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世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜  作者: 山口三


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25 退場

 

 最初に聞こえたのは、ガラスが割れる音だった。誰の肘が触れたのかは、もう分からない。


 次に、鈍い衝撃。押し返したはずの身体が、想定よりも軽く、そして——不自然な角度で、崩れた。


 骨に響く、嫌な感触。


 山崎は、自分が何をしたのかを理解するより先に、地面の冷たさを感じていた。


 ——違う。


 反射的に浮かんだ言葉を、心の中で打ち消す。やりすぎた、のではない。

 止めた――その先を、読めなかった。


 視界の端で研次が倒れている。勢いのまま、縁石に身体を打ちつけたようだった。ピクリとも動かないが、呼吸があるのかどうか、暗がりでは判別がつかない。


 少し離れた場所で、悦子が呻いた。もつれた足のまま転び、舗道へ叩きつけた手が小刻みに震えている。


 ——立て。


 ——動け。


 そう思ったが、声にはならなかった。


 街灯の光が赤く滲んで見えた。血なのか視界の揺れなのか、判断がつかない。


 通行人の悲鳴。誰かが携帯を取り出す気配がした。


 山崎は立ち上がり、息を整えようとしたが、うまくいかなかった。

 胸の奥が、妙に静かだった。


 ——守った。


 その言葉が、遅れて浮かぶ。


 誰を、とは考えなかった。考えれば、線が一本につながってしまう。まだだ。ここで理解してしまえば、立っていられなくなる。


 遠くでサイレンの音がした。


 この国には、もういられない。それだけは、即座に判断できた。


 山崎は踵を返し、闇の中へと急いだ。


 決して振り返ることなく。


 そして——その背中を、暗がりの向こうから見ている男がいた。


 物陰に身を寄せ、息を潜めていた。倒れた研次と、うずくまる悦子。そして、去っていく山崎。


 男は、ゆっくりと口角を上げた。


 ——そうか。

 ——それで、終わらせたつもりか。


 足音が遠ざかるのを待ってから、男は研次に近付いた。


 研次を見下ろすその目には、恐怖も焦りもなく、ただ——長い間、胸の奥で燻っていた感情だけがあった。——あいつが、山崎が邪魔だった。





 救急外来は、夜中でも騒がしかった。


 消毒液の匂いと、機械音。慌ただしく行き交う看護師たちの足音に混じって、低い声で指示が飛ぶ。


 刑事の真鍋は、廊下の壁際に立ち、腕時計に視線を落とした。搬送からもう二十分以上が経っている。


「……上田研次さん、ですね」


 医師が近づき、低い声で告げた。


「到着時は意識不明でしたが、心肺停止ではありませんでした」


 真鍋は、わずかに眉を動かす。


「ただし、外傷が思ったより深く……転倒だけでは説明しづらい圧痕があります」


 医師は一拍置いた。「途中で急変しました。蘇生を試みましたが……」


 真鍋の脳裏を、現場で感じた“もう一人分の気配”がよぎった。その先は、聞くまでもなかった。


「死亡確認は?」


「はい。先ほど」


 真鍋は小さく息を吐いた。事件になる。


 少し離れた処置室の前では、もう一人の被害者が治療を受けている。


「上田……悦子さんの方は?」


「意識障害が強く、脳へのダメージも大きいですね。命は取り留めていますが……」


 医師は言葉を選び、首を振った。


「回復の見込みは、現時点では何とも」


 真鍋はメモ帳を閉じた。通報は通行人からだった。口論、もみ合い、転倒。


 だが——傷の状態に違和感が残る。


 凶器は見つかっていない。防犯カメラも、決定的な角度は捉えられていなかった。


 ——複数の手が、介在している可能性。真鍋はそう直感した。





 病院から数キロ離れた場所に、その事務所はあった。


 看板は出ていない。表向きは、古い倉庫を改装した運送会社だ。深夜だというのに、建物の奥の一室だけに灯りが灯っていた。


 畳敷きの部屋の中央に、低い卓。上座には、白髪交じりの男がどっしりと座っている。


「……で、山崎は?」低く、重い声だった。


「まだ捕まってません。今は潜らせてます」


 答えた若い衆は、わずかに背筋を伸ばした。


「そうか」


 男――組の幹部は、ゆっくりと茶を口に運んだ。


「相手は?」


「男が一人死亡。女が意識不明です」


 室内の空気が、わずかに沈む。幹部は眉ひとつ動かさなかった。


「山崎が、無駄な真似をする男か?」


「いいえ。むしろ逆です。必要と判断したことしかやらない奴で」


 その言葉に、幹部は小さく笑った。


「だから気に入ってる」


 卓の縁を、指先で軽く叩く。


「頭が切れる。感情で動かない。仕事も早い……それに、あいつは“後始末”ができる」


 若い衆は、何も言わない。


「今回も、そういうことだろう」幹部は立ち上がり、窓の外を見た。


「守るものがあった。それだけの話だ」


 沈黙のあと、幹部は振り返る。


「表沙汰にはさせるな」


「はい」


「山崎は?」


「国外に出します。ルートは確保済みです」


「中国だな」


 断定だった。


「しばらくは向こうで仕事をさせろ。——戻ってきたら、肩書きを一つ上げる」


 若い衆が目を見張る。「上位幹部、ですか?」


 幹部は、静かに言った。


「あいつは“使える”男だ。その代わり、もう戻れない場所が増えただけだがな」


 その言葉は、評価であり、宣告でもあった。






 その話を、面白く思わない男がいた。


 山崎より少し年上。現場も金も、人も動かしてきた。だが、決定的に“上”からの覚えが悪い。


 ——なぜ、山崎なんだ。


 男は、事務所の廊下でその報告を聞いたとき、無言で笑った。


「中国行き、か」声だけは穏やかだった。


「ええ。幹部の判断です」


「そうか……それは、大変だ」同情するような口調。だが、胸の内では違った。


 ——これで、邪魔者はいなくなる。


「じゃあ、手配は俺が手伝ってやる」自分から申し出た。


 若い衆は少し迷ったが、首を縦に振った。「助かります」


 ——当然だ。誰も、裏を疑わない。これは“山崎のため”なのだから。


 男は山崎と向き合ったときも、同じ顔をしていた。


「災難だったな。でも、ここにいればもっと厄介になるぞ」


「……ああ」山崎は短く答えた。


「中国なら、仕事はいくらでもある。向こうの幹部も、お前の腕を評価してるんだ」


 それは、嘘ではなかった。


「しばらく骨休みしてきたらいいさ」


 その言葉に、山崎は小さく息を吐いた。


「骨を休める、か」


 どこか皮肉を含んだ笑いだった。男は、その表情を見て確信した——こいつは、何も疑わない。


 準備は、驚くほど早く整った。偽名の書類、現地の連絡先、車、深夜の便。

 すべて“完璧”だった。完璧すぎるほどに。


 出発前夜、男は一人、酒を飲んだ。


 ——あの夜、あいつは“終わった”と思っただろう。

だが、俺は終わらせてやっただけだ。


「これで、道は空く」誰に言うでもなく、呟く。


 山崎は、生き延びれば儲けもの。死ねばそれまで。どちらに転んでも、男に損はない。


 ——いや。ひとつだけ、確かな利益があった。


 山崎がいた席が、空く。





 搭乗口の前は、夜の割に明るかった。白い照明が、床の汚れまで容赦なく照らしている。


 山崎は、壁にもたれて立っていた。荷物は少ない。必要なものだけを選び、不要なものはすべて切り捨てた。


 ——これでいい。


 舞子の顔が浮かぶ。

 歌っているときの、あの無防備な横顔。無理をして笑うとき、ほんの一瞬だけ視線を逸らす癖。


 あいつは、気づいていない。そして、気づかなくていい。


 兄だと名乗れば、舞子は立ち止まる。自分の人生より、誰かの過去を背負おうとする。


 そんなことをさせるために、ここまで生き延びてきたわけじゃない。


 ——俺は、影でいい。人を殺した人間が、光に立つ資格はない。


 携帯を取り出し、画面を一度だけ開く。

 舞子の名前は、直接は登録していない。必要な情報は、別の場所にある。


 仕事の動き。公演の日程。体調の噂。


 十分すぎるほどだ。


 これから先、会うことはない。声をかけることも、名乗ることも。


 搭乗案内が流れた。


 山崎は背筋を伸ばし、列に加わった。

 

 ——行け。


 心の中で、短くつぶやく。


 舞子がどこまで行くのか、それを見届けるのが、俺の役目だ。

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