるで、何かを隠すために、突き放そうとしているみたいだった。


 舞子は、ぎゅっと唇を噛む。


 考えるな。

 もう終わったことだ。


 そう自分に言い聞かせようとするほど、心の奥に沈めていた想いが、また静かに浮かび上がってくる。


 もしも。

 もしも、あの冷たさの裏に、言えない理由があったのだとしたら。


 その考えが胸をよぎった瞬間、舞子は気づいてしまった。


 自分はまだ、怜を信じたいのだと。

 そして――失ったと思っていたその存在を、まだ手放せていないのだと。




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