26 ニュース
それを知ったのは、ニュースでだった。
朝、テレビをつけっぱなしにしたままストレッチをしていた舞子は、キャスターの声にふと動きを止めた。画面には、見覚えのないアパートの外観と、赤いテロップ。
――都内で発生した事故。
詳細は語られなかった。身元、動機、背景。どれも「現在調査中」という言葉でまとめられていた。
けれど、名前だけははっきりと耳に残った。
舞子は、ゆっくりと呼吸を整えた。
涙は出なかった。恐怖も、怒りも、遅れてやってくる気配すらない。ただ、何かがすとんと抜け落ちたような感覚だけが残っていた。
でも、お母さん……あの人のところへ行ってみるべきだろうか? ニュースではお母さんがどういう状況なのか、何も分からなかった。
何も行動しないのは、薄情だろうか? いや、私を戸籍から抜いて縁を切ったのは向こうの方だ。私たちはもう家族じゃない。
リビングのテーブルには、英語の台本と、オーディション用の楽譜が広げられている。
ブロードウェイ。この先の人生を左右するかもしれない、大きな舞台。
指でページをなぞっても、文字が頭に入ってこなかった。
音を取ろうとキーボードの鍵盤に触れても、指先がどこか他人のもののように動かない。
(集中しなきゃ)
そう思うたびに、意識は逆に散っていった。
怜からの連絡は、当然ない。
山崎の姿も、あれから見ていない。
理由を考えようとすると、頭の中で何かが拒絶するように霧がかかる。
舞子は楽譜を閉じ、両手で顔を覆った……。
その日の昼前、スターフォックスの事務所でも、同じニュースが流れていた。
モニターに映る速報テロップを、沢本は立ったまま見つめていた。
舞子の養父母の名前が読み上げられた瞬間、無意識に歯を食いしばっている自分に気づく。
(なんてこった……)
舞子には、まだ何も言っていない。言うべきか、言わざるべきか、その判断すらついていなかった。
そこへ、受付から内線が入る。
「沢本さん、警察の方が……上田さんにお話があるそうです」
沢本は一瞬だけ目を閉じ、それから静かに頷いた。
「通して。僕も同席する」
応接室に現れた刑事は真鍋と名乗った。四十代半ばほどの男。柔らかい口調で名刺を差し出し、形式的な挨拶を済ませる。
「突然お時間をいただいて、すみません。あくまで確認のためです」
舞子は背筋を伸ばし、小さく頭を下げた。
借金の話が出たのは、そのあとだった。
「養父母の方が、過去に金銭的なトラブルを抱えていたことはご存じでしたか」
「……はい。でも、もう返しています」
舞子ははっきりと言った。
「全部、私が。契約書も残っています」
刑事は手帳に目を落とし、軽く頷く。
「ええ、こちらでも確認しています。ですから、上田さんを疑っているわけではありません」
その言葉に、沢本がわずかに息を吐いた。
「ただ、周辺状況として、念のためお話を伺っているだけです」
刑事は続けて、容疑者の人相を簡単に説明した。年齢、体格、目つき。
舞子の胸の奥が、かすかにざわつく。
(……似てる)
ありえない、理性はそう言っていた。それでも、脳裏に浮かんだのは、山崎の横顔だった。
低い声。煙草の匂い。「無理してないか」と、あの夜に言われた言葉。
舞子は首を横に振った。
「心当たりは、ありません」
刑事はそれ以上踏み込まず、話題を切り替えるように言った。
「それと……これは捜査上の補足ですが、戸籍から籍を抜かれたのには、何か理由が? 悦子さんは、上田さんのお母様の妹にあたりますよね?」
何気ない調子だった。
舞子は、一瞬言葉を失った。
「……え?」
刑事は、しまったという顔をするでもなく、淡々と続ける。
「戸籍上の記録です。ですから、完全な他人というわけではなく――」
舞子の耳には、その先がほとんど入ってこなかった。
(母の……妹?)
血のつながり。それは、舞子がこれまで想像してこなかった関係だった。
自分は、捨てられたのだと思っていた。望まれず、置き去りにされたのだと。
けれど――違ったのかもしれない。
事故、死別……。どうしようもなく、ひとりになっただけだったのかもしれない。
胸の奥が、じんわりと揺れる。安心と呼ぶには、まだはっきりとした形はなかったが。
「……そう、なんですね」
舞子は、静かにそう答え、肝心な質問に答えていなかったと気付き、付け足した。
「戸籍は、母が……養母が抜いたんだと思います。たぶん、借金のことで。借金の名義を私にしてましたから」
「なるほど」刑事は短く返した。
(毒親か、死んだ人間のことを悪く言いたくはないが、上田夫婦の評判とも一致するな)
刑事は一礼し、必要な確認は以上です、と言って席を立った。
応接室に残った沈黙の中で、沢本が舞子の横顔を見る。舞子は、泣いていなかった。けれど、その表情は、どこか遠くを見ているようだった。
「悦子さんの入院している病院へ、行ってみる?」
沢本は何気ない調子で舞子に尋ねた。まるで「コンビニへ行ってみる? とでも言うように。
少しの沈黙。
「いえ、これで終わった、って思うようにします。もう二人が私を悩ますこともないんだと考えると、私、結構すっきりしてます」
舞子は沢本に笑顔を向けた。強がりではない、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔だ、と沢本はほっとした。
「あ、そうだ。戸籍とか調べたいんですけど、自分が動くのはやっぱりやめておいたほうがいいでしょうか?」
「ああ……そうだね、委任状を作ろう。僕が役所へ行くよ。マスコミが嗅ぎつけたら、またある事ない事書かれるだろうから」
本当の両親……悦子と研次が養父母だと知ったとき、実の親のことを考えなかったわけではない。でも日々に忙殺されて、すっかり頭の隅に追いやられていたのだ。
入院中の悦子の意識が戻り次第、聞くのが一番早いだろう。でももうあの人とは関わりたくない。
舞子は沢本が用意した紙面に向かってペンをとった。




